師匠シリーズ 第108話 祖母のこと

師匠シリーズ 第108話 祖母のこと

・A・ 次のお話は、同人誌『師匠シリーズの3』に載せたものです。
今夜は1作だけです。
では。

師匠から聞いた話だ。

その女性は五十代の半ばに見えた。
カーキ色の上着にスカート。特にアクセサリーの類は身につけておらず、質素な装いと言っていい。
「こんなお話、していいのか…… ごめんなさいね。でも聞いていただきたいんです」
癖なのか、女性は短くまとめた髪を右手で押さえ、話しにくそうに口を開く。
大学一回生の冬。バイト先である、小川調査事務所でのことだ。
僕と、そのオカルト道の師匠であるところの加奈子さんは二人並んで依頼人の話を聞いていた。
だいたい、うちの事務所に相談に来る依頼人は、興信所の中では電話帳で割と前の方に出てくるという理由でとりあえず電話したという場合か、あるいは他の興信所で相手をしてくれなかった変な依頼ごとを持っているか、そのどちらかだった。
今回はその後者のようだ。
「あのう…… 実は私の祖母のことなんです」
来客用のテーブルを挟んで僕らと向かい合ったその女性は、出されたお茶も目に入らない様子で、うつむき加減におずおずと話し始めた。

女性は名前を川添頼子といった。
頼子さんは昔、小学校に上がる少し前に今の川添の家に養女としてもらわれて来たという。
実の両親のうち母親が亡くなってから、残された父親は小さな女の子の養育を放棄し、かつての学友の遠い縁をたよって養女に出したのだった。
実の父や母の記憶はほとんどない。ただ自分がいつも泣いていたような、おぼろげな記憶があるばかりだった。
川添家の養父と養母には子どもがなく、まるで自分たちの子どものように可愛がってくれた。
けして裕福な家ではなかったが、学校や習いごとなどは他の子と同じように行かせてくれた。
初めて人並みの人生を歩むことを許されたのだった。

その養父と養母がこの一年の間に相次いで亡くなり、一どきは深い悲しみに包まれたが、やがて落ち着いてその二人に育てられた日々を思い返し、頼子さんはたとえようもない感謝の気持ちを胸一杯に抱いた。
そうして、このごろは昔のことを思い返すことが増えたという。
特に養女としてもらわれて来る前の生活のことを。年を取った証だと夫はからかったが、次第に大きくなっていく過去への慕情を押さえられなくなっていった。

ある日思い立ち、自分の実の父のことを調べ始めた。しかしやはり父はもう他界していた。もし生きていれば九十に届こうかという年齢だったので仕方のないことだった。
自分の五十数年の人生を思い、それだけの年月が過ぎていることが今さらながらに身に染みた。
そして顔もおぼろげなその父のことよりも強い輝きを持って思い出されるのが、祖母のことだった。
父方の祖母だったのか、母方の祖母だったのかそれさえはっきりしないのだったが、優しげな顔や、膝の上に抱いてもらった時の服の匂い。
そして皺だらけの手で頭を撫でてもらったその感触が、懐かしく思い出された。
両親にかまってもらえなかった頼子さんは、よく歩いて祖母の家に遊びに行ったという。
どういう道をたどって行ったのか、今ではそれも忘れてしまったが、ただ覚えているのは祖母の家の小さな縁側に両手をかけて祖母の名を呼んだこと。
そしてしばらく待っていると、ゆっくりと板戸が開き、祖母がにっこり笑って顔を覗かせたあの柔らかな時間だった。
祖母はその小さな家に一人で住んでいた。祖母もまた孤独だったのか、その来訪をとても喜んでくれたものだった。祖母との記憶は断片断片ではあったが、なにげない日常のふとした瞬間に前触れもなく蘇った。
例えば夜中に寝付けず、布団の中でふと目を開けた時に。例えば雑踏の中、信号機が赤から青に変わる瞬間に。そんな時、自分がとても幸せな気持ちになるのが分かった。
そしてどんなに懐かしく思っても、もう会えないのだということを思い出し、少し悲しくなったりするのだった。
ある日、そんな祖母との思い出の中に、一つの恐ろしい記憶が混ざっていることに気がついた。
ずっと忘れていた記憶。

