師匠シリーズ 第90話 未

師匠シリーズ 第90話 未

ウニです。
こんばんわ。
これから書く話は、とある事情でタイトルは最後に出てきます。
しかし、まだ最後まで完成しておらず、続きは年明けになります。なんとか1月中には終わらせたいですが、どうなることか・・・
ずるずると先延ばしにしていた話なので、とりあえず見切り発車すればいやがおうにも書かざるを得なくなるのでは、という甘い考えです。
では。

師匠から聞いた話だ。

匂いの記憶というものは不思議なものだ。
すっかり忘れていた過去が、ふとした時に嗅いだ懐かしい匂いにいざなわれて、鮮やかに蘇ることがある。
例えば幼いころ、僕の家の近所には大きな工場があり、そのそばを通る時に嗅いだなんとも言えない化学物質の匂いがそうだ。
家を離れ、大学のある街に移り住んでからも、どこかの工場で同じものを精製しているのか、時おり良く似た匂いを嗅ぐことがあった。
そんな時にはただ思い出すよりも、ずっと身体の奥深くに染み込むような郷愁に襲われる。
次の角を曲がれば、子どものころに歩いたあの道に通じているのではないか。そんな気がするのだ。
そんな僕にとって一番思い入れのある匂いの記憶は、石鹸の匂いだ。
どこにでも売っているごく普通の石鹸。その清潔な匂いを嗅ぐたびに、今はもういないあの人のことを思い出す。

身体を動かすのが好きで、山に登ったり街中を自転車で走ったり、いつも自分のことや他人のことで駆けずり回っていたその人は、きっと健康的な汗の匂いを纏っていたに違いない。
けれど、僕の記憶の中ではどういうわけかいつも石鹸の匂いと強く結びついている。
その人がこの世を去った後、その空き部屋となったアパートの一室を僕が借りることになった。
殺風景な部屋に自分の荷物をすべて運び込んで梱包を解き、一つ一つあるべき場所に配置していった。
その作業もひと段落し、埃で汚れた手を洗おうと流し台の蛇口を捻った。
コンコンコンという音が水道管の中から響き、数秒から十秒程度経ってからようやく水が迸る。
古い水道管のせいなのか、その人がいたころからそうだった。
その人はよく僕に手料理を作ってくれた。
そう言うと妙に色気があるように聞こえるが、実際は『同じ釜の飯』という方が近い。
兄弟か、あるいは親しい仲間のような関係。それが望ましいかどうかは別として。
その人は台所に立つとまず真っ先に手を洗った。石鹸で入念に。
だから食事どきのその人は、いつもほのかな石鹸の匂いを纏っていた。

今でも爽やかなその匂いを嗅ぐと、あのころのことが脳裏に蘇る。
痛みや焦り、歓喜や悲嘆。絶望と祈り。僕の青春のすべてが。
蛇口を捻り、水が出るまでの僅かな時間。その人は乾いた石鹸を両手で挟み、そっと擦り合わせていた。
その小さな音。それを僕は背中で聞くともなしに聞いている。ささやかなひと時。
戻れない過去はなぜこんなに優しいのだろう。
その人がいない部屋で、僕は一人蛇口から落ちていく水を見つめている。
手には無意識に握った石鹸。指の間から滔々と水は流れ落ちる。ほのかに立ち上る涼しげな匂い。
僕は蘇る記憶の流れに、しばし身を任せる。


