師匠シリーズ 第114話 心霊写真5

師匠シリーズ 第110話 心霊写真1

市内に戻って来ると、もう夕方の五時を過ぎていた。陽も翳ってきている。
「二手に分かれよう」
師匠はそう言って、街なかで僕を車から下ろした。
「わたしはちょっと調べることがあるから、先に家に帰ってる。お前は図書館で資料を借りて来てくれ。あと、スーパーに寄ってなにか買って来い。飯作ってやるから。おにぎりとパンしか食ってないから、腹が減ってかなわん」
「事務所じゃなくて、家の方ですね」
資料って、なにを借りて来たらいいのかと訊くと、角南家のことが分かる郷土史の類を借りられるだけ借りて来い、と言われた。それから、もしあれば『消えた大逆事件』のことが出ている本も。
頷いたが、僕は気がかりだった。もうタイムリミットまであまり時間がない。これ以上なにを調べる気なのかが分からない。
ひょっとして、師匠はお荷物の僕を捨てて、一人でなにかをしようとしているのではないか。そのことを心配したのだ。
「一人で松浦と会ったりしないで下さいよ」
いくら師匠でも女性なのだ。ヤクザと一人で対面するなんて、危なすぎる。
「分かってる、分かってる」
師匠はうるさそうに手を振ると、僕を捨て置いてさっさと車を出発させた。
雑踏に残された僕は、仕方がないので図書館まで歩いて行き、郷土史のコーナーに陣取って角南家の名前が出てくる本を片っ端から借りて行った。
消えた大逆事件に関する書籍は、マイナー過ぎたのか、あるいは胡散臭い本という扱いのためなのか分からないが、とにかく図書館には置いていないようだった。
図書館を出ると、近くのスーパーに寄る。師匠は魚が好きなので、魚を適当に見繕って、あとビールを数本買い込んだ。
荷物が増えたので、少し気だるい思いをしながら師匠の家の方へえっちらおっちら一人で歩いて向かっていると、急に誰かに肩 を叩かれた。
まだ市街地だったが、一本裏の道を通っていたので、あまり人影もないような通りだった。
振り向くと、茶髪で派手な服装をした男がにっこりと笑って立っている。その口に、前歯が一本欠けているのが見えた。
「よう」
気さくにそう声を掛けられた瞬間、うなじの毛が逆立つような危機感が背骨に沿って脳天まで走り抜けた。
ズシリ。

男の顔が僕の顔のそばまで近づき、その下では右の拳が僕の腹にめり込んでいた。一瞬、吐瀉物が喉を逆流する、焼けるような感触があった。
身を守ろうと、図書館で借りた袋とスーパーのビニール袋を路上に落として両手で男を押しのけるような動作を取る。しかし茶髪の男はするりと僕の手をかわすと、さらに近づいて腹の同じ場所を殴った。
それも寸分たがわずだ。今日夏雄に殴られたばかりの場所だった。いや、少し外れている。昨日殴られた場所だ。この、同じ茶髪の男に。
僕はたまらず、身を折って吐いた。鼻に沁みるような痛さがある。茶髪は、抵抗力を失った僕を引きずるようにして、近くにあった雑居ビルの一階のドアを開けて、中に入った。
空き店舗なのか、片付けられたなにもない殺風景な部屋に、ダンボール箱がいくつか転がっている。その中で唯一、二段に積まれているダンボール箱に、僕は思い切り叩きつけられた。
背中に、硬い物が衝突する。缶詰かなにかが箱の中にギッシリと入っているらしい。
二段重ねのダンボールは崩れ、僕はその上に倒れ込む。起き上がろうとした時、蹴りが来た。
胸の辺りに当たる。体重を乗せた横蹴りだったので、また吹き飛ばされる。仰向けに倒れた僕の上に、茶髪が跨るようにして仁王立ちする。
「写真、出せよ」
見下ろしながら、ヘラヘラと笑う。
返答をする間もなく、顔を斜めから蹴られる。いや、それはほとんど踏みつけに近かった。頬に走る、皮膚と骨がずれるような痛み。
次の蹴りが来る前に、顔を庇おうと両手を持って行きかけて、しかし咄嗟の判断で茶髪の足を払った。
ぐらりとバランスを崩したところへ、頭突きをするように強引に立ち上がる。全身で敵を押し込み、その反動を使ってすぐに身体を離す。
一瞬、間が出来たので状況を確認すると、空き部屋の中には自分と茶髪の男の二人しかいないことはすぐに分かる。次いで武器になりそうなものを探すが、本当にダンボール箱くらいしか見当たらなかった。
こいつは、喧嘩のプロだ。
二人きりで対峙して初めて、皮膚感覚でそれを悟る。
「写真て、なんの、ことだ」
息を整えながらようやくそう言ったが、茶髪は歯の欠けた間抜け面でニヤケたまま馬鹿にしたように首を上下に振った。

唯一の出入り口は、入ってきたドアだけ。それは茶髪の背後にあった。逃げられない。
そう悟った僕は、思い切り体当たりをしようと突進を敢行する。しかし、そのスピードが乗り切る前に間合いを詰められ、鼻先にパンチを喰らった。それも、一発の後、二発、三発と立て続けに。
ジャブだ。左肩を前に出しながら、腰を入れずに左の拳を突き出して来る。早い。とても避けられない。
この男は、ボクサー崩れなのか。
痛みに思わず目をつぶるやいなや、腹にまた鉛のような重いパンチを叩き込まれた。今度は右の拳だった。
「ぶえ」
無様な声が出て、吐瀉物がまた口からこぼれる。
茶髪は、身を屈めた僕の髪の毛を掴み、まるで吊り下げるように腕を持ち上げながら顔を近づけて言った。
「変態ども御用達の写真屋の次は、写真供養の寺か。分かりやすいなあ、お前ら。あのデブに訊いたぜ。お前らがコピーじゃなく、オリジナルの方を持ってるってことはな」
それを聞いて愕然とする。
すべてばれてる。なぜだ。まさか、尾行されていたと言うのか。この男に?
「やっぱり田村の野郎とつるんでやがったのか。いや、違うな。俺たちが見失っている田村が、わざわざお前らに写真を預けるわけがない。
そんな危険を冒すわけが…… どうせ押し付けられたんだろう。逃げている間に。事務所に押しかけて来たって時だ」
茶髪はもう一発腹にパンチを入れて来た。息が出来なくなる。下げかけた頭を、無理やり髪の毛を掴まれて起こされる。
「おいおい、なんだっつの。その目はよお。探偵の事務所で俺を睨んでた威勢の良さはどこ行った」
そう言った瞬間、男のニヤついていた顔の表情が、筋肉ごと作り変えられたように変貌し、元から細い目がこちらの心中を見透かすかのごとく、冷笑をたたえていた。
「人を見かけで判断してはいけないと、教わらなかったか」
茶髪は唇をあまり動かさず、静かにそう言った。松浦に感じたのと同質の寒気が、僕の身体を襲った。
チャッ、という音がして、空いていた左手にいつの間にかナイフが握られていた。

