師匠シリーズ 第101話 巨人の研究 後編

師匠シリーズ 第99話 巨人の研究 前編

「さあ、行こう」
その言葉に背中を叩かれ、発進する。大学病院まではお互い無言だった。僕は何かを考えていたような気もするし、何も考えていなかったような気もする。
大学病院の駐輪場に到着し、弾むように後ろから降りた師匠に目で問いかける。
今度はどうしても同席したかった。何が起こっているのか、僕なりに知りたかったから。
「まあ、いいだろう。一緒に来い」
はい、と言ってすぐに自転車に施錠して師匠の後に続く。
正面玄関から入ると、病院のロビーには沢山の人がいた。さすがに大学病院は大きい。インフルエンザに罹った時に行った、自分のところのキャンパスにある、とってつけたような医務室とは雲泥の差だ。
師匠は勝手知ったる他人の家、というように人の波をすいすいとかき分けてフロアの奥の方へ向う。案内板を見ると入口から一番奥に入院病棟があるらしい。
通路を抜けて、ようやくその入院病棟の待合いに到着した。
そこに見覚えのある人が待っていた。
ほんのりと桜色をしたナース服を身に付けている五十歳前後の女性。怒っているような、呆れているような表情。
「やっぱり、あなただったのね」
野村さん、だったか。
師匠が以前入院していた時にお世話になった看護婦さんらしい。その後も長くつきあいが続いており、戦時中に撮られたというある一枚の写真にまつわる事件にも巻き込まれていた。より酷い巻き込まれ方をしたのは僕の方だが。
野村さんはかつて受け持った患者という枠を超え、まるで自分の娘のように師匠のことをとても気にかけていて、師匠の方はそれを狡猾に利用しているという構図がほの見える。
「センセイ、気が利くなあ。電話してくれてたんだ。じゃあ、用件は分かるよね?」
師匠は「お願い」というように両手を合わせ、上目遣いにシナを作る。
野村さんは何か言おうとして上半身を膨らませたが、やがて風船が萎むように深い溜め息を吐くと、「ついて来なさい」とだけ言って踵を返した。
その様子から垣間見えたのは、長年の経験が降り積もって出来たかのような諦観だった。
気力が抜けたように見えたが、さすがに職業柄、足取りはキビキビとしていた。近くのエレベーターの方へ歩いて行くのを二人して追いかける。
上へ向かうボタンを押して箱が降りて来るのを待っている間、「その節はどうも」と僕からも挨拶をしたが、じろりと睨まれただけだった。
三人で乗り込むとエレベーターは静かに上昇し、七階で停止した。扉が開くと、真っ先に循環器科という案内板が目に入った。
野村さんはすぐ近くにあったナーステーションへ行き、何人かの看護婦と短い話をした後、僕らの方へ振り向いた。
「こっちへ」
そしてさっさと歩き始める。
確か看護婦長だと聞いていたが、さすがに病院でそういう姿を見ると風格というか威厳のようなものがあった。病棟の廊下を歩きながら「この入院病棟の看護婦長なんですか」と訊いてみたが、「上から下まででベッドがいくつあると思ってるの」と笑われた。
説明を聞くに、どうやら各階ごとに小児科だとか泌尿器科だとかに分かれていて、それぞれに専属のスタッフと看護婦長がいるらしい。
では、その妙な症状を訴えるという患者は、たまたま野村さんが受け持っているフロアにいたのだろうか。
僕が抱いた疑問に先回りするように師匠が耳打ちする。
「センセイが診察した、精神以外の入院病棟の患者は全部で十人。そのうち三人がここにいるはずだ」
「会わせられるのは二人だけだからね」
聞こえていたらしい野村さんが怒ったような口調で言う。「いろいろと難しい人もいるんだから。あなたはだいたい……」
その口から憤懣が出掛かったが、また肩を落としてそれが抜けて行く。
師匠は「いいよ、いいよ。会わせてくれるだけも本当にありがたいことでございます」と卑屈にお追従し、ますます野村さんの溜め息が大きくなる。
「ここ」
廊下を歩き続け、立ち止まったのは四人部屋の前だった。前二つのベッドは空いているのが見えた。
「待っていなさい」と先に野村さんが部屋に入り、奥のベッドにいる誰かと話をしているようだった。衝立でよく見えない。
やがて戻って来て、ゆっくりとした口調で言う。
