師匠シリーズ 第64話 怪物 「結」下

師匠シリーズ 第60話 怪物

暗い。暗い気分。泥の底に沈んでいく感じ。
私は、やけに暗い部屋に一人でいる。
散らかった壁際に、じっと座ってなにかを待っている。
やがて外から足音が聞こえて私は動き出す。玄関に立ち、ドアに耳をつけて息を殺す。
暗い気持ち。殺したい気持ち。
足音が下から登ってくる。
私はその足音が、母親のだと知っている。
やがてその音がドアの前で止まる。ドンドンドンというドアを叩く振動。
背伸びをして、チェーンを外す。
そしてロックをカチリと捻る。
手には硬い物。私の手に合う、小さな刃物。
ドアが開けられ、ぬうっと、青白い顔が覗く。
母親の顔。見たことのない表情。見たくない表情。
ドアの向こう、母親の背中越しに月。真っ黒いビルのシルエットに半分隠れている。
どこかから空気が漏れているような音がする。それは私の息なのだろうか。
いや、私の身体にはきっとどこかに知らない穴が開いていて、そこから隙間風が吹いているんだろう。
私は入り込んでくる顔に、話しかけることも、笑いかけることも、耳を傾けることもしなかった。
ただ手の中にある硬い物を握り締め、暗い気持ちをもっと暗くして。

「……ッ」
悲鳴が聞こえた。
それは私が上げたのだと気づく。
動悸がする。息が苦しい。
夢だ。夢を見ていた。
身体を起こす。ベッドの上。
天井から降り注ぐ光が眩しい。明かりがついたままだ。

時計を見る。夜中の1時半。服を着たままいつの間にか寝てしまっていた。
手にはじっとりと汗をかいている。まだなにか握っているような感覚がある。
何度か手のひらを開いたり閉じたりしてみる。
辺りを見回すが、特に異変はない。粟立つような寒気だけが身体を覆っている。
そのとき、床に置いたラジオから奇妙な声が聞こえてきた。
ひどく間延びした音で、笑っているような感じ。
夜の家は静まり返っている。カーテンを閉めた2階の窓の向こうからもなんの音も聞こえない。
ただラジオだけが、間延びした笑い声を響かせている。
私は思わずコンセントに走り寄り、コードを引き抜いた。
ぶつりとラジオは黙る。
つけてない。私は眠る前に、ラジオなんてつけてない。
なんなのだ、これは。
家電製品の異常。まるでポルターガイスト現象だ。
私は机の引き出しを恐る恐る開け、乱雑に詰め込まれた文房具の中から鋏を探し出した。
中学時代から使っている小ぶりな鋏。手に持ってみたが、特におかしな所はない。
ひとまずホッとして引き出しを閉める。
どういうことだろう。
今までの夢は明け方、目覚める直前に見る明晰な夢だった。
他の人たちの体験談も一様に同じだ。
しかし今のは1回目か2回目のレム睡眠時の夢だ。
今までだって本当はこの、眠りについてあまり経っていない時間帯にも同じ夢を見ていたのかも知れない。
ただ忘れてしまっているだけで。
でもさっきのリアルさはなんだ? 明らかに今までの夢とは違う。鋏を握る感触もはっきり残っている。
私は左手で自分の顔を触った。そしてこう思う。(こっちが夢なんてことはないよな)

母親に鋏を突き立てようとしている少女こそが本当の私で、今こうして考えている私の方が彼女の見ている夢なんていうことは……
なんだっけ、こういうの。漢文の授業で聞いたな。胡蝶の夢、だったか。
ありえない、と首を振る。
だが少なくとも、今までの夢とは緊迫感が違った。恐怖心のあまり途中で目覚めてしまったのだから。(夢……だよな)
私は恐ろしい想像をし始めていた。真夏の夜の部屋の中が冷たくなって来たような錯覚を覚える。
これまでのは、焦点となっているその少女の見ていた殺意に満ちた夢が夜の街に漏れ出したもので。
今見たのは、現実のドス黒い殺意がリアルタイムで私の頭に干渉していたのではないか、という想像を。
だとしたら、さっきの光景の続きは?
もし夢を見ながら彼女の殺意に同調していた街中の人間たちが、私のようにあのタイミングで目覚めていなかったとしたら?
私は居ても立ってもいられなくなり、部屋の中をぐるぐると回った。
油断なのか。もう明日にも手が届くと思ってだらしなく寝てしまった私のせいなのか。
でもなにが出来たって言うんだ。
あんな遅くに間崎京子の家まで行って似顔絵を描かせ、それを手にまたあの住宅街を聞き込みすれば良かったのか?
せめて家の場所が特定できれば……
そう考えたとき、私は視線を斜め下に向けた。
待て。
ドアの向こうの景色。月が半分隠れていたビルのシルエット。夢の中の視線。
あのビルは知っているぞ。
市内に住む人間ならきっと誰でも知っている。一番高いビルなのだから。
ビルの位置と、月の位置。それが分かるなら、場所が、それらが玄関の中からドア越しに見えている家が、ほぼ特定出来るかも知れない!

私は部屋を飛び出した。
そして階段を降りながら、眠っている家族を起こさないようにその勢いを緩める。
家の中は静まり返っていて、父親のいびきだけが微かに聞こえてくる。
私は玄関に向かおうとした足を止め、客間の方を覗いてみた。
いつもは2階で寝ている母親だが、最近は寝苦しいからと言って風通しの良い客間で寝ているのだ。
襖をそっと開け、豆電球の下で掛け布団が規則正しく上下しているのを確認する。
良かった。何事もなくて。
そして踵を返そうとしたとき、暗がりの中、鈍く光るものに気がついた。
それは私の右手に握られている。さっきから右手が妙に不自由な感じがしていた。
なのに、何故かそれに気づかず、目に入らず、あるいは目を逸らし、気づかないふりをして、ずっとここまで持って来ていた。
鋏だ。
机の引き出しを閉めながら、鋏は仕舞わなかったのだ。右手に持ったままで。
逆再生のようにその記憶が蘇る。
全身の毛が逆立つような寒気が走り、ついで、目の前が暗くなるような眩暈がして、私は鋏をその場に落っことした。
鋏は畳の上に小さな音を立てて転がり、私は後も見ずに玄関の方へ駆け出す。叫びたい衝動を必死で堪える。
ギィ、というやけに大きな音とともにドアが開き、湿り気を含んだ生暖かい夜気が頬を撫でた。
外は暗い。
玄関口に据え置きの懐中電灯を手にして、駐車場へ向かう。
そして自転車のカゴにそれを放り込んで、サドルを跨ぐ。
始めはゆっくり、そしてすぐに力を込めて、ぐん、と加速する。(鋏を持ってた! 無意識に!)
混乱する頭を風にぶつける。いや、風がぶつかって来るのか。
私は今、自分がしていることが、すべて自分自身の意思によるものなのか分からなくなっていた。

