師匠シリーズ 第77話 先生 前編

師匠シリーズ 第77話 先生 前編

(´・ω・`) やあ。
恐れていたようにおもいきり忙しいよ。
たぶん9月上旬まで身動きが取れないよ……
毒……
(´・ω・`) だからツナギに前に書いたお話をするよ。
同人誌に載せた話だよ。

師匠から聞いた話だ。
長い髪が窓辺で揺れている。
蝉の声だとかカエルの声だとか太陽の光だとか地面から照り返る熱だとか、そういうざわざわしたものをたくさん含んだ風が、先生の頬をくすぐって吹き抜けて行く。
先生の瞳はまっすぐ窓の外を見つめている。僕はなんだか落ち着かなくて鉛筆を咥える。
こんなに暑いのに、先生の横顔は涼しげだ。
僕は喉元に滴ってきた汗を指で拭う。じわじわじわじわと蝉が鳴いている。
乾いた木の香りのする昼下がりの教室に、僕と先生だけがいる。
小さな黒板にはチョークの文字が眩しく輝いている。三角形の中に四角形があり、その中にまた三角形がある。
長さが分かっている辺もあるし、分かっていない辺もある。先生の描く線はスッと伸びて、クッと曲がって、サッと止まっている。おもわずなぞりたくなるくらいの綺麗な線だ。
それからセンチメートルの、mの字のお尻がキュッと上がって、実にカッコいい形をしている。
三角形の中の四角形の中の三角形の面積を求めなさいと言われているのに、そんなことがとても気になる。それだけのことなのに本当にカッコいいのだ。
mのお尻に小さな2をくっつけるのがもったいないと思ってしまうくらい。
「できたの」
その声にハッと我に返る。
「楽勝」
僕は慌てて鉛筆を動かす。
「と、思う」と付け加える。
先生は一瞬こっちを見て、少し笑って、それからまた窓の外に向き直った。背中の剥げかけた椅子に腰掛けたままで。
僕は小さな机に目を落としているけれど、それがわかる。
また、蝉の声だとかカエルの声だとか太陽の光だとか地面から照り返る熱だとかが風と一緒に吹いてきて、先生の長い髪がさらさらと揺れたことも。白い服がキラキラ輝いたことも。

二人しかいない教室は時間が止まったみたいで。僕はその中にいる限り、夏がいつか通り過ぎるものだ、なんてことを、なかなか思い出せずにいるのだった。
小学校六年生の夏だった。
夏休みに入るなり、僕は親戚の家に預けられることになった。
その母方の田舎は、電車をいくつも乗り継いでやっとたどり着く遠方にあった。
小さいころに一度か二度、連れてこられたことはあったけれど、一人で行かされるのは初めてだったし、「夏休みが終わるまで帰ってこなくて良い」と言われたのも当然初めてのことだった。
厄介払いされたのは分かっていたし、一人で切符を買うことや道の訊き方について、それほど困らないだけの経験を積んでいた僕は、むしろ「帰ってこなくて良い」の前に「夏休みが終わるまで」がくっついていたことの方に安堵していた。

田んぼに囲まれた畦道を、スニーカーを土埃まみれにしながらてくてく歩いていくと、大きなイブキの木が一本垣根から突き出て葉を生い茂らせている家が見えてきた。
この地方独特の赤茶色の屋根瓦が陽の光を反射して、僕は目を細める。
その家には、おじさんとおばさんとじいちゃんとばあちゃんと、それからシゲちゃんとヨッちゃんがいた。
おじさんもおばさんも親戚の子どもである僕にずいぶん優しくしてくれて、「うちの子になるか」なんて冗談も言ったりして、二人とも農作業で真っ黒に日焼けした顔を並べて笑った。
じいちゃんは、頭は白髪だったけど足腰はピンとしていて、背が高くてガハハと言って僕の頭をぐしゃぐしゃに撫でたりして、それが痛かったり恥ずかしかったりするので僕はその手から逃げ回るようになった。
ばあちゃんは小さな体にチョンと夏みかんが乗ってるような可愛らしい頭をしていて、なにかを持ち上げたり、布巾を絞ったりする時に「エッへ」と言って気合を入れるので、それがとても面白く、こっそり真似をしていたら本人に見つかって、怒られるかと思ったけれどばあちゃんは「エッヘ」と言って本物を見せてくれたので、僕はあっというまに好きになってしまった。

シゲちゃんは名前をシゲルと言って僕と同い年の男の子で、昔もっと僕が小さかったころにこの家に遊びにきた時、僕を子分にしたことを覚えていて、僕はさっぱり覚えていなかったけれどまあいいやと思ったので子分になってやった。
ヨッちゃんは名前をヨシコと言ってシゲちゃんの二つ年下の妹で、目がくりくりと大きくオカッパ頭の元気な女の子で、僕の顔や服の裾から出ている体の色が白いのを見て、トカイもんはヒョロヒョロだと言って馬鹿にするので、そうではないことを証明するのに泥だらけになって日が暮れるまで追いかけっこをする羽目になった。