「いい? 余計なことは絶対に言わないこと。何が余計かは、判断できるでしょうね」
「大丈夫。信用して。でもわたしはどんな立場って設定?」
「医学部の学生が、実習の一環で入院している患者一人一人とお話をしに来たってことにしてる」
「ありがとう」
師匠が目で合図したので僕も一緒に病室に入る。薬品の香りが入り混じった、甘ったるい廊下の匂いともまた少し違う、何と言うか独特の匂いがする。
野村さんは外で待っているようだ。
衝立の向こうにはベッドが二つあった。片方は布団がめくれており、住人は不在のようだったが、もう片方には小学校高学年か、あるいは中学一年生くらいの坊主頭の男の子が興味津々という顔でベッドの上に上半身を起こしていた。
「こんにちは」
師匠が愛想よく首を傾けると、小さな声で「こんにちは」と返事があった。
循環器科ということは心臓でも悪いのだろうか。痩せてはいたが血色は良く、重い病気のようには見えなかった。
ベッドのそばにあった丸イスに腰掛けると、師匠は男の子に「いつごろから入院しているの? 退屈?」と親しげに話しかける。
男の子は「退屈」と言って、はにかんだ。
それからしばらく入院中のことや好きな漫画のことなどを話題にして話が弾んでいたが、やがて師匠から「ここ、夜はお化けとか出るんじゃない?」という何気ない一言が零れ落ちた。隣のイスに座り、ただ二人のやりとりを聞いているだけだった僕も、師匠が本題に切り込んで行ったことが分かって緊張する。
男の子は何か重大な隠し事をこっそり告げるというような仕草で師匠の耳元に口を寄せた。
「出るよ」
「え? ほんとに?」
わざとらしく驚いて見せている。男の子は頷きながら、入院してからこれまでに見た幽霊の話を始めた。どの話も妙な臨場感があり、夜に聞いていれば相当怖かっただろうと思える内容だったが、僕が期待したようなキーワードが全く含まれていなかった。
小人に関する話が一つもなかったのだ。
師匠も一切水を向けることもなく、ただひたすら男の子の話に怖がって見せているだけだった。一体どうするつもりなのだろうと思って、やきもきしながらも口を挟めないでいると、師匠はふいに持参した荷物をあさり始めた。
そしてさっき買っていた缶ジュースを取り出す。そう言えばまだ飲んでいなかった。もう温くなっているんじゃないだろうか。
師匠はベッドの男の子からは見えない角度で缶ジュースを持ったまま、「ちょっとクイズをするけど、受けて立つ?」と訊いた。
男の子はうんいいよ、と頷く。
「じゃあ目を閉じて。今から渡すものがなんなのか当てられたらキミの勝ちだよ」
「分かった」
素直に目を閉じる。師匠は男の子の右手を取り、缶ジュースを握らせる。ほっそりした手に三百五十ミリリットルの缶はやけに大きく見えた。
「あれ~。これなんだろう」
男の子は目を閉じたまま首をかしげている。
師匠はもう笑っていない。真剣な表情で缶を見つめている。
「う~ん」と唸って考え込んだ男の子に、師匠は一言ささやいた。
「ヒントは、かん、ナントカ」
それを聞いた瞬間、男の子の顔が綻んだ。
「分かった」
そしてその口から出た答えは、僕の予想していたものとは違った。
思わず「え?」と言いそうになって、慌てて口を塞ぐ。しかし師匠は「せいか~い」と言って笑顔を作ると男の子の手から缶ジュースを素早く抜き取り、後ろ手に隠す。
男の子は目を開け、「あれ?」と言ってキョロキョロしている。師匠のジェチャーに気づいた僕はこっそりとその手から缶ジュースを受け取り、荷物の中に隠す。何故か分からないが、もう男の子に見せたくないらしい。
それは、彼がクイズの答えを間違えたことと無関係ではないだろう。
「ご褒美はこれだ。えいっ」
師匠は誤魔化すように素早く男の子のほっぺたにキスをした。
「じゃあ、もうわたしたちは行かなきゃ」
目を白黒させている男の子を置いて僕らは慌しく病室を出て行く。
廊下では野村さんが腕組みをして待っていた。
「なにか変なことしてなかったでしょうね」
「してないしてない。してないよ、な?」
「ええ。まあ」
「とにかく、本当に余計なことは言わないでよ」
野村さんは何度目かの釘を刺すと、さらに廊下の奥へ歩き始めた。僕は後ろをついて行きながら、さっきの不思議なやりとりのことを考える。その横で、師匠は視線を尖らせながら前を見据えている。