もうたくさんだ。こんなこと。もうたくさんだ。
寝静まる夜の街並みを突っ切って自転車を漕ぎ続ける。
空は晴れていて、遥か高い所にあるわずかな雲が月の光に映えている。
この同じ空の下に、目に見えない殺意の手が、無数の枝を伸ばすように今も蠢いているのか。
それに触られないように、身を捩りながら、前へ前へと漕ぎ進む。
と――――
耳の奥に、風の音とは違うなにかが聞こえて来た。
聞き覚えのあるような、ないような、音。人を不安な気持ちにさせる音。
夜の、電話の音だ。
自転車のスピードを落とす私の目の前に、暗い街灯がぽつんとあるその向こう、公衆電話のボックスが現れた。
音はそのボックスから漏れている。DiLiLiLiLiLiLi……DiLiLiLiLiLiLi……と、息継ぎをするようにその音は続く。
ばっく、ばっく、と心臓が脈打つ。
お化けの電話だ。
そんな言葉が頭のどこかで聞こえる。
誰もいない、夜の電話ボックス。
私は自転車を脇に止め、なにかに魅入られたようにフラフラとそれに近づいていく自分を、どこか現実ではないような気持ちで、まるで他人ごとのように眺めていた。
擦れるような音を立てて内側に折れるドア。
中に入ると自然にドアは閉まり、緑色の電話機が天井の蛍光灯に照らされながら、不快な音を発している。
私はそろそろと右手を伸ばし、受話器を握り締める。
フックの上る音がして、Lin、という余韻を最後に呼び出し音は途絶える。
この受話器の向こうにいるのは誰だろう?
そんなぼんやりした思考とは別に、心臓は高速で動き続けている。
「もしもし」
声が掠れた。もう一度言う。
「もしもし」
受話器の向こうで、笑うような気配があった。

「……行ってはいけない」
この声は。
そう思った瞬間、脳の機能が再起動を始める。
間崎京子だ。この向こうにいるのは。
「鉱物の中で眠り、植物の中で目覚め、動物の中で歩いたものが、ヒトの中でなにをしたか、わかって?」
冷え冷えとした声が、ノイズとともに響いてくる。
「何故だ。どうやってここに掛けた」
沈黙。
「お前も見たのか。あの夢を。行くなとはどういうことだ」
コン、コン、コン、とせせら笑うような咳が聞こえる。
「……その電話機の左下を見て」
言われた通り視線を落とす。
そこには銀色のシールが張ってあり、電話番号が記されている。
この電話機の番号だろうか。
「みんな案外知らないのね。公衆電話にだって、外から掛けられるわ」
その言葉を聞きながら、私は頭がクラクラし始めた。
思考のバランスが崩れるような感覚。
この電話の向こうにいるのは、生身の人間なのか? それとも、人の世界には属さないなにかなのか。
「夢を見て、あなたがそこへ向かうことはすぐに分かったのよ。そしたら、その電話ボックスの前を通るでしょう。一言だけ、注意したくて、掛けたの」
「どうして番号を知っていた」
「あなたのことなら、なんでも知ってるわ」
あらかじめ調べておいたということか。
いつ役に立つとも知れないこんな公衆電話の番号まで。
「行ってはいけない。わたしも、少し甘く見ていた」
「なにをだ」
再び沈黙。微かな呼吸音。
「でもだめね。あなたは行く。だから、わたしは祈っているわ。無事でありますようにと」
通話が切れた。

ツー、ツー、という音が右耳にリフレインする。
私は最後に、言おうとしていた。電話を切られる前に、急いで言おうとしていた。
そのことに愕然とする。
いっしょにきて。
そう言おうとしていたのだ。
頼るもののないこの夜の闇の中を、共に歩く誰かの肩が、欲しかった。
受話器をフックに戻し、電話ボックスを出る。
少し離れた所にある街灯が、瞬きをし始める。消えかけているのか。私は自転車のハンドルを握る。
行こう。一人でも、夢の続きを知るために。
自転車は加速する。耳の形に沿って風がくるくると回り、複雑な音の中に私を閉じ込める。
振り向いても電話ボックスはもう見えなくなった。離れて行くに従って、さっきの電話が本当にあった出来事なのか分からなくなる。
何度目かの角を曲がり、しばらく進むと道路の真ん中になにかが置かれていることに気がついた。
速度を緩めて目を凝らすと、それはコーンだった。工事現場によくある、あの円錐形をしたもの。パイロン、というのだったか。
道路の両側には民家のコンクリート塀が並んでいる。ずっと遠くまで。
アスファルトの上に、ただ場違いに派手な黄色と黒のコーンがひとつ、ぽつんと置かれているだけだ。
当然、向こうには工事の痕跡すらない。誰かのイタズラだろうか。
その横をすり抜けて、さらに進む。
500メートルほど行くとまた道路の真ん中に三角のシルエットが現れた。またコーンだ。
避けて突っ切ると、今度は10秒ほどで次のコーンが出現する。通り過ぎると、またすぐに次のコーンが……
それは奇妙な光景だった。

