師匠シリーズ 第71話 依頼

師匠シリーズ 第71話 依頼

師匠から聞いた話だ。
大学一回生の秋だった。
僕は加奈子さんというオカルト道の師匠の家に向かっていた。
特に用事はないが、近くまで来たので寄ってみようと思ったのだ。
交差点で信号待ちをしていると、道路を挟んだ向こうにその師匠の姿を見つける。
少し遠いのと珍しく車がバンバン通っているので、呼びかけても気づかない。
その師匠は去って行くでもなく、電信柱のそばで立ち止まったまま動いてない。
どうしたんだろうと目を凝らすと、電信柱の根元のあたりになにか落ちていて、それを見下ろしているらしかった。
どうもビニール袋に入った菓子パンのようだ。
僕の観察している前で、師匠はやがてキョロキョロと周囲を窺い始めた。
まさかと思って見ていると、スッと腰を落としてそのパンを拾い上げ、服の内側に抱え込むと足早に立ち去って行った。
拾い食いかよ。
俺は我がことのように猛烈に恥ずかしくなった。
歩行者用の信号が青になり、後を追う。
説教だな。さすがにこれは。
角を曲がってもその姿は見えない。逃げ脚、早過ぎだろう。
師匠の家に向かいながら、最近金欠気味のようだったことを思い出す。
師匠は継続してバイトをしている形跡がなく、大学の掲示板に張り出される単発のバイト募集を眺めているところを何度か目撃している。
いつもお金に窮していて、たかられることが多々あったが、かと思うと急に羽振りが良くなり、変なものを買い込んだりしては散財し、またキュウキュウになって家でぐったりしている、といった具合だ。

傍から見ていると実に面白いのだが、たかられるのは迷惑だった。
師匠の家に着くと、僕は乱暴にノックをする。応答があったので、挨拶をして上がり込む。
僕はすぐにその部屋の中を観察したが、パンの袋は見当たらない。
「今、パンを拾いましたね」
明らかに狼狽した。
「拾ってない」
「見ましたよ。もう食べたんですか」
「拾ってないよ」
続けて詰問したが、頑としてその事実を認めなかった。僕はやがて根負けする。
「分かりました。もういいですよ、どうでも」
「落ちてるものを拾って食べるほど落ちぶれてないよ。失礼極まりないなお前は。しかも賞味期限切れのものを」
いいです。僕が悪かったです。
妙に引っ掛かるものがあったが、これ以上不毛な会話をするつもりもなかった。
かと言って有毛な会話も特になく、顔も見たことだし、帰ろうかと腰を浮かした。
すると師匠は「なにか食べるものを買ってこい」とのたまう。
「そうだ。昼飯食ってないだろ。手料理を食わしてやるから、材料を買ってきなさい」
言い方を変えたが、ようするにたかる気だ。溜息をついて外に出た。そして近くのスーパーに向かう。
指示されたものを買い込んで肌寒さの増した住宅街を歩いていると、すっかりの彼女のペースにはまっている自分に気づく。
そしてそれを案外心地よく感じていることも。
「帰りました」
ドアを開けて、ピニール袋を足元に置く。

ちょうど師匠が家の電話を切るところだった。
「予定変更だ」
「え?」
「飯のタネが発生した」
言いながら、師匠は身支度を整え始める。
「そう言えば、お前はまだ連れて行ったことなかったな」
「なにかのバイトですか」
「バイトと言えばバイトだな。面白いぞ。一緒に来いよ」
料理の材料を冷蔵庫に放り込み、連れだって外に出た。
軽四に乗り込もうとして、「あ、ガソリンやばいんだった」と止まり、「自転車で行こう」と言うので師匠の自転車に二人乗りで目的地に向かう。
もちろんペダルをこぐのは僕だ。
どこに行くのかを訊いても、いいところ、とはぐらかされる。
僕は師匠の指がさす方向へハンドルを向けるだけだ。
やがて自転車は市内の中心街から少し離れた一角へ入り込む。
新旧の雑居ビルが立ち並ぶ中を進んでいると、「ここだ」と肩が叩かれる。
そこは三階建ての薄汚れたビルで、一階には喫茶店が入口を構えている。
そこに入るのかと思っていると、師匠はその入口の横にある階段を上り始めた。
思わず上の階を見上げると、二階に消費者金融の看板が掛っている。
二の足を踏んだ。
なんなんだ。もしかして、僕に借りさせる気じゃないだろうな、と思って疑心暗鬼にとらわれる。
しかしあの人だけはなにがあってもおかしくない。
どきどきしながら狭く薄暗い階段を後に続いて上りはじめる。
師匠の背中を見上げると、二階のドアを通り過ぎてさらに上の階へ伸びる階段へ足を掛けるところだった。