「今写真を持っているのは、あの女の方か。惜しかったな。まあいい、お前を囮にして呼び出すとしよう」
脇腹に、刃物の切っ先が突きつけられる。少し。ほんの少し、先端が皮膚を突く程度に。ナイフを奪おうと動いた瞬間に、それは僕の内臓に深く突き刺さる。そのことがリアルに想像できる。
頭の奥がジーンとして、とても空気が苦い。
「来い」
茶髪は僕を無理やり立たせる。
その立ち上がる動きの間、僕の脇腹に当てられたナイフと、その先端の当たっている皮膚との位置関係に全く変化がなく、滑らかに水平移動していたことに気づいた瞬間、抵抗する気力が失しなわれていった。
この男はナイフの扱いに長けている。街なかでチンケなゴロを巻くチンピラなんかとは一線を画す、プロなのだ。
男が背後から僕の脇腹にナイフを突きつけたまま、空き店舗のドアから出て行く。指示されるままに雑居ビルの奥へ進むと、エレベーターがあった。そのそばに緑色の公衆電話が据えられている。
「あの女のところに掛けろ」
そう口にしたタイミングでナイフの先端が初めて前に進み、脇腹にブツリと痛みが走る。ほとんど思考停止状態で、僕は受話器のフックを上げた。やけに重い。硬貨は男が入れた。
プッシュ式の番号を押しながら、わずかに残った理性が、別の誰かのところへ掛けるべきではないかと囁く。
誰だ。誰のところへ。
しかし、そのわずかな僕の躊躇いを見透かしたように、茶髪が背後から手を伸ばして来て、残りの番号を押してしまった。
師匠の家の電話番号だ。なぜこの男が知っている?
頭が痺れる。『写真屋』が教えたのか。それとも小川調査事務所を家捜ししていた時に、どこかで番号を見たのか。きっと後者だろう。その程度のことは抜け目なくやっていそうな気がした。
耳の奥で、呼び出し音が鳴る。もはや止めようがない。
電話が繋がる。一瞬の間の後、僕は茶髪に指示された通りの言葉を一方的に喋った。
田村の隠れ家を見つけたこと。その場所。可及的速やかに来て欲しいということ。

その場所とは、もちろんこのビルの一階の最初のドアの向こうだ。僕の声は普通ではなかったはずだった。しかしその震えも、田村を見つけてしまったのならば不自然ではない。
茶髪がフックを叩いた。なにか他のことを言う前に電話を切られてしまった。
「ご苦労」
そうしてまた僕は空き店舗へ戻された。茶髪はポケットから細いロープを取り出して、部屋の隅の壁から出ていたパイプのようなものに僕を後ろ手にして縛り付けた。
ロープは細いが、金属製の綱が織り込んであってとても千切れそうにはなかった。
茶髪はようやく僕から離れ、一度ドアの外に出た後、本の入った袋とスーパーの袋を提げて戻って来た。僕が路上に落としたものだ。そのまましておくと目立つので回収して来たらしい。
袋を地面に置き、ダンボール箱の上に腰掛けて煙草を吸い始めた。その横顔にはニヤニヤとした頬の弛緩など跡形もなかった。横目で僕を油断なく監視しながら、時おり天井に向けて煙を吐いていた。
「僕たちは、松浦さんの依頼を受けて動いていたんだ」
自分でも驚くような弱々しい声だった。
「知ってるさ。心霊写真だって?」
ククク、と茶髪は冷たく笑った。僕はそこに、ヤクザという徹底した上下関係の世界にあるはずの畏敬の欠片もないことに気づく。
チンピラ上がりから抜け出せず、ただわめき散らすだけの頭の足りない男……
松浦や他の若い衆と一緒にいた時のその印象が、ただ必要に応じて演じていただけの役割であったということが今はっきりと分かった。
男は、兄貴分の松浦など内心では認めていない。己の力、欲望をひたすら隠し、静かに牙を研いでいる。そんなイメージがひしひしと伝わって来るのだった。
こいつは、一人で動いている。
独断専行で、つまり松浦に抜け駆けをして写真を手に入れ、一体なにをしようと言うのか。誰にも気づかれずに研ぎ上がった牙を、使う時が来たとでも言うのだろうか。
ふと気づいたように茶髪は僕に近寄り、ガムテープを口に貼りつけた。ポケットに入れていた板切れのようなものに少量を巻きつけてあるのが見えた。驚くような用意周到さだ。
一本だけ欠けた前歯。離れていく時、そこに目が吸い寄せられた。
わざと抜いているのかも知れない。
ふとそう思った時、僕はただの人間を恐ろしいと思う感覚を味わった。とても嫌なものだった。

ふいに茶髪は煙草を踏みつけ、腰を上げる。ドアの上部はすりガラスになっていて、その向こうに人影らしきものが現れている。
茶髪の左手にナイフが握られ、慎重に歩を進めていく。僕は動くことも、声を上げることもできない。
茶髪が、ドアの前に立った瞬間だった。
凄い音が耳に飛び込んで来た。
すりガラスが砕け散り、ドアの外から突き出された長い腕が、茶髪の顔面を捉えていた。後ろに吹き飛ぼうかという勢いが、ガクンという不自然な動きに止められる。
腕はそのままさらに伸ばされ、茶髪の胸倉を掴んでいた。そして間髪入れず、力任せにドアの方へ茶髪は身体ごと引っ張られる。
ガシャン、という音がして残ったすりガラスが割れる。ドアに引き寄せられて上半身を叩きつけられた茶髪は、獣のようなうめき声を上げた。
ドアが蹴破られ、茶髪は今度こそ吹き飛ばされる。
耳が片方折れた兎が、身を屈めるようにしてドアをくぐって入って来た。正しくは、首から上に兎の頭の着ぐるみを被っている男だった。兎はにこやかに笑っている。しかし不気味に目は見開かれ、記号的で空疎な笑いだった。
兎は拘束されている僕の方に一瞥をくれると、起き上がろうとした茶髪に駆け寄って右手を突き出す。茶髪は不十分な体勢のままそれをかわし、後方にステップして距離を取る。
怒鳴ったり、脅し文句を吐いたり、という無駄なことはしなかった。
ただ、「誰だ」とだけ短く言って、拳を構えた。その直前、瞬時に、茶髪は兎と、部屋の隅に転がったナイフを見比べている。拾う隙はないと判断したのか。
兎は無造作に近づいていく。耳を除いてもかなり背が高い。それほどタッパのない茶髪との体格差は相当あった。自然、茶髪は兎を見上げる形になる。
茶髪の足が動いた。リーチの不利を消すために懐へ飛び込もうとしたのだ。しかし、次の瞬間、その出足を兎の右足が止めていた。
ローキックだ。
ドシンという肉が叩かれる鈍い音がして、茶髪の身体が膝の辺りから前のめりに沈んだ。
ついで、左のストレートが茶髪の右頬を捉える。その手が髪の毛を掴み、兎の額の部分が茶髪の鼻柱に叩きつけられる。振り下ろすような頭突きだった。
着ぐるみの柔らかい材質のせいか、ゴスンという控えめな音がした。
そして離れ際、兎の右のパンチがフック気味にボディへと吸い込まれる。

茶髪は苦悶の表情を浮かべて身体をくの字に折った。そのままうずくまり、動かなくなった。
兎はそれを見下ろした後、僕に近づいて後ろ手にパイプと結んであったロープを解いた。
「逃げるぞ」と、うずくまる茶髪をそのままにして、兎は部屋から出ようとする。僕は口に貼られたガムテープを自分で剥がしながら、図書館で借りた本の袋とスーパーの袋を手に取って後を追う。
「ドアの前に立ってたのが僕だったらどうするつもりだったんですか」
「…………」
兎は答えず、雑居ビルから脱出した。
茶髪に強制されて師匠の家に電話を掛けた時、夏雄がなぜ出たのか。さっぱり分からなかった。
夏雄は寺に残り、僕らは市内へ帰ってきたばかりなのだ。しかし困惑しながらも、ただ与えられた言葉を吐くしかなかった。そしてそのことが、僕の置かれた状況が危機的であるということを伝えるすべとなった。
電話に出たのが夏雄だと分かっていながら、なお相手を師匠として語り続けたからだ。
それが得体の知れない雑居ビルへの呼び出しであり、この件にヤクザが絡んでいることと合わせて考えると、あの暴力馬鹿ならずとも状況はある程度読めたはずだった。
まさか兎がやって来るとは思わなかったが。
脇道の角を曲がると、道端に黒い車が止まっていた。夏雄のスープラだ。
「あの、」
なにか言おうとして、僕は突然眩暈に襲われた。力が抜けて吐き気が胃の奥から湧いてくる。道の端に身を折って、少し吐く。体中が痛い。殴られたり蹴られたりした場所が熱を持って存在を主張している。
座り込んでしまいたい衝動に駈られていると、兎が僕を小脇に抱えるようにして力ずくでスープラまで連れて行き、後部座席に放り込んだ。
煙草の匂いが染み付いているシートに顔から突っ込み、身体を起こす元気もないまま呻く。
兎が運転席に乗り込み、その着ぐるみを脱いだ。
夏雄が前髪から汗を滴らせながら、ダッシュボードのボックスティッシュをこちらに投げて来た。僕はそれで吐瀉物のついた口元を拭く。
血がついているのに気づいて、顔を触ると、頬の皮膚が少し裂けていた。踏みつけられた時の傷だ。鼻血も出ている。