人影もなく、誰も通らない深夜の住宅街に、何らかの危険があることを示す物が整然と並んでいるのだ。
だが行けども行けどもなにもない。ただコーンだけが道に無造作に置かれている。
段々と薄気味悪くなって来た。あまり考えないようにして、ホイールの回転だけに意識を集中しようとする。
だが、その背の高いシルエットを見たときには心構えがなかった分、全身に衝撃が走った。
今度はコーンではない。細くて長く、頭の部分が丸い。道でよく見るものだが、それが真夜中の道路の真ん中にある光景は、まるでこの世のものではないような違和感があった。
『進入禁止』を表す道路標識が、そのコンクリートの土台ごと引っこ抜かれて道路の上に置かれているのだ。
周囲を見回しても元あったと思しき穴は見つからない。いったい誰が、そしてどこから運んで来たというのか。
ゾクゾクする肩を押さえながら、『進入禁止』されているその向こう側へ通り抜ける。
これもポルターガイスト現象なのか?
しかしこれまでに起きた怪現象たちとは、明らかにその性質が異なっている気がする。
石の雨や、電信柱や並木が引き抜かれた事件、中身をぶちまけられる本棚やビルの奇妙な停電などは、”意図”のようなものを感じさせない、ある意味純粋なイタズラのような印象を受けたが、この道に置かれたコーンや道路標識は、その統一された意味といい、執拗さといい、何者かの”意図”がほの見えるのである。
く・る・な。
その3音を、私は頭の中で再生する。
ポルターガイスト現象の現れ方が変わった。それが何故なのか分からない。
現れ方が変わったと言うよりも、「ステージが上った」と言うべきなのか。
これでは、RSPK、反復性偶発性念力などという代物ではない。
もっと恐ろしいなにか……
私は吐く息に力を込める。目は前方を強く見据える。怖気づいてはいけない。
ビュンビュンと景色は過ぎ去り、放課後に訪れたオレンジの円の中心地である住宅街へ到着する。
結局、道路標識はあれ以降出現しなかった。言わば最後の警告だった訳か。

私は夜空を仰ぎ、月の光に照らされたビルの影を探す。
この街で一番高い影だ。
そして月がそのビルに半分隠れるような視点を求めて、息を殺しながら自転車をゆっくりと進める。
動くものは誰もいない。ほとんどの家が寝静まって明かりも漏れていない。
様々な形の屋根が、黒々とした威容を四方に広げている。
やがて私は背の低い垣根の前に行き着いた。街にぽっかりと開いた穴のような空間。
向こうには銀色の街灯が見える。遮蔽物のない場所を選んで通るのか、風が強くなった気がする。
公園だ。
私は胸の中に渦巻き始めた言いようのない予感とともに、自転車を入り口にとめ、スタンドを下ろしてから公園の中に足を踏み入れた。
靴を柔らかく押し返す土の感触。銀色の光に暗く浮かび上がる遊具たち。
見上げても月はビルに隠れていない。ここではない。けれど今、私の視線の先には、街灯の下に立つ二つの人影があるのだ。
ごくり、と口の中のわずかな水分を飲み込む。
人影たちも近づいて行く私に明らかに気づいていた。こちらを見つめている複数の視線を確かに感じる。
風が耳元に唸りを上げて通り過ぎた。
「また来たよ」
影の一つが口を開いた。
「どうなってるんだ」
ようやくその姿形が見えて来た。眼鏡を掛けた男だ。白いシャツにスラックス。
ネクタイこそしていないが、サラリーマンのような風貌だった。神経質そうなその顔は、30歳くらいだろうか。
「こんな時間に、こんな場所に来るんだから、私たちと同じなんでしょうね」
声は若いが、外見は50過ぎのおばさんだった。
地味なカーキ色の上着に、スカート。
小太りの体型は、不思議と私の心を和ませた。
「あの、あなたたちは、なにを……」
そこまで言って、言葉に詰まる。

「だから、言ってるでしょ。同じだって。あんたも見たんだろ、アノ夢を」
真横から聞こえたその声に驚いて顔をそちらに向ける。
小さな鉄柵の向こうにブランコがひとつだけあり、そこにもう一人の人物が腰掛けていた。
キィキィと鎖を軋ませながら足で身体を前後に揺すっている。
「あんた、高校生?」
馬鹿にしたような言葉がその口から発せられる。
目深にキャップを被っているが、若い女性であることは、声と服装で分かる。
太腿が出たホットパンツにTシャツという、涼しげな格好。あまり上品なようには見えない。
「ま、ここまでたどり着いたってことはタダモノじゃない訳だ」
意味深に笑う。
私の体内の血液が徐々に加熱されていく。
同じなのだ。この人たちは。私と。
彼らは街で起こった怪奇現象と母親殺しの夢の秘密を解いて、ここに集った人間たちなのだ。
得体の知れない不吉さと不安感に駆られて動き回った数日間が、絶対的に個人的な体験だったはずの数日間が、並行する複数の人間の体験と重なっていたということに、歓喜と寒気と、そして昂揚を覚えていた。
「あなた、さっきの夢は、どこまで?」
おばさんがこちらを向いて聞いてきた。私はありのままに話す。
「やっぱり」
少し残念そう。
「みんな同じ所までで目が覚めてるのね」
「も、もういいよ。ここでいつまでも話してたってしょうがないだろ」
眼鏡の男が手を広げて大げさに振った。
「でもねぇ、これ以上はどうやっても探せないのよね」
おばさんが頬に手のひらを当てる。
「あんな、月とビルの位置だけじゃ、ある程度にしか場所を絞れないし、時間経っちゃったから、余計に分かんないのよね」
「こうしてたって、余計分かんなくなるだけじゃないか」
「そうよねえ。取り合えず、近くまで行けばなにか分かるんじゃないかと思ったんだけど……」

