師匠シリーズ 第67話 ビデオ 中編

師匠シリーズ 第66話 ビデオ 前編

次の日、昼過ぎに目覚めた俺は師匠の家に電話をした。
十回ほどコール音を聞いたあと、受話器を置く。
続けて携帯に掛けるが、電源が切れているか、電波が届かない場所にいるらしいことしか分からなかった。
仕方なく、昨日北村さんに聞いた元駅員という先輩の家を訪ねてみることにした。
授業に出るという選択肢など、とっくに吹っ飛んでしまっている。
財布の中を確かめて、買って持っていく日本酒の銘柄を決める。散財だ。
ビデオが何本借りられると思ってるんだ。
家を出て、自転車に乗る。
陽射しが眩しい。ここ数日涼しかったのに、今日はやけに暑い。今年もまた夏が来るらしい。
道路沿いをこぎ続けて、ようやくその住所にたどり着く。住宅街の中のごくありふれた民家だ。
チャイムを鳴らし、用件を告げる。
吉田さんというその六十代の男性は、日本酒を掲げて北村さんの紹介だと告げた途端に、玄関の奥へ顔を突っ込み、「かあさん、お客だ。お客。お茶を出しなさい」と怒鳴った。
そして家の中に招き入れられる。
一体、北村さんの名前と日本酒、どっちが利いたのか分からなかったが、話し好きであることは間違いないようだった。
客間の座椅子に腰掛け、勧められるままに煎餅に手を伸ばしながら、北村さんと同僚だった時代の昔話をしばし拝聴する。
本題を切り出す前の脇道だったので、適当に相槌を打っていたのだが話術のせいなのか、これが意外と面白くいつの間にか聞き入ってしまっていた。
始発の直前に寝坊して、時間との戦いの中そのピンチを切り抜けた話など思わず手に汗握ってしまったほどだ。
やがて喉が渇いたと言い出した吉田さんは、テーブルの上の日本酒をじっとりと見つめる。

どうぞどうぞと手を広げて勧めると、それじゃ遠慮なく、と棚から持ってきたコップを脇に置き、栓を開けようとした。
不器用な手つきでなかなか開けられないのを見て、こちらでやってあげる。
こう暑いと、燗なんてしてられないねぇ、などと言いながら吉田さんはぐいぐいコップを傾けはじめる。
俺はようやくここにきた理由を思い出し、目の前の禿げ上がった頭に赤みが差してくるのを見計らって、本題をそっと切り出した。
「サトウイチロウ?」
吉田さんは一瞬、怪訝そうな顔をしたあと、すぐに口をへの字に結ぶ。
「懐かしい名前だねぇ」
言葉とは裏腹に表情はちっとも懐かしそうではない。恐れを呑んだような、強張った顔だった。
そしてポツリポツリと過去を掘り起こすように語りだす。
昔、吉田さんが駅員になって十年ほどしか経っていない、まだ若いころの話だ。
県外のある駅に転勤して間もないころ、その駅の助役から茶飲み話の中で、奇妙な噂を聞かされた。
曰く、「サトウイチロウの死体を片付けると呪われる」と。
ははぁ、サトウイチロウというのは、鉄道事故で死んだ身元不明者を表す隠語だなと、彼はあたりをつけた。
ところが助役はかぶりを振るのである。
ただの無縁マグロじゃねぇ。サトウイチロウはそういう名前のマグロだと。
吉田さんは首を捻った。過去にそういう名前の轢死体が出たとして、それがどうだと言うんだろう。
エジプトのミイラの呪いのように、その死体を処理した人間になにかおかしなことが立て続いたのだろうか。
けれどそれにしても噂から受ける感じが変である。
まるでその死体を、これから片付けるようではないか。

