学生時代、まだ桜も咲かない3月のその日。
僕はクラスメートのアキヤマさんという女の子と、同じくクラスメートの友人の家に向かっていた。
友人は仮に名をナナシとするが、ナナシには不思議な力があるのかないのか、とにかく一緒にいると奇怪な目に遭遇することがあった。
そのナナシがその日、学校を休んだ。
普段はお調子者でクラスの中心にいるナナシが学校を休むのはすごく珍しいことで、心配になった僕は放課後見舞いに行くことにした。
そこに何故か
「私も行く」
と、アキヤマさんも便乗したわけだ。
とにかく僕ら二人は連れだって、ナナシの家に向かった。
ナナシの家は、学校から程遠くない場所にあった。
僕はナナシと親しくなって1年くらい経つが、たまたま通りかかって
「ここが俺ん家」
と紹介されることはあっても、自宅に招かれたことはなかった為、少しワクワクしていた。
ナナシの家は、今時珍しい日本家屋で、玄関の門柱には苗字が彫り込まれていた。
「…やばい家。」
アキヤマさんが呟く。僕はこのとき、
「確かにヤバイくらいでかい家だな」
なんて思っていたが、今にして思えばアキヤマさんが言っていたことは全く違う意味を持っていたのだと思う。
それは「今となっては」言える話で、あのとき僕がこの言葉の意味に気付いていれば、僕らとナナシには別の未来があったかもしれないと悔やまれるが、それは本当に今更なので割愛する。
呼金を鳴らし、
「すみませーん」
と声をかけた。
しばらく無音が続いたが、1,2分後に扉が開き、背の高い女の人が出て来た。
僕とアキヤマさんは、自分たちがナナシのクラスメートであること、ナナシの見舞いに来たことを伝えた。
女の人は
「ありがとう」
と笑うと、ナナシの部屋に案内してくれた。
部屋に入ると、布団にくるまって漫画を読んでいるナナシがいた。
僕らに気付いたナナシが、ヘラヘラ笑ってヒラヒラと手を振る。
案外元気そうな姿に、僕は安堵した。
「なんだよお前、元気なんじゃないか」
僕は笑ってナナシに話掛けた。
アキヤマさんは黙って鞄を置くと、部屋を見回した。
「なんでアキヤマがいんの」
ナナシが小声で僕に尋ねた。
僕もなんとも答えられず、
「まあまあ」
とわけのわからない返答をした。
ナナシの声は、小声だからというのもあるだろうが、かなり掠れていて痛々しい程だった。
見た目と違い、かなり酷いのかと心配になった、そのとき。
「ナナシ。あれ、何。」
アキヤマさんが、口を開いた。
アキヤマさんが指差した場所には、コルクボードがあった。
眼鏡をかけて改めて見ると、何枚もの写真と、何枚かの手紙やプリントが貼られている。
なかには僕らが授業中に回していた手紙もあった。
「なんだよ、わざわざ飾ってんのかよ」
ナナシが手紙をとっといてくれたことが、なんだか無性に嬉しかった僕はナナシを肘でつついた。
しかし、アキヤマさんはニコリともせず、
「そうじゃなくて。その真ん中。」
と、続けた。
僕は目線を真ん中に向けた。
すると、そこには、異様な写真があった。
「…え」
それは、どう見ても心霊写真です、といった感じの写真だった。
写っていたのは、ナナシと先程の背の高い女の人で、見事な夕日を背景にしている。
そこまでは、なんらおかしくなかった。
おかしいのは、ナナシの、一部。否、ナナシを囲むもの、というべきか。
女の人にもたれ掛かるようにしたナナシの顔の両端に、白いものが写っている。
それは、手のような形をした、白い靄だった。
「ナナシ、これ…」
「ああ、それか。」
少しガタついてる僕に、ナナシは漫画を置いて、向き直った。
その表情は哀しそうで、そしてどこか嬉しそうでもあった。
「それは、母さんと撮った最後の写真なんだ」
ナナシは、そう言って語り始めた。
「俺の隣が母さん。2年前に、死んだ。」
ナナシは少し俯いて言った。
「その写真撮った次の日に、その写真撮った屋上から飛び降りた。」
淡々とした言い方だったが、それはナナシが背負ってきた悲痛が全て凝縮したような切ない響きを持っていた。
