師匠シリーズ 第102話 トランプ 前編

師匠シリーズ 第101話 トランプ 前編

師匠から聞いた話だ。

大学一回生の冬だった。
その日僕は朝から小川調査事務所という興信所でバイトをしていた。
バイトと言っても、探偵の手伝いではない。ただの資料整理だ。そもそも僕は一人で興信所の仕事はできない。心霊現象絡みの依頼があった時に、その専門家である加奈子さんの助手をするだけだ。
助手と言っても、僕のオカルト道の師匠であるところの彼女は、ほとんど一人で解決してしまうので、なかば話相手程度にしか過ぎないのではないかと、思わないでもなかった。
「おい、どうした」
声に振り向くと所長の小川さんが奥のデスクで唸りながらワープロを叩いていた。
雑居ビルの三階にある事務所にはデスクが五つあるが、いつも使われているのは小川さんが座っている奥のデスクと、そのすぐ前に二つ並んでいるデスクだけだった。あとはダミーだ。
いや、見栄というやつなのかも知れない。僕は県内最王手のタカヤ総合リサーチを除いて、小川調査事務所以外の一般的な興信所というものを知らないが、そんなに何人も所員を抱えている興信所なんて普通にあるとは思わない。
しょせん自営業だ。依頼客もそのくらい分かっていると思うのだが。
その使われているデスクにしたところで、師匠の指定席はたいてい開店休業状態。
何日も資料集めをして必要な情報を得る、というようなスタイルではなく、お化け絡みの話とくればとりあえず出向いて、そのままたいてい即解決、という実に効率の良い仕事をしているのでデスクは依頼完了後に報告書を作るためにちょろっと使うくらいだった。
「まじかよ、おい」
小川さんはのけ反るように椅子にもたれかかり、天井を仰ぎながら左手で顔を覆った。その指には煙草が挟まれている。
僕は新聞記事のスクラップを整理する手を止め、振り向いた。
「どうしました」
そう問いかけると、小川さんは忌々しそうにワープロを小突きながら深い溜息をついた。
「作りかけの報告書が消えた」
「保存してなかったんですか。まめに上書きしないと」
「……」
それには答えず、煙草を消してから伸びをして立ちあがる。そして洗面所の方へ向かった。

小川さんは世に出回りはじめたばかりのワープロのような現代の利器には疎いのだが、字を書くのがあまり得意ではなかったので苦心して使っているらしい。
それでもこうしたトラブルのたびに毒づいて、「エデンのリンゴ」だとわめいた。
知らないなら知らないで良かったのに、なまじ知ってしまったがためにその功罪のすべてを身に背負うことになってしまったことを嘆いているらしい。
やがて洗面所から出てくると、小川さんは幾分さっぱりした顔で「昼飯食いに行こう」と言った。
もうそんな時間か。
「奢りなら」と言うと、すました顔で胸ポケットを叩く。
そんなところに財布が入っていないのは知っているし、どうせボストンなのだろう。いつもツケで飲み食いしては、翌月の支払いの時に、親を殺されたような哀しそうな顔をして払っているのも知っている。
しかし僕も労働基準法違反ではないか、という低時給で働いている身の上なので、奢ってくれるというのなら遠慮などしない。
「服部もどうだ」
もう一つの席にも水を向ける。
服部さんは僕と同じバイトの身だが、本格的に小川所長の助手として働いていて、お化け担当の加奈子さんと異なり、『まともな』興信所の仕事をしている。
「……」
服部さんは無言のまま、弁当が入っているらしい包を手に提げて見せた。
「そうか」
小川さんも苦笑いをして、無理には誘わなかった。
僕は未だにこの服部さんという男性のキャラクターがつかめないでいた。
年齢は加奈子さんと同じくらい。いわゆるフリーターで、この小川調査事務所では無難に仕事をこなしているようだが、いかんせん無愛想でニコリとも笑っているのを見たことがなかった。
自分からは話しかけてこないし、こちらから話しかけても反応がないことが多い。電話対応など、事務的なものはそれなりにやっているが、この事務所にいる人間についてはその全員を嫌っているかのような冷たさだった。
特に眼鏡の奥の目が怖い。