トカイもん。
田舎にきてまず感じたのが、この言葉のむずむずする肌触り。
僕にはけっしてトカイの子などという認識はなかったのであるが、この小さな村の子どもたちからすると、テレビのチャンネルがNHKのほかに三つ以上映るというだけでそれは十分トカイの条件を満たしてしまうようだった。
シゲちゃんはそのトカイもんをさっそく地元のワルガキ仲間に引き合わせてくれたので、とにかく毎日ヘトヘトになるまで僕らは一緒に駆け回り、泳ぎ回り、投げ回り、逃げ回った。
小学生最後の夏休みなのだ。アタマが吹っ飛ぶくらい遊ぶのは、子どもの義務なのである。
タカちゃんやらトシボウやらタロちゃんなんかと仲良くなった僕は、どいつもこいつも揃って足が速いこと、そしてまた並べてフライパンで焼いたように色が黒いことにいたく感心した。
なるほど、「トカイもん」と自分たちを区別したくなるのも分かる気がする。僕の周囲にいた子どもたちとは少し違っている。
朝早くから虫カゴと網を持って山に入ったかと思うと、ヒグラシが鳴きやむまで下界に下りてこず、いざ帰ってきた時には手作りの大きな虫カゴが満タンになっているのだけれど、その夜それぞれの親に早く家に帰らなかったことについてコッテリ絞られた後だというのに、次の日にはまた颯爽と朝早くから虫カゴと網とを持って山に駆け上って行く、という具合だ。
その中でもシゲちゃんはとびきりのやんちゃ坊主で、それになかなかの親分肌だった。

いばりんぼで喧嘩っ早かったけれど、子分のピンチには一番に駆けつけて「ヤイヤイ」と凄んだり、「にげろ」だとか「とにかくにげろ」だとかといった的確な指示を出して僕らを窮地から救い出してくれたりした。
背丈は僕と同じくらいだったけれど、ギュウギュウに絞った雑巾のような筋肉が全身に張り付いていて、その足が全力で地面を蹴った時には大きな水溜りをらくらくと跳び越し、あとから跳んだ僕らの足が水溜りの端っこでドロ水を撥ねるのを振り返りながら鼻で笑ったものだった。
ただそんなシゲちゃんの親分っぷりの中にも、生来のイタズラ好きが首をもたげてくると僕らはその奇抜さ、迷惑さに閉口した。
山で見つけた変なキノコを「キノコの毒は火を通せば大丈夫」などと言ってうっかり信じたトシボウに食べさせた時など、腹を抱えて昏倒したあげくに医者に担ぎこむ騒ぎになったし、落とし穴づくりに関してはそれはそれは恐ろしい「穴の中身」を用意することで知られていた。

ある時は裏山の竹ヤブに僕らを集め、なにをするのかと思っているとシゲちゃんは「あ、人が落ちそう」と崖の方を指さして叫んだ。
見ると、確かに誰かが竹ヤブの端っこから落ちそうになって竹の子に毛が生えたような細い竹にしがみついている。
それは今にもポキリと折れそうに見えた。
わあわあ言いながら慌てて駆け寄るとなんとそれは藁と布で出来た人形で、シゲちゃんに一杯食わされた僕らは、怒ったり、あんまりその人形が良くできていたので感心したりしていたけれど、間の悪いことに山菜を採りにきていた近所のおばさんがそのシゲちゃんの「人が落ちそう」を耳にして、遠くから僕ら以上に慌てて人形に駆け寄ってきたものだから途中で竹の根っこに躓いてスッテンコロリンと転がり、あやうく崖から落っこちるところだった。
僕らはそのおばさんに叱られ、それぞれの家でしかられ、とにかくさんざん絞られたのであるが、シゲちゃんはさらに人形の出来が良すぎたせいでカカシの作成をじいちゃんに命じられ、家の田んぼと畑のカカシを全部作り直させられていた。
そのあいだシゲちゃんは遊びにも行けずに、うなだれながらカカシをせっせと作っていたのだけれど、その目の奥には次のイタズラを考えている光がぴかりと点っていて、僕らにはそれが頼もしかったり迷惑だったりしたものだった。

田舎の暮らしにもすっかり慣れて、シゲちゃんたちほどではないけれど僕の身体にも日焼けが目立ち始めたある日、「鎮守の森へ行こう」というお誘いがかかった。
鎮守の森は北の山の峰に沿ってズンズン分け入った奥にある。
高い山に囲まれているせいで太陽が東や西よりにある時間、そのあたりは昼間でも暗くて、真上に昇っている時でも生い茂るクスノキやヒノキの枝や葉っぱで光が遮られ、その森の底を歩く僕らにはほんのかけらしか零れてこない。
それだからシゲちゃんとタロちゃんの後を追いかけて、ようやく鎮守の森の真ん中に佇む神社を見つけた時にはなんだか厳粛な気持ちになっていた。
今まで太陽の熱が暴れ回る場所で遊んでいたのに、ここは黒い土に地面が覆われ、空気はしっとりしていて、身体の中から冷えていくような感じがする。
それまでに登ったほかの山や森ともどこか違う。
「カンバツもほとんどしとらんから」とシゲちゃんは言った。
そのころはカンバツというのがなんなのか良く分からなかったけれど、きっとそれをしないのはここが鎮守の森だからなのだろうというのは理解できた。
ひっそりと静まり返った(後から思い出すと蝉がうるさいくらいに鳴いていたはずだったのに、確かにその時はそう思ったのだった)参道を通って、ちんまりした神社の本殿にたどり着く。
光も影も斜めに屋根や板壁に走り、それがずっと何百年も昔からそこにそうやって張り付いているような気がする。
時どきサラサラと葉っぱの形に揺れて、そんな時にようやく僕は時間の感覚を取り戻した。
チャリンと音がして、そちらを向くと賽銭箱の前にシゲちゃんが立っている。
ボロボロで苔が生えていて、誰かがお賽銭を回収しているのかどうかも、ちょっと怪しい。