養女に出され、全く変わってしまった生活の中で少しずつ忘れていった他の記憶とは異なる。自分から進んで頭の中の硬い殻に閉じ込めた、その気味の悪い出来事……
頼子さんはそのことを思い出してから、毎日悩んだ。祖母のことを懐かしく思い出していても、いつの間にか場面はその恐ろしい出来事に変わっている。
そんな時、心臓に小さな針を落とされたようななんともいえない嫌な気持ちになるのだった。
それは祖母の通夜のことだ。
いつも一人で歩いた道を、父と母に連れられて行く。二人の顔を見上げている自分。暗い表情。とても嫌な感じ。なにか話しかけたような。答えがあったのか、それも忘れてしまった。
そして祖母の部屋に座っている自分。狭い部屋にたくさんの人。黒い服を着た大人たち。確かに祖母の部屋なのに、見慣れたちゃぶ台が、衣装掛けが、見えない。
その代わり、見たこともない祭壇があり、艶やかな灯篭があり、大きな花があり、棺おけがある。
母が言う。
お祖母ちゃんは死んだのよ。
通夜だった。初めての。初めての、人の死。怖かった。よく分からない死というものがではなく、黒い服を着た大人たちがぼそぼそと喋るその小さな声が。節目がちな顔が。その部屋の息苦しさが。
畳の目に沿って、爪を差し入れ、引く。俯いてそのことを繰り返していた。やがて父と母に手を引かれ、棺おけのそばににじり寄る。箱から変な匂いのする粉を摘んで、別の箱に入れる。煙が立ち、匂いが強くなる。
棺おけの蓋は開いていて、両親とともにその中を見る。白い花がたくさん入っている。その中に埋もれて、同じくらい白い顔がある。
見たことのない顔だった。
お祖母ちゃんにお別れを言うのよ。
母がそう言う。
お別れ?
どうして。
首を傾げる。
お祖母ちゃんはどこにいるのだろう。
横を見ると、父が薄っすらと涙を浮かべている。
なんだか怖くなった。
そう思うと膝が震え始める。

怖い。怖くてたまらない。
この人は誰だろう。花に囲まれたこの人は。
大人たちが入れ替わり立ち替わり粉を落とし、こうべを垂れ、花を入れ、小さな言葉を掛けていくこの人は。
怖くて後ずさりをする。
涙を浮かべながら、みんな誰に挨拶をしているのだろう。
座っていた誰かの膝につまずき、仰向けに転がる。
見上げる先に、染みのような木目が長く伸びた天井があった。祖母の部屋の天井だ。
その隅に、白い紙が貼られている。
そこに気持ちの悪い文字が書かれていた。漢字だ。その、絡まりあった黒い線の一本一本がぐにゃぐにゃと動いているような気がした。
怖かった。
どうしようもなく怖かった。
なにもかも、忘れてしまいたくなるくらいに。

依頼人は俯いてそっと息を吐いた。まるで凍えているような口元の動きだった。
話が終わったことを確認するためか、師匠はたっぷり時間を開けてから口を開いた。
「お祖母ちゃんではなかったと?」
「はい」
声が震えている。
「棺おけの中にいたのは、祖母ではありませんでした」
「そんな」
僕は絶句してしまった。
それでは、一体誰の通夜だったのだ。
「お祖母ちゃんではなかったというのは、確かですか。つまり、その、死んだ人を見たのは初めてだったのでしょう。死因にもよりますが、死後には生前の顔と全く違って見えることもあります。
死化粧というものもあります。そのため、まるで別人に見えてしまったのではないですか」
そういう師匠の言葉に、頼子さんは頭を振った。
「いえ。同じくらいの年齢のお年寄りではありましたが、確かに祖母ではありませんでした。今でも白い花に囲まれた顔が瞼の裏に浮かびます」