寒い日だった。
昼過ぎから僕はある使命を帯びてオカルト道の師匠が住むアパートに乗り込んだ。
十二月も半ばを過ぎ、街中を、いや目に映る全てを一色に、いや、二色に染めているイベントが目前に迫っていた。赤と白だ。なにもかもが。
それに伴い、僕にも焦りと若干の期待が入り混じった感情が押し寄せていた。
ドアをノックすると赤でも白でもなく、青い半纏を来た師匠が玄関口に現れて、じっと僕のことを見つめる。
いや、見つめているのは僕の手元だ。つまりスーパーの袋である。
「コロッケが大量に安売りしてたので、一緒にどうですか」と言うと、入れとばかりに顎を軽く振る。
部屋に上がらせてもらうと、炬燵布団に人型の空洞が出来ている。
その向かいに腰を下ろして足を入れ、袋からコロッケのパックを取り出す。
師匠は台所から小ぶりの鍋を持って来て、「甘酒だ」と炬燵のテーブルの上に置いた。鍋の中には白くてどろどろしたものがほのかに湯気を立てている。生姜の香りがした。お椀にとりわけてくれたそれを、コロッケを齧る合間に啜る。
ここ数日でめっきり冬らしくなったものだ。朝方、路上に止まっていた車のフロントガラスに霜が降りていたことを思い出す。
「こっちが普通ので、こっちがカボチャ、こっちがクリームコロッケです」
カボチャコロッケに手を伸ばす師匠を横目に、床に散らばっている雑誌を手に取り、見るともなしにパラパラとページを捲る。

クリスマス、どうするんですか?
それをなかなか口に出せないまま、特に会話らしい会話もなく穏やかな時間が過ぎて行く。
コロッケを三つ平らげた師匠は甘酒を片付け、ふんふんと鼻歌を奏でながらがテーブルに向かって何かを書き始めた。
気になったので首を伸ばして覗き込むと、年賀状のようだ。
万年筆で書かれた新年の挨拶の横にかわいらしいヘビの絵が見えた。
来年は巳年だっただろうかと一瞬考えたが、そんなはずはなかった。
「そのヘビはなんですか」
「うん? この子はカナヘビちゃんだ」
顔を上げず、師匠はペンを動かしながら答える。
どうやら干支を表す動物ではなく、自分の署名代わりのキャラクターらしい。
加奈子という名前と掛けているのか。
そう言えばバイト先の興信所でも、彼女が作成した報告書の端にこんなヘビの絵を見たことがあった気がする。
にっこり笑ったヘビが、二又に分かれた舌をチロチロさせながら三重にトグロを巻いている絵だ。
「カナヘビちゃんですか」
「そう」
一枚書き終えて、師匠は次の宛名書きに移る。
「でもカナヘビって、トカゲの仲間じゃなかったですか」ふと沸いた疑問を口にすると、「え?」と師匠が始めて顔を上げた。
「ヘビだろう」
「いや、ヘビって付いてますけど、確かトカゲだったような…… 足もあったはずですよ」
うろ覚えだが、なんとなく自信があったので言い張ってみる。
師匠は納得いなかい表情で自分の書いた絵を見つめている。
なんだか「キクラゲ」はクラゲなのか海草なのかで言い争いをしたことを思い出してしまった。
その時は勝者のいない戦いだったが、今度はどうだろうか。
「カナヘビがトカゲぇ?」と鼻で笑いながら呟く師匠に、僕は「確かめてみましょうか」と言って立ち上がる。
玄関に向かい、靴をつっかけて外に出ると、冷たい風が顔に吹き付けてきた。
身体を縮めて小走りにアパートの右隣の部屋の前まで行く。