夏雄は行き先も告げずにスープラを発車させた。
「加奈子さんは」
もう一枚ティッシュを抜きながらそう訊く。
「家にはいなかった」
寺で分かれた後にすぐ僕らを追って来て、そのまま師匠の家に行ったのか。そこに僕が電話を掛けたわけだ。
「加奈子さんは!」
僕は大きな声を出した。蹴られた胸に響いて痛みが走る。
「うるせえな。置手紙があったんだよ。人に会って来るって」
松浦の顔が浮かんだ。
やっぱり会いに行ったのか。一人でかっこつけやがって。何をされるか分かったものじゃないのに!
焦りが脳の回線を焼く。
「誰に会いにいったんです」
「落ち着け、ボケ。自分が帰るまでになにかあったら西署に電話しろって書いてあった」
「なにかあったら警察に電話しろって、やばい状態に決まってるでしょう!」
「こっちになにかあったら、だ。しかも110番じゃねえよ。二課のデスクだ。刑事に会ってんだよ」
刑事に?
知り合いがいるのは知っていたが、なぜ今?
「知らん」
車はしばらく走ってから止まった。古ぼけた看板が掛かった小さな診療所の前だった。
僕は乗った時と同じように、力づくで後部座席から引っ張り出され、診療所の中へ連れ込まれる。
ギシギシきしむ板張りの薄暗い廊下を通って、診察室らしい一室に入ると、剥げ上がってでっぷりと太った初老の男が白衣を着て椅子に腰掛けていた。
「よう、夏っちゃん。右手を怪我した時以来か」
夏雄は黙って僕を差し出した。
その医者は松崎と言った。小川調査事務所の面々ご用達の『あまりうるさいことを言わない』医者らしい。
喧嘩の怪我くらいではなにも訊かずに治療してくれるとのことだった。尻に銃創がある怪我人がやって来ても、と聞かされたが、聞き間違いだっただろうか。

「はあん。だいぶやられたな」
上着を脱がされて、アザになっている箇所を強く抑えられ、呻いた。看護婦はいない。松崎医師一人でやっているらしい。
夏雄はそのまま僕を医者に押し付け、帰ろうとした。
「待てよ」
立ち上がろうとしたが、医者に肩を押さえられる。ただの肥満体かと思ったが、凄い力だ。
「とにかく怪我を見てもらえ。浦井のことは心配するな。会えたら連絡してやる」
夏雄はそう言い置いてさっさと行ってしまった。
僕は湿布やら包帯やらを巻かれ、あまり清潔には思えないベッドに寝かされた。
「吐き気さえ治まったらもう大丈夫だよ」と言われたが、まだふらつきがあり、帰る足もない僕はその診療所で夏雄の連絡を待つしかなかった。
人に言えない怪我を負った連中を相手に商売をしているこの医者なら、もしかして腹を刺された田村も、あの応急処置の後でやって来た可能性もあると思い、訊いてみたが「知らない」というそっけない答えだった。
かりに来ていたとしても、そんなことを喋るはずもなかった。
診療所に、他の客がやって来る気配はなかった。。医者はなにをするということもなく、ずっとテレビを見ている。
横になったまま僕はうとうとしていた。
はるか頭上のあたりに、五枚の写真が浮かんでは消え、浮かんでは消え……
ゆらめく蝋燭の明かり。
閉じない。
どうして。
誰の声だったか。
ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう、なな、やあ、ここの、とお……
正岡大尉。
老人。
とっとと出るぞ、こんな水虫屋敷。
あいつは、見えてるよ。
よもつひらさか。あしはらのなかつくに。
人を見かけで判断してはいけないと、教わらなかったか。
師匠。
加奈子さん。
どんな写真なんだ。けしからん。
実に。
見てみたい。

「おい」
「はい」
返事をしてから目を覚ました。
ああ。寝てしまっていたらしい。診療所の窓の外は暗く、もう日が落ちてしまっている。
師匠が僕の横たわるベッドのそばの丸椅子に腰掛けている。
「大丈夫か」
本物の師匠だ。ついさっき別れたばかりなのに、ずっと会えなかったような気がした。
「はい」
身体を起こす。部屋の柱時計を見ると、夜の八時になろうとしていた。
「決着をつけに行くぞ」
パンを買いに行くぞ、とでもいうようなあっさりしたその言葉に、僕はどんな怪我だろうが立ち上がれるような気がした。
「はい」
そう答えると、師匠はニッ、と笑った。

師匠のボロ軽四で小川調査事務所に到着した僕らは松浦を待っていた。師匠が八時半にここで会う約束を電話で取り付けたという。
ホワイトボードを確認すると、小川所長が帰ってくる時間が今日の夜九時となっている。しかし九時といえば飛行機の到着の時間のはずなので、実際はまだ一時間程度は猶予がある。
師匠は小川所長が戻って来る前にこの件のカタをつけるつもりなのだ。無断でヤクザの依頼を引き受けた手前、そうせざるを得ないのだろう。
カタをつけるといっても、依頼部分については半ば出来レースだ。預かった写真のうち、四枚は心霊写真じゃありません。もう一枚はたぶん念写によるものです。
そう説明したところで、結局は偽造写真として扱われるだけだ。田村がまだ見つかっていないとしても、躍起になって探し出すモチベーションにはならない。
松浦の真意は別のところにある、というようなことを師匠は言っていたが、それもどうということはないだろう。
問題なのは、田村が持って逃げているはずの写真の現物を師匠が持っていたということだ。

そしてそれを松浦に伝えたであろう茶髪を、本職のヤクザを、夏雄がボコボコにしてしまったということ。これがまずかった。兎の着ぐるみを被っていたが、僕を助けに来たのだ。こちらサイドの人間に決まっている。
単独行動を取っていた茶髪が、このことを松浦に、あるいは石田組に報告していないのではないか、という甘い希望はこの際持たなかった。
タダで済むとは思えない。
「黒谷さんは」
師匠に訊くと、「帰した」という答え。
「あいつがいると話がこじれる」
この件は暴力抜きで決着できると判断したのだという。話がこじれるのは想像できるが、なんだそれは、と僕は思った。
寺から帰る時に、「ヒマか」と訊いたのは師匠の方だ。関わりたくないのか、夏雄はついて来ることを拒否したのに、結局師匠を心配してやって来ている。
そして身体を張って僕を助けてくれたのに、邪魔になったから帰れ、というのは……
僕は嬉しかったのだ。
あの兎が現れた時。
あの、僕がボコボコにされていた時に。痛ッ。
怪我のことを思い出した途端、傷口が痛み出した。切った頬などより、打ち身のところがキツイ。特に腹は茶髪、夏雄、茶髪と同じ場所ばかり殴られているから。なんだかムカムカして来た。夏雄の野郎。
しかしまた、これから石田組とどうケリをつけるのか心配になり、落ち込む。
生きた心地がしない状態で事務所の椅子に座っていたが、心の準備が整わないうちに事務所のドアが開いた。
そして四人の男たちが入って来る。
松浦がいる。そして最初の時にいた年嵩の男と、ゴリラのような顔の男。あと初めて見る体格の良い男がいた。背は夏雄と同じくらい高く、黒いスーツを窮屈そうに着ている。
ひしゃげたような団子鼻で、人相も相当に凶悪だった。耳が潰れていて、いわゆるギョーザ耳になっている。かつては柔道の重量級全国大会出場者、というところか。
その男を見て、僕は茶髪が兎にやられた一件が完全に石田組にも伝わっていることを悟った。しかし彼らが警戒しているその兎は今ここにはいない。最悪の状況だ。
「その化け物に用はない。帰せ」
師匠が自分のデスクから立ち上がり、はっきりそう言い放った。