助役はニタリと笑ってから、続けた。
「何度も死ぬのさぁ。サトウイチロウは。片付けても片付けても、おんなじ格好で駅に現れてさ、また飛び込みやがるのよ。何度も、何度も」
ゾクリとして、吉田さんは湯飲みを取り落とした。
そこまで聞いて、俺は思わず話を遮った。
「待って下さい。サトウイチロウって、そういう事故死した人の総称じゃないんですか」
吉田さんは話の腰を折られたことに鼻を鳴らしながら、違うよと言った。
「同じ人間なんだよ。サトウイチロウって名前の。そいつが何度も死ぬんだ。列車に飛び込んで。
オレたち駅員が片付けて、警察が来て、身元不明だって言って引き取って行って、それで何年か経ったら、またフラッと別の駅に現れるんだよ。
いや、誰も生きて動いている所を見ちゃいない。ただ、列車に轢かれているのを発見されるんだ」
北村さんの話と違う。
同じ人間だって? そんなことがあるはずがない。
「じゃあ、死体を誰かが投げ込んでるんですか」
「違うね。生体反応ってのがあるんだろ。事故なのか自殺なのかも不明で、目撃者もいない変死体だから、解剖されるはずだ。死体損壊事件だったなんて聞いたことがないね。少なくともオレのときは……」
そこで吉田さんは言葉を切った。
ドキドキしてくる。
邪魔しないというジェスチャーをして、先を促した。
その噂を聞いてから五年ほど経ったころ、吉田さんはまた別の駅に転属になっていた。
雪がちらつく寒い日に、宿直室の掃除をしているとホームの方から急に悲鳴が上がった。
慌てて駆けつけると先輩の駅員が線路に降りて何ごとか怒鳴っている。
見ると、線路の周囲に薄く積もった白い雪の上に、赤いものが飛び散っている。
マグロだ、とすぐに分かった。
それもバラバラだ。
そういえば直前に特急が通過している……

救急隊員が到着したが、その場に立っているだけでなにもしてくれない。
警察も第一陣として二人駆けつけてきたが、現場検証もそこそこに、死体を全部集めろと命令口調で言う。
仕方なく自分たちで、散らばった肉片を掻き集めた。
血の匂いが鼻をついて堪らなくなり、手ぬぐいでマスクをしてその嫌な作業を続ける。
内臓も気持ちが悪いが、生半可に見慣れた人体の部品が雪の上に落ちているのを見るのは、吐き気のするおぞましさだった。
唇の切れ端や、指の関節。紐のついた眼球は血が抜けて、ひしゃげしまっている。
駅員としても中堅どころに差し掛かり、何度か事故は経験しているが、こんなえげつない死体を扱うのは初めてだった。
ようやく一通り片付いて、悴んだ手をストーブにあてていると、そばで遺留品を確認していた警察官が財布を手に取って、それを開いたまま読み上げるようにボソリと呟くのを聞いた。

「……さとう、いちろう」

その時、五年前に聞いた噂が脳裏に浮かび上がってきた。
『サトウイチロウの死体を片付けると呪われる』
今、マグロの財布にその名前が書いてあったのだ。
(サトウイチロウの死体を、片付けてしまった)
嫌な汗がだらだらと流れて、ストーブの火にも乾かず、地面に落ちていった。
それから何日か経って、警察からの情報を受けた駅長から事件のあらましを聞いた。
死体の身元は不明。
事故の瞬間を目撃した者はいなかったので、はっきりしたことは分からないが事件性はないものと考えられているらしい。
線路上に散らばった所持品の中に財布があり、そこにサトウイチロウのネームがあることから、名前だけはそのようだと知れたに過ぎない。
サトウイチロウだ。何度も現れて、何度も死ぬ。誰も正体を知らない。
ごくり、と喉が鳴る音がした。
それが自分のものなのか、青い顔をして隣に立つ先輩のものなのか、分からなかった。
「偶然、でしょう」
俺は、軽い口調を装った。