つねに物静かで存在感が薄く、事務所内に一緒にいてもいつの間にか彼がいることを忘れていることがあった。
一度など、小川さんと加奈子さんと僕とで一全員緒に外出した時、留守にするので当然事務所に鍵をかけて出て行ったのだが、戻って来て鍵を開けると服部さんが一人でデスクに向かって仕事をしていた、なんてこともあったりした。
尾行が得意で、かつて所属していた大手興信所ではエースとして鳴らしていた小川さんに言わせても、「あいつはあれだけで食っていける」とのことらしいが、エース云々からして自己申告なのであてにはならない。
そして加奈子さんは服部さんのことを陰で『ニンジャ』と呼んでいた。名前とも掛けているらしい。
この興信所のバイトに本腰を入れているところを見ると、将来はこの道に進みたいのか、とも想像するが、この仕事はいわば客商売であり、この対人スキルで大丈夫かと他人事ながら心配になる。
「じゃ、ちょっと出てくる」
そう言ってドアに向かう小川さんの後を追いかける。服部さんは顔も上げなかった。

ボストンは小川調査事務所の入っている雑居ビルの一階にある喫茶店で、五十年配の脱サラ組らしい髭のマスターがやっていた。いつも客のいないカウンターを「塗装が剥げるんじゃないか」と心配するほど丁寧に拭いている。
アルバイトで女の子を一人雇っていて、ひかりさんという僕より二つ年上の専門学校生のその人のことを、加奈子さんは「マスターとできてるんじゃないか」と下世話な想像を活発に働かせてニヤニヤしていた。
「いつもの」
カウンターのお気に入りの席につくと、小川さんはそう注文する。これでナポリタンが出てくるはずだ。
僕は少し考えて「メープルトーストとアメリカン」と言った。
この店はコーヒーも料理もたいしたものは出てこないが、メープルトーストだけは別だった。
使っているメープルシロップは市販のものではなく、なんでもマスターにはカナダに移住している親類がいて近所の農家が作っているものを分けてもらっているらしいのだが、それをわざわざ空輸で送ってもらっているのだそうだ。

親類に「日本で出てくるのとは全然違うから」と、一度おすそ分けでもらったものを食パンに塗ってみると、これが想像以上においしかったため、無理を言って定期的に送ってもらうようにし、喫茶店のメニューに加えたのだった。
確かに美味い。ふんわりとキツネ色に焼き色のついたトーストの食感と、甘みのなかにメープルの独特の苦みと風味があり、これをコーヒーで胃に流し込むのは至福のひとときですらあった。
並べられたものを無言で食べていると、カウンターの奥のテレビが連続通り魔事件の続報を告げていた。
「これ、まだ捕まってないんですね」と僕が言うと、マスターは口髭を撫でながら「みたいだねえ」と心配そうな口調で返した。「でも変な事件だよね」
このところ市内では弓矢を使った通り魔事件が連続して発生しており、その凶器の特殊性からすぐに犯人は割り出されるものと思っていたが、思いのほか未だにその犯人は捕まっていなかった。
「どうです、名探偵」
いたずらっぽくマスターにそう振られて、小川さんは手をひらひらさせる。
「警察を出し抜いて事件を解決する探偵なんて、あれはドラマの中だけの話ですよ」
「でも、そういうのにあこがれて今の仕事についたんじゃないんですか」
僕からの側方射撃にも動じず、「まったくないね。生まれついてのリアリストだから」と言った。
加奈子さんのような心霊現象専門の調査員を雇っておいて、リアリストが聞いて呆れる。
「だいたいメリットがないでしょう。家賃の支払いにもキュウキュウしている自営業の悲哀でしてね。依頼人もいないのに社会的道義で動くような正義超人にはなりたくてもなれません」
「では、依頼があったら?」
マスターにそう訊かれ、小川さんは口ごもった。そしてしばらくして、ふ、と鼻で笑うだけだった。
昼のニュースが終わって、なにかのドラマが始まったのでマスターはテレビを消した。
相変わらずほかの客は来ない。ウェイトレスのひかりさんもカウンター席に腰掛けて暇そうにしている。
食事を終えて一服をしていた小川さんが「よし」と短くなったタバコを灰皿に押し付けようとした時だった。