化け物と言われても、団子鼻の男は顔色一つ変えない。師匠の物言いを咎める喚き声も聞えてこなかった。その役割をしていた茶髪がいないからだった。
「それはそちらの態度次第だ」
松浦が静かに口を開いた。
「写真は渡す。本来、これは田村のものだ。お前たちに渡す義理はないが、この騒動を収めるためにそうしよう」
師匠は懐から写真を取り出し、その場で腕を伸ばして差し出した。年嵩の男がスッと近づき、写真を受け取る。
手元にやって来た写真を松浦がちらりと一瞥する。
「いいだろう」
室内の緊張感が少し和らいだ気がした。
「だが、田村の居場所はどこだ」
「知らん。写真はやつがお前らに腹を刺されて事務所に転がり込んで来た時に、押し付けられただけだ。その後は会っていない。一度電話があったが、居場所を聞く前に切られた」
こっちだって迷惑なんだ!
師匠はそう言ったが、写真を最初に松浦に渡さなかった理由にはなっていない。
「なぜ渡さなかった」
やはりそこを訊かれた。
『ヤクザが嫌いだろう』
田村にはそう言われたのだったか。しかし師匠は、松浦に向かって平然として言った。
「この写真には秘密がある」
「なに?」
松浦が眉根を寄せた。
「あんたにだけ話したい」
師匠は真っ向から松浦を見ている。
「依頼のこともある」
そう続けた師匠に、ようやく松浦は頷いた。
「下で待て」
男たちはその指示を受けて、整然とドアから去って行く。あらかじめ心得ていたようだった。化け物と呼ばれた男も、全く表情を変えず、ドアの向こうへ消えた。
「そちらは」
松浦は僕を見た。

嫌だ。絶対にここにいる。
テコでも動かない気だったが、師匠が「怪我人だ。いいだろう?」と言うと、ふ、と空気が抜けるような笑いを浮かべ、松浦は何も言わずソファに腰掛けた。
「あの歯の抜けた茶髪の男はどうなった?」
師匠がデスクから椅子をソファの方へ回して、そう訊いた。
「あなた方には関係がない」
松浦はそのことについて話す気はない、というようにそっけなく言った。僕はその様子から、茶髪の独善的行動が松浦の逆鱗に触れたのではないかと想像した。恐らく当たっているだろう。
だとするならば、今ここにいないあの男が、夏雄にやられた以上の重症を、仲間からの制裁によって負っている可能性さえあった。
「関係ないのだったら、そいつの怪我についても不問だな」
師匠は夏雄の暴行について踏み込んだが、松浦はそれについてもそっけなかった。
「関係がないと言ったはずです」
そうして胸の内ポケットから黒革の財布を取り出して、数枚の一万円札を僕に突きつけた。
一瞬なんのことか分からなかったが、自分の頬に当てられた包帯を手で触り、そう言うことかと気づく。
「やめろ」
師匠は強い口調で言った。
言われなくても受け取る気などなかった。なにしろ僕はあの診療所でお金を払っていない。どこにツケられたのか分からないが。
「嫌われたものだ」
松浦は一人ごちて財布を仕舞う。
「では、聞かせてもらいましょう」ギシリ、とソファがきしんだ。
「まず、依頼の方からだ」
師匠はそう言ってから机の上に置いてあった自分のリュックサックを持って来て、中から封筒を取り出した。それから僕に目配せをして、来客用のテーブルを持って来させる。
ソファと机の間に置かれたテーブルに、五枚の写真が並べられた。いや、うち一枚はその複写だ。
あえて師匠は、現物の方ではなく、複写の方で話を進めた。
「そちらの依頼は、この横浜にある角南家の別邸で撮られた1938年か39年の写真に写っている、死んだはずの正岡大尉の正体を調べろ、というものだった」

「そうです」
「心霊写真なのか、それとも他のなにかなのか……」
師匠はゆっくりと写真のコピーを指の腹で撫でた。
「ここに写っているこの正岡大尉に良く似た人物は、今現在も死んでいない」
松浦は、ほう、という顔をした。
「生きていないものは、死なない。このテーブルが死なないように」
コツコツと中指の第一関節で叩く。
「わたしの結論としては、念写だ。こいつは、ここにいる仲間たちの思念によって写し込まれた、命なき存在なんだ」
ね・ん・しゃ。
松浦は馬鹿にするでもなく、なんの先入観もないようにその言葉を吟味しているように見えた。
「だが、ただの精巧な人形がここに置かれていただけなのかも知れない。あるいは、ただの心霊写真なのかも知れない」
師匠はただの、を強調して言った。
「でもそれも大した問題じゃない。なぜならこれは偽造写真だからだ。真実がどうあれ、最初からそう決められている。角南一族にダメージを与える致死的な毒にはなりえない」
そうだろう?
師匠は松浦の目を真正面から見る。松浦はなにも答えない。
「あんたの真意は別にあった。本当の依頼はこっちさ!」
師匠はテーブルを叩いた。いや、その上に並べられている他の四枚の写真をだ。
「海辺の家族連れ。男の子の両膝から先がないのは、ただのシャッター速度の問題だ」
写真はピン、と弾かれテーブルの外に落とされた。
「アイスを食べているカップル。この肩の手はよくあるイタズラだ」
ピン、と弾かれる。
「飲み会の写真。煙草の煙がストロボに照らされ、偶然顔のように見えただけだ」
ピン。
「母親と男の子の写真」
師匠はそう言って写真を手に取った。
「この男の子は、あんただ」
驚いて目を疑った。なぜそうなるんだ?
松浦も驚いているかと思ったが、その表情は逆に冷え切ったように緊張感を湛えている。

「そして母親は、立光会の先代の愛人だった女。あんたを産み、中学校卒業まで私生児として育てていた女だ」
師匠の頬にも緊張があり、こわばっているように見えた。テーブルを真ん中にして向かい合い、お互いしばし押し黙った。
口を開いたのは松浦だった。
「なぜ分かった」
その言葉には、脅しというよりも純粋な興味が混ざっているようだった。
「わたしは、霊を見ることが出来る。それは人の思念、怨念、執念を五感ではないなにか別の知覚で捉えることが出来るからだ。心霊写真にはほとんどそれがない。
確かに撮影されるまではそういう思念が影響している。だけどネガからプリントされるのは薬品による化学反応だ。
写真として手元に来た時点で、残念ながらわたしに感知できるような霊ではなくなっている。ただの視覚的なものに過ぎない」
心霊写真は苦手だ。
寺に向かう車の中で、僕にしてくれたような説明を師匠は繰り返した。松浦はじっと聞いている。
「しかしこの母子の写真は違った。見た瞬間からビンビン来たよ。念だ。念。強烈な思念、怨念、執念。わたしにも感じることが出来るやつだ。それがこびり付いて離れない。
あんたのだよ。その写真を他の写真に混ぜて持って来た、あんたの念だ」
松浦はなにも言わない。
「この、窓のところに薄っすらと写っている男。あんたは、この男のことを知りたかったんだ。家の前で写真を撮る母子。
カメラを構えているのは、近所の人か? そして窓辺で薄ら笑いを浮かべてそれを見ている男…… 目元なんかはよく見えないのに、その口元は分かる。薄ら笑い。
それがその男の本質であるかのように、だ。あんたはこの男がこの時、家の中にいたのか、それとも霊体として写っているのか、それを知りたかったんだ」
違うか?
刃物を前にしてなお喉を突き出すような、緊張した声だった。
松浦はまだなにも言わない。その顔から表情が完全に消えている。写真の中の男の子は、はにかんだようにほんの少し笑みを見せていた。目の前の男にその面影はない。