実は江戸時代くらいからのお賽銭がゴッソリと溜まっているんじゃないかと覗いてみたけれど、暗くて良く分からず、それでもゴッソリと溜まってる感じでもなかったので、どうやらここへ参拝にくる人自体がめったにいないんだろうと僕は考えた。
そしてズボンのポケットから十円玉を取り出して投げ入れる。
その神社に何の神様が奉られているのか誰も知らなかったけれど、チリンというとても良い音がしたので、僕はその音に手を合わせた。
やがて「もう帰ろうぜ」とタロちゃんが言って、境内から出たがり始める。心なしか内股でもじもじしている。
どうもおしっこを催してきたらしい。口ばかり達者なくせに恐がり屋な面があるタロちゃんは、この鎮守の森の奥深くに眠る神社の聖域をおしっこなんかで汚してしまうことに畏れを感じているようだった。ようするにビビッてたワケだ。
僕とシゲちゃんはタロちゃんを苛めることよりも、その場を離れることを選んだ。
僕らも僕らなりにその森になにか近寄りがたいものを感じていたのかも知れない。
クスノキが枝葉を手のように伸ばす薄暗い参道を抜け、また黒土の山道に出る。気が焦っているタロちゃんが「あれ、どっちだっけ」とキョロキョロしていると、シゲちゃんが「こっち」と元きた道の方を正しく指さした。
僕はふと反対方向へ抜けるもうひとつの道に目をやった。
道はすぐに折れ、木立の群に飲み込まれてその先は見えない。
この道の先はどこに通じているのだろう。むくむくと好奇心がわき上がってくる。
「こっちはなにがあるの」
そう聞くと、シゲちゃんは「なんにもないよ」と言ってさっさと元の道を戻り始めた。
僕はその奥へ行ってみたい誘惑に駆られたけれど、ひとりで鎮守の森に残される心細さがじわじわと胸に迫ってきてその場に立ちすくんでしまった。
そうしていると、いきなりバサバサと頭の上の木のてっぺんあたりから大きなものが飛び立つような音と気配がして、思わず見上げるとその瞬間に覆い被さるような木の枝や葉っぱやそこから零れる光の繊維がぐるぐると僕の視点を中心に回り出したような感覚があった。

頭がくらくらしたのと、ビビッたのとで森の奥へ行ってみたい気持ちは引っ込み、一目散にシゲちゃんたちの後を追いかけた。
それから三日くらい僕らはひたすら川で泳ぎ回っていた。とにかく暑かったからだ。
川は海よりも体が浮かななくて、しかも流れがあるので岸に上がった時にドッと疲れる感じ。
その川には小さな橋が架かっていて、その上から飛び込むのが僕たち子どもの格好の度胸試しになっていた。
僕も泳ぐのは得意だったし、川底も深かったのでしばらく躊躇したあと見事に頭からドブーンとやってやった。
プシューッと水を吹きながら他のみんなと同じように水面に顔を出すと、橋の欄干の上にプロレスラーよろしくシゲちゃんが立っているのが見えた。
「見てろ」と言ってシゲちゃんはみんなの視線を集めながら宙を舞った。
歓声と光と、水に溶けていく体温。太陽の中に僕らの夏があった。
そうしているうちに、やがて僕が一人で遊ばなくてはいけない日がやってきた。
シゲちゃんたち六年生がみんな二泊三日で林間学校に行くのだ。
僕も連れて行って欲しかったが、学校行事なのでどうしても駄目らしい。
リュックサックを背負って朝早くに家を出るシゲちゃんを見送って、今日からの三日間をどうしようかと考えた。
家は農家だったのでおじさんとおばさんとじいちゃんは朝ごはんを食べたあと軽トラに乗って仕事に行ってしまう。
ばあちゃんがゴトゴトと家の仕事をする音を聞きながら僕は持ってきていた宿題を久しぶりに開いた。
広い畳敷きの部屋で大きな机の真ん中に頬杖をつく。何ページか進むともう飽きる。宿題なんて夏休み最後の三日くらいでやるものと決まってる。
それまでにやらなくてはならないほかのことがあるんじゃないのか?
エンピツがコロコロと転がる。縁側の向こうの庭には太陽がさんさんと照っていて、こちらの部屋の中がやけに暗く感じる。
寝転がったり、宿題を進めたり、また休んだりを繰り返していて、ふと時計を見ると朝の九時。まだ九時なのだ。
お昼ご飯まで三時間以上ある。ダメだ。どうにかなってしまう。