ふいにカウンターの隅にある電話が鳴った。クラシックな黒電話だ。
マスターが受話器を取り、「喫茶ボストンです」と出る。二言三言交わした後、黒電話をカウンターの上に持って来て、「君に」と受話器を向けた。
驚いたが僕はそれを受け取り、「もしもし」と言った。
『喫茶店で昼飯か、いい身分だな。またメープルトーストだろう。好きだなお前。それより今からちょっと仕事手伝え』
加奈子さんだ。
漏れた声が聞えたのか、横にいた小川さんがクスリと笑う。
『いいか。まずマスターに紙とペンを借りろ』
顔を上げると、すでにマスターが半紙とマジックペンをこちらに差し出していた。先に伝えていたのか。有無を言わさず、というやつだな。
「で、どうするんです」ひかりさんにメープルトーストの皿とコーヒーカップを片付けてもらって、カウンターの上に半紙を置いた。なぜかわくわくして来くるので不思議だ。
『紙にトランプのマークのスペードとハート、クラブ、ダイヤを並べて書け』
「は?」
妙な指示だ。
「並べるのはタテですか、ヨコですか」
『どっちでもいいけど、じゃあタテに書け。で、スペードのヨコに東、ハートのヨコに西、クラブのヨコに南、ダイヤのヨコに北と、漢字で書く。いいか、東西南北だ』
言われたとおりにする。
「書きましたけど」
『OK、じゃあ次は空いてるところに同じようにまず1から13までの数字を書け』
「タテでいいですか。……はい。書きました」
『次はその数字のヨコに、それぞれこう書くんだ。1には山、2には川、3には野原の野……』
師匠は次々に一文字の漢字を口にしていった。僕は言われたとおりにペンを走らせる。
完成したものを確認すると、こうなっていた。

スペード 東
ハート  西
クラブ  南
ダイヤ  北
1  山
2  川
3  野
4  沢
5  森
6  村
7  岡
8  田
9  崎
10 口
11 方
12 條
13 尾

なんだこれは?
首を捻った。なにがしたいのだろう。
『いいか。この電話を切って、十分か二十分かしてからまた電話が掛かって来る。小さな女の子からの電話だ。その子がある名前を告げて、その人はいますか? と訊ねてくるから、誰あてであってもマスターに電話を回してもらって、お前が出ろ』
「誰あてでも、ですか」
『そうだ。もちろん女の子以外だったら別件だ。その場合普通にボストンに掛かって来た電話だから関係ない』
「その、女の子からの電話に出て、どうするんです」
『トランプのカードを読み上げるんだ』
「カードって、ハートのエース、とかですか」
『そうだ。今作ったその表を見て、呼ばれた名前に対応したカードを読むんだ』

名前?
そう言われてじっと紙に書かれた文字を眺める。
やがて気づいた。なるほど。スーツが名字の一文字目、そして数字が二文字目に対応しているのか。
例えば西山であれば、スーツはハート、そして数字は1だ。つまりハートのエースと言えばいい。
南野であればクラブの3、北條であればダイヤのクイーン、東尾であればスペードのキング、という具合だ。
「カードを読み上げる、それだけでいいんですか」
『ああ。それでもう電話を切っていい。いいな。頼んだぞ。あ、あと所長もいるんだろ。ちょっとお前を借りるから、って言っといて』
そう言い置いて電話は切られた。いつものことだが一方的だ。
マスターとひかりさんは興味津々といった様子で僕を見ている。小川さんは「面白そうだな」と言った後、席を立ちながら「先に戻っとくから」と僕に手を振って、その返す刀でマスターに『ツケデヨロシク』のブロックサインを送る。
慣れたものでマスターの方は『リシガツクヨ』というブロックサインを投げてよこす。小川さんはひかりさんにも妙なウインクを送ってから、店のドアを開けて出て行った。カランという可愛らしい音がした。
残された僕はマスターとひかりさんに愛想笑いをしてから、またカウンターの紙に目を落とす。
師匠がなにをしたいのか、それを読み取ろうと奇妙な暗号表を睨んでいると、マスターが「いる?」と言ってトランプを差し出してきた。
喫茶店のカウンターには本当にいろいろなものが置いてあるものだ。
「ああ、いや、たぶんいらないです。すみません」
そうして僕は紙と睨めっこを続ける。
名前か。トランプに対応した名前。その名前の人物に電話を掛けて来る女の子。その子は何者なのだろう。仕事を手伝ってくれ、といっていたが、小川調査事務所の仕事なのだろうか。なんだか遊んでいるようにしか思えない。
トランプか。手品か何かでもしたいのだろうか。
そう思った瞬間、閃いたものがあった。