「ここよ」
病室の前に到着し、また野村さんが一人で先に入る。すぐに出てきて、「さっきと同じで医学部生ってことにしてるけど、本当に……」と言い掛けた所に、「余計なことは言いません」と師匠が言葉を繋ぐ。そして待ちきれないと言うように病室の中へ消えて行く。
僕もすぐに後を追う。
今度も四人部屋だったが、手前の二つのベッドには老人がそれぞれ布団を被って寝ていた。その奥にはやはり衝立があり、回り込むと、女の子がちょうどベッドから身体を起こすところだった。
「あ、寝ててもいいよ」
師匠が慌てて手を振ると、「大丈夫です」と静かな声が返って来た。
向かいのベッドは空だった。今度は住人がいるような気配はない。僕の視線に気がついたのか、女の子は「隣の人、昨日退院しちゃった」と言って笑った。
さっきの男の子よりは少し年上だろうか。やはり痩せていて顔や服の袖から出ている手がやけに白い。
「どんな人だったの?」
丸イスを引き寄せながら師匠が口を開いた。
「う~ん。お母さんくらいの年の人」
「そうなんだ」
そんな会話から始まり、また当たり障りのないやりとりがしばらく続いた。僕はすべて師匠に任せきって、邪魔にならない程度に相槌だけを打っている。
「病院って、お化けが出るっていう人いるけど、どうなのかな」
「あ、私見たよ」
さっきの再現のように女の子が体験談を語る。しかしさっきの男の子と同じ話は一つもなかった。
横で聞いているだけの僕には師匠が何を考えているのか分からなかった。
「ちょっとクイズを出すけど、いい?」
「いいですけど」
「今から渡すものが何なのか、目を閉じたまま当ててみてね」
それを聞いた女の子は少し緊張したような顔をする。何かの検査だと思ったのだろうか。
それでも「どうぞ」と言って目を閉じたので師匠は荷物からまた缶ジュースを取り出した。
女の子の右手を誘導して、それを握らせる。
「どう? 何か分かる?」
缶ジュースを右手で握ったまま女の子は考え込む。分かりそうなものなのに、どうしてだろう。
「ヒントは、かん、ナントカ、だよ」
師匠はささやく。さっきと同じ言葉。これでもう分かるはずだ。
分かるはずなのに。
女の子は恐る恐るという様子で、目を閉じたままぽつりと言った。
「かんでんち」
それを聞いた瞬間、鳥肌が立った。
頭が事態を理解する前に、直感が告げたのだ。
乾電池。
さっきの男の子と同じ答え。偶然じゃない。絶対に。
分かった。分かってしまった。一体何が分かったのか、その頭の中の嵐が形になる前に師匠が言った。
「正解だよ。じゃあ今度は目を閉じたまま耳を塞いでみて」
そっと缶ジュースを右手から抜き取る。
そして言われるがままに両手で耳を塞いだ女の子から視線を逸らし、師匠は僕の顔を見る。その瞳が爛々と輝いている。
「これが最近になって急に現れた、精神科にかかる人が訴える奇妙な症状。触覚の異常により、物の大きさを誤認するという事例。目を開けている時には感じない。つまり視覚により補正される時や、あるいは事前にそれが何なのか認知している時には現れないが、それらを遮断されるとたちまちに現れる不可思議な現象。小さい。小さい。小さい。何もかもが、実際の大きさよりも小さく感じられてしまう。缶ジュースを握っているのに、それが乾電池に思えてしまうくらいに」
僕の目を見つめたまま、師匠はささやく。
「わたしは巨人を六つに分類したな。
 第一の分類は『伝説上の巨人』
 第二の分類は『巨人症による巨人』
 第三の分類は『UMAとしての巨人』
 第四の分類は『人類の縁戚としての巨人』
 第五の分類は『妖怪としての巨人』
 第六の分類は『フィクションとしての巨人』
 …………」
言葉を切って、師匠は手のひらで恭しく女の子を指し示す。
「彼女たちこそが、そのどれにも当てはまらない、第七の巨人」
僕は師匠の言葉のそのわずかな隙間の中で息を飲む。

「Giant sensory syndrome, 巨人感覚症候群の発症者だよ」

女の子は目を閉じて耳を塞いでいる。
師匠は彼女に視線を向けもせずに僕を試すように見ている。
巨人感覚症候群…… ジャイアント・センサリー・シンドロームだって?