「それにこだわる理由も分かる。この男が、あんたの父親だからだ。だけどくだんの立光会の先代じゃない。顔つきがまるで違う。あんたは立光会の先代の愛人の息子だが、先代の実の子ではなかった。
そうだろう。あんたの実の父は、薄ら笑いを浮かべているこの男だ。言ってやるよ。こいつは霊じゃない。ここにいたんだ。
あんたら母子と一緒のフレームに入ろうとせず、ただ離れた場所から薄ら笑いを浮かべている。そういう男だ」
師匠は自棄を起こしたように捲くし立てると、さあ矢でも鉄砲でも持って来い、とばかりに開き直って、腕組みをしながら椅子の背もたれにふんぞり返った。生きた心地がしない状態で僕は手に汗を握っていた。
松浦はまだなにも口にせず、写真をじっと見ている。男の上半身が薄っすらと見えている窓のあたりを。
「そうか……」
ようやく開いた口からは、そんな静かな言葉だけがこぼれた。そうしてそっと写真を仕舞う。
師匠はばつが悪そうに、頭を掻いている。
立光会の先代の顔つきなんて、昨日の今日まで知らなかったはずだ。西署の刑事に会いに行ったのはそのためか。ヤクザ嫌いの師匠が、ヤクザの世界の事情を調べようとすれば、警察しかないのだろう。
松浦はなんの詮索もせず、この件を終わりにした。
『あんたの後ろにあるのは虚無だ』
僕はこの男の持つ虚ろな冷たさが、師匠の言う虚無が、どこから来るのか、おぼろげながら分かった気がした。
松浦が腰を浮かしかけた時、師匠が声を掛けた。
「待てよ。まだ話は終わってない」
「もうなにも話すことはない」
そう言えば、最初に師匠は青年将校たちの写真を指して、この写真には秘密がある、と言っていた。思わせぶりだったが、そのことなのだろうか。
しかし、僕にももう、そっちの写真にはあまり価値がないとしか思えなかった。
「聞け。聞いてくれ。重要な話だ」
師匠が身を乗り出す。
「頼む」
その懇願に、松浦は一瞬逡巡したように見えたが、やがてソファーに座りなおした

「写真を」
師匠にそう請われて、松浦は一度仕舞った写真を取り出そうとする。しかし師匠は「そっちじゃない。『老人』の方の写真だ」と言った。
そうして、テーブルの上に写真と、その複写が並んだ。複写の方は中央部分が黒く潰れていて、『老人』の顔が見えない。
「これがなにか」
師匠は考えを整理するようにしばし視線を落とし、慎重に口を開いた。
「わたしの知り合いに、ある霊能者がいてな」
そうして名前や詳細を出さずに、アキちゃんのことを話し始めた。僕らの目の前で起きた、写真の人物の目が閉じるという、あの集団催眠なのか集団幻覚なのか分からない不思議な力のことも。
そうして、写真の原本の方を使って、そのシーンを再現する。写真の上に手をかざし、手のひらをくるくると回しているのだが、蝋燭の明かりもないこんな明るい場所ではやけに滑稽に見えた。
松浦の口元に冷笑が浮かんだのを見て、「笑わず聞いてくれ」と師匠は言う。
「『閉じない』『どうして』そう言ったんだ、その霊能者は。確かに正岡大尉の目は閉じていなかった。だからわたしは、それが生きている人間ではないからではないかと思ったんだ。
でもよくよく考えるとおかしいんだ。他の写真でも目を閉じた人間と、閉じていない人間がいる。飲み会の写真なら、一人のおっさんは目を閉じていたけど、他は閉じていない。
それ自体にはなにもおかしいことはないはずだ。『老人』たちの写真なら、一人は目を開いていて、他は閉じている。今はもう死んでいる人もいるし、生きている人もいる。それだけのことだ。
目を閉じない、なんて言って怯える必要はない。確かに古い写真だが、いつごろのものだとか、大逆事件に関わる写真だなんていう背景は一切話していない。ましてこの後彼らは処刑されたなんて話は。
なのになぜ、一人でも目を閉じない人間がいると、おかしいんだ? 現に青年将校たちの年齢を考えると、今生きていたら八十歳くらいだ。一人くらい目を開けていてもなにもおかしくない」
師匠はそこで言葉を切り、
『閉じない』『どうして』
と繰り返した。

なにが言いたいのか分からず、僕は困惑していた。やっと松浦たちヤクザとの縁も切れ、この写真にまつわるやっかいごとが終わりかけていたのに、なにを師匠は言おうとしてるのだろう。
スッ、と師匠の指が写真に向かう。そしてそれは『老人』の顔の上で止まった。
「閉じなかったのは、こいつだ」
ゾクリとした。
なぜか分からないけれど、この二日間で、最大の寒気が前触れもなくふいにやって来た。心臓が、今初めて動き出したかのようにバクバクと音を立て始める。
「正岡にばかり目をやっていて、わたしも気づかなかった。だけどその霊能者だけは見ていた。写真の上から手を離した時、この『老人』だけは、一度閉じた目をもう一度薄っすらと開いたんだ」
寺から帰りかけたところで、いきなり引き返してアキちゃんのところへ走ったのは、そのためか。
『閉じない』『どうして』という、アキちゃんのもらした言葉の齟齬に気づき、その真意の確認のためだった。そして、アキちゃんが見たものとは……
「半眼だ。言われなくては分からないくらい、薄っすらと。それが何度手順を繰り返しても、その度に閉じた目をわずかに開けたそうだ。まるで薄目を開けて、写真の中からこちらを覗いているみたいに……」
そんな現象は初めてだったから、怖くなったそうだ。
師匠はそう言って右の拳を縦にして口元に当て、睨みつけるように写真を見下ろす。
「死んだ人間は目を閉じる。生きている人間は目を開けたまま。では、一度閉じて、薄目を開けるやつは?」
ぶつぶつと言いながら、師匠はリュックサックを手元に引き寄せ、中身を探る。
「そっちのコピー。複写してる時に、途中で田村に写真を奪われたから、真ん中が黒く潰れてるってやつ」
テーブルの方を見ないで師匠は続ける。
「本当に、そうなのかな」
「なんのことです。なにが言いたい」
松浦が怪訝な顔で問い掛ける。
「どうして写真を渡さなかったのかと訊いたな。田村から無理やり押し付けられた写真なのに、あんたたちがやって来た時にどうして渡さなかったのか、と。
正直言うと、昨日、一度目は迷ってた。小川所長に迷惑が掛かるなら、渡してしまおうかとも思った。けど、なにか第六感みたいなのが働いてな。黙ってたんだ。

そして次の日、二度目にあんたらが来た時には、もう渡すつもりはなかった。一度目と、二度目の違いがどうして生まれたのか」
ごそごそとやっていた手の動きが止まる。
ゆっくりとリュックサックから半透明なクリアファイルが出てくる。中になにか入っている。
「初日、つまり昨日の夜、コピーをな。取ってみたんだ。持ち歩くにも、あんたたちとやりとりするにも、あった方が便利だと思って。そしたら、こうだ」
クリアファイルから、写真のコピーが出て来た。だがそれを見た瞬間、僕の身体には鳥肌が立った。
コピー用紙の中央が真っ黒に潰れている。『老人』の顔を中心に。まるで同じだった。松浦が持って来たものと。
「まさかそれが」
松浦の目が、クリアファイルに注がれる。クリアファイルの中にはまだ用紙が入っていた。
「なんだこれは、と思ってな。いろんな所でコピーをとったよ。コンビニを回ったり、文具屋を回ったり。そのすべてがこれだ」
テーブルの上に、コピー用紙がばら撒かれる。
目を疑った。すべてだ。すべてまったく同様に、『老人』の顔を中心にして真っ黒く潰れている。いや、よく見るとその黒い部分は、すべて微妙に形が違う。生物に、個体ごとの差異があるように。
「複写を途中で止められたから起きた焼きミスなんかじゃないんだ。これは。まともじゃない。もっと恐ろしいものだ」
松浦も食い入るようにコピー用紙を次々手に取っている。オリジナルからコピーされた写真のすべてから、『老人』の顔が消されている。
「消された大逆事件とやらでお縄になった青年将校たちが、どうして北一輝の名前を、つまり『老人』角南大悟の名前を割らなかったか、考えたことがあるか」
松浦がコピーから目を離さず、答えなかったので師匠は続ける。
「どういう思想を植えつけられたのか知らないが、首謀者の名を明かさなかったのには二つの理由が考えられる。
一つは、首謀者への畏敬から、罪が及ぶのを防ぐため。そしてもう一つが、彼らの計画が、そして思想が、まだ生きる望みがあったためだ。
首謀者が無事で、かつそのまま軍に知られなければ、自分たちの失敗の後でもまだ思想は達成できる。その捨石になるためだ」
だがこいつは。
と師匠は、原本の方の『老人』の顔を見つめる。