「しかし、あなたは大好きだったお祖母ちゃんの死を認めることが出来ず、別人だと思い込んだのではないですか。そうした思い込みは小さな子どもならありうることでしょう。
まして、ずっと忘れていたような遠い記憶なら……」
なおも慎重に訊ねる師匠に、頼子さんはまた頭を振るのだった。
「祖母の右の眉の付け根には、大きなイボがありました。私はそれが気になって、何度も触らせてもらった記憶があります。
しかしその日、棺おけの中にいた人の顔にはそれがありませんでした。もちろんそのことだけではありません。本当に全くの別人だったのです」
きっぱりとしたそう言いながら胸を張る。しかし次の瞬間には目が頼りなく泳ぎ、怯えた表情が一面に広がった。
それでは、一体どういうことになるのだ。親戚がお祖母ちゃんの家に集まり、お祖母ちゃんの通夜と偽って全くの別人を弔っていたというのか。
その状況を想像し、僕は薄気味悪くなる。いや、そんな生易しい感覚ではなかった。はっきりと、忌まわしい、とすら思った。
「……」
師匠は首を傾げながら、なにごとか考え込んでいる。
「それでは、ご依頼の内容というのは?」
代わりに僕はそう訊ねる。
「ええ」と頼子さんは顔を上げた。
「その時起きたことを調べて欲しいのです。その出来事のあと、私は祖母と会った記憶がありません。いったい祖母はどうしてしまったのか?
それから、その通夜の日、祖母の代わりに棺おけに入っていた死人が誰なのか」
祖母の家はもうずっと以前に取り壊され、そのあたりは道路になってしまっていた。
そして頼子さんはついこの間、当時のことを知っている親戚をようやく探し当てたという。
しかし耳も遠くなっていたその親戚は、せつ子さんの通夜におかしなことはなかったと繰り返すだけだった。
「私がお祖母ちゃんと呼んでいたその人が、父の祖母にあたる人だったと、今ごろ知ったんです。つまり正しくは私の曾祖母ですね。そう言えば、せつ子という名前さえ知らなかったのですよ。
いつもただお祖母ちゃんとだけ、そればかり……」
また視線を落とし、頬を強張らせる。

事務所の中に、沈黙がしばし訪れた。遠くで廃品回収のスピーカーの音が聞える。
師匠が口を開く。
「その、天井に貼ってあったという紙ですが、なんという文字が書かれていたのですか」
「はい。ええ。それが、はっきりとはしないんですが。私はなにしろまだそのころ小学校にも上がっていない年でしたので。ただ……」
口ごもった頼子さんを師匠が促す。「ただ、なんです」
「ええ。それが、その、霊という文字だったと」
「霊?」
「はい。幽霊とか、霊魂とかの、霊です」
少し恥ずかしそうにそう言った。しかしその顔には得体の知れないものに対する畏怖の感情も同時に張り付いている。
「霊?」
師匠は眉をひそめた。
僕もまた、なんだか気味の悪い感覚に襲われる。霊とは。その場に相応しいようで、またずれているようで。いったいなんなのだろうか、その天井に貼られた文字は。
「その文字ですが、もしかしてその日だけではなく、いつも貼られていたのではないですか」
師匠が不思議なことを訊く。
いつも? いつも天井にそんな霊などという文字が貼られていたというのか。
「いえ。どうでしょうか。そう言われてみると」
頼子さんは驚いた顔をしながら記憶を辿るように視線を彷徨わせる。そしてハッと目を見開き、「あった、かも知れません」と言った。
「どうしたのかしら、私。そうだわ。祖母に尋ねたことがあった。この紙はなに? この紙は。この紙はね。この紙は」
頼子さんは独り言のようにその言葉を繰り返す。
「川添さん。もう一つ確認したいことがあります。その通夜のあった部屋は、確かにお祖母ちゃんの部屋でしたか」
「ええ。それは間違いないと思います」
「お祖母ちゃんは小さな家に一人で住んでいたとおっしゃっていましたが、その家は平屋でしたか。それとも二階建てでしたか」
「ええと、それは」
頼子さんは自信のなさそうな顔になる。はっきり思い出せないようだ。