「ちなみにわたしがつけた名前だ。捻りがないところが気に入っている」
満足げにそう言った時、足音が聞こえて振り向くと野村さんが病室に入って来た。
「なにをしているの」
声が不審げだ。
女の子に耳を塞がせているのは、はたから見るとやり過ぎだったかも知れない。
「いや、もう終わったよ」
師匠は慌てたように立ち上がった。何ごとかと女の子も目を開ける。
「ごめんね、急に用事が出来ちゃって。もう行かなきゃ」
師匠は手を振ると、ベッドに背を向けた。僕も急いで後に続く。
「待ちなさい」
追いすがってくる野村さんに廊下で捕まった。
「あれほど言ったのに何をしているの、あなたは」
かなり怒っている。
「何もしてないよ。余計なことも言ってないよ、な?」
「ええ、まあ」
言い訳はあまり通用せず、それから二人してギュウギュウに絞られた。
やがて他の看護婦の視線が気になったのか、野村さんは来た時に乗ったエレベーターに僕らを押し込んだ。そして自分も乗り込んで一階のボタンを押す。
「だいたい、いつもいつもあなたは……」
僕は際限なく続く説教に、野村さんに普段どれだけ迷惑をかけてるんだこの人は、と唖然としていた。
さすがにシュンとしてうなだれた師匠に少し声のトーンが落ちる。
「そう言えばあなた、最近また検査をさぼってるでしょう。真下先生も心配してるんだから、ちゃんと受診しなさい」
野村さんがそう言った瞬間、到着を告げる音と共にエレベーターのドアが開いた。一階に戻ったのだ。
師匠がバネのように顔を跳ね上げる。
そしてエレベーターから我先に出ると、くるりと向き直るや顔を突き出して舌を伸ばした。
「い・や・だ。べろべろべろ~ん」
そして逃げた。
走って。
「ちょっと、待って」
僕も一緒に逃げ出す。
野村さんが後ろから何か大きな声で怒鳴っているが、良く聞こえなかった。「院内を走るな」だろうか。
病院のスタッフや来院の人に何度かぶつかりそうになりながらも、僕らは無事に正面玄関を抜け出した。
少し胸が苦しい。ハアハアと息をつきながら横目で見ると、師匠もこちらを見て笑った。僕もつられて笑う。
それから追っ手が来る前にと、すぐに自転車に乗り、家の方へ向けて出発する。夏なのでまだ日は高いが、街には夕方がひっそりと近づいていた。空の色で分かる。
五分ほど走ってから、街なかで師匠は降りた。僕も自転車を降りて並んで歩く。そして歩きながら考えをまとめた。
巨人感覚症候群。まるで自分が大きくなってしまったかのような感覚を生じている、他者からはけっして目に見ることができない巨人たち。
「あの子たちは、目を開けていると普通なんですか」
「そうだな。視覚や知識など、本来そうあるべき大きさを補正できる手段があるならその触覚の異常は起こらないみたいだ。いつもつけている下着なんかも視覚には入っていないから大きく感じられそうだけど、それは自分がつけているものがどんなものなのか知っているから大丈夫なんだな。あ、そうか。愛用のコップって書いたのはまずかったか」
アンケートの最後の設問のことらしい。
あれで巨人感覚症候群に罹患しているかどうか調べるつもりだったのか。手に持った時にコップが異様に小さく感じられると? どちらにしてもピンと来る人には通じただろうから、今日アンケートに回答してくれた人の中にはいなかったに違いない。