ドアをノックすると、「はい」という声とともに部屋の主が顔を覗かせる。
卵のようにつるんとした顔に、細い目と低い鼻、そして薄い唇が乗っかっている。
小山だか中山だか大山だか忘れたが、確かそんな感じの名前の人だった。
「どうしました」
「百科事典を貸してくれませんか」
この師匠のアパートの隣人は普段なにをしている人なのかさっぱり分からないが、しばしば師匠の部屋に食べ物をたかりに来たりしていた。
師匠は基本的に追い返しにかかるのだが、当人はいたって平然と師匠の容姿を誉めそやし、口先三寸で丸め込んで最終的にただでさえ乏しい食料のその何分の一かをせしめるという奇妙な人物であった。
僕は以前その彼の部屋に上げてもらった時に、百科事典が詰め込まれた棚があったことを覚えていた。
「かまいませんが、アカサタナで言うと、どこをご所望ですか」
「カ、の所をお願いします」
そう言って売れ残りのコロッケを差し出す。
「しばしお待ちを」
そうして首尾よく百科事典を借り受け、師匠の部屋に戻ると、さっそくカナヘビのことが出ているページを開いて見せた。
小さな写真が付いている。その姿からして一目瞭然にトカゲである。
説明文を読むと「有鱗目トカゲ亜目トカゲ下目カナヘビ科」とある。
よくは分からないが、ようするにトカゲのようだ。
写真を見る限り、普通のトカゲと比べると鱗が妙にカサカサとして油気がない印象だった。
だがもちろん手足はあるし、ヘビとは明らかに違う。
「トカゲじゃないですか」
「……」
師匠は何ごとか反論しようとしたようだが、百科事典の背表紙を見て、それが有名な出版社のものであることを確認するや、諦めたように嘆息した。
「はいはい。私が間違えておりました。あほでした。これで良いのでございましょう」
そう言って自分の描いたヘビの絵に申し訳程度の小さな足を四本書き添えた。
トグロを巻いたままなのでバランスが非常に悪い。
というか、手などは一見二本並んでいるのだが、よく見るとトグロの別の段から出ている。冒涜的な生物だ。
その絵に対する突っ込みを入れる前に、ふと思った。

百科事典の記事なのに出版社次第では何か言い訳するつもりだったのかこの人は。
拗ねた様にうつむいて、年賀状の続きを書き始めたのを見て僕は腰を上げ、百科事典を返しに行った。
ドアを叩くと、小村だか中村だか大村だかという名前の隣人がにゅっと顔を出す。
「コロッケの何をお調べになったのです」
「いえ、確かにカ行ではありますが、コロッケを調べたんじゃありません」
「そうですか。カボチャコロッケもクリームコロッケもカ行ですから私はてっきり。そうですか。そう言えば昨日お隣を訪ねて来られた男性のお名前もカ行から始まったような」
「もっといりますか、コロッケ」
「あ、すみません。こんなに」
「で、その男とは」
「最近またよく見るようになった方ですよ。あの背の高い」
やつか。
暗鬱な気分になった。
状況をもう少し詳しく聞いたが、その気分に拍車をかけただけだった。
「あげます」
「え。全部。すみませんねどうも。これで年を越せそうです」
卵のような頭を丁寧に下げるのを呆然と見下ろしてから師匠の部屋に戻る。
その本人は万年筆の先をペロリと舐めながら真面目くさった顔でテーブルに向かっていた。
僕は身体にこびり付いた冷気を振り払うように玄関口で服の裾を直すと、うっそりとコタツに入った。
「クリスマス、どうするんですか」
なんだかどうでも良くなってきて、本題を口にした。
「は?」
師匠は頭がすっかり正月へ飛んでいたのか、その単語の意味が一瞬理解できないような表情をしたが、すぐに笑い始めた。
「おまえ、クリスマスなんか信じているのか」
小馬鹿にしたような声。
いや、まて。なにかおかしい。
「サンタクロースならともかく、クリスマスを信じるっていうその概念がおかしくないですか」

まさか、サンタどころかクリスマスというイベント自体を迷信だと親に吹き込まれてきた可哀想な子だったのか、師匠は。
「ただの言葉の綾だ」
そう言ってまだ笑っている。
なんだかクリスマスを前に焦っているこちらの腹の内を読まれたような気がして、恥ずかしくなった。
「そう言えば、クリスマスにまつわる怪談話があるよ」
「どんな話ですか」
「実話なんだけど」
と言って師匠はコタツの中でゴソゴソ動いていたかと思うと、脱いだばかりの靴下を床に置いた。
「おととしだったか、その前だったか、クリスマスイブに一人でいたんだよ。この部屋に。やけに寒い日だったな。
サンタでも来ねえかなあと思って、枕元に靴下を置いといたんだ。こんな風に。
寝る前にちゃんと戸締りして、よし、これで朝起きて靴下になにか入ってたら、サンタ確定だと。もちろん冗談のつもりだ。
まあイベントごとだし、気分の問題だから。で、寝たわけ」
え……そこから怪談になるって、どういうことだ。まさか。