僕は一人で行ける場所を考えた。いつもみんなでは行かない場所がいいな。図書館とか。
あれこれ考えていると、ふと頭の隅に鎮守の森の神社が浮かんだ。そしてカンバツされていない木々の下の翳りの道。その先にまだ道は続いていた。
またむくむくとその先へ行ってみたい気持ちがわき上がってきた。あの森の中では萎えてしまったその気持ちが、もう一度強くなってくる。
ひとりでも行けるさ。どうってことない。そうだ。午前中に、今すぐに行こう。日の高いうちならそんなに恐くないはずだ。
思い立ったらすぐに身体が動いた。宿題のノートを畳んでから、支度をする。
リュックサックを担いでいると、その気配を感じたのかシゲちゃんの妹のヨッちゃんが襖の隙間からじっとこっちを見ていた。
「どっか行くの」
瞬間、僕はこの子も連れて行ったらどうかなと考えた。でもすぐにそれを振り払う。冒険に女は連れて行けない。なにが待っているのか分からないのだから。
「郵便局に行くだけ」と言うと「ふうん」とつまらなそうにどこかへ行ってしまった。
ようし。邪魔者も追い払った。僕は意気揚々と家を出る。
太陽の照りつける畦道を北へ北へと向かうと、こんもりとした山の緑がだんだんと近づいてくる。
昔、入山料を取っていたというころの名残である木箱が朽ち果てている所が入り口。峰を登らずに、山の麓に沿って道が通っている。
ザクザクと土を踏みしめて前へ前へ進むと、だんだんと木の影で頭上が薄暗くなってくる。
念のために持ってきた方位磁針をリュックサックから取り出して右手に持ったまま休まずに足を動かす。
時どき山鳩の声が響いて、バサバサと葉っぱが揺れる音がする。それから蝉の声。それも怖くなるほどの大合唱だ。
チラリと見上げると葉の隙間からキラキラと光の筋が零れている。
ずっと上を向いて音の洪水の中にいると、ここがどこなのか分からなくなってくる。

なんだか危険な感じ。慌てて前を向いて歩き出す。
途中、山に登る横道がいくつかあったけれどなんとか迷わずに鎮守の森の神社までたどり着けた。
一応お参りしておくことにする。木に囲まれた参道を進み、小さな鳥居をくぐる。古ぼけた建物がひっそりと佇んでいるその前に立ち、お賽銭箱にチリンと百円玉を投げ込む。やっぱり良い音だ。
神社の中には人の気配はない。誰か通ってきて手入れをしたりしているのだろうか。
くるりと回れ右をして元きた参道をたどる。途中で小さな池があるのに気づいて横道に逸れた。鳥居の横あたりだ。
水面ではアメンボがすいすいと泳いでいるけれど、水の中は濁っていてよく見えない。
雨が降らないあいだはきっと干上がるんだろうなと思いながら顔を上げ、参道に戻る。
サクサクという土の音を聞きながら歩いていると、なにか大事なものを忘れた気がして振り向いた。
そこには鳥居があるだけだったけれど、そう言えば帰りに鳥居をくぐってないなと思い出す。
まあいいやと思って先へ行くと、だんだんと変な、ぐるぐるした感じが頭の隅にわいてきて、それがどんどん大きくなってきた。
なんだろう。気分が悪い。景色が妙に色あせて見える。
僕はキョロキョロとあたりを見回したい気持ちを抑えて光と影が交互にやってくる参道を早足で抜けた。
どうしよう。戻ろうか。
そう考えたけれど、また逃げ帰るのはシャクに触る。どっかから勇気がわいてこないかと待っていると、お賽銭箱に百円玉を入れたチリンという音が耳に蘇ってきた。
ようし、百円だからな。前は十円。今日は百円だ。
そんな感じで無理やり勇気を引っ張り出して、帰り道の反対方向へ足を向けた。ザンザンと土を踏んで歩く。