三階? 何の店が入っていたか思い出そうとする。が、ビルの外観の中でもほとんど印象に残っていない。
階段を上りきると師匠がドアの前で待っていた。
親指を立ててそのドアに書かれている文字を指し示している。
『小川調査事務所』
そう読めた。控え目な字体と、大きさだった。
「こんちわー」
師匠はノックのあと、ノブを捻ってドアを開け放った。
瞬間、コーヒーの匂いが鼻腔に漂う。
殺風景な室内はデスクがいくつかと、色とりどりのファイルが押し込まれているスチール棚が奥に見えた。
それから入口やデスクのそばに鉢植えの観葉植物。
一番奥のデスクに組んだ足を乗せて書類をめくっていた男性が「おお」と声を上げる。
ここにいるのはその人だけのようだ。
「依頼人は?」
師匠が近づいていく。
「まだだ。最近顔を見せなかったな」
男性は書類をデスクに放り投げ、椅子から立ち上がる。
「仕事もないのに、こんなところに来るかよ」
「冷たいな、そう言うなよ。……コーヒー飲むか」
コーヒーメーカーのそばに向かいながら、男性は僕の方を見た。
「キミは誰?」
というか、あなたが誰ですか。
ここはもしかして興信所というやつだろうか。よく分からない展開だ。
「助手だ。邪魔はしない」と師匠。
「へえ。コンビを変えたのか、夏雄から」
男性はコーヒーを僕の前に差し出す。
「キミも、見えるわけか」

眼鏡の奥の目が、値踏みするように細められた。
「見えるよ。それは保証する」
勝手に師匠に保証されても困るが、どうやら霊感のことを言っているらしいのは分かった。
それぞれが手に持ったコーヒーのカップが空になる間、僕は一応の説明を受けた。
目の前の男性は小川調査事務所の所長、小川さん。たった一人の所員でもある。
「見ての通りの零細興信所だ。下請けの下請けみたいな仕事ばかり回ってくる社会のゴミ溜め」
とは小川さん本人の談。
この小川さんは師匠と浅からぬ関係にあると推測される黒谷という僕と同じ大学の先輩と親戚関係にあるらしい。
その黒谷が、小川調査事務所に持ち込まれた仕事の中でも荒事関係のものを時々手伝わされていたらしいのだが、ある時から黒谷に紹介された師匠がそのバイトに加わるようになったのだそうだ。
「荒事に?」
そう訊くと、二人とも笑っていた。
「オバケだよ」
小川さんがカップを近くのデスクに置いてハンカチで口の周りを拭いた。
興信所の仕事は、おもに信用調査。法人の財産や運営実態を調べたり、個人の素行調査や浮気調査。
それから警察には見つけられない人捜し。
僕の貧困なイメージでは、結婚相手やその親類のことを近所に聞き込んで回るコート姿の男性が一番に浮かんでくる。

様々な内容の依頼が、半ばダメ元で持ち込まれてくる中で、当然重犯罪に絡むことは受けられないし(念のため聞き直すと、めんどくさそうに『うん、軽も駄目だ』と小川さんは言った。この辺が零細の悲哀なのかも知れない)、それから写真を見せて「この猫がうちの花壇を荒らすから懲らしめてくれ」といった、しようもない仕事も基本的には受けない。
興信所を信用せず、最低限の情報さえくれない依頼人も多い。
中には連絡先さえ教えてくれない依頼人もいたそうだ。「必要があればこちらから連絡をとる」と言って。
そういうときは丁重にお帰りいただくしかない。
「それから、依頼内容が不可解なケース」
小川さんは『お手上げ』というようにおどけたポーズを取り、胸のポケットを探る。
「五年前に死んだはずの父が、生前親しかった友人たちの前に姿を見せてお金の無心をして回ったらしいけれど、どうして娘の私のところへ来てくれないのか? 父にもう一度会いたい。捜してほしい。……なんて、知るかよ! 戸籍抄本取って、『確かに死んでますから、ご希望には沿わない結果になって申し訳ありません』って言って基本料金だけ貰って業務完了だよ。
一日も掛らない仕事だ。楽だけど割に合わないね」
煙草に火をつけて、深く息を吐く。
「それを、親子の再会まではさせられないが、死んでいる父がどうして金の無心をしに迷い出てきたのかを説明できるのが、こいつってわけだ」
師匠は涼しい顔でカップを傾ける。
「こんな不可能ケースで成功報酬までぶんどれるんだから、特殊な技能と言わざるを得ないな」
やがてそうした非常識な依頼が大手の興信所をたらい廻しになった挙句、小川調査事務所に持ち込まれることが多くなった。
今では「オバケならあそこ」と近隣の業界内では密かに陰口を叩かれているそうだ。