ドキドキしながら聞いていると、師匠は床に置いた靴下を手に取る。
「朝起きたら、入ってるんだよ」
「うそでしょう」
急に鳥肌が立った。思わず声が大きくなる。
「いや、本当だ。入ってたんだよ、私の足が」
師匠は真剣な表情のまま口元を押さえる仕草をする。
力が抜けた。
「寒かったせいかな。普段は冬でも靴下履かずに寝るから、寝ぼけて履いちゃったらしい」
からかわれたと知って、腹が立ってきた。もういいです、と言ってコタツに入ったまま後ろに倒れこむ。
「いや、私からしたら結構怖かったんだって」と言い訳をしていたが、やがて静かになった。
再び万年筆が紙の上を走る音。
しばしの間考えごとをした後、天井を見ながらぼんやりと言った。
「一昨年はそれとして、今年のイブはどうなんです」
ペン先の音が止まった。

二回訊いたのだ。いくらこの人でもどういう意味で訊いているのか分かっただろう。
顔は冷たく。足は温かい。
わずかな沈黙の後で、「お泊り」という単語が出てきた。
「あ、違った。お泊り」
二回言った。
その二回目は一音節ごとに区切り、しかもくねくねした動きがついていた。
「そうですか」
もういいや。帰ろう。
そう思った時、師匠が意外なことを言った。
「おまえも来るか」
「ハァ?」
思わず跳ね起きた。どうしてそうなるのだ。
僕の動きに驚いたのか、師匠の身体がビクリと反応する。
「いや、そんなに良い所じゃないぞ。鄙びた温泉宿だ」
「行きます」と取り合えず即答しておいてから疑問を口にする。
「なんでクリスマスイブに温泉なんですか」
それには深い事情があってだな。
と師匠がもったいぶりながら話したところを要約すると、要するにバイトだった。
小川調査事務所という名前の興信所で師匠は調査員のバイトをしているのだが、中でもオカルト絡みの妙な依頼を専門に請け負っていた。
たった一人の正職員にして兼所長の小川さんにしても、そうした怪しげな依頼を積極的に求めているわけではないのだが、今までに師匠が携わったケースの関係者からの口コミで、日増しにそんな仕事が増えつつあった。
そしてそんな口コミの大半を担っていると思われるお婆さんがいるらしいのだが、その人の紹介でこの年の瀬に転がり込んできた依頼だった。
「婆さんが贔屓にしてる馴染みの宿ということだけど、どうも出るらしいんだな」
「出る、とは、あれですか」
「うん。これが」
師匠は両手首を引き付けてから胸の前で折った。目を細めて、にゅっと舌も出す。
「そんなに大きな旅館じゃないみたいだけど、毎年正月をそこで過ごすお得意様が何組かいるらしくてな。その前に、つまり年内にどうにかしたいんだと」

「お祓いとかしても駄目だったんでしょうか」
「ああ。駄目だったらしい。そのあたりがちょっと訳ありみたいでな。詳しくはまだ聞いてないんだけど」
僕は指を折ってみた。年末までそれほど猶予がない。だからクリスマスに泊り込みで仕事が入っているのか。
でもどうして僕にあらかじめその話が来なかったのだろう。
零細興信所である小川調査事務所のバイトの助手という立派な肩書きがあるというのに。
「さすがに十代の若者にクリスマスに仕事しろとは言えないからなあ」
「そんな……」
あなたと一緒にいなくて、なんのクリスマスか。とはさすがに言えなかった。
「じゃあ助手を一人連れて行くって言っとくから」
師匠はそれだけを告げるとまた年賀状を書く作業に戻った。僕はそれを見て「そろそろ帰ります」と立ち上がる。
クリスマスイブに師匠と二人、田舎の温泉宿でお化け退治か。
真冬だというのに、身体の芯に火が入ったような感じがした。僕は半ば無意識に小さく拳を握る。それを見た師匠が、「やる気だな。よろしく頼むよ」と気の抜けたような声で言った。

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