「でもな。視覚や知識で補正できるって言っても、病状の初期段階に過ぎないからなのかも知れない」
ぞくりとした。
足が止まりかける。周囲には色々な人が所狭しと歩いている。駅前の大通りだった。
「噂を聞いた時からわたしはそれを懸念していた。何か恐ろしいことが起こるなら、そこから先じゃないかと。さっきセンセイに確認したんだ。精神病床の入院患者の中には、実際に『すべてが小さく見える』と訴える人が、わずかながらいるらしい」
まさか。と思った。それが小人の目撃談と関係しているのか。
「最初に、巨人が増えているって言ってたのは、このことですか」
冗談だと言っていたのが、まるきり真実をついていたというのか。まさか、本当に彼らは症状が進むことで触覚や視覚だけでなく、実際に巨人化して行くとでも言うのだろうか。
師匠は笑い出した。
「おいおい。それこそフィクションだよ。そんな無茶苦茶なこと起こるわけないだろ。まあ二メートル半ばくらいまでなら成長ホルモンの過剰分泌による巨人症でも起こりうるから、一概には言えないが。でもそんな視覚にまで症状が進行している人自体もまだごく少数だし、それに彼らがその目で他の人間を見て、小さい人がいる、と思ったとしても、それが今街じゅうで湧き出している小人目撃談のオリジナルになりえるかな」
そう言われてみると確かにおかしい。
そこまで病状が進んだ人が、人口に膾炙する噂を流す環境におかれているだろうか。精神病床に入院中ならもちろんそんなことはないだろうし、入院していなくとも、これは人間が小さく見えるどころの話ではないのだ。すべてが小さく見えるのなら、そんなことを言う人の話を周囲がまともにとりあってくれるだろうか。
それに僕自身が否定しているのだ。小人の話を普通の学生の友だちから聞いたのだから。彼らに取り立てておかしなところはなかった。特に二人目の女の子の話は、小人が牛乳配達の箱の中にいた、というものだった。箱は普通なのに、人だけが小さく見えている。
まるで噛み合わない。
では一体どういうことだ。巨人感覚症候群と、小人目撃談。嵌りそうで嵌らないパズルのピースだ。
「今日のアンケートで小人を見たという人たちの共通点に気づいたか」
「共通点、ですか」
少し考えたが、まだ集計していないのではっきり思い出せない。
「小人を見たという人たちは全員、今までに体験した心霊現象の項目で小人以外にもチェックを入れていた」
「えっ。そうでしたっけ」
そう言われればそうだったかも知れない。小人の話だけ詳しく訊いたので他の話には食いつかなかったけれど。
「全員、幽霊を見ていたな」
そうか。僕もそうだ。
足元の小石を軽く蹴り、師匠は自分のペースで歩き続ける。僕はその横に並んで人の波を避けている。
「今日の巨人感覚症候群の発症者二人も幽霊を見ていた。この符合の意味するところが分かるかな」
かぶりを振る。しかし頭の中にはぼんやりした答えのようなものが浮かびつつあった。
「私は巨人感覚症候群の発生原因には、霊感が関係していると考えている。ある地域に限定して起こっているという部分で、その原因がある程度は絞られてくるだろうが、細菌やウイルスの飛沫感染や、なんらかの公害、そして特定の多層建築物を媒介とした高周波による脳への影響など、どれもしっくり来ないんだ。それは私自身感じているある感覚の存在のせいだ」
「ある感覚?」
オウム返しに訊く。