蝉の声は相変わらずやかましくて、あたりは薄暗くて、どこまでも同じように曲がりくねった道が続いている。
道の先には誰の足跡もない。時どき振り返るけれど地面には僕の足跡がついているだけ。
カーブのたびに誰か僕じゃない人の姿が木の影に隠れたような気がするけれど、きっとサッカクなのだろう。
だんだん道は狭くなり、倒れた木がそのまま放っておかれてキノコなんか生えちゃってるのを見るとやっぱりこの先はただの行き止まりじゃないかと考えてしまう。
リュックサックにつめた保存食料、まあそれはクッキーやリンゴだったのだけれど、そういうものが役に立つようなことがないように祈りながら、方位磁針を見たり、振り返ったり、チリンという音を思い出したりして僕は歩き続けた。
やがて一際暗い木のアーチがまるでトンネルの幽霊のように現れ、僕は少しだけ足踏みをしてからその奥に吸い込まれて行く。
なんという名前の木だろう。分厚い葉っぱが頭の上を覆い尽くして、光がほとんど漏れてこない。
時どき暗がりから白い手がスイスイと揺れているのが見えた気がして身体が硬くなる。
足元を見ると僕の足は確かに今までと同じ土を踏んでいて、その上に立っている限りは大丈夫だと自分に言い聞かせながらほとんど走るようなスピードでそのトンネルを抜けた。
ぱあっ、と目の前が明るくなる。
白い雲がぽつんと空に浮かんでいる。その下には緑の眩しい畦道が伸びている。畑がある。山の上にはいくつか家が見える。ツバメが飛んでいる。蛙が鳴いている。
僕は、はぁっ、と息を吐き出して、それから吸い込む。
なんだ、別の集落に通じているじゃないか。シゲちゃんめ。嘘こきやがって。そう思って、自然に軽くなる足を振り上げ、畦を進む。でも良く考えると、途中の森の中になにもなかったのは確かだ。
ううむ。嘘つきだと言ってやっても、へこませられるか自信がないな。
ふと思いついて、振り返るとさっき抜けた森の入り口がぽっかりと暗い口を開けている。

帰る時にまたあそこを通るのかと思うと少し嫌な気分になったけれど、ひょっとするとほかに道があるかも知れないと考えて、とりあえず誰かこのあたりの人を探すことにした。
ひまわりが咲いている道をキョロキョロしながら歩いていると、そこは山に囲まれた案外小さな集落だと気づく。
段々畑が山の斜面に並んでいて、埋もれるように家がぽつんぽつんとある。
道には太陽が降り注ぐばかりで、ほかに歩く人の影も見えない。
僕は勾配のなだらかな坂道を登って大きな屋根が見えている場所へ向かった。
汗を拭いながら登りきると、そこには広い庭と木造二階建ての古そうな家があった。
とても大きい。庭も、庭というより広場みたいな感じ。隅っこの方に鉄棒と砂場が見える。
あれ? なんだか学校みたいだな、と思ったけれど学校にしては小さすぎる。少なくとも僕の知っているものよりは。
その時、二階の窓に誰かいるのに気がついた。
風が吹いて、僕の髪が揺れるのと同時にその人の髪も揺れた。黒くて長い髪。白い服。女の人だ。
窓際に頬杖をついて、ぼうっと広場の隅を見ている。
なんだか胸がドキドキした。僕は広場の真ん中にり突っ立ってその人を見上げていた。
でもいつまで経ってもその人はこっちに気づく気配はなかった。僕は方位磁針をポケットに仕舞ってから、あのぅ、と言った。
あんまり声が小さかったので、すぐに「すみません」と言い直した。それでもその人は気づいてくれず、ぼうっとしたまま外を見ていた。なんだか恥ずかしくなってきて帰りたくなったけれど、もう一回声を張り上げた。
「すみませぇん」
次の瞬間なにかかが弾けたような感じがした。その人がこっちを見た。わ、どうしよう。確かに、ぱちんという感じに世界が弾けたのだ。
その人は最初驚いたような顔をして、次にぼうっとしていた時間が去ったのを惜しむような哀しい顔をして、それから最後ににっこりと笑うと「こんにちは」と言った。

僕にだ。僕に。
「どうしたの」
その人は窓から少し乗り出して右手を口元に添える。
「ここはどこですか」と僕はつまらないことを聞いてしまった。
なにかもっと気の利いたことが言えたら良かったのに。
「ここはね、学校なの」
「え?」
「がっ・こ・う。ね、上ってこない? すぐそこが玄関。下駄箱にスリッパがあるから履いてらっしゃい」
「は、はい」
と僕は慌ててその建物の玄関に向かった。開け放しの扉の向こうに、埃っぽい下駄箱と板敷きの廊下があった。
電気なんかついていなかったけれど、ガラス窓から明るい陽射しが差し込んできて中の様子がよく見えた。
左右に伸びる廊下には「一、二年生」や「三、四年生」と書いてある白い板が壁から出っ張っていて、その向こうは小さな教室があるみたいだった。
玄関の向かいにはすぐに階段があって、僕は恐る恐る足を踏み出す。
なにしろ片足を乗っけただけでギシギシいう古ぼけた木の階段なのだ。狭い踊り場の壁には画鋲の跡と、絵かなにかの切れ端がくっついていた。
二階に着くと一階と同じような板敷きの廊下が伸びていて、その左手側の教室からさっきの女の人が手を振っていた。
「いらっしゃい」
僕はなんて返事していいか困った挙句、「どうも」と言った。その人はくすりと笑うと、「ここはね、むかしは小学校だったの。今はもうやってないけど。子どもが減ったのね」と、僕を教室の中に誘った。白い板には「六年生」と書いてあった。
小さな教室には机が五つあった。それが最後の卒業生の数だったのかも知れない。
僕はたくさんの机がぎゅうぎゅうに詰まっている自分の学校の教室を思い浮かべて、なんだか目の前のそれがおもちゃのように見えて仕方がなかった。