そんな言い合いを聞きながら、私の脳裏には先週の漢文の授業で先生が教えてくれた「シップウにケイソウを知る」という言葉が浮かび上がっていた。
確か、強い風が吹いて初めて風に負けない強い草が見分けられるように、世が乱れて初めて能力のある人間が頭角を現すというような意味だったはずだ。
昼間には無数の人々が行き来するこの街で、誰もかれも自分たちのささやかな常識の中で呼吸をしながら暮らしている。
それが例え、日陰を選んで歩く犯罪者であったとしても。
けれど、そんな街でもこうして夜になれば、常識の殻を破り、この世のことわりの裏側をすり抜ける奇妙な人間たちが蠢き出す。
普段は、お互いに道ですれ違っても気づかない。それぞれがそれぞれの個人的な世界を生きている。
それが今はこうして、同じ秘密を求めてここにいるのだ。のっぺりとした匿名の仮面を外して。
私はそのことに言い知れない胸の高鳴りを覚えていた。
「4人もいたら、なにか良い知恵が浮かんできそうなものなのにね」
おばさんがため息をつく。
キャップ女が鼻で笑うように「4人だって? 5人だろ」と指をさした。
みんながそちらを見る。大きな銀杏の木がひとつだけ街灯のそばに立ってる。
その木の幹の裏に隠れるように、白い小さな顔がこちらを覗いていた。
私はそれが生きている人間に思えなくて、髪の毛が逆立つようなショックがあった。
けれどその顔が、驚きの表情を浮かべ、恥ずかしそうに木の裏に隠れたのを見て、おや? と思う。
「え? あら。女の子?」
おばさんが甲高い声を上げる。
「お、おいおい。いつからいたんだ。全然気づかなかったぞ」と眼鏡の男が呟いて、額の汗をハンカチで拭う。
「ねぇ、あなた近所の子? こんな遅くに外に出て、だめじゃないの」
おばさんが優しい声で呼び掛けると、顔を半分だけ出した。10歳くらいだろうか。
「あら、この子、外人さんの子どもかしら」
言われて良く見ると、眼球が青く光っている。
街灯の光の加減ではないようだ。

「帰った方がいい。ここは危ない」
眼鏡の男が早口でそう言い、近寄ろうとする。女の子はまた木の裏側に隠れた。
男が腕を前に伸ばしながら、回り込もうとする。すると、その子はその動きに沿ってぐるぐると反対側に回る。
「あれ、なんだこいつ。なに逃げてんだよ、おい」
眼鏡の男が苛立った声を上げるのを、ブランコに揺られながらキャップ女がせせら笑う。
「あんたロリコン?」
「うるさい」
「ちょっと、やめなさいよ。怯えてるじゃないの」
おばさんが男をなだめる。
「大したものだな。この子、この歳であたしたちと同じモノ見てるんだよ」
キャップ女の口の端が上る。
そんなバカな。こんな小さな子どもが、私と同じことを考えてここまでやって来たというのだろうか。
そう思ったとき、私の耳がある異変をとらえた。
「し」と誰かが短く言う。
息を呑む私たちの耳に、鳥の鳴き声のようなものが聞こえて来た。
ギャアギャアギャア……
カラスだ。
私はとっさにそう思った。公園の中じゃない。
全員が身構える。
鳴き声は次第に小さくなり、やがて聞こえなくなった。
ブランコが錆びた音を立ててキャップ女が降りて来る。
「なんて言ったと思う?」
誰にともなく、そう問い掛ける。
「警戒せよ、だ」
彼女は私の顔を見てそう言った。なぜかデジャヴのようなものを感じた。
足音を殺して、全員が公園の出口に向かう。行動に転じるのが早い。躊躇わない。

私も深呼吸をしてからそれに続く。
公園の敷地を出てから、すぐにアスファルトを擦る靴の音がやけに大きく響くことに気づく。
眼鏡の男の革靴だ。みんな足音を殺しているのに。
複数の睨むような視線に気づきもしない様子で、彼は先頭を切って公園に面した道路を右方向へと進む。
月の光に照らされる誰もいない夜の道を、5つの影が走り抜ける。
5つ? 振り向くと、小さな少女が厚手の服をヒラヒラさせながら、少し離れてついて来ている。
青い眼が月光に濡れたように妖しく輝いて見える。
あれも肉体を持った人間なのだろうか。なんだかこの夜の街ではすべてが戯画のように思える。
そしてこれから、なにかもっと恐ろしいものを見てしまうような気がして足を止めたくなる。
それは、昼と地続きの夜を生きる人にはけっして見えないもの。
引き抜かれた道路標識などとはまた違う、自分の中の良識を一部、そして確実に訂正しなくてはならないような、そんなものを。
私はいつのまにか現実と瓜二つの異界に紛れ込んでいるのではないだろうか。
慎重に足を動かしながらそんなことを考える。
細長い緑地が住宅地の区画を分けていて、その一段高い舗装レンガの歩道の上に大きな木が枝を四方に張っていた。
生い茂る葉が月を覆い隠し、その真下に出来た闇に紛れるように小動物の蠢く影が見えた。
立ち止まる私たちの目の前でギャアギャアという不快な声を上げ、その影がふたつ飛び立った。
カラスだ。2羽は鈍重な翼を振り乱して、あっというまに夜の空へ消えて行く。
私たちは息を潜めてカラスたちがいた場所を覗き込む。暗がりに、それはいる。
ああ。やはりこちらが夢なのかも知れない。私の知っている世界では、こんなことは起きない。
「エエエエエエエ……」
弱弱しい声を搾り出すようにして、身を捩じらせる。
それは、まるで巣から落ちてしまったカラスの雛のように見えた。
さっきの2羽が心配して覗き込んでいた両親だろう。
けれどあの悲鳴のような鳴き声は、我が子を案じる親のそれではなかった。