吉田さんはコップを深く傾け、息をついた後で口を開いた。
「違うな。ありゃあ、亡霊だか妖怪だかのたぐいなんだよ。
確かに足もあれば、手もある。目の前からひゅっと消えちまう訳でもねぇ。
それでも、それがまともな人間だなんて、誰にも言えないんだ。
なにせ、その足やら手やらがくっついた状態で、生きて、動いているところを、誰も見てねぇからだ。
オレはたくさんの先輩から噂を聞いたよ。同じなんだ。サトウイチロウは、いろんな駅で死んでる。いつもバラバラになって。
それも決まって身元不明だ。分かるのは名前だけ。そして誰も死ぬ瞬間を見てねぇ。
あれは、最初から最後まで、死体なんだ」
ガチャリ、とドアが開いて奥さんが水を持ってきた。
おお、ちょっと飲み過ぎた。吉田さんはそう言って水を受け取る。
奥さんはまだ中身の残っている日本酒のビンを取り上げるように持って行ってしまった。
同一人物なのか、それともたまたま同じ名前の人が事故に遭っているのか。
いや、同一人物だなんてことはありえない。
轢死体が蘇り、また別の駅に現れて同じ轢死体になるなんてことは。
そもそも、これは噂なのだ。狭い業界内のオカルトじみた噂話。
聞き手の俺にとって、ある程度信用に足るのは、吉田さん自信が経験した事故の話だけだ。
吉田さんがその噂を聞いたという先輩たちは、よくある『フレンド・オブ・フレンド』に過ぎない。
どこまで行っても発生源が分からない、「人づて」が作る奇妙な幻だ。
とりあえず、俺はそう思うことにした。
水の入ったコップを持ったまま、もう片方の手で頭を押さえる吉田さんを見て、そろそろおいとましようと腰を浮かしかけた時だった。
俺はふと思いついたことを何気なく口にした。
「サトウイチロウを片付けた呪いは、どうなったんです?」
ぴくりと反応があり、吉田さんは赤い顔をしたまま口の中でぶつぶつと何ごとか呟く。
そして俺の方に、頭を押さえていた手を向けてぶらぶらと振って見せた。
その手には小指と薬指、そして中指の第一関節から先が無かった。
「さっきから見てるじゃねぇか」

嘲笑するでもなく、嘆くでもなく、ただひんやりとした力ない声だった。
帰り道、自転車を降りて手押ししながら吉田さんから聞いた話のことを考えていた。
これは、不思議だね、では済まない、呪いの絡んだ話なのだ。
吉田さんの後輩である北村さんには、まともに伝わっていなかったことは確かだ。
北村さんはサトウイチロウを、身元不明のマグロ、轢死体すべてを表す隠語だと思っていた。
しかしそれも仕方ないだろう。同じ人物が何度も死ぬなんて、想像もしていないだろうから。
そんなことを考えていると、一瞬、目の前に何か大きな影が走ったような気がした。
キョロキョロと周囲を見る。
左右には住宅街の色とりどりの壁がずらっと並んでいて、平日の昼間にその道を通っているのは俺ぐらいのものだった。
なんだろう。
まばたきをした時、また違和感が走った。
目の前に白いセダンが停まっている。路肩に寄ってはいるけれど、通行の邪魔になっているのは間違いない。
太陽の光を反射して、ボディが眩しく輝いている。
もう一度、こんどはグッと目を閉じると、そのセダンが瞼の裏にくっきりと浮かび上がる。
光を反射する白い部分と、吸収する黒い部分のコントラストが強調される形で。
その少し左。道路の真ん中で、なにもないはずの場所に、もう一台別の車の陰影が見えた。
ギュッと目を力を込めると、瞼の裏に映るものたちの姿が一瞬濃くなり、そしてやがて薄れていった。
目を開けると車は一台しかない。路肩の白いセダンだ。
けれどさっき瞼の裏には、確かにもう一台の車、それも軽四のシルエットが浮かび上がっていた。
その場で足を止めてバチバチとまばたきを繰り返すが、もう白いセダンのものしか見えなかった。

どうやら昨日と一昨日の夜に見た幻と同じものだと感じた。
すぐに電話を取り出し、師匠の家に電話をすると、当人が出た。
今から寄るけど、いいですかと聞いてから自転車に跨る。
案外冷静だ。やっぱり、怖いことは昼間起こるに限る。
などと一人ごちても、ペダルをこぐ足が速くなるのは止められない。
師匠のアパートの前に自転車を停め、部屋に上げてもらう。
「かくかくで、しかじか」
と、この部屋でビデオを見てからこっち、体験した出来事を早口で説明した。
じっと聞いていた師匠は、こちらの説明が一段落ついたのを見計らっていきなり顔を近づけてきた。
そして頭を抱えるようにして、俺の左目を指で開いて覗き込む。続いて右目。
しばらくしげしげと俺の目を見ていたが、ようやく離すと「なんともないと思うがな」と首を捻った。
「それにそんな噂聞いたことがないな。サトウイチロウの死体を片付けたら呪われるってか。
稲川淳二の十八番に北海道の花嫁って話があるけど、あれも同じ死体が何度も現れる話だな。でも決定的に違う部分がある。
花嫁の死体が蘇る謎の正体は、まあ言わば人間心理の闇にあるわけだが、その死自体にはなんの疑問もない。
しかし噂が本当ならサトウイチロウは、誰も生きて動いているところを見ていないのだから、吉田さんが言った通り、最初から最後まで死者だ。
はたしてそいつは、生きている者が死んだあとに残した骸なのか、それとも最初から死体としてこの世に現れたのか……」
師匠は腕組みをしてぼそぼそと呟く。
なんだかズレている気がする。気にする場所が。
「ビデオを見てからなんですよ。変なことが起こり始めたのは。サトウイチロウの呪いの噂はビデオに映っていた駅の周辺に広がっているんです。それでもってそのビデオはお寺から手に入れた、呪いのビデオなんですよ」
捲くし立てる俺へ、師匠は冷静に「呪いのビデオだなんてオッサンは言ってないよ」と突っ込む。