そうか。手品だ。相手の選んだカードを当てるマジック。自分で選んだように思わせて、その実、最初から決められたカードを手に取らせている。
あるいは、どれを選んでも残ったカードの山に戻した時点で巧妙にすり替えられている。
そう、ある決められたカードに。
選んだカードを見もしないで当てるのだが、単純に「あなたが選んだのはハートのエースですね」などと言ったり、あるいは山から抜き出して見せたり、といったものはありきたりだ。
かわりに、カードを選んだ人のポケットから出てきたり、レモンの中から出てきたり、といった演出をテレビで見たことがあった。
あるいは、「あなたが選んだカードをあらかじめ予知していました」などと言って密封された封筒から出して見せたりもする。
これはその一種だ。
たぶん師匠はこう言うのだ。
『わたしには予知能力者の知り合いがいて、その人はあなたが選んだカードのことをあらかじめ知っている』と。
あるいは透視能力者かも知れない。
そしてその透視だか予知だかの能力者の名前と電話番号を告げて、その子自身に掛けさせる。
もちろん名前はこの暗号表の法則に従っている。
最初からカードが決まっていないということは、ある決められたカードをテクニックで選ばせるのではなく、その子がランダムに選んだカードを何からの方法で盗み見て、そのカードを名前の暗号を使って僕に知らせるのだ。
師匠はすました顔で黙ったまま、女の子が自分自身でそれと知らずに答えのキーを運ぶのを見ている、という寸法だ。
さっき自由に抜き出して選んだばかりのカードを、電話に出た見ず知らずの人が当ててしまう。
これは確かに驚くだろう。
師匠の仕掛けに気づき、僕は満足して顔を上げた。
カウンターの向こうでは、僕が使わなかったトランプを箱から出してマスターとひかりさんがババ抜きを始めていた。
まだほかの客は一人も来ない。
平日とはいえ、昼時にこれでは経営が心配になってくる。

もっとも、このボストンは昼は喫茶店だが、夜になると酒と簡単なツマミを出すバーに変わるのだ。そちらは多少客が入っているらしい。
謎を解いてしまった僕は、その女の子からの電話が掛かって来るまで手持ち無沙汰になってしまった。
仕方なくカウンターに頬杖をつきながら、目の前で白熱するババ抜き勝負を見るともなしに見ていた。
タイマンなので、自分が持っていないカードは必ず相手が持っている。ようするにババ以外を引けばペアが成立するのだ。おかげで見る見る両者の手札は減っていったが、だんだんとババを引く確率が上がってきた。
ひかりさんが「あ~」と言ってくやしそうに引いてしまったババを自分の手札に入れ、入念にシャッフルを繰り返す。
お互い手札が残り四、五枚、というところで店の電話が鳴った。
マスターがカードを伏せて電話に出る。
「はい。喫茶ボストン」
「……」
電話の相手はしばらく何も喋らなかった。
思わずそちらに耳を寄せる。
僕はその無言の中に、なにか警戒をしているような空気を感じ取っていた。
やがてボソボソという声が漏れ、マスターが奇妙な表情を浮かべた。そして首をかしげながら、僕の方を見てこう言った。
「浦井さんはいますかって。女の子から」
浦井さん?
僕は思わず聞き返した。マスターは頷きながら受話器をこちらに差し出す。
浦井と言うと、加奈子さんの名字ではないか。
これはどういうことだ。
東西南北と1から13の数字に対応した漢字を合わせた名前で呼んで来るのではなかったのだろうか。
まったく関係のない電話かとも思ったが、タイミングが合い過ぎている。電話をして来たのが女の子であること。そしてここにいない人物の名前を呼んだこと。
それなのにどうしてそれが暗号表に出てくる名前じゃないんだ。

これではなんと答えていいのか分からない。
受け取ったものの、送話口を手のひらで塞いだまま僕は途方に暮れた。
もしかすると、その師匠になにかあったのかも知れない。考えもまとまらないまま、恐る恐る受話器を耳に当てる。
「はい」
すると女の子の声が聞えて来た。
『……あ、浦井さんですか。私が選んだカードはなんですか?』
無邪気な声。
マジックだ!
僕が予想した通りのマジック。女の子は、電話口に出たのが予知能力者か、あるいは透視能力者だと思っている。
なのにどうして、『浦井』なんだ。どうして。
手元の紙に目を落とす。なにか見落としていたのだろうか。
次第に高まっていく鼓動を抑えながら、目を皿のようにするがなにも見つからない。
『もしもし?』
女の子の声が不審そうな声色を帯びたのが分かった。
早くなにか答えないといけない。
ああ、ちょっとまってね、だんだん見えてきたよ、もう少し。などと言って間を持たせた方がいいのだろうか。しかし予知能力者だか透視能力者だか知らないが、どんな触れ込みで紹介されたのか分からない現状で、余計なことは言いたくなかった。
どうしよう。どうしたらいい。
師匠は僕に『頼んだぞ』と言った。どうすればその師匠の期待に応えられるのか。
うろたえて僕は喫茶店の中を見回す。狭い店内だ。マスターの趣味で帆船の模型がいくつか飾られている。
そのマスターはひかりさんと一緒に僕のことを見ている。カウンターにババ抜きのカードは伏せられたままだ。
四枚と五枚。ひかりさんの方が一枚多い。ああ。考えがまとまらない。
余計なことばかり考えている。奇数の方にババがあるのだろう。つまりひかりさんが今ババを持っている状態だ。どうしよう。どうしよう。あてずっぽうでも何か答えた方がいいのだろうか。ひかりさんが今ババを…… ババ……?