警戒せよ。警戒せよ。この異物を、警戒せよ。
そう言っていたような気がする。
「エエエエエエエ……」
そんな力ない呻きが、ありえないほど小さな人間の顔から漏れる。
赤ん坊のようなその顔の下には、薄汚れた羽毛に包まれたカラスの雛の胴体がくっ付いている。
それは生きていること自体が耐えられない苦痛であるかのように小さな身体をくねらせて、レンガの上を這いずっている。
それを見下ろしている誰もが息を呑み、動けないでいた。
掠れながら呻き声は続く。私の知るそれより、はるかに小さい赤ん坊の顔は、閉じられた目から涙を流しながらクシャクシャと歪んで小刻みに震えている。
やがてその呻き声が少しずつ変調し、聞こえる部分と聞こえない部分が生まれ始める。
「こ、これは、おい、なんだ、これは……」
眼鏡の男が口を押さえて震えている。
「黙りなさい」
その隣でおばさんが短く、しかし強い口調で言う。
風が吹いて頭上の葉がざわめいた。声が聞こえなくなり、私たちは自然と顔を近づける。
「…………か…………い…………に……………」
赤ん坊の頭部を持つそれは、呻きながら同じ言葉を繰り返し始めた。
なんと言っている? 耳を澄ますけれど、目に見えない誰かの手がその耳を塞ごうとしている。
いや、その手は私の中の危険を察知する敏感な部分から、伸びているのかも知れない。
でももう遅い。聞こえる。
か・わ・い・そ・う・に。
そう言っているのが、聞こえる。
涙を流し、苦痛に身を悶えさせながらそれは、かわいそうに、かわいそうに、という言葉を繰り返しているのだ。
「くだん、だ」
眼鏡の男が呆然として呟いた。

くだん? くだんというのは確か、人の顔と牛の身体を持つ化け物のことだ。
生まれてすぐに災いに関する予言を残して死んでしまうという話を聞いたことがある。
人の頭部と、動物の胴体を持っている部分だけしか合っていない。
そう言えば最近、身体が2種類以上の動物で構成された化け物のことを考えたことがあるな。
あれはなんのことだったか。はるか昔のことのように思える。そうだ。あれは間崎京子の謎掛けだ。共通点はなに? 化け物を生んだのは誰?
思考がぐるぐると回る。
「なにか来る!」
キャップ女の鋭い声に振り向くと、黒い塊がこちらに向かって飛び込んで来た。
一番後ろで屈んでいた青い眼の少女が弾けるようにそれを避け、勢い余って尻餅をつく。
私を含む他の4人も瞬時に身体を反転させて、その体当たりから身をかわす。
黒い塊は荒い息遣いを撒き散らしながら、歯茎を見せて私たちを威嚇するように唸り声を上げる。
犬だ。首輪もしていない。野犬だ。
目は血走って、焦点が合っていないように見える。
地面に手をついていた私はすぐに立ち上がり、犬から離れる。
他の人たちも後ずさりしながら木の下から遠ざかる。おばさんが尻餅をついてまま動けないでいる少女を抱き起こしながら慌てて逃げ出す。
犬は、離れていく人間には興味を示さずに、舌を垂らしながら木の根元の暗がりへ首を伸ばした。
そして、ぐるるるる、という唸り声と、肉が咀嚼される気持ちの悪い音が聞こえて来る。
「く、喰ってる」
10メートル以上離れた場所から、腰の引けた状態の眼鏡の男が絶句する。
もうその木の下からは人の声は聞こえない。
ただ肉と骨が噛み砕かれる音だけが夜陰に篭ったように響いているだけだ。
私はどうしようもなく気分が悪くなり、そちらを正視できないほどの悪寒に全身が震え始めた。

遠巻きにそれを眺めることしか出来ない私たちが動きを止めているその前で、徐々に犬の立てる物音が小さくなり、やがて湿り気のある呼吸音だけになる。
空腹を収めることが出来たのか、犬は始めとは全く違う緩慢な動きで舌を這わせ、口の周りを舐め始める。
見えた訳ではない。犬は向こうを向いたままだ。ただそういうイメージを抱かせる音がピチャピチャと聞こえている。
そしてひとしきり肉食の余韻を味わった後、犬は一声鳴いて木の幹を回り込むようにして闇に消えていった。
その最後に鳴いた声は気味の悪い声色で、耳にこびり付いたようにいつまでも離れない。
かわいそうに。
と、私の耳には確かにそう聞こえた。
犬の影が見えなくなると住宅街の中の緑地は静けさを取り戻す。
「なんだったの」
おばさんが少女の手を取ったまま声を絞り出し、眼鏡の男が恐る恐る木の根元に近づいていく。
「喰われてる」
そんな言葉に私も首を伸ばすが、そこには黒い血の染みと散らばった羽毛しか残ってはいなかった。
「畸形、だったのか?」
自問するように眼鏡の男が口走る。
それを受けて、キャップ女が「なわけないだろ」と嘲る。
私もそう思う。畸形だろうがなんだろうが、自然界があんな冒涜的な存在を許すとは思えなかった。ならば……
「幻覚?」
私の言葉に全員の視線が集まる。
「でも、みんな同じものを見たんだろ。その……くだんみたいなやつを」
「ちょっと待て。あんただけ牛を見たのかよ」
キャップ女が突っかかる。
「ち、違う。じゃあなんて言うんだよ、ああいう人間の顔したやつを」
「そう言えば、人面犬ってのが昔いたねぇ」
とおばさんが少しずれたことを言う。