その人は机に手を触れながら、明るい表情で言う。
「もともとこの土地は私の家のものだったから、廃校になったあと返してもらったのよ。ボロの校舎付きでね。
壊してもいいんだけど、今は家に私と母がいるだけだからおうちなんて小さくてもいいもの。
ほら、校舎のすぐ横に平屋があったでしょ。あそこに住んでるのよ」
そう言われればあった気がする。
「今は夏休みでしょう。私、夏休みのあいだこのあたりの子どもたちにここで勉強を教えてあげてるの」
「勉強?」
「うん。私、隣の町で小学校の先生をしてるの。臨時雇いだけど。私も夏休みだから、することがなくって。暇つぶしもかねてね。
だからこの夏休み学校ではお月謝はもらってないの。ただし午前中だけね。学校の宿題は教えてあげない。
普段は決められた時間に決められた科目を勉強してる子たちを、夏のあいだだけでもその子の好きな科目、興味がある科目を少しでも伸ばしてあげられたらなぁって」
指が机の木目を撫でる。
「でもみんな今日はお休みなのよ」
そう言って顔が少し曇った。
「風邪が流行っているみたい」
そして窓の外に目を移す。僕も釣られてそちらを向く。
「あなた、何年生? どこの子? 言葉が違うね」
「え、あ」
僕はちょっとどもってから、自分が六年生であること、そして遠くからきて親戚の家に滞在していることを説明した。
それから家の名前を言う。けれど、言ってからその近所はみんな同じ苗字ばかりだったことを思い出して、「おっきなイブキの木が庭にある家です」と付け加えた。
するとその人は「ああ、シゲちゃんのところね」と頷くのだった。
僕はなんだかわからないけど悔しくなり、口を尖がらせた。
そしてあの鎮守の森の先にはなにもないと言ったシゲちゃんの言葉は、やっぱりわざとついた嘘だったんだと思った。

なぜって、その人は目が大きくて、すらっとしていて、少し大人で、それから花柄の白いワンピースが似合う、ちょっと秘密にしたくなるような綺麗な人だったからだ。
「この教室が一番ちゃんとした形で残ってるから、いつもここで教えてるのよ。
探検にきて迷ったんでしょ。勉強していきなさいよ。ね、誰もこなくて、私も退屈してたから」
そうしてその人は僕の先生になった。
教室に机は五つ。一つは先生が座る席。さっきみたいに窓際で頬杖をつくための席だ。そして残りが夏休み学校の生徒の数だった。
先生はわざわざほかの教室から僕のための机と椅子を運んできてくれた。
五人目の生徒ね、と言って笑った後、この学校の最後の卒業生の席がそのまま残っているのかと思ったことを話す僕に、ゆっくりと首を振った。
「最後の卒業生は二人だった。一人は私。卒業するのは寂しくて悲しかったけど、中学生になることは嬉しかったし、それから学校がなくなってしまうことが悲しかったな。
マイナス1プラス1マイナス1で、やっぱり悲しい方が大きかった気がする。もう十年以上経つのね」
先生が目を少し細めると瞳の中の光の加減が変わって、ちょっぴり大人っぽく見えた。
「さあ、なにを勉強しましょうか。なにが好き?」
僕は考えた。
「算数が嫌い」
先生は僕の冗談に笑いもしないで「うん、それから?」と言った。
「社会と国語と理科と家庭科と図工と音楽が嫌い」
僕が並べた一つ一つに頷いたあと、先生は「よし、じゃあぴったりのがあるわ」と黒板に向かった。
小さくてかわいい黒板だ。チョークを一つ摘んで、キュッと線を引く。
『世界四大文明』
そんな文字が並んだ。

先生の字はカッコ良かった。今までのどんな先生よりもカッコいい字だった。
だから、その世界四大文明という言葉も、凄くカッコいいものに思えてなんだかワクワクしたのだった。
「世界史って言ってね、あなたが学校で習うのはまだ先だけど、算数も国語も社会も理科も嫌いなら勉強自体が嫌いになっちゃうじゃない。
勉強することなんてまだまだ他にたくさんあるんだから、自分が好きになれるものを見つけるのもきっと大事なことだと思う。ノートも取らなくていから、気楽に聞いてね」
そうして先生は僕に世界史の授業をしてくれた。
はじめて体験する授業はとても面白く、先生の口から語られる遥か遠い昔の世界を、僕は頭の中にキラキラと思い描いていた。
やがて先生はチョークを置き「今日はここまで」と、こちらを向いた。
エジプトのファラオが自分のピラミッドが出来ていくのを眺めている姿が遠のき、僕は廃校になったはずの小学校の教室で今日出会ったばかりの先生と二人でいることを思い出す。