「こいつは、そんな大逆事件などなにもなかったかのように、戦後は商売を広げ、角南家を大きくする。政財界にも手を伸ばし、フィクサーとも呼ばれる存在になる。
思想はどこにいった? 青年将校たちを決起させたイデオロギーは? 論理は? そんなものが本当にあったのか? 青年将校を駆り立てた言葉は、もう誰も知らない。こいつは…………」
化け物だ。
師匠は吐き捨てるように言った。
あの団子鼻のヤクザに言った言葉と同じだったが、その重さは全く違っていた。
「わたしが念写だと思ったのにはそういうわけもあった。こいつにとっては、ただあるべき姿に修正しただけだ。自分の描いた地図の通りにだ。
岩川大尉が死んでいれば岩川が。もう一人のなんとかって大尉が死んでいれば、そいつがここに現れていただろう。亡霊のように。そう思えばなぜかしっくり来るんだ」
写真の中の『老人』は、当時まだ五十代だと言うのに、眉間と頬には深い皺が刻まれ、すべてを知り尽くした賢人のような威厳が備わっていた。
だがその威厳は、尊大さを併せ持ち、わずかに上げた顎が目に映るすべてを見下しているかのように見えた。
「腹を刺された田村。その揉み合いになった時に怪我をしたというあんたのところの若い衆。歯抜けの茶髪野郎にボコボコにされたこいつ。お返しにボコボコにされた茶髪野郎……
この写真に関わった人間が昨日今日の二日間でかなりの怪我を負っている。他にもいるんじゃないか」
そう振られ、松浦はハッと気づいたような顔をして「弁護士が」と言いかけた。そのまま口をつぐむ。
「なんだ、弁護士先生もどうにかなったのか。面白いな。深く関わった人間で無事なのはわたしとあんたくらいじゃないか。こいつはよっぽど強い守護霊を持ってないと対抗できないらしい」
ははは、と師匠は笑ったが、松浦はその冗談を笑いもせず射るようにスッと目を細めた。
師匠はばつが悪そうに視線を逸らすと、テーブルの上に散乱したコピー用紙を片付け始める。
「こいつは燃やすよ。あんたも、そのオリジナルをどうするつもりか知らないが、手放した方がいい。
今は握りつぶすつもりだと言っても、あんたらの稼業は明日はどっちに向くか分からないんだろう。だからと言ってずっと持っているのはまずい」

実にまずい。
師匠はそう繰り返したが、忠告は聞かれる様子はなかった。松浦は写真を懐に仕舞い、今度こそ腰を浮かせる。
「無視かよ。幽霊やら怨霊やらという生易しいものじゃないぞ。こいつは」
「では、なんですか」
師匠は言葉に詰まった。
「分からない。死んでいるのに、死んでいない。死してなお、その思想が生きている、とかそういう抽象的な話じゃない。なんらかの存在として、この世にある。そんな気がする。
半眼に薄っすら開かれた目。今も死の淵の向こうから、この世を覗いている」
御霊(ごりょう)……
ふと、その言葉が頭に浮かび、僕はぼそりと口にする。師匠と松浦がこちらに顔を向けたので、「いや、その」と手を振った。
師匠の言う怨霊という言葉から、歴史上の凄まじい祟り神であった、菅原道真や崇徳上皇、そして平将門などのことがふいに連想されたのだ。
世に怨念を撒き散らした彼らはまた、諡号をされ、神として祀り上げられることで鎮められた。だがその鎮魂は、恐怖に蓋をしたものであり、彼らの怨念がいつまた世に溢れ出すか分からないという畏怖の上に成り立っている。
「御霊か」
師匠はそう呟いて考え込んだ。
松浦は、ふ、と笑い、スーツのズボンに出来たわずかな皺を手で払った。
「お嬢さん、お話が出来て楽しかった。約束の報酬は、この事務所の正規の料金分でも受け取ってくれないのでしょうね」
「わたしが欲しいのは、ヤクザのいない日常だ。もう二度と顔を見せないでくれ」
最後まで師匠は口調を改めなかった。
松浦は顔色を変えることもなく、ただ「さようなら」と言って僕らに背を向けた。ドアノブに手を触れかけた時、じっと見ていた師匠が声を上げる。
「なあ、一つだけ教えてくれ」
「……なんです」
松浦は上半身を捻って顔を半分こちらに向けた。
「本家立光会の先代の落し種だって噂。わざわざ広めてるのは、あんたか?」
挑発的なその言葉に、松浦はなにも答えなかった。ただじっと師匠の方を見た後で、全く別のことを言った。

「私が見ている世界は、あなたの見ている世界と似ているだろうか」
また、どこかで。
独り言のようにそう口にしてドアを開けた。その後ろ姿が消えて行くのを、僕と師匠は静かに見送った。

松浦が去った後、夜九時半になる前に僕らは小川調査事務所を出た。なんだか疲れ果てていて、今所長が帰って来てしまったら逐一何があったか説明するような元気はなかったのだ。
何ごともなかったかのように事務所を片付け、慌しく雑居ビルを出ると一階の喫茶店ボストンの入り口に、カクテルグラスの絵のプレートが掛けられているのが見えた。
髭のマスターが脱サラして始めたこの店は、昼間は喫茶店で、夜はバーになる。そのガラス戸から漏れる淡い光を見ていると、なんだか飲みたい気分になったので、そっと師匠にジェスチャーを送る。
さすがにこのボストンでは小川所長に見つかる可能性があったので、別の店に行くつもりだったが、師匠は背負ったリュックサックの肩口の捩れを直しながら「用があるから」とそっけなく言った。
「僕も行きます」
嫌な予感がした。この人はまだなにかする気なのか。そんな予感が。
いや、正直に言う。黒谷に、夏雄に会わせたくなかった。少なくとも二人きりでは。今はだめだ。
「勝手にしろ」
歩き出した師匠を追う。打撲を受けた場所がきしみ、痛みが走る。だから今はだめだ。
深入りするな、と言われた。だから今はだめだ。
なのに助けられた。だから今はだめだ。
無力感が込み上げて来た。
だから今は。
「結構歩くぞ」
振り返って言う師匠に、「大丈夫です」と痛みを隠す。
歩きながら師匠は松浦のことを少し話した。西署の刑事に聞いたことを。

「あいつは若いころ、日ごろからいがみ合ってた親戚筋の若い衆と本格的にやりあったことがあった。攫って監禁してぶちのめしたらしいんだが、最終的に殺しはしなかったんだ。
腕を一本もぎとっただけだった。だけど、そのもぎとるまでに腕の付け根を縛ってな。血を止めて腐らせたんだ。その腕に蛆の卵を埋めたらしい。孵化しなかったら、殺すって宣言して。
その相手の男は自分の腕の肉を喰い破って蛆の幼虫が顔を出すのをひたすら願っていた。まるで薬物中毒者が見るような悪夢を」
「男はどうなったんです」
「助けられた時にはおかしくなっていたらしい。残ったもう一本も、もぎ取ってくれと喚いていたそうだ」
蛆が出てくるからだ。そう思ったに違いない。
松浦の蛇のような冷たい顔を思い出して、背中におぞ気が走る。そんな人間に。そんな人間と分かっていながら、師匠は怯みながらも決して引かなかった。
どうすればそんな師匠のようになれるのか。
僕はそのことを考えながら歩いた。繁華街を離れ、住宅街へと進む。路上に明かりは少ない。時々ぽつりと立っている街灯が、リュックサックを背負った背中を浮かび上がらせる。
やがて古びたアパートの前で止まる。見覚えのないアパートだ。
師匠は一階の右端の部屋のドアをノックした。返答はない。しかし格子の嵌った小さな窓からは明かりが漏れている。
少し強く叩く。時間が過ぎる。
ドアがほんの少し開く。師匠はすぐに半歩分離れる。
「誰だ」
見たことのない男の顔が半分だけ覗いた。警戒した表情。師匠はにこりと笑って言った。
「松浦に電話してくれ。探偵が、田村と話をしたがっていると」
男はギョッとした顔をした。そこへ間髪入れず畳み込む。
「小川調査事務所の浦井だ。松浦と田村から聞いているんじゃないか。心配するな。石田組の人間じゃないよ。もちろん他の組でもない。こんなかわいいヤクザがいるか?」
師匠の軽口に、男は慌てたように「待て、少し待て」と言ってドアを閉めた。
混乱している様子だった。