「あなたがいつも縁側から訪ねていったという部屋ですが、そこで通夜が行われたのですよね。その部屋の他に、どんな部屋がありましたか」
「あの、ええと」
不安げな表情のまま、頼子さんは必死に記憶を辿ろうとしている。
「他の部屋は…… 覚えがありません。いつも祖母はその部屋にいました。私もそこにしか行ったことが……」
そうしてまた口ごもる。
その様子をじっと見つめながら、師匠はふっ、と小さく息をついた。
「川添さん。あなたのご依頼である、その奇妙な通夜のあと姿が見えなくなったというお祖母ちゃんがいったいどうしてしまったのか、という点についてはお答えできる材料がありません。
ですが、お祖母ちゃんの代わりに棺おけに入っていた死者が誰なのか、ということについてはお答えできると思います」
「え」
僕と、頼子さんは同じように驚いた声を上げる。そして師匠の顔を見る。
「その前に、天井に貼ってあったという紙の文字について見解を述べます。それは『霊』という文字ではありません。
小さな子どもには見分けられなくても仕方がないでしょう。『霊』と良く似た漢字。『雲』です」
くも?
どうしてそんなことが断言できるのか。意味が分からず、狐につままれたような気分だった。
「その部屋には神棚があったはずです。ご存知かと思いますが、神棚は一番高いところに設置されるものです。
出来るだけ天井近くに。そしてそれだけではなく、その建物の最上階に設置されるべきものなのです。
もし最上階に設置できない場合、そこが天に近いということを表すため『雲板』と呼ばれる板を神棚の上部に飾ります。
雲をかたどった意匠を施してある板です。あるいは、『雲文字』と呼ばれる文字を天井に貼るのです。
『天』や『雲』などと書いた紙を天井に貼ることで、その部屋が天に近い場所であるということを表すのです。
これらは古い習慣ですが、今でもまれに見ることができます。その通夜があったのは、五十年近くも前のことです。まだそうした習慣が色濃く残っていた時期でしょう」

師匠が言葉を切って依頼人の方を見る。
頼子さんは「雲」と呟いて、どこか遠くを見るような顔をしている。
「そしてそれは、お祖母ちゃんの部屋がその家の最上階にはなかったことを示しています。小さいころの川添さんが縁側から訪ねたという部屋は一階にあったことは疑いありません。
しかし、その家は平屋ではありませんでした。なぜなら、『雲文字』を天井に貼らなくてはならなかったからです。つまり二階部分があったのです。なのに神棚は一階の部屋に設置されていた。
家の、もっとも高い場所に置くべきものが、です。ここから想像できることは、こうです。『お祖母ちゃんはその家の間借り人だった』」
だから、神棚を一番高い場所に置きたくても、家の人間ではなかったお祖母ちゃんは一階の間借りしている部屋に置くしかなかった。
師匠は淡々とそう語った。
「その家にはお祖母ちゃん以外に、他の住人がいたのです。あなたが記憶していなくても。お祖母ちゃんの代わりに棺おけに入っていた死者が誰なのか、もうお分かりですね。
いえ、正確にはあなたが『おばあちゃん』と呼んでいた人物の代わりに、棺おけに入っていた人のことです。
せつ子さん、とおっしゃいましたか。お父さんの祖母、あなたにとっては曾祖母にあたる女性。棺おけに横たわり、残された親類や親しかった人々に死に顔を見てもらっていたのは、その人です」
頼子さんは目を見開いた。そして口が利けないかのように喉元が震えている。
「あなたがただ、おばあちゃん、と呼んでいた、名前も知らなかった女性は、もちろん曾祖母のせつ子さんではありません。
またあなたの祖母にあたる人でもなかった可能性が高いと思います。ひょっとすると、全くの他人だったかも知れません。
ただ本当の曾祖母の家の一部屋を間借りしていたというだけの…… 先に断ったとおり、そのおばあさんがどこに行ったのかは分かりません。
せつ子さんの通夜の日、間借りしていた部屋がすっかり片付けられ、たくさんの弔問客を受け入れていたことを考えると、おばあさんはその時すでにもう家から引っ越したあとだったのかも知れません。
病院か、別の借家か。あるいは……」
そう言って師匠はそっと指を天に向けた。

「古い話ですし、全くの他人であった場合、どこに行かれたのかを調べるのは難しいでしょう。満足の行く調査結果を出すことはできないかも知れません。それでも、私に依頼をされますか」
静かにそう告げる師匠に、頼子さんは戸惑いながら膝の上に置いたハンドバックを触っていた。その手のひらが、やがてしっかりと握られ、ハンドバックの上で静止する。
かすかに上ずった声が、唇からこぼれた。
「私にとって、祖母はその人です。縁側の戸を開けて、いつも私に微笑みかけてくれた、優しいおばあさん。例え名前も知らない、赤の他人だったとしても」
そこで言葉を切り、ゆっくりと口の中で咀嚼してから頼子さんが発したのは、とても穏やかな声だった。
「私たちは、ひとりぼっちを持ち寄って、それでもひとときの幸せを共有していたのだと思います」
そうして依頼人は、「お願いします」と頭を下げた。

(完)

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