「どう、面白そうでしょう」と聞かれたので、うんうんと頷く。
先生はにっこりと笑うと、「よかった。実は私、大学で史学科専攻だったの。準備なしだから、算数以外だとこれしか出来なかったんだな」と言ってペロリと舌を出した。
その仕草がとても可愛らしくて、僕はショックを受けた。つまりまいってしまったのだ。
「もうお昼ね。今日はおしまい。明日はもっと早くきなさい」
だからそんな先生の言葉にもあっさりと頷いてしまうのだった。
なんだかふわふわしながら校舎をあとにして、広場ならぬ校庭で振り向いた僕を二階の教室の窓から先生が手を振って見送ってくれた。
ぶんぶんと僕も負けないくらい手を振ったあと、明日も絶対くるぞと心に誓って帰路についた。
やっぱり帰るにはあの鎮守の森を抜けなくてはならないと聞かされた時はゲッ、と思ったけれど今日あったことを思い返しながら足を無意識に動かしていると気がつくと森を抜けていた。

くる時はあんなに薄暗くて怖い感じがしたのに、今度はやけにあっさりと通り抜けてしまったものだ。
そのあと僕はイブキの木のある家に帰って、ばあちゃんが作ってくれたそうめんを食べ、放り投げていた宿題を少しやってから昼寝をして、ヨッちゃんとその友だちに混ざって缶蹴りなどをしていると一日が終わった。
その夜、シゲちゃんがいない家はやけに静かで、電気を消してから僕は蚊帳越しに天井の木目を見上げて、今日出会った先生とあの小さな学校のことを考えた。
今朝、勉強なんか嫌いで外に飛び出したのに、今は早くあの学校に行きたくて仕方がなかった。なんだか不思議だった。

次の日の朝、朝ごはんを食べるとすぐに僕は家を出た。
ヨッちゃんにやっぱり「どこ行くの」と聞かれたが、「どっか」とだけ応えて振り切った。
今日はリュックサックはなし。保存食がいるような大冒険ではないと分かったからだ。
昨日と同じように鎮守の森に入り、薄暗い木のアーチを潜ったけれど今日はそんなに怖くなかった。
誰もいない畦道を抜け、坂道を登ると学校が見えてくる。
その二階の窓辺に先生がいる。頬杖をついてぼうっと外を見ている。僕は手を振る。今度はすぐに気づいてくれた。
「いらっしゃい」「いま行きます」そうして教室に入る。
今日もほかの子どもたちはこないみたいだ。
手持ち無沙汰だった先生は嬉しそうに僕を迎えて、「昨日の続きからね」とチョークを握った。
シュリーマンがトロヤ遺跡を発掘した話から始まって、エーゲ海に栄えたミケーネ文明が滅びた後、鉄器文化の時代に入るとギリシアではたくさんのポリスという都市国家が生まれた、ということを学んだ。
その中からアテネやスパルタといった有力なポリスが現れて、東の大帝国アケメネス朝ペルシアの侵攻に対抗したのがペルシア戦争。ペルシアを撃退したあとに各ポリスが集まって結成したのがデロス同盟。

その盟主アテネと、別の同盟を作ったスパルタが戦ったのがペロポネソス戦争。
衆愚政治に陥って弱体化したアテネやスパルタに代わって台頭してきたテーベ……
「テーベ」
先生のチョークがそこで止まる。教壇に立つ背中が硬くなったのが分かった。
どうしたんだろうと思う僕の前で先生はハッと我に返るとすぐに黒板消しを手にとって、「テーベ」を「テーバイ」に書き直した。
何ごともなかったかのように先生は、その後テーバイはアテネと連合して北方からの侵略者マケドニアと戦ったけれど破れてしまい、時代はポリスを中心とした都市国家社会からマケドニアのアレクサンドロス大王による巨大な専制国家社会へと移って行った、と続けた。
その書き直しの意味はその時には分からなかった。ただ先生の背中がその一瞬、重く沈んだような気がしたのは確かだった。
ヘレニズム文化の説明まで終わって、ようやく先生は手を止めた。
「疲れたね。ずっと同じ科目ばかりっていうのも飽きちゃうから、今度はこんなのをやってみない?」
そう言って渡されたのが算数の問題が書かれた紙。ゲッと思ったが、よく見ると案外簡単そう。
「どこまで進んでるのか分からないから。少し難しいかも」
そんなことはないですぜ。とばかりにスパッと解いてやると先生は「凄い凄い」と手を叩いて、「じゃあ、これは」と次の紙を出してきた。
余裕余裕。え? さらに次もあるの? 今度は正直ちょっと難しいけど、なんとか分かる気がする。僕は鉛筆を握り締めた。
そうしていつのまにか世界史の授業は算数の授業に変わり、たっぷりと問題を解かされたところでお昼になった。
「また明日ね」
帰り道、結局「嫌い」だと明言したはずの算数をいつのまにかやらされていたことに首を捻りながら歩いた。
算数の問題はプリントじゃなく手書きで、それを解いているとなんだか先生と会話しているような変な気になる。
それほど嫌じゃなかった。また明日行こうと思った。