「とにかく、俺たちは見てるんです。誰も気づいていない、飛び込みの瞬間を。もしあれが……」
サトウイチロウなら、という言葉を辛うじて飲み込んだ。
「そうか、僕たちは見ていることになるな。誰も見ていないはずの生ける死者を」
師匠は面白そうに頷いた。けれどすぐにため息をつく。
「でも、ビデオに映っている人物と、サトウイチロウの噂を重ねるのは突飛に過ぎるな。
ただの自殺の瞬間のビデオかも知れない」
「だったらどうして、二十万も供養料を払うんです」
「知らないよ。それはまだわからない」
俺は実際に怖い目に、と喚きかけて師匠に止められる。
「そこだ。おまえが体験した光の幻は、今のところただの幻だ。幻影。幻覚。そんなにビビることはないんじゃないか」
ビビッてると思われるのは癪だった。でも事実だ。
俺は座り込んでむっつりと黙った。
師匠はやれやれと手を振って、「そんなにむくれるな」と言った。
「気になるなら、調べてみるといい。電車に飛び込んで死んだ身元不明の人間は、行旅死亡人として扱われる」
「え? なんですって」
「こうりょ・しぼうにん」
師匠がチラシの裏に漢字を書いてくれる。行旅死亡人。あまり聞きなじみの無い言葉だ。
「ようするに行き倒れとか、見知らぬ土地で自殺した人間なんかを指す身元不明者のことだ。まあ大抵はホームレスだな。
行旅死亡人はその死体が発見された場所の自治体の管轄になり、荼毘に付された後はもよりのお寺に遺骨を保管されて、遺留品は自治体で保管する。
その時に役所の掲示板に公示されるけど、発見時の詳細は官報にも掲載される。引き取り手を捜すためだ」
どこで得た知識なのか知らないが、師匠は人間の死に絡むことにはやけに詳しい。

「図書館には、古い官報も置いてあるだろう」
俺は師匠に礼を言って家を出た。もちろん図書館に向かうためだ。
大学の図書館へ行ってみたのだが、あまり古い官報は置いてないという。
仕方ないので自転車を駆って公立の図書館まで足を伸ばした。
さっそく司書に聞いてみると、抜けは多少あるものの大正時代からこっちの官報を保管しているという。
喜んで閲覧を希望したが、案内された書庫の膨大な官報の数に早くもうんざりした。
とりあえず直近の官報から順番に紐解いていく。
「号外」の「公告」、「諸事項」、「地方公共団体」、「行旅死亡人関係」
最初はどこに載っているのか分からず手間取ったが、慣れてくると毎号毎号で大体載っているページがつかめた。
パラパラと捲っていく。
『本籍・住所・氏名不詳、年齢25歳~40歳位の女性、身長155cm、体格中肉、頭髪茶髪、所持金品はネックレス1本。
上記の者は、平成○年○月○日○時○分○○河川敷で発見されたものである。
死因は溺死。身元不明につき遺体は検視のうえ火葬に付し、遺骨は保管しています。
心当たりの方は当市福祉事務所まで申し出てください。
平成○年○月○日 ○○県 ○○市長』
こんなことが延々と書いてある。
あたりまえのことだが、全国の自治体から情報が寄せられている。
ビデオで見た前原駅は前原町にあるから、膨大な数の行旅死亡人情報の中から前原町長名のものを探さないといけない。
初めて見る官報の物珍しさにたびだび脱線しながらも、めくり続けること数時間。
結局サトウイチロウのものはおろか、前原町のものすら一つも見つからなかった。平和でなによりで。
何か別の探し方を考えたほうがいいような気がしたが、「あと少し」と諦め悪くも俺は官報のおかわりに踏み切った。