「くだんなら、予言をするんだろ。戦争とか、疫病とかを」
キャップ女が両手を広げてみせる。
「言ってたじゃないか」
「かわいそうに、が予言か?。いったい誰がかわいそうだっていうんだ」
その言葉に、言った本人も含め、全員が緊張するのが分かった。
ざわざわと葉が揺れる。
そうだ。かわいそうなのは、誰だ?
脳裏に、何度も夢で見た光景が圧縮されて早回しのように再生される。
この場所に来た理由を忘れるところだった。
とっさに空を見る。
月は、雲に隠れることもなく輝いている。
月の位置。そして一番背の高いビルの位置。
近い。と思う。
「月はどっちからどっちへ動く?」と眼鏡の男が周囲に投げ掛ける。
「太陽と同じだろ。あっちからこっちだ」とキャップ女が指でアーチを作る。
「あ、でも1時間に何度動くんだっけ? 忘れたな。あんた、現役だろ?」
いきなり振られて動揺したが、「たぶん、15度」と答える。
「1時間、ちょい過ぎくらいか、今」
そう言いながら眼鏡の男が指で輪ッかを作って月を覗き込む。
「15度って、どんくらいだ」
輪ッかを目に当てたまま呟くが、誰も返事をしなかった。
「でもたぶん、近いわね」とおばさんが真剣な表情で言う。
「手分けして、虱潰しに探すか」
眼鏡の男の提案に、賛同の声は上がらなかった。
やがて「こんな時間に一般人を叩き起こして回ったら、警察呼ばれるな」と自己解決したように溜息をつく。
暫し気分的にも空間的にも停滞の時間が訪れた。
キャップ女とおばさんが、小声でなにかを話し合っている。
眼鏡の男はぶつぶつと独りごとを言っていたが、木の幹に隠れるように寄り添っていた青い眼の少女に向かって「おまえもなんか言えよ」と投げ掛けた。

少女は、身構えたようにじっとしたまま瞼をぱちぱちとしている。
私はさっきのフラッシュバックに引っ掛かるものを感じてもう一度夢の光景を思い出そうとする。
それは些細なことのようで、また同時にとても重要な意味を持っているような気がする。
どこだ? 揺らめく記憶の海に顔を漬ける。
刃物の感触? 違う。ロックが外れる音。チェーンを外すための背伸び。叩かれるドア。
違う。まだ、その前だ。足音。その足音を、母親のものだと知っている。足音は、下から登ってくる……
ハッと顔を上げた。
確かに、足音は下の方から聞こえて来た。何故それをもっと深く考えなかったのか。
2階以上だ。2階以上の場所に玄関があるということは、集合住宅。マンションか、アパートか。
私は夜の中へ駆け出した。他の人たちの驚いた顔を背中に残して。
考えろ。フラットな場所の足音ではない。登ってくる音だった。
マンションなら、部屋の中から通路の端の階段を登ってくる足音が聞こえるだろうか。
端部屋なら、可能性はある。でも、例えば、階段が部屋の玄関のすぐ前に配置されているようなアパートなら、もっと……
私の視線の先に、それは現れた。
比較的古い家が並んでいる一角に、木造の小さな2階建てのアパートがひっそりと佇んでいる。
1階に3部屋、2階にも3部屋。玄関側が道に面している。
ささやかな手すりの向こうにドアが6つ、平面に並んで見える。
1階から2階へ上がる階段は、1階の右端のドアの前から2階の左端のドアの前へ伸びている。
赤い錆が浮いた安っぽい鉄製の階段だ。登れば、カン、カン、とさぞ騒々しい音を立てることだろう。
立ち尽くす私に、ようやく他の人たちが追いついて来た。
「なんなのよ」
「待て、そうか、足音か」
「このアパートがそうなのか」
「……」
アパートに敷地に入り込み、階段のそばについた黄色い電灯の明かりを頼りに、駐輪場のそばの郵便受けを覗き込む。

上下に3つずつ並んだ銀色の箱には、101から203の数字が殴り書きされている。
名前は書かれていない。そして101と、201、そして203の箱にはチラシの類が溢れんばかりに詰め込まれている。
綺麗に片付けられた番号の部屋には、現在まともに住んでいる入居者がいるということだろう。
2階で綺麗なのは202だけだ。
道理で、母親の足音だと分かったはずだ。階段を登ってくるものは、他にいないのだろう。
同じようにその意味を理解したらしい人たちの息を呑む気配が伝わって来る。
階段を見上げながらそちらに歩こうとすると、いきなり猫の鳴き声が響いた。
見ると、青い眼の少女の前から1匹の汚らしい猫が逃げて行くところだった。
敷地の隅に設置されたゴミ置き場らしきスペースだ。黒いビニール袋やダンボールが重ねられている。
青い眼の少女は猫の去ったゴミ置き場から目を逸らさずにじっとしていた。
その異様な気配に気づいた私もそちらに足を向ける。
じっとりと汗が滲み始める。さっき走ったせいばかりではない。
暗い予感に空間がグニャグニャと歪む。私の鼻は微かな臭気を感知していた。肉の匂い。腐っていく匂い。
ゴミ置き場が近くなったり、遠ざかったりする。雑草が足に絡まって、前に進まない。どこからともなく荒い息遣い。
そしてその中に混じって、かわいそうに、かわいそうに、という声が聞こえる。
幻聴だ。雑草も丈が短い。ゴミ置き場も動いたりなんかしない。
理性が、障害をひとつ、ひとつと追い払っていく。
けれど臭気だけは依然としてあった。
ひときわ中身の詰まった黒いゴミ袋が、スペースの真ん中に捨てられている。
2重、いや3重にでもされているのか、やけにごわごわしている。
誰も息を殺してそれを見つめている。肩が触れないギリギリの距離で、皆が並んでいる。
胸に杭が断続的に打ち込まれているような感じ。手をそこに当てる。見たくない。

でも目を逸らせない。
眼鏡の男が、腰の引けたままゴミ袋の上部に出来た破れ目に指をかける。さっきの猫の仕業だろうか。
ガサガサという音とともに、中身が月の光の下に現れる。
土気色の肌。
目を閉じたまま、口を半開きにした幼い女の子の顔が、ゴミ袋の破れ目から覗いている。
生きている人間の顔ではなかった。
それを見た瞬間、全身の血が沸騰した。
足が土を蹴り、無意識に階段の方へ駆け出す。
けれど次の瞬間、前に回りこんだ何者かの手に肩を押さえられる。遠慮のない力だった。
目の前に顔が現れる。目深に被ったキャップの下の険しい表情。
「落ち着け」
その言葉が私に投げ掛けられるすぐ横を、眼鏡の男がなにか喚きながら駆け抜けようとする。
キャップ女は間髪要れずに右足を引っ掛け、眼鏡の男はその場に転倒した。
「なにするのよ」とおばさんが叫んで、私の背中を押す。
その力は私の前進しようとする力と併わさり、じりじりとキャップ女は後退を始める。
「落ち着け。なにをする気だ」
なにをする気? 決まってる。報復をしなければいけない。同じ目に遭わせてやる。
子どもをゴミ同然に捨てながら、202号室のドアの向こうにのうのうと生きているあの母親を。
「どきなさいよ」とおばさんが上ずった声でキャップ女を怒鳴りつける。
すぐ横では眼鏡の男が立ちあがろうとする。
「クソッ」と呻きながら、キャップ女が右足を跳ね上げ、男の顔面を蹴った。
ジャストミートはしなかったが、眼鏡が弾けるように宙に飛んで草むらに消えた。
「うわっ」と、眼鏡の男は両手で顔を押さえる。
足を上げたせいでバランスを崩したキャップ女が体勢を立て直す前に、私は掴まれた肩を振りほどきながら一気に突進した。