「衝動。叫び。そうだ。咆哮のようなもの。説明しにくいが、耳には聞こえず、幻聴ですらない何かそういうものが、頭の中を通り抜けている気がする。今も」
思わず耳を澄ましたが、ざわざわした雑踏の音しか聞こえない。
「霊感の強い人間はこういうものに影響されやすい。そしてその中でも、普段から心の病を抱えている者や、入院中で心身が弱っている者はそれが如実に現れるんじゃないだろうか」
「それが巨人感覚症候群だと?」
言葉とは裏腹に、師匠は確信めいた表情で頷いた。
「だけどまだ分からないことが多すぎる。何故自分が巨人だと感じてしまうのか。それが進行した時に何が起こるのか。その衝動、咆哮の主体は一体何なのか…… でも現時点で推測できることが一つある」
「それはなんですか」
ドキドキする。師匠と出会ってから何度味わったか分からない高揚感。
「それはね」と師匠は僕の方を向いて言った。「その衝動、咆哮に影響を受けているのはそういう弱い人間だけではないんじゃないかってこと。浮遊する霊体。地縛される魂。人間の死後に現れるそうした存在も、影響を受けうると考えている。幽霊に、その者が生前信じていた宗派の経文や祝詞を唱えると苦しがったり嫌がったりする。これはもちろん『幽霊はこういうものに弱い』という生前の記憶がそうさせるんだ。そして人間が怖がるものを同じように怖がるというパターンも多い。犬がその代表か。そんな幽霊にこの得体の知れない存在からの咆哮はどう影響されるのか」
「同じ、なんですか」
「そうだ。人間と同じように、この街に存在する幽霊も、その一部がこの巨人感覚症候群と同じ症状に陥っている」
空はまだ高く、夕闇にはまだ時間がある。アスファルトは日中の熱をこもらせて、分厚い空気を足元から立ちのぼらせている。
なのに、どこからともなく寒気がひたひたと押し寄せて来ている気がした。
「霊体たちが、巨人化をするとでも言うんですか」
師匠は「違う」と首を振った。
「お前は知っているはずだ。霊はあるべき姿で現れると。若く美しいころの姿で現れる女性の霊。その後に殺された時の血まみれの姿で現れる場合。生命活動が停止し、腐乱した状態で現れる場合。腐敗が進み、骸骨となった姿で現れる場合。どれもありうる。選ぶのは霊自身だ。己のあるべき姿を。生きている人間のようにはこの物質的世界に束縛されないからこそ、そんなことが起こる。中には生前にはなかった姿へと変貌を遂げる場合もある。四肢の増減や五体の変形。動植物との融合。怪物化。様々なケースがある。そんな霊が、巨人感覚を得てしまったらどうなるか。想像してみるといい。己の周囲にあるものすべてが小さい。小さい。小さい。まるで違う世界にいるようだ。己が望んだわけでもないのに。その時、あるべき姿はなに?」
寒気が。意思を持ったように体中を這い回る。
師匠が僕を試すように見つめている。
「あるべき姿は…… その小さな世界に適合するための身体」
僕は震える声で呟く。その後を師匠が継ぐ。
「そうだ。そのためにみんな小さくなる。彼らはみな、巨人であるがゆえに、小人なんだ」
師匠と僕の間にあるわずかな空間を、見ず知らずの人々が通り抜けて行く。僕は息を止めてその瞬間を目に焼き付ける。
向かい合った師匠が真っ直ぐにこちらを見ている。
小人を見る人が増えているということは、巨人が増えているということだ。
自ら冗談だと苦笑した師匠の言葉が頭の中に蘇る。
冗談だって?