そして閉館時間ギリギリになって、ようやく前原町の文字を発見した。
『本籍・住所・氏名不詳、年齢20歳から40歳の男性、身長160から170センチ位、中肉、頭髪3センチ位の黒髪、灰色のコート、焦茶色のソフト帽、衛生用マスク、白色の手袋、灰色のスラックス、白色柄ブリーフ、所持品は簡易ライター・腕時計・「サトウイチロウ」と白インクで書かれた黒皮財布(現金450円)
上記の者は、平成○年○月○日午後○時○分ごろ、前原駅構内において、下り特急電車が通過中にホームから飛び降りはねられ轢死する。
遺体は身元不明のため火葬に付し、遺骨は保管してあります。心当たりの方は当町役場福祉課まで申し出てください。
平成○年○月○日 ○○県 前原町長』
来た。
サトウイチロウだ。
俺は興奮して、ブルブルと震えながらメモを取った。本当に見つかるとは思わなかった。
前原町。日時は五年前だ。身元不明。ホームから飛び降り、轢死。
ビデオの中に映っている事件だ。そして「サトウイチロウ」の文字が書かれた財布。繋がる。繋がってしまう。
俺は思わず腰を引き、椅子が床を擦る音にドキッとする。周囲には誰もいない。やけに静かだ。
閉館時間になった平日の図書館。暗い窓の外には、痩せた木が腕のように枝葉を伸ばしている。
追われるように身支度をして、外に出た。なんだか足元がふわふわとして現実感がないような夜だった。
次の日は最後の平日、金曜日だったが俺は大学の講義を朝からサボり、図書館へ足を向けた。
昨日の夜は師匠に電話でサトウイチロウの記事があったことを伝えただけで、家に帰るとすぐに寝てしまっていた。

一件ではだめだ。偶然の域を出ない。何度も死ぬからこそ、この世のものならざる怪現象なのだ。
財布にサトウイチロウの名前が書いてあったという部分が、吉田さんの回想と一致するのは逆に出来すぎな気がして引っ掛かりを覚えもした。
何度も死ぬ男という噂が昔からあったとしても、それが五年前の前原駅の事件の固有名詞とくっついただけなのかも知れない。人間の記憶は曖昧だ。
外は太陽が眩しく、街路樹の下を颯爽と自転車で駆け抜けると身体の中から爽やかな気持ちになってくる。
そういえば昨日の夜は変な幻を見なかったな。
そんなことを思いながら、朝の図書館のドアをくぐる。
昨日の司書がいたので挨拶をすると、「大学のレポート?」と話しかけられた。
「ええ、まあ」と適当に相槌を打って閲覧室に向かう。
朝から図書館に詰めようっていうんだから、真面目な学生に見えたのかも知れない。
いや、ある意味十分に真面目なのだが。
官報を机に大量に積んでから、昨日の続きから捲っていく。
住之江区。静岡市。福岡市博多区。仙台市青葉区。葛飾区。江東区。神戸市北区……
あいかわらず都市部が目立つ。
あたりまえのことだが、人口が多いとそれに比例して身元不明死体も多くなるのだろう。
いや、ホームレスの発生率を考えると単なる人口比例以上に多くなるに違いない。
その中で都市部から離れている前原駅の沿線の自治体名を見つけ出すのは案外難しい作業だ。
念のためにそのあたりの地図を横に置いているが、それを確かめる機会すらなかなか巡ってこなかった。
三十分ほど経ってようやく高遠町の名前を見つける。前原駅の西隣、高遠駅のある町だ。
だが行旅死亡人は女性で、死因も縊死だった。がっかりして若干ページを捲る速度も鈍った。
しかしよくもこれだけ毎日毎日、身元不明の死体が上がっているものだ。

