師匠シリーズ 第65話 怪物 幕のあとで

師匠シリーズ 第60話 怪物

疲れ果て、最後の気力を振り絞って自転車を漕いでいた私は、家まであと少しという場所まで来ていた。
すべてが終わったという安心感と、なにもできなかったという無力感で、力が抜けそうになる足を叱咤してどうにか前に進んでいた。
両側に家が立ち並ぶ住宅地だったが、街灯の数が足らないのか、いつも夜に通ると少し心細くなる一角だった。
その暗い夜道の向こうに、緑色の光が見える。
公衆電話のボックスだ。
子どものころの経験から、お化けの電話と呼んでいる例の箱。
今、その電話ボックスからヒトを不安にさせるような音が漏れて来ている。
DiLiLiLiLiLiLi……DiLiLiLiLiLiLi……と、息継ぎをするように。
それに気づいたとき、一瞬ドキッとしたがすぐにその正体に思い当たる。
またあの女だ。
私が帰る時間を見計らって、ずっと鳴らしていたのだろうか。
それとも今も、私の行く先をどこかで覗き見ているのだろうか。
どっちにしろ、近所迷惑だ。こんな夜中に。
無視したいのは山々だったが、溜息をついて自転車を降りる。
内側に折れるドアを抜け、箱の中に滑り込む。ベルの音が大きくなった。
緑色の鈍重そうなそのフォルムを一瞥したあと、受話器をフックから外す。
そして耳と顎をくっつける。
「もしもし」
私の呼び掛けに、受話器の向こう側で誰かの呼吸音が微かに聞こえた。
「もしもし?」
もう一度繰り返す。耳を澄まして少し待つ。
ようやく、受話器から声が聞こえて来た。
「あなたはだあれ?」
間崎京子じゃない。
一気に緊張した。爪先から頭まで、電流が走り抜ける。
「あなたは誰なのかな。若い子ね。同い年くらいかな」
聞いたことのない声だ。けれど相手は若い女性であることだけは分かる。

「まあいいわ。言うべきことを言うね。……あなたは今、すべてが終わったと思っているわね。でもだめ。終わってないの」
淡々と語る口調は、いったいこの世のものなのだろうか。
私の脳が生み出した幻覚ではないという保障は? なんという名前だったか、あの近所の男の子。
お化け電話から声が聞こえると言って怯えて逃げ出した子。私の耳には聞こえなかった。
誰か、今すぐここへ来て、私の代わりに受話器に耳をあててくれないか。
「あなたは死体の顔を見たわね。すっかり血が抜けたみたいに土気色をしていた。いったいどれくらい前に死んだのかしら。6時間? 半日? 一日? どちらにしても、きっとあなたが駆けつける前からとっくに死んでいたわね。そう、死臭も嗅いだはずよ」
なんだ? なにを言ってる?
なにを、言ってるんだ?
「あなたの、あなたがたの最後に見た夢は、いったい誰の見た光景なんでしょうね」
爪先から頭まで電流の走り抜けた場所に、今度は冷たい金属を流し込まれたような悪寒が発生する。
「終わってないのよ。途絶えたはずの意識に、続きがあった。そのかわいそうな子どもの魂は、肉体の檻から解き放たれて、今は夜の闇を彷徨っているわ。そして少しずつ、とっても恐ろしいものに生まれ変わろうとしている。それは檻の中にあっても街中に手が届くような力を持っていた。名前はまだない。怪物に、名前をつけてはいけない。きっと取り返しのつかないことになるから」
ねえ、聞いてる?
受話器の向こうで誰かが首を傾げる。
「あなたはもう一度それに遭うことになる。そして病いにも似た刻印を押され、真綿で締められるような苦しみの中に身を置くことになる。忘れないで。今夜出会った人たちがきっと助けになるでしょう。顔をよく覚えておくことね。あ、でもだめ。一人はいなくなる。『代が替わる』のね」
なにを言ってるんだ、いったい。

「わたしにも分からないのよ。ただこんな電話を掛けたという記憶があるだけ。夢の中でわたしが話してるのね。それを再現してるのよ。運命が変えられるかどうかは分からない。でも心構えをするってことが、大事になることだってあるでしょう」
クラノキ、と彼女は名乗った。
「顔も知らない人の夢を見るなんて珍しいな。きっといつかあなたとわたしは友だちになるのかも知れないね。そのころのわたしは、今夜の電話のことなんて忘れてしまってるでしょうけど」
じゃあ、お休みなさい。
そう言って電話は切られた。
混乱する頭を抱えて、私は電話ボックスを出る。
夢。まるで夢の中だ。なにが現実なんだろう。
ポルターガイスト現象の焦点だった少女が、エキドナが、怪物たちのマリアが、最期に恐ろしい怪物を産み落としたというのか。
それがやがて私に苦しみをもたらすと? なんなのだ。どこからどこまでが現実なんだ。
目を閉じて、一秒数えよう。目を開けたら、他愛もなくありふれた土曜日の朝でありますように。
そのときだ。
目を閉じた私の中に、説明しがたい奇妙な感覚が生まれた。
それは言うならば、どこか分からない場所で、なんだか分からないものが、急に大きくなっていくような感覚。
私の五感とは全く関係なく、それが分かるのである。
私は辺りを見回す。離れたところにあったはずの街灯がもう消えてしまって、見えない。
大きくなってる。まだ大きくなってる。
熱を出したときに、布団の中で感じたことのあるような感覚だ。
象くらい? クジラくらい? もっとだ。もっと大きい。ビルくらい? ピラミッドくらい?
もっと。もっと、大きい。

私は訳もなく涙が出そうな感情に襲われた。それは恐怖だろうか。哀しみだろうか。
道の真ん中で空を見上げた。
月が見えない。
大きい。とてつもなく大きい。山よりも。天体よりも。どんなものよりも大きい。
夜に、鱗が生えたような。
呆然と立ち尽くす私の遥か上空を、にび色の魚鱗のようなものが閃いて、音もなく闇の彼方へと消えていった。

……
薄っすらと目を開けて、シーツの白さにまた目を閉じる。
土曜日の朝。カーテンから射し込み、ベッドの上に折り畳まれる、優しい光。
窓の外からスズメの鳴き声が聞こえる。
いったい、スズメはなんのために囀っているのだろう。
ベッドの上に身体を起こす。
この私は昨日までの私だろうか。
あくびをひとつする。髪の毛の中に指を入れる。気分はそんなに悪くない。朝が来たのなら。
『運命が変えられるかどうかは分からない』という言葉が昨日の記憶から蘇り、羽根が生えたように周囲を飛び回り始めた。
もう一度寝そべって、シーツに指で文字を書く。
fate
暫くそれを眺めたあとで、手前にもう一つ文字をくっつけた。
no
それから、私は久しぶりに笑った。
怖い夢は、見なかった気がする。

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