「オバケ」はそうした不可解なケースの符牒だ。
「それでも、こんな貧乏事務所には仕事を回してもらえるだけでもありがたい話だ」
「でも最近全然お声が掛らなかったんだけど」
師匠が不服そうに言う。
それで得られるバイト代をあてにしていたから、あの無残な生活費の困窮があったのか。
「ボクとしては、普通の依頼ばかりで安心してたがね。そんな依頼ばかりになったら看板を下ろすよ」
それで、事務所を譲って引退だ。
そう言って、師匠を指さす。
師匠は気のないそぶりで三人のカップを持って、流しのあるらしい隣の部屋へ消えていった。
電話が鳴る。
小川さんが自分のデスクに回って取る。
他のデスクの電話機は鳴っていなかった。ただの飾りらしい。
他のデスクにしても所員が所長一人ではいらないだろうに。
依頼人の前で見栄を張りたいのだろうか。
小川さんは電話の相手に随分へりくだった口調で応対し、ペコペコ謝るようにして電話を切った。
そして僕の視線に気づいて、声を出さずに唇をゆっくりと動かす。
ヤ・ク・ザ
その三文字に見えた。からかわれているのかも知れない。
「依頼人は?」
戻ってきた師匠に訊かれ、小川さんは腕時計を見る。
「もうそろそろ約束の時間だ」
師匠が小川さんのヨレヨレのネクタイを指さし、直させる。

それから十分ほどして事務所のドアが開いた。
「タカヤ総合リサーチから言われて来たんだけど」
とその女性は言った。
その瞬間だ。
ドアと彼女の足元の隙間から、何か小さいものが滑り込むように入ってくるのが見えた。
野良猫だ。
そう思って訪問者そっちのけで部屋の隅をキョロキョロしていたが、どこに隠れたのか見つからない。
「どうぞ」と小川さんは来客用の椅子を示し、師匠に目配せして二人でその向かいの椅子に座る。
僕は空いているデスクで仕事をするふりをしながら、横目でその様子を見ていた。
「どうしてこんな所まで足を運ばなくてはならなかったか、説明して」
依頼内容を口にする前に、女性は苛立った口調でそう言った。
小川さんが「依頼内容によっては動ける人員がたまたまいないということもありますし」と、彼女がここに来るまでに断られたであろう別の興信所の弁解を、低姿勢で繰り返す。
ヨコヤマ、と名乗ったその依頼人は「もういい」と吐き捨てるように言って、膝に抱いていた自分の鞄を探りはじめた。
僕は依頼人の横顔に何か言葉にしにくい異様さを感じていた。
三十代半ばのように見える彼女は、身につけている服こそ当たり障りのない地味な印象のスーツだったが、その化粧気の薄い顔は嫌に青白く、勘気の強さを際立たせているようだった。
そして何より、後ろで束ねた髪の毛の一部が一筋だけ顔に垂れて、それが頬に張り付いているのが彼女の異常さを物語っていた。

単に髪の毛の身だしなみの問題ではない。
気付かないはずはないのに、横顔に垂れた髪の毛を貼り付けたままそれを直そうとしない、彼女の心理の停滞が問題なのだった。
内心、めんどくさそうなのが来やがったと思っているに違いないのに、それを全く表情に出さない小川さんはさすがプロだと変な感心をしてしまう。
「これよ」
依頼人は鞄から布のようなものを取り出してテーブルに置いた。
ベビー服のようだった。
「私のお付き合いしている男性の車に、これがあったのよ」
「と、言いますと?」
「鈍いわね。どうして分からないの」
依頼人はそう言ってなじると、鞄の口を乱暴に閉じる。
「あの人は、私には独身だ、未婚だなんて言っておいて、子どもがいたってことよ。許せることではないでしょ」
「はあ。これはその方から借りたんですか」
「そんなわけないでしょ!」
黙って取ってきたわけだ。
だいたいどういう話か分かってしまったが、これでは、仮に身辺調査の依頼を受けたとしても、彼女がそうした疑惑を持った事実も相手方に筒抜けになってしまった可能性が高い。
素人考えだが、彼女のその軽率な行動の時点で依頼を拒否する理由としては十分な気がする。
「で、どうされたいんです」
依頼人は小川さんを睨みつけるようにしながら、その男性と子どもの関係を確認するようにと言った。
依頼というよりまるで命令だ。
僕は小川さんがいつ切れて、この勘違いした女を事務所から蹴りだすかと思ってハラハラしていた。