それは僕も同じだ。一体どういうことだ。ここに田村がいるのか。逃げているはずの田村が。この男は誰だ? 松浦との関係は? そもそもなぜ師匠が田村の居場所を知っているんだ。
唖然としていると、やがてドアが開く。さっきより大きくだ。
「入れ。二人だけだな」
男が警戒した表情のままそう言った。
「ああ」
師匠は顎をしゃくって僕を促す。そうして後に続いてアパートの部屋の中に入った。
玄関には靴が一足だけ転がっていたが、師匠はそれを踏み越えて土足のまま部屋に上がる。僕もわけのわからないままそれに続いた。
台所の奥にあった居間は狭く、三人の男が壁際にいた。
ドアを開けた男と、もう一人見知らぬ男。そして田村。田村以外は靴を履いたままだった。
「よう。元気そうだな」
「ああ」
田村は後ろ手に縛られてしゃがんでいた。しかし不敵な表情をして口唇の端を上げてみせる。
「写真は渡したぞ」
「ああ、聞いた」
「悪かったな」
「仕方ねえよ」
田村はくくく、と笑った。
「俺もヤクザは嫌いだが、こうなっちまえば背に腹は代えられない」
「あんたらもヤクザか」
師匠は壁際に立つ二人の男に訊いた。どちらも油断なくこちらの一挙手一投足を見つめている。
「……」
男たちは曖昧に首を振るだけで答えなかった。
「松浦の子飼か。田村のことは石田組のやつらにも秘密ってことだな。心配しないでくれ。誰にも喋らないよ。あの男の怖さは知っている」
師匠は一方的にそう言って、田村に向き直る。
「このヤサが見つかったのはいつだ。今日の午前中、わたしに電話して来た時にはもうこいつらがいたんだな。電話は松浦の指示か」
「よけいなことは訊くな」

田村が口を開こうとすると男たちが鋭く制した。師匠は男たちを睨みつけてから、別のことを訊ねる。
「あの写真はどこで手に入れた」
今度は止められる前に、すぐ答えた。
「取材源は明かせない」
「なるほどな。守秘義務か。でもそれが通用していたら、こんなのん気な面会なんてできてないだろ。今ごろどこか誰も知らない場所で腕に蛆虫の卵でもうえつけられてるはずじゃないか」
田村の顔から血の気が引いたのが分かった。
「やめろ」
壁際から男たちが一歩前に出る。僕も師匠の前に立ち塞がるように足を踏み出した。まだ体中が痛いが、そんなことは一瞬頭から飛んでいた。
「ああもう、やめやめ。暑苦しい。おまえ、松浦に口を割ったな。でもそれで正解だ。投げちまえ、こんなヤバいネタ。
多分おまえが思ってる以上にこの件は危険だ。化け物と蛇の喰い合いに巻き込まれるようなもんだ。おっと、分かった分かった。もう帰るよ」
詰め寄ろうとする男たちに師匠は両手を上げる。
「なあ、最後に一つだけ訊かせてくれ」
「なんだ」
田村は精一杯の虚勢を張って、後ろ手のまま挑発的に返事をする。
「おまえの死んだ兄貴なら、このネタ最後まで追ったのか」
驚いた顔をした後、田村はゆっくりと考え、そして素直にこう答えた。
「いや。手を引いただろう」
師匠は満足そうに頷いた。
「小川さんもだ。絶対に途中でケツまくってるよ。で、二人で肩を落として夜のボストンに行くんだ。ヤケ酒だよ。ツケで」
ははは。
田村が笑った。
「そうだ。たぶんそうだ」
師匠も笑っている。
「解放されたら、今度飲みに行こうぜ」
「ああ」
田村は頷いた後、少し胸を張って「またな、バイトのお嬢さん」と言った。

そうして僕と師匠はその部屋を後にする。無事に出られるような気がしなかったが、思いのほか二人の男は立ち塞がろうとしなかった。代わりに師匠を呼び止めて、「あの人から伝言だ」と言った。仏頂面をしたままで。
「丸山警部によろしく、と。それからもう一つ、『素人やらせとくには惜しい。だが、こっちの世界に来るのはもっと惜しい。
お互いに、いつの間にか背負っていたくだらないものを、いつかすっかり下ろしてしまったら、また話をしよう』」
師匠はその言葉に「ケッ」と顔をしかめて、踵を返した。
「待って下さい」
僕は後を追った。
なんの変哲もないアパートが遠ざかり、住宅街を元来たとおり歩いて行く。民家の屋根が暗いシルエットを不揃いに並べているその向こうに、繁華街の明かりが薄っすらと見える。
僕は身体に響くのを我慢して足を速め、師匠の隣に並んだ。
「田村はどうしてあそこにいたんですか。松浦たちはずっと探してたんじゃないんですか」
師匠は足を止めずにボソリと答える。
「田村のとっておきの隠れ家だったんだろ。すぐにばれたみたいだけど。多分、石田組はこのことを知らないよ。松浦だけだ。知っていたのは」
「なんで松浦は知ってて知らないふりしてたんですか」
「決まってるだろ。田村を見つけてしまったら、小川調査事務所に来る口実がなくなるからだ」
「は? どういうことですか」
「だから、松浦はわたしにあの母親と子どもの写真を見せるためだけにすべてを動かしてたんだよ」
唖然とした。信じられない。僕は空気が抜けたように笑った。
「仲間へのエクスキューズ。わたしへのエクスキューズ。そして恐らく自分自身へのエクスキューズ。馬鹿だなあ。馬鹿。ああいう勘違いした完璧主義者はいつか大ポカをやらかすぞ」
「ちょっと待って下さい。今日の昼間に松浦たちが帰った後に掛かってきた田村からの電話も、松浦の指示だったんですか」

「多分な。石田組のやつらから逃げてた田村が、うちの事務所でわたしに写真を押し付けたとこまでは仕込みじゃないだろう。
で、その日の夜だかに隠れ家が松浦の個人的な網に掛かってしまって、とっつかまったんだ。わけも分からないまま写真を持っているわたしは、田村から連絡がない限りあそこを動けない。
だから、松浦はあの電話を掛けさせた。怯えてる。もうしばらくは連絡もないだろう。わたしにそう思わせて、依頼の方に取り掛からせたんだ」
「でもなんで、そんなことが分かったんです」
「なんでだと思う?」
分かるわけがない。さっぱり分からない。
「松浦が、わたしに『老人』の顔が潰れているとは言え、角南家の別邸だと分かる写真のコピーを預けた時点で、写真自体が偽造で無価値なものだと断定できているって話はしたろ。
もちろん実際はそれが心霊写真だろうがなんだろうが、だ。でもそれだと、まだ論理に瑕疵がある」
「瑕疵、ですか」
こんな無茶苦茶な話に、そんなもの一つや二つあったところで、という気がしたが「それはなんです」と訊ねた。
「写真が一枚とは限らないってことだ」
「え?」
驚いた。全く考えてなかった。
「あの一枚だけなら、死んでいるはずの正岡大尉が写っているという事実で偽造を主張できるけど、もし他に正岡大尉が写っていない写真が現存していれば話が変わってくる。
そしてそれを田村が持っていたとしたら、写真の持つ毒性は復活するんだ。次の衆議院議員選挙に出るっていう、角南家の秘蔵っ子の命取りになりかねないスキャンダルの元がな。
角南家を強請るにしても強請らないにしても、写真自体は握りつぶす腹の石田組が、そんな危険な写真をわたしなんかに預けて出歩かせると思うか。どこからどういう噂が立つか分からない。
わたしが持っているコピーのオリジナルが偽造だとしても、偽造ではない、少なくともそう断定できない別の証拠写真がどこかにあるんなら、そんな噂ごときでも危険性が跳ね上がるんだよ」