そうして、僕と先生の夏休み学校が続いた。
朝は世界史の講義。次に算数。それからいつのまにやら漢字の書き取りが加わっていた。
ほかの子は誰も夏休み学校にこなかった。
「悪い風邪が流行ってるから、あなたも気をつけてね」と言われ、僕は力強く頷く。
世界史の勉強は面白く、走りばしりではあったけれど歴史の魅力を十分僕に伝えてくれた。
算数や漢字の書き取りの時間はあんまり楽しくはなかったけれど、出来てその紙を先生に見せる時のあの誇らしいような照れくさいような感じはキライじゃなかった。
僕が問題を解いているあいだ、先生は窓辺の席に腰掛けて折り紙を作っていた。
それは小さい折鶴で、ある程度数がまとまってから先生は糸を通した鶴たちを窓にかけた。
「みんな早く風邪が直ればいいのにね」
そしてまた次の鶴を折るのだった。
僕は不謹慎にも、風邪なんか治らなくていいよと心の底では思っていた。
先生との二人だけの時間をもっと過ごしたかった。
でも、僕が机の上の問題にかかりっきりになっているあいだ窓辺に座る先生の横顔は寂しそうで、その瞳が窓の外をぼうっと見るたびになんだか僕は切なくなるのだった。
「言葉が違うね」と僕に言った先生自身も、その言葉には訛りがほとんどなかった。
高校に入る時東京に出て、大学も東京の大学に受かってずっと向こうで暮らしていたらしい。
それが東京で就職も決まっていたのに、実家のお母さんが倒れたというのですべてを投げ打って帰ってきたんだそうだ。
その話をしてくれた時、先生の瞳の光は曇っていた。
「私の家は母子家庭でね、お母さん一人を残して出て行っちゃった時、やっとこんな田舎から離れられるって、それしか考えてなかった。
なんにも言わずに仕送りをしてくれてたお母さんがどんな思いでこの田舎で働いていたか、全然考えてなかった」
だから今は臨時教員などをしながら、家で母親の看護をしているのだそうだ。

僕はお邪魔したことはないけれど、校舎の隣の小さな家に二人で暮らしているらしい。
先生にはなにかやりたいことがあったんだろうと思う。それを捨てて、今はこうして田舎で子どもたちを教えている。
小さなオンボロの学校で。手作りの問題集で。
お昼になって、僕が帰る時先生はいつも二階の窓から身を乗り出して手を振った。「明日もきてね」と。
僕はいつか夏が終わるなんて考えていなかったのかも知れない。
蝉の声が耳にいつまでも残っていて、晴天の下をポッコポッコと歩いて、通る人の影もない道を毎日毎日わくわくしながら通い続けた。
林間学校からシゲちゃんが帰ってきても、午前中だけは彼らの遊びの誘いに乗らなかった。
「そろそろ宿題やんないとヤバイ。うちの学校ごっそり出るんだ」と言うと、「大変だな」と頷いてシゲちゃんはそれ以上無理に誘ってこなかった。このあたりにも親分としての器量が伺える。
ただ、朝から外に飛び出して行くシゲちゃんがいきなり帰ってくることはまずなかったけど、念のために「あ、でも気分転換に散歩くらいするかも」と予防線を張っておくことも怠らなかった。
僕はなんとなく鎮守の森を越えて行く夏休み学校のことを、ほかの人に知られたくなかった。
特にシゲちゃんに知られてしまうと、先生と二人だけの時間をぶち壊しにされてしまいそうで。
先生もシゲちゃんのことを知ってたし、シゲちゃんが鎮守の森の先を「なんにもないよ」と嘘をついたことがずっと気になっていたのだった。
朝から遊びに行くシゲちゃんを見送ってからこっそりと家を抜け出すのだけれど、午後からはきっちりシゲちゃんたちと遊びまわったし、特に怪しまれることはなかったと思う。
問題は妹のヨッちゃんだ。毎朝「どこ行くの」と聞いてくる。
そのたびに「散歩」とか適当なことを言って追い払うのけれど、家から抜け出すたびに尾行されていないか途中で何度も振り返らなくてはならなかった。

世界史の講義はローマ帝国の興亡からイスラム世界の発展へと移り、先生の作る折り鶴もだんだんと増えて教室の窓に鈴なりになっていった。
休憩の時間には僕も習いながら鶴を折った。僕はコツを教えてもらってもヘタクソで、変な鶴ができた。
全体的に歪んでいて、あんまり不格好で悔しいので、せめてもの格好付けに羽の先をくいっと立てるように折った。戦闘機みたいに。
先生はにこにこと笑いながらその鶴も飾ってくれた。
朝から雨がぽつぽつと降り始めていたのに、鎮守の森を抜けるとカラッと晴れていたことがあって、先生は僕のその話を聞いたあと「山だからね」と頷いてから「でもあの森って不思議なことがよくあるのよ。私も子どものころに……」と怪談じみた話をしてくれたりした。
先生の白い服の短い袖から覗く腕は細くて頼りない。トカイもんの手だ。
先生は僕の知っている先生と比べても若すぎて、まるで近所のお姉ちゃんみたいだった。
でもそんなお姉ちゃんの口からマルクス・アウレリウス・アントニヌスだとかハールーン・アッラシードなんて名前がパシパシと出てきて、それが変にカッコよかったのだった。

そして、その日がやってきた。

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