一瞬、押し返されるような強い反動があったが、堰が切れるようにその壁が崩れる。
3人が絡み合うようにひっくり返り、勢いあまったキャップ女の側頭部が階段の基部のコンクリートに叩きつけられるのが目に入った。
私も地面に肘を強く打っていた。痛みに顔を顰めるが、すぐに立ちあがろうとする。
でもなにかが太腿の裏に乗っている。邪魔だ。おばさんの胴体か。
「アイタタタタ」じゃない。すぐに部屋に行かないと。この頭を掻き回すざわめきが、どこかに去っていってしまう気がして。
いきなり服を引っ張られた。後ろからだ。首を廻すと、青い眼の少女が震えながら私の上着を両手で掴んでいる。頭を振って、なんらかの否定の意を表現しようとしている。
「離せ」
そう口にした瞬間、なにか蛇のようなものが首の根元に絡みついた。
ついで、ぴたりとその本体が私のうなじのあたりに接着する。
「悪いね」
そんな言葉が耳元で囁かれ、絡みついたものが私の首を締め上げる。狙いは気道ではない。頚動脈だ。
とっさに腕を背後に回そうとするが、もっと力の強い別のなにかが私の胴体ごと腕を挟み込む。
意識が遠のいていく。夜空には月が冷え冷えと輝いている。星はあまり見えない。
暗い。月も暗くなっていく。苦しいけれど、少し心地よい。
そこで世界はぶつりと途絶えた。

目が覚めたとき、私はベンチで横になっていた。額の上に水で濡れたハンカチが乗っている。
指で摘みながら身体を起こすと、銀色の光が目に入った。
公園だ。辺りは暗い。街灯に照らされた大きな銀杏の木の影がこちらに伸びて来ている。キィキィとブランコが揺れる音がする。
「起きたな」

ブランコが止まり、そちらからいくつかの影が歩み寄ってくる。
「良かった。なかなか気がつかないからどうしようかと思ったのよ」
おばさんがホッとしたような顔で言った。
「だから言ったろ。寝てるだけだって」
キャップ女が疲れたような動きで右手を広げる。
じわじわと記憶が蘇って来た。そうだ。私は、裸締めで落とされたのだ。彼女に。
私は目を閉じ、ドス黒い感情が身体の中に残っていないのを確認する。
あれほど目標を破壊したかった衝動がすべて体外に流れ出してしまったかのように、すっきりとした気分だった。
「ぼ、僕たちはあの子の思念に同調しすぎたんだ」と眼鏡の男が言った。
「あ、あやうく、人殺しをさせられるところだった」
「ほんと勘弁して欲しいよ。3対1だったんだから。おっと、あの青い眼のお嬢ちゃんも入れて3対2か。まあ手荒な真似して悪かったな」
力なく笑うキャップ女に眼鏡の男が頭を下げる。
「いや、おかげで助かった。ありがとう」
その眼鏡のフレームは少し歪んでしまっている。
私はそのとき、キャップ女の頬を伝う黒い筋に気がついた。
こめかみから伸びる乾いた血の跡だ。
転倒したときに階段の基部で打った部分か。
「ああ、これか。カスリ傷だ」
「痕にならないといいけど」
とおばさんが心配げに言う。
「他にもいっぱいあるし、いいよ別に」
そんなやり取りを聞きながら、私は肝心なことを思い出した。
「あの子は、どうなったんですか」
一瞬、風が冷たくなる。
キャップ女がゆっくりと口を開く。
「現場維持のまま、撤退して来た。……おい、ここでまたキレんなよ。とにかく、ここから先は警察の仕事だ。わたしたちが動いていい段階は終わったんだ」
あの子を、あの子の死体を、ゴミ袋に入れられた状態のまま放置したのか。
思わずカッとしかける。

「あの子は、母親を殺さなかった。殺す夢を見ても、殺さなかった。最後まで、殺されるまで、殺さなかった。ギリギリのところで、そんな選択をした。わたしたちが、この街の人たちが、こうして静かな夜の中にいられるのもそのおかげだ」
目に映る住宅街の明かりはほとんどなく、目に映るすべてが夏の夜の底に眠っている。
「ここに来るべきじゃなかった。そんな警告すら、あの子はしていたような気がする。もう終わったことだ。招かれざる侵入者は。目を閉じて去るべきだ」
キャップの下の真剣な目がそっと伏せられた。
警告。そうか、あのコーンや道路標識はそのためなのか。
ではあの、カラスとヒトがくっついたような不気味な生き物は?
誰もその答えは持っていなかった。分からない。分からないことだらけだ。
私は自分の住む世界のすぐそばで、目を凝らしても見えない奇妙なものたちが蠢いていることを認めざるを得ないのだろうか。
子どものころから占いは好きだったけれど、心のどこかではこんなもの当たるわけないと思っていた。
それでも続けたのは、予感のようなものがあったからなのかも知れない。
100回否定されても、101回目が真実の相貌を覗かせれば、私たちの世界のあり方は反転する。
そんな期待を持っていたのかも知れない。
『変わってる途中、みたいな』
そうだ。私は変わりつつある。
何故だか、身体が武者震いのようなざわめきに包まれる。
その瞬間、背筋に誰かの視線を感じた。それも強烈に。誰もいないはずの背後の空間から。
キャップ女の身体が目にもとまらないスピードで動き、私の座るベンチの端に足を掛けたかと思うと、全身のバネを使って虚空に跳躍した。
そして闇の一部をもぎ取るようにその右手が宙を引き裂く。
一瞬空気が弾けるような感覚があり、耳鳴りが頭の中で荒れ狂い、そしてすぐに消え去る。