見事な夕焼けを背にして笑う親子、まさかそれが翌日には哀しい別れ方を迎えるなんて、哀し過ぎる。
「その写真、母さんの誕生日に棚整理してたら見つけてさ。半年くらい前。
2年前に現像して見たときは、たしかに何も写ってなかったんだけど。
そんとき改めて見たら、その靄が写ってて。」
僕は黙って聞いていた。
アキヤマさんも、じっと写真を見つめて黙ってた。
僕は今更、ならばさっき会った女の人は何だとか、わかりきった追求をする気はなかった。
ナナシといたら怖い体験をする、ってのは、それこそ今更だったし。
きっと、死んだあともナナシのお母さんは、ナナシが心配で、この家にいるんだろう。
遺して来たナナシが、心配なんだろう。そう思った。
「その靄、手の形してるだろ?俺も最初は怖かったけど、見てるうちに、きっと母さんが、俺を守ってくれてんだ、って思ってさ。」
その手が、きっと俺を守ってくれてるんだ、って思って。
ナナシは、そう言って笑った。
「だから、飾っちゃってるわけ。マザコンぽくて、アレだけどな。」
ナナシは掠れ声でそう言うと、いつもより少し照れたようにヘラッと笑った。
僕はうっかり泣きそうになるのをグッと理性で押さえ、
「このロマンチストが」
なんて馬鹿馬鹿しいツッコミを肘で入れた。
ナナシとは怖い体験も何度かしたけど、この話を聞いて、やっぱり僕はナナシを好きだと思った。
僕らを見て
「ありがとう」
と笑った、ナナシのお母さんの顔を思い出す。
僕は、ナナシとずっと友達でいよう、あのお母さんのぶんも、ナナシの傍にいよう、と心底思った。
そのとき、
「元気そうで何よりだわ。明日は学校で会いたいわね。」
と、アキヤマさんが唐突に言った。一瞬にして先刻までの感動ムードが吹っ飛ぶ。
アキヤマさんはそんな空気変化を無視し鞄を抱えて、お大事に、と一言掛けると、部屋を出た。
僕は一瞬呆気に取られたが、我に帰り、慌ててアキヤマさんを追い掛けた。
「また明日な!!!」
ナナシに声を掛けると、ナナシはいつものヘラヘラした笑顔で手を振った。
それを見届けてから、僕はアキヤマさんを追い掛けて広い廊下を走った。
あの女の人は、もういなかった。
僕がナナシの家を出たとき、アキヤマさんはすでに数純=[トル先を歩いていた。
僕は必死でアキヤマさんを追い掛け、並んだところでその肩を掴んだ。
「アキヤマさん!!」
「…なに」
アキヤマさんは振り返る。
その顔に撫ヘなく、異様なくらいの冷たさを感じた。
「なんで、あんな言い方したんだよ。ナナシが可哀相じゃん、お母さんが…」
そこまで言って、僕は何も言えなくなった。
アキヤマさんが、嫌悪と怯えを入り交じらせたような形相で、僕を睨んでいたからだ。
「…アンタ、本当にあれが『守り手』だなんて思ってんの?」
アキヤマさんが強い口調で言った。
その真っ直ぐに向けられる視線は、信じられないとでも言うように僕を刺していた。
「だって…それしか」
「本当にそう思ってんならシアワセね。」
アキヤマさんは心底馬鹿にしたように言い放った。
「アタシには、あの手がナナシの首を絞めようとしているようにしか見えなかったわ。」
そう言うと、アキヤマさんは足を早め、帰っていった。
曲がり角を曲がって、見えなくなるアキヤマさんを呆然と見送りながら、僕は、あの写真を思い出していた。
夕焼けを背にした親子、その翌日に飛び降りて死んだ母、息子の首元にかかる手型の靄。
そして、良好そうな体調の割に、酷く掠れた、ナナシの声。
もし仮にアキヤマさんの台詞が真実なら、僕らが見たあの人は、ナナシをどうするつもりだろう?
耐え難い悪寒と戦慄を感じ、僕は走った。
嫌な頼エが現実にならないのを祈りながら、ナナシの家が見えなくなるまで、走った。
翌日、ナナシはいつもどおり学校に来ていたが、声はさらに掠れていた。
このときすでにカウントダウンは始まっていたのかもしれないが、やっぱりそれは今更の話。