発見までに時間が経ち骨になってしまっているようなものは死因も不明だが、死にたてのものは縊死、つまり首吊りが多い。
あとは溺死。河川で浮かんでいるものなどがそうだろう。それから冬には凍死も目立つ。
電車による轢死体、それもホームでとなるとケースとしては少ない。
たまにあっても全然離れた場所だったし、ほとんどの場合遺留品がはっきりしているので全くの別件だとすぐに分かってしまう。
イライラしながら黙々と薄い紙を捲り続ける。それでも今日は脱線もしないし、見るべき箇所のコツを掴み始めると思ったより早く消化出来る。
そしてついにそれを見つけた。
高遠町のものだ。
『本籍・住所・氏名不詳の男性、年齢20~40歳位、身長165~170cm位、中肉、黒の短髪、灰色のコート、中折れ帽、白マスク、白手袋、灰色のズボン、白ブリーフ、所持品ライター・腕時計・黒皮財布(現金450円)
上記の者は、昭和○年○月○日午後○時○分、高遠駅構内において、特急電車が通過中にホームから飛び降りはねられて轢死。遺体は火葬に付し、遺骨は保管してあります。心当たりの方は当町役場福祉課まで申し出てください。』

……どうなのか。
格好はほぼ同じだ。コートに帽子にマスクに手袋。
しかし、肝心のサトウイチロウの名前がない。
財布の450円といい、間違いないと思うのだがスカッとしない。イライラする。
そんな細かい数字出すくらいならサトウイチロウの名前出せよ、と思う。
それとも財布にそんな文字が書かれていなかったのだろうか。
もやもやした気分のままそれを持参したノートに写し取り、官報捲りを続行する。
やがて小腹も空き、昼食を取ろうかと思い始めたころ、あるページで手が止まった。
『本籍・住所・氏名不詳(財布にサトウイチロウの名前あり) 中略  東高尾村長』
来た。
同じだ。サトウイチロウ。また死んでる。状況も轢死。マスクに帽子、手袋、コート。同じ沿線。
間違いない。

思わず立ち上がった。
何度も死ぬ。サトウイチロウは何度も死ぬ。
昭和期から続く正体不明の蘇る死者が、目の前に広げた古びた紙の中に確かにいた。目立たない小さな活字となって。
俺は得体の知れない感情に震える。いるんだ。こんなものが本当に。
恐れとも達成感ともつかない興奮状態に陥った俺は夢中で官報を捲り続け、昼の三時を回るころにはサトウイチロウの名前を四つ発見していた。
昨日のと合わせて五つ。微妙なものも合わせるともう少し増えそうだし、見落としたものもあるかも知れない。
昭和三十年代も前半に来て、まったくそれらしいものが見当たらなくなったので作業を終えることにした。
最も古いサトウイチロウは昭和三十七年十二月。
越山駅という前原駅から数えて西へ六つ目の駅で、地図で見る限り、かなりの田舎町にあると思われる。
そこで夜八時ごろ、特急列車に轢かれているのを発見された。
コート姿で、顔は帽子とマスクで覆い、手には手袋そして所持品の中にサトウイチロウの名前入りの財布。
まるでビデオで巻き戻し再生をしたように、同じ状況が繰り返されている。
本当に同じ人物なのかも知れない。そんな不気味な想像が沸いてくるのを止められなかった。
俺は図書館を出て師匠の家へ向かった。腹が減っているのもすっかり忘れて。
到着し、ドアをノックすると「開いてるよ」といらえがある。
「知ってます」と言いながら上がりこむ。
師匠はドアに鍵を掛けないので、いつもながらバカバカしい儀式だと思うが、以前ノックせずに開けると中がたいへんな状況だったことがあり、それ以来一応儀礼的に声を掛けるようにしているのだった。
もっとも見られた本人はいたって平然としてはいたが。
「で、どうだった」
俺は今日の戦果を広げて見せた。官報を書き写したノートだ。
師匠は黙ってそれを読み始める。