その時、僕の脳裏に直感がやって来た。
ゆっくりと、電話の向こうの顔も知らない女の子に返事をする。
「きみが選んだカードは、ジョーカー。ジョーカーだよ」
電話口の向こうから息を飲んだような気配がした。
「それじゃあ」
僕はそう言って電話を切った。
ひかりさんが自分の手札からジョーカーを取り出して、不思議そうにそれを見ている。
僕はホッとして力が抜けた。思わず笑いが込み上げて来る。
「ジョーカーですよ。ジョーカー。あの人、ジョーカーを抜き忘れたんです。それを女の子に引かれたものだから、苦し紛れに暗号表に出てこない自分の名前を教えたんですよ」
「ああ」
とマスターは大袈裟に手のひらを打って頷いた。
「とっさに馬場さん、という名前にしなかったのはさすがに露骨過ぎたからですかね」
僕はひかりさんの手の中のジョーカーを指さした。
カードの中では道化師の恰好をした男が滑稽なポーズを取っている。
ひかりさんはそのカードを手札に戻し、軽く切り混ぜた。そしてマスターに向かって裏面を広げ、「かかってこい」と言う。
再開されたババ抜きを尻目に、僕は自分でコップに水を注いで息をついた。
さあ、新聞のスクラップの整理に戻ろうかな。と考える。もう少しサボっていたい気もするが、師匠の方の用事はこれで終わりだろう。
あの大量の新聞記事のことを思うと少し憂鬱になった。
もともと日付ごとに小川所長の興味を引いたローカル記事がきちんと並べられてファイリングされており、その日になにがあったかを調べるには都合が良かったのだが、ある特定の事件を遡って調べるには向いていなかった。
そこで今ある記事をすべてをコピーして、内容の種類ごとに分類したうえで、さらにそれを日付ごとに整理して別々のファイルに閉じる、という作業を命じられたのだ。
殺人、傷害、窃盗、詐欺、事故、火事、イベント、政治、行政などといった大まかなインデックスを小川さんが作ったので、それに合う記事を僕が片っ端から並べていくのだ。

しかしなかには分類が難しい記事もあり、単純に『その他』に放り込めればいいのだが、例えば強盗殺人のあと放火した、なんていう複合的な記事はどこに入れていいのか分からない。
小川さんに訊くと、少し考えた後で「それぞれの分類のとこにコピーして閉じといて」と言う。
余計に仕事が増えた。ファイルの数も倍になるかと思いきや、倍ではきかないようだ。
時給さえちゃんともらえればいいのだが、あまり客の訪れない事務所や、小川さんのだらしないスーツの着こなし方、そしていつもの半分ふざけたような態度を思い出すにつけ、バイトを三人も使うような甲斐性があるとは思えなかった。
今のところ、バイト代は雀の涙にせよちゃんと月末にもらっているが、いつ遅配になるかわからない。
その事務所を通して依頼のある心霊現象に関する事件は、師匠のライフワークとも言える仕事であり、水を得た魚のようにいきいきと動く彼女を見ているだけで僕は幸せな気持ちになれた。
しかしそうした依頼で助手を勤める以外では、あまりこの零細興信所に深入りしない方がいいかも知れないと思い始めていた。
さあ、憂鬱な作業に戻ろうかと腰を浮かしかけた時だった。
カウンターに奥に戻されていた黒電話がふいに鳴り始めた。
「はい。喫茶ボストン」
マスターがいつもの調子で電話に出ると、「ああ」と言って僕に受話器を向ける。
「加奈子ちゃんから」
なんだろう、と思いながら電話に出ると、明るい声が聞こえてきた。
『悪かったな。ミスっちゃって。ジョーカーのことをすっかり忘れてたよ。しかし、とっさに良く気づいたな。助かったよ、ありがとう』
「貸しですよ、貸し」
加奈子さんは、生意気な、と言って電話の向こうで笑っている。
「ていうか、仕事とか言って何を遊んでたんですか?」
『いや、遊んでたわけじゃないぞ。あれも立派な仕事で……』
『浦井さんはいますか』
え?
師匠が電話の向こうで何か言い訳をしている。
しかし、その声に重なるように、別の声が聞こえたのだ。

★この話の怖さはどうでした?
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  • 怖い
  • 超絶怖い!
  • 怖くないが面白い