ふいに、動くものの気配を感じてあたりを見回す。
そう言えば野良猫はどうしただろう。
僕は目立たないように自然に振舞いながら席を立って猫を探した。
デスクの下に屈んで覗き込んだとき、暗がりに二つの光を見つけた。
いた。
でも捕まえようとするとちょっとした騒ぎになるのは目に見えていたので、この噛み合わない会談が終わるまで待つことにした。
「そうですね。当事務所の規定では、このくらいの料金なんですけれど、見えますか? 一日当たりの基本料金がこちらで……」
ラミネート加工された料金表らしきものを睨んで、
「高いわね。どうせこれに必要経費とか言って喫茶店のコーヒー代とか入ってくるんでしょ」
そう言えば依頼人に飲み物も出してないな。
師匠が同じ席についてしまっているので、お茶くみは僕の役回りなのだろうかと気を揉んでいると、依頼人が苛々した口調で「これでいい」と料金表を叩くのが見えた。
その時、気持ちの悪い感覚に襲われた。
すぐそばのやりとりが遠退いたような感じ。空虚で、中身のない感じ。
これは一体何だ。
自分の呼吸音だけが大きくなる。
パクパクと依頼人の口が動く。
言葉がよく聞こえない。
こういう時は、なにか見落としていることがある。
早く気づかなくてはならない。
頭が回転する。
分かった。
師匠が呼ばれた理由がない。
ここまでは、依頼人の人となりこそエキセントリックだが、依頼内容はありふれたもののようだ。

これでは、「オバケ」専門の加奈子さんに仕事が回されてきた意味がない。
「どうなの。いつまでに結果を出せるの」
依頼人がもうすでに契約が完了したような物言いをしているのが聞こえた。
「こちらのスケジュールも確認してみませんと、そちらの希望に添えるかどうかもまだ……」
そう言う小川さんの袖を師匠が引いているのが目に入った。
そして「少々お待ち下さい」と二人して立ち上がる。
一番離れた奥のデスクに行き、何かのファイルを二人で覗き込む。
広げたファイルなど見ていないことは目の動きで分かる。
僕もそちらに近づく。
師匠が声をひそめる。
「受けない方がいい」
「どうしてだ」
「あの女は嘘をついている」
「どういうことだ」
「ベビー服に微かに血を拭ったような跡がある」
ゾクリとした。
「それに、見えた」
「なにが」
「ベビー服の中身。ここに、来ている。あの女についてきた」
師匠が僕の顔を見た。
すぐに思い当たる。
野良猫ではなかったということか。
もうデスクの下は覗けそうにない。
「何を企んでいるのかわからないけど、第三者に『発見』させるつもりかも知れない。とにかく、関わらない方がいい」

小川さんはじっと師匠の横顔を見つめた後、「わかった」と言った。
「あとはまかせろ」
小川さんはイライラと足を動かしながら椅子に座っている依頼人の元へ一人で戻って行った。
依頼人が喚きながら去って行った後、ようやく静かになった事務所で僕らは息をついた。
「警察へは?」
師匠がデスクに腰を乗っける。
「あとで、匿名で情報提供しておく」
小川さんが疲れたような声を出した。そして煙草に火をつけながら誰にともなく訊く。
「赤ん坊は? まだいるのか」
師匠が視線を僕に迂回させる。
「ついて、出ていきました。一瞬だったけど、たぶん」
ふぅ、と煙を吐き出して小川さんは胸の前で十字を切る真似をする。
依頼人にここを紹介したタカヤ総合リサーチという興信所は、元々小川さんが所属していたことがあるらしく、よくこんな仕事を回してくれるのだそうだ。
そのタカヤ総合リサーチから電話が入った。
小川さんが明るい声でやりとりをしたあと、受話器を置く。
「オバケっぽくないケースだったけど、市原女子の第六感が働いたんだと」
市原さんという名物事務員がいるそうだ。聞いたところによると世話好きなオバサンという印象。
「市原さん、ファインプレーだったな」
師匠がおかしげに言った。

小川さんが財布を取り出して千円札を何枚か師匠の胸元に近づける。
「今日は悪かったな。足代だ。血色が悪いぞ。ちゃんと食え」
「ありがとう」
師匠は無造作にそれを仕舞う。
「バイトする気があるなら、名刺を作っといてあげるよ」
おもいきり不定期だけど。
そう言って小川さんは案外真面目な顔で握手を求めてきた。
僕はその手を握る。
「下請けの下請けのバイトの助手だ」
その横で師匠が手を叩いてそんなことを言いながらやけにはしゃいでたのをよく覚えている。

★この話の怖さはどうでした?
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  • 怖い
  • 超絶怖い!
  • 怖くないが面白い