「ふん。なるほど。同じだな」
「どうしてそんなに落ち着いてられるんです。凄いことですよこれは」
身を乗り出した俺を制するように手を広げた師匠は、ノートを手に取って頭を掻いた。
「ここ……、昭和四十五年のやつ。これ、サトウイチロウって文字が出てこないけど、わざわざメモってあるのは」
「ええ、吉田さんが遭遇した事件だからです。年代も駅名も合ってますから、間違いないはずです。どうして名前が出てこないのか分かりませんが。他にも、名前が出てこないけどそれっぽいのがいくつかあります」
「まあ、それはそれとして。てことは、ここ、『列車に轢かれて』としか書いてないけど、吉田さんの記憶によればこれは特急の通過列車のはずだな」
なにが言いたいのか分からなかったが、頷いた。
ふんふんと師匠はしきりに納得しながらノートを持ったまま立ち上がり、部屋の中を歩き回り始めた。
「どうして誰も気づかないんだろう」
考えながら、俺は独り言のように口にした。
同じ人物が何度も死ぬなんて不可解な事件なのだ。警察だって調査してるはずなのに。
「実はな、昨日第一報を聞いてからちょっと気になって調べてみたんだが、前原駅とその両隣の駅では警察の所轄が違うんだよ。ええと、どれだっけ、これか。
俺たちがビデオで見た前原駅の事件のイッコ前、高遠駅の事件。この二つは距離的には近いけど年数もかなり離れているし所轄が違うんだ。関連性には気づきにくいだろうな。
高遠駅の方はサトウイチロウの文字が出ていない。実際は財布に書かれていたのかも知れないが、身元を表すものとしては重要視されていなかったのは間違いない。
警察としても二つの事件を絡めて考え、同一人物の可能性があるなんてバカなことは思っていなかったはずだ」
「でも、この官報の記事を書くのは警察じゃないですよ」
「あ。おっと、そうか。自治体だったな。すまん」
師匠は立ち止まって自分の頭を叩く。
その時俺は重要なことを思いついた。

「待って下さい。遺骨は自治体が保管するっていうのがテンプレートになってますが、遺品はどうなんです。コートは。マスクは、帽子は。ネーム入りの財布は」
「ん。書いてないか。ないな。でも確か、遺品も自治体が保管するって聞いたことがあるよ。最初そう言ったろ。ひょっとすると火葬のとき一緒に焼くこともあるかも知れないけど。いや、でも本人確認のための証拠品だからな、官報を見て問い合わせがあった時にないとまずいだろう」
「じゃあ、そのネーム入り財布は自治体の金庫だかどこだかにあるはずなんですよね」
「そういうことになるね」
もし、サトウイチロウが同一人物で、死んだ後再びこの世に戻って来るのだとすると、所持品はどうなる? 金庫の底で眠っているものを、もう一度その手に取るのだろうか。
俺と師匠は手分けして、ノートに出てくる市町村役場に電話をした。
「あの、古い官報を見たんですが、そちらが遺骨を保管されている人が、もしかして自分の身内かも知れないと思いまして……」
そんな嘘を並べて情報を聞き出し、こちらの連絡先を、という話になるといきなり電話を切るという実に迷惑な戦法で俺たちは気になる部分を調べ上げた。
小一時間経って分かったこと。
1.役所は引継ぎが下手
2.公務員はめんどくさがり
この二点だ。
とにかく、前の担当から行旅死亡人の仕事をまともに引き継いでいない。
それが三代前四代前と、古くなって行くにつれ何がどこにあるのかさっぱりだ。
「遺品ですか。古い倉庫のどこかにあると思いますが、なにぶん昔の話で……」って、そんなセリフは聞き飽きたから。
いいから探せよ、と言いたくなるが「調べて折り返し電話しますからそちらの連絡先を……」ガチャン。
連絡先を知られるのはまずい。なにせ身内なんて嘘だからだ。確かめてみたら間違いでした、っていうのでも問題ないとは思うが、こういう嘘で乗り切るのは苦手だった。