それに、わたしならこうする。
と言って、師匠は何かを破るジェスチャーをする。僕はハッと気づいた。というか、なぜ今まで気づかなかったんだ。
正岡大尉がいる左端を破れば、偽造問題の根拠がなくなるじゃないか。一部が破損していたとしても、後のフィクサー、角南大悟が消えた大逆事件に関わっていたという揺るがし難い証拠写真になってしまう。
「松浦が、そんなことに気づかない男とは思えない。そんなやつがわたしにコピーを預けたんだ。田村はすでに手の中に落ちてると考えていい。
あの時点でもうスキャンダル写真の問題は解決していたんだよ。後はすべて松浦の手のひらの上だ。わたしも含めてな」
忌々しそうに師匠は吐き捨てる。
そうか。田村を捕らえて、写真の入手先のことを吐かせた上で、他の写真の存在などの問題をクリアできると判断したのなら、残る不確定要素は師匠の持つコピーと、そしてオリジナル写真だけだ。
「今日の午前中に松浦がうちの事務所にやって来る前に、すでに田村は吐かされてるんだから、当然わたしがオリジナル写真を持っていることは知っていた。
知っていて泳がせていたことになる。もちろん監視つきだ。尾行していたのがあの茶髪のチンピラだけとは限らない」
「なんのために」
答えは最初から出ていた。そこに戻るのか。馬鹿な。
「あの母親と子どもの写真を鑑定させるためだ。松浦とわたしにとって、自然な形でだ」
なんなんだ、あのヤクザは。
いや、ヤクザの範疇を逸脱しているとしか思えない。かけている天秤が全く釣り合っていないことに気づいていないのだろうか。いや、釣り合っているのか。やつにとっては。
異常だ。どこか故障しているとしか思えない異常さだった。
こっちの頭がおかしくなりそうだ。
最後に残っていた疑問をようやく口にする。
「どうして田村の隠れ家が分かったんです」
日中、僕とずっと行動していたのだから、おそらく寺から戻って来て二手に分かれた後にどこかで情報を入手したのだろうが、石田組にも知られていないあの場所をどうして知ることが出来たのか不思議でならなかった。

ところが師匠は、驚くようなことを言った。
「知ったのは今日の朝だよ。お前もいた時だ」
今日の朝だって?
それは小川調査事務所で朝から用もなくデスクに肘をついていた時のことか。一体その時どうやって?
「服部だよ。あの根暗野郎。昨日田村が腹を刺されてうちに転がり込んで来た時、いつの間にかいなくなってたろ。あいつ、田村が出て行った時、どこかに隠れててそのまま尾行したんだよ。
大した理由もなく。なんとなく、とかで。変態だ、変態。所長に尾行のテクを褒められていい気になってんだ。
多分、事務所に『田村が見つかった』って電話したのは、服部だ。ヤクザどもが田村を追ってるのに気づいて。うちの事務所もやばい状態になってると考えたんだろ。助け舟のつもりかあの野郎」
師匠が日ごろ本人に面と向かって言わない辛らつな言葉を、吐きまくる。
「で、追っ手から逃げ切った田村が隠れ家に入ったところまで見てたんだよ。それであいつどうしたと思う? 今朝、所長から電話があっただろう。
田村が捕まってなかったから、石田組のやつらが来る前に帰れって。それであの根暗、ワープロ立ち上げたまま帰ったろ。
消そうとして画面見たら、田村の名前と住所が書いてあったよ。クソったれ。所長に報告せずに、わたしに投げたんだ。おかげで振り回されて散々な目に合ったよ」
散々な目にあったのは僕もだ。だったら今日、最初から師匠は田村の居所を知っていたんじゃないか。
もうなにがなんだか分からない。
「田村が松浦の網に掛かった後、別の場所に移された可能性も高かった。でもこの隠れ家が石田組の網からは完全に外れているとしたら、そのままそこに監禁している可能性もあった。
五分五分といったところか。無駄足にならなくて良かったよ」
あいつも多分、腕の一本も落とさずに済むんじゃないか。
師匠は無責任にそう言う。
僕は足元に転がっていた空き缶を蹴飛ばした。勝手にしろ、という気分だった。
一歩進むたびに、身体のどこかが痛かった。そのたびに、苛立ちが募っていく。隣の師匠の方を見たくなかった。

そして一歩進むたびに、その苛立ちが、師匠と夏雄が一緒にいるところを見るたびに感じているものと同質のものではないか、という気がしてきて、余計に僕の心はかき乱される。
師匠は多分、松浦の冷酷な瞳の後ろに広がる虚無に、ひかれている。ヤクザであるあいつが嫌いだという事実と同じくらいの確かさで。そのことが、どうしようもなく僕を苛立たせるのだった。
『私が見ている世界は、あなたの見ている世界と似ているだろうか』
頭の中で、松浦の去り際の言葉が繰り返し再生される。繰り返されるたび、その言葉の音色は希薄になり、やがて意味だけが残される。
僕は行く手に伸びる暗い夜道をじっと見据える。僕らのほか、歩く人の姿はない。だがその光景も、師匠の目には全く別の様相を見せているのかも知れない。無数のうつろな人影が闇に漂う不確かな光景が……
アキちゃんの見る世界。師匠の見る世界。松浦の見る世界。そしてこの僕の見る世界。どれが正しいなんてことは、きっとないのだろう。ただどれも少し似ていて、そして違っているのだ。
『お互いに、いつの間にか背負っていたくだらないものを、いつかすっかり下ろしてしまったら、また話をしよう』
去り際の言葉が消えていった後で、入れ替わりに松浦の最後の伝言が脳裏をよぎった。
馴れ馴れしい言葉だ。素面でよくこんなセリフを吐けるものだ。
苛立ちが再び湧き上がる。しかし僕は、その言葉の中に微妙な違和感を覚えていた。
なんだ。なにが気になるんだろう。なにかがぴたりと嵌った感じ。あまりに状況を射抜いているような……
そこまで考えた瞬間、僕は立ち止まって師匠の背中を指さしていた。
師匠は怪訝な顔をしていたが、すぐにハッと気づいたように背中のリュックサックを下ろした。焦ったのか、ジッパーを開けるのに手間取る。
そしてようやく差し入れた手が中を探り、また出てきた時には白い封筒が握られていた。封筒はかなり厚い。簡単には折れないくらいに。
師匠は歯軋りをして、複雑な表情を浮かべたまま呟いた。
「下請けの下請けをやってるような零細興信所の規定料金、買いかぶりすぎだ」
いつの間に入れたんだ!
僕は驚愕する。

さっき事務所でテーブルに写真を並べて話し合っていた時だ。それしか考えられない。
リュックサックも確かに口を開けたまま近くに置いていた。しかし僕も師匠も全く気づかなかった。そんなそぶりさえ。ぶつかりざま、写真を師匠の服に滑り込ませた田村とは全くレベルの違う技だ。
師匠は抑え切れない怒りを全身に漲らせ、リュックサックを背負いなおす。
「化け物に、喰い殺されろ」
押し殺した声でそう吐き捨てると、足を強く踏み鳴らしながら歩き出した。
後を追う僕の目の前に、一万円札がひらひらと舞いながら落ちて来る。宙に放り投げられた、くだらないものたちが。
何枚あるのか、数え切れない。
そんなものが舞う、街の明かりが遠く幻のように見える暗い道を、僕らは振り返らずに歩いた。
(完)

★この話の怖さはどうでした?
  • 全然怖くない
  • まぁまぁ怖い
  • 怖い
  • 超絶怖い!
  • 怖くないが面白い