ただの方便だ。師匠は始めから分かっていたに違いない。
アンケートで小人を見たと答えた人たちが、全員幽霊を見たことがあったということもこれで説明がつく。彼らは、そしてこの僕も、ただ幽霊を見ていただけだったのだ。巨人であるかのような感覚を得てしまったがために、小人になってしまった霊体を。だから目撃例がパターン化されない。幽霊の現れ方など、それこそ千差万別だからだ。
師匠は講義終了とでも言いたげな表情を浮かべ、再び前を向くと歩き始める。僕はそれを呆然と見ている。
その周りを沢山の人々が行き交っている。誰も僕らのことを見ていない。スーツ姿の師匠が自転車の後輪に立ち乗りしていた時にあれほど集まっていた視線が、今はもうない。女が一人ただ歩いているだけでは、大通りの中の取るに足りない景色の一つに過ぎないとでも言うように。
けれど僕は雑踏の中で立ち止まり、自転車のハンドルを支えたまま、彼女の後ろ姿を見つめている。
どうしてみんなは見ていないのだろう。僕と同じように。
信じられなかったのだ。
この人を知らないで、平気でいられる世界が。

(幕のあとで)

――わたしはしっている

ハッとして周囲を見回す。師匠の背中を見つめたまま、つかの間ぼうっとしていたところから現実に引き戻される。
なんだ今の声は?
どこからともなく聞こえた気がした。けれど、本当に声だったのだろうか。耳に声色が残っていない。白昼夢、いや、幻聴だろうか。
雑踏の音が大きくなった気がする。そばを歩くビジネスマンの肩が当たる。よろけそうになりながら、僕の目はある存在に気づいた。
やはり幻聴だったのだろう。それを見たことにより、頭の中でその言葉が連想されたに過ぎない。
大通りを歩く人々の中に、たった一つこちらを向いている顔があった。道路を隔てた向かい側の歩道に、それはいた。身じろぎもせずに、じっと師匠の方を向いている。
白い仮面。のっぺりとして目鼻の形に表面が凹凸している。目の部分が開いているのかも判然としない。距離が離れているせいか、服装もよく分からない。ただ行き交う歩行者の群の後ろに白いその顔が浮かび上がって見えている。
師匠もいつの間にか立ち止まっている。その存在に気づき、睨むようにそちらを見ている。
ただならないものを感じて、僕はゆっくりと師匠のもとへ近寄った。
「なんです、あれは」
「見たことがある。あの仮面」
師匠の声が高ぶっている。震えているようだ。
「なんとかっていう劇団のポスターにあった」
劇団?
そう言われてみると覚えがある気がする。確かあまり有名ではない小劇団だったはずだ。街なかでちらほらとポスターを見かけるが、どこの劇場で公演しているのかも知らない。ただ、全員が白い仮面を被って演じている舞台写真が載っていた。前衛的なのか、それともそういう手法が一ジャンルとしてあるのか。
「ずっと感じていた視線は、あいつか」
猫の毛が逆立つように、師匠の身体の周りに針のように尖った空気が発散されているのを感じる。
今日出発した時から師匠が言っていたのはこのことだったのか。
どうしてこのタイミングで?
そう思った瞬間に、もう答えはあった。どう考えても、一連の巨人あるいは小人に関する出来事と無関係ではない。
白い仮面の人物は少し俯いたかと思うと、クックッ、と小刻みに顔を上下させた。
笑っている。
間を隔てる片側三車線の道路を沢山の車が通る。前が詰まり、大型バスがゆっくりと僕らの視線を遮った。
十秒。十五秒……
やがて動き出したバスが去った後には、もう白い仮面は見えなかった。初めからいなかったかのように。
僕は師匠の性格は知っているつもりだ。
気にいらない相手に対してキレると、すぐに行動に移す。たとえ相手が誰であってもだ。何度もそれを見てきた。道路を車が走っていようが、それをかわしながら最短距離で向かって行くのが師匠のはずだった。
その師匠が動かない。
いや、動けないでいる。
顔色が蒼白だ。唇からも血の気が失せている。僕にもあの仮面の人物のただならない雰囲気は感じられたが、師匠はそれ以上に異様とも言える反応をしていた。
僕は何か話しかけようとして、それが出来ないでいる。雑踏に立ち尽くしている僕らを、みんな迷惑そうに避けて行く。
やがて師匠がこちらを向いて、蒼白い顔のまま口の端だけを上げて笑った。
 
(完)

★この話の怖さはどうでした?
  • 全然怖くない
  • まぁまぁ怖い
  • 怖い
  • 超絶怖い!
  • 怖くないが面白い