その点師匠はずぶといのか、生き別れの甥っ子になりすまして遺品のありかを探し当てるのに成功していた。しかし。
「……ありましたよ倉庫に。でも変だなあ。一式入れてあるはずの袋が空なんですよね。別の場所に移したのかな。
でも遺品の明細は入ってましたから、確認できますよ。もしもし、聞こえてますか。あれ? もしもし……」
ガチャリと受話器を置いた師匠が笑みを浮かべる。
「空っぽだってさ」
結局まともに確認できたのはこの一件だけだったが、何が起こっているのか理解するのには十分だった。
さすがに遺骨のある寺まで同じように調べるのは無理だったが、現地に忍び込んで納骨堂を暴くと骨壷は同じように空になっているのかも知れない。
薄ら寒くなってきた。ありえないと思っていたことが、次々と現実的な姿で現れてくる。
「とまあ、ここまで分かったところで、どうする」
師匠がぼんやりと言った。
どうすればいいんだろう。
怪談話の収集としては、もうここらで置いた方がいいような気がする。
でも俺たちはビデオを見てしまっていた。五年まえの前原駅の事件を。
そしてそのビデオテープの持ち主が、寺に供養を頼みに来た。心霊写真等の供養で密かに有名な寺にだ。
なにがあったのか。ビデオに映っていた白い仮面の人物と、カメラマンに一体なにが。
師匠も同じことを考えていたのか、無造作に転がっていた例のビデオテープをデッキに入れようとした。
「待って下さい。いいです。もういいです」
あの晩に、何度も繰り返し見たそれを、今はもう一度見る勇気が無い。
「腹減ったんで、帰ります」
そう言って立ち上がろうとした。師匠は「そうか」と口にするとノートを俺に返そうとした。

「持ってて下さい。あげますから。何か気がついたら教えてくれれば……」
俺が手を振った時だった。師匠はニヤリと笑うと、言った。
「じゃあ、さっそく気がついた点だ。ビデオの中の事故は、駅のホームで轢かれている。ノートによると下り特急列車が通過中に、とある。次の高遠駅も特急列車の通過中の事故だ。さっき確認したが、吉田さんの時も特急の通過した後に発見されている」
そう言えば師匠がしきりに頷いていた。
「その他のケースも、特急列車に轢かれているのがほとんどだ。確認できる最も古い越山駅のものも含め、通過列車とは明記されていないものも多いが、いずれも小さな町の小さな駅だ。まるでそういう場所ばかり狙ったように。つまり、特急が停まらない駅ばかりなんだ。ということはほぼすべてのケースで通過列車に轢かれていることになる」
師匠がなにを言い出すのか、じっと聞いていると胸がドキドキしてきた。
師匠が興味を持った部分、そこには大抵、不気味でグロテスクなものが潜んでいるから。
「北村さんが言ってたんだろ。『停車駅だと減速しているから、通過の時みたいにスパッといかないのよ』って」
なにが言いたい? 分からない。なにが言いたいんだ?
「どうして通過列車なのに、バラバラなんだ」
ピクリと来た。そうか。吉田さんの話を聞いていて微かな違和感があった気がしたが、そこだ。
噂では、サトウイチロウの死体はいつも決まってバラバラだ。
なのに、吉田さんの時もそうだが、通過列車でそうなったというのは少し変ではないか。
停車直前の列車に巻き込まれたというなら分かる。
しかし通過列車では、跳ね飛ばされるか、車輪で轢断されるにしても北村さんに言うように、スパッと切れるのではないだろうか。
素人考えだが、少なくともバラバラと言われるほど多くの肉片になるとは思えない。
慌ててノートを見返す。
官報には轢死と書いてあるばかりで、バラバラ死体なのかどうかははっきり分からない。
だが、その年恰好の部分に目が釘付けになる。

前原駅の事故では、『年齢20歳から40歳の男性、身長160から170センチ位』とある。
高遠駅のものは『年齢20~40歳位、身長165~170cm位』
その他を見ても、年齢や身長にかなりの振れ幅がある。
最大のものは年齢で20~50歳位、身長で160~175センチ位となっている。
死後何年も経過しているわけではないのだ。
すぐに検視したのなら、年齢はともかくとして、身長は正確な数字が分かっていいはずだ。
たとえ胴体が真っ二つになっていようと。
それが正確に測れないような死体の状態を暗に示しているのだとしたら……
バラバラ。
みんなバラバラなのだ。
無数の肉片になって、線路に撒き散らされているのだ。
そうならないはずの、通過列車なのに!!
ごくりと喉が鳴る。
目の前で師匠の瞳が妖しく輝いている。

「あの、コートの、下は、はじめから……」

師匠の唇がゆっくりと動く。頭の中で、ビデオで見たコートの男の姿が再生される。
列車がホームに飛び込んでくる直前の、一瞬の映像。
荒い画質の中で、コートの中がもぞもぞと動く。帽子とマスクに覆われた顔の、その奥は。
やめてくれ。聞きたくない。
耳を塞ぐ。
「帰ります」
そう言って師匠の部屋を飛び出した。

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