キャップ女の身体が落ちて来る。そして土の上で受身を取る。
「逃がした」
起き上がりながら指を鳴らす。
なにが起こったのか分からず、みんな唖然としていた。
「今、空中に眼球が浮かんでたろ?」
誰も見ていない。頭を振るみんなに構わず彼女は続ける。
「あれは、今回の件とは別だな。個人的なもの。あんたについてたんだ。心当たり、あるか」
名指しされて私は混乱する。
誰かに見られているような感覚は確かにあった。
先輩の家でポルターガイスト現象の話を聞いた夜。
いや、その感覚はその前から知っている。
なんだ? 視線。冷たい視線。笑っているような視線。表情を変えずに、微笑が嘲笑に変わって行くような……
私の中にある女の顔が浮かぶ。その女は、私のことはなんでも知っていると言った。
そして私が駆けずり回って調べたようなことを、まるで先回りでもするようにすべて知っていた。はっきりとは言わないが、間違いなく。
「気に入らないな。ああいう、顕微鏡覗いてマスかいてるような輩は」
キャップ女は口の端を上げて犬歯を覗かせた。
「迷惑なやつなら、シメてやろうか」
強い意志を秘めた炎が瞳の中で揺らめいている。私はそれにひとときの間、見とれてしまった。
「ま、困ったことになったら言えよ。私はいつでも――」
夜をうろついているから。
彼女はそう言って、ずれてしまったキャップを深く被り直し、私たちに背を向けて歩き始めた。
「そういやさ」
思いついたように急に立ち止まって振り向く。
「こんくらいの背の、若いニイちゃん、誰か見なかった?」
私たちのようにこの住宅街までたどり着いた人間という意味だろうか?
全員が首を横に振る。

「あの、ボケェ」
キャップ女はそう吐き捨てる。
「じゃあこ~んな眉毛の、ゴツイ奴は?」
またみんなの首だけが左右に振られる。
「アンニャロー」
そう言っておかしげに笑い、「じゃあね」とまた踵を返して歩き出す。
「あ、そうそう。ケーサツ、電話しとくから。逃げといた方がいいよ。わたしたちみたいな連中はこんなことに関わると、めんどくさいだろ。いろいろと」
前を向いたまま、高く上げた右手を振って見せた。
その影が公園の出口へ消えて行くのを見届けたあとで、残された私たちは顔を見合わせた。
「ぼ、僕も帰る。明日は朝から会議なんだ。じゃ、じゃあね」
眼鏡の男が踵を返そうとする。
その回転がピタリと止まって、もう一度その顔がこちらに向いた。
「僕は、変なものを、よく見るんだけど、お化けとか、そんなの、だけじゃなくて、なんていうかな。その、もう一人のキミが、いるよね」
ドキッとした。秘密を覗かれた気がして。
「それ、きっと悪いものじゃないから。気にしないでいいと思うよ」
じゃあ、と言って彼は去って行った。
「あら、そう言えばあの外人さんの子どもは?」
おばさんがキョロキョロと辺りを見回す。
銀杏の木の影に二つの光が見えた。
次の瞬間、太い幹の裏側にスッと隠れる。
「ちょっと。おうちまで送ってあげるから、わたしと一緒に帰りましょう」
おばさんが木の幹に沿って、裏側に回り込む。
まるで眼鏡の男が始めにしたような光景だ。
しかし見つめる私の目の前で、おばさんだけが反対側から出て来る。
女の子の姿はない。
「あら? いない」
狐につままれたような顔で木の裏側を見ようとおばさんが再び回り込もうとする。
女の子が上手に逃げている訳ではない。
私の目にもおばさんだけがグルグルと木の周りを回っているようにしか見えない。

女の子は忽然と消えていた。
「なんだったのかしら」
おばさんは立ち止まり首を捻っていたが、気を取り直したように私の方を見た。
「わたし、市内で占い師をしてるから、今度会ったららタダで占ってあげるわよ」
そう言ってウインクをしたあと、痛そうに腰をさすりながら公園の出口へ歩いて行った。
一人残された私は、今までにあった様々な出来事が頭の中に渦を巻いて、軽い混乱状態に陥っていた。
蛾が、街灯にぶつかって嫌な音を立てる。
色々な言葉が脳裏を駆け巡り、目が回りそうだ。
その中でも、ある言葉が重いコントラストで視界に覆い被さってくる。
「救えなかった」
それを口にしてみると、ゴミ袋から覗く土気色の顔がフラッシュバックする。
そして暗い気持ちが、段々と心の奥底に浸透し始める。
ゴミ置き場に無造作に捨てるなんて、死体を隠そうという意思が感じられない。
まるで本当のゴミを捨てるようなあっけなさだ。
どんな家庭で、どんな母親だったのか知らないけれど、精神鑑定とやらでひょっとすると罪に問われなくなるのかも知れない。子どもを殺したのに。
いや、直接手を下したのかどうかは分からない。
だけど彼女はしかるべき罪に問われるべきだ。
ふつふつとドス黒い感情が胸の内に湧き始める。
いけない。
顔を上げて、深呼吸をする。呼吸の数だけ、視界がクリアになっていく気がする。
また同じ過ちに身を委ねるところだった。
しっかりしないと。もう自分しかいないのだから。
ゆっくりと土を踏みしめ、公園の出口に向かう。そして車止めのそばにとめてあった自転車に跨る。
終わったんだ。全部。
そう呟いて、夜の道を、帰るべき家に向かってハンドルを切った。
雲に隠れたのか、月はもう見えなかった。

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