陽の当たる時間が短くなってきた頃の、ある日の夕暮れ。
僕はその日、掃除当番で教室に残っていた。
同じ掃除当番だったクラスメイトの女の子はゴミを置きに出ていて、僕はひたすらチリ取りを動かしていた。
そんなとき、
「よお。」
と聞きなれた声がドアの方角から聞こえてきた。
振り向かずともわかっていたが、そこにはナナシが立っていた。
いつものヘラヘラした薄笑いを浮かべ、買ったばかりだというショルダーバックを振り回しながら彼はそこにいた。
「なんだ、待っててくれたんだ」
とっくに帰ったと思っていたので、予期せぬ親友の登場に僕は嬉しくなり掃除のことはすっかり忘れてナナシに駆け寄った。
「これから時間あんだろ。行こう」
どこへ行くかも告げず、ナナシはニッコリ笑って踵を返した。
さすがにゴミだしに行ってるクラスメイトに何も言わず勝手に帰るのは気が引けたので、黒板に先に帰る旨を書き残し、僕はナナシのあとを追った。
まだ六時になったばかりだというのに窓の向こうはほぼ真っ暗で、電気がついているとはいえ薄暗い廊下を歩いていくナナシが、なんだか闇に溶けていなくなってしまうような妙な感覚に襲われ、僕はすこし速く歩いてとなりの並んだ。
今思うとそれはあながち間違っていない、虫の知らせというやつだったのかもしれない。
そんなことを知ってるのか知らないのか、ナナシは厭味なニンマリ顔で笑うと、
「怖がり」
と僕に言った。聞こえないふりをして校舎を出ると、ナナシはいつもの帰り道とは反対の方向へ歩き出した。
「どこ行くの」
「うん?おもろいとこ」
親友のはぐらかすような物言いには慣れていたので、それ以上なにも言わず後に続いた。
ついた場所は、栄生駅のすぐ近くにある何の変哲も無いマンションの前だった。
夏に行ったアパートのように無人ではなく、玄関には明かりもついているし自転車もいくつか止められている。
「こんなとこに何しに来たんだよ」
僕が問うと、ナナシはヘラっと笑い、
「ここな、『首括りの家』って呼ばれてるんだと。
横溝正史もびっくりだぞ?この半年で四人だってさ」
何が面白いのかナナシはクックと嫌な笑い声を上げた。
第一、どこからそんな情報を仕入れてくるのか。
僕には疑問でしかなかったが、それを問い掛ける勇気はなかった。
ていうか、なにが面白いところなのか。
いわゆる自殺の名所的な場所にきたわけだ。
これまでのことを考えれば、「なにか」あるに決まってるそして、それを正直に言えば僕がビビッて帰るだろうということも、この親友はわかっていたのだろう。
だからあんなあいまいな言い方でごまかして、僕を連れ出したんだな、と僕は思った。
しかし、そう短くない付き合いの中で僕も、そういう「なにか」が少し楽しくなっていた。
もちろん怖い、がナナシと共有するこの時間は、なんとなく好きだった。
ナナシはそんなことを考えてる僕にはお構いなしでマンションに入っていく。
そして薄明かりのついた玄関を見回すと、エレベーターではなく階段の入り口に立った。
ドアノブを回すと、錆びているのか「ぎぎぎ」と音がした。
ドアの向こうには当然ながら階段が続いていた。
電気はついてないらしく、しかし所々に設置された丸い窓から月の光と周りの店の看板のネオンが入っていて、薄暗くはあったが視界はそこまでわるくなかった。
「四階で二人、屋上でひとり、管理室でひとり、首吊ったんだってさ」
ナナシは楽しそうに言った。
そして、まずは四階にいこう、と言い出し階段を上りはじめた。
僕はため息をついて、しかしやはり怖いのでナナシのショルダーの端をつかみながら階段を上った。
一、二、三、とフロアを通り過ぎて、「4」と書かれたドアの前に僕らは立った。
ナナシがノブを回すと、また「ぎぎぎ」と音した。
扉の向こうは、ごく普通のマンションのフロアだった。
表札のついたドア、そう広くない廊下、白い壁。
特に変なところなど見当たらなかった。
「なんだ、ふつうのとこじゃん」
安堵して息をつくと、僕は少し調子に乗って先立って歩き始めた。
うしろからナナシがついてくるのがわかる。
いつも背中を追いかける側の僕としては、ナナシの前を歩けることが些細なことだがひどくうれしかった。
少し薄暗いが割合綺麗なマンションだし、各ドアに飾られたかわいらしい折り紙の細工物や「セールスお断り!」の札などを見ても、とても自殺者のでたマンションには見えないし、今日はハズレだね、と僕は笑って言った。
しかし、
「本当にそう、思うか?」
ナナシから返ってきた言葉は、予想外のものだった。
驚いて振り向くと、ナナシはひどく真剣な表情をしていた。
すこし怒ったような、硬い表情。
僕はなにか間違ったことを言ったのだろうか。と不安になった。
するとナナシは次の瞬間、僕の手を引っ張って階段のほうに走り出した。
訳がわからず慌てふためく僕に、ナナシは叫ぶように言った。
「 絶 対 後 ろ を 見 る な ! ! ! 」
ナナシの声は、聞いたことが無い怒気をはらんでいた。
すこしあせっているようなナナシのその口調が、僕は怖かった。
今まで数々恐ろしい目にあってきたけれど、こんなに切羽詰ったようなナナシを見るのは初めてだった。
狂ったように笑うナナシよりも、「あの」ナナシが余裕を無くしていることが怖かった。
けれどその時点で、僕にはナナシがなんでこうもあせっているのかわからなかった。
それもまた、恐怖だった。
階段の入り口までくると、ナナシは蹴飛ばすような勢いでドアを開け、転ばないのが不思議なほどの速さで階段を駆け下りた。
握られた手は、ひどく冷たい。
なにかに緊張してるのがわかる。
「ナナシ!!ねえナナシどうしたの!!?」
引きずられながら僕は必死にナナシに尋ねた。
なにもわからないまま走る恐怖に耐えられなかった。
するとナナシは小さな声で、
「足元、見てみろ」
とだけ言った。
そこでようやく、僕にもわかった。
そしてその恐怖に悲鳴をあげた。
ぼくらの足元に、影が差していた。
ゆらゆらと、規則的に揺れる、黒い大きな影。
そう、まるで、首を括った人間の体が揺れているかのような、影が。
「ひ、ひ、や、なにこれええぇ!!!」
「考えんな、走れ!絶対ふりかえんなよ!」
泣き出す僕にナナシが怒鳴った。
振り返れるはずがない。
なにが揺れているの?
なんで揺れているの?
だ れ が ゆ れ て い る の ?
考えたくないのに、恐ろしい疑問ばかりが浮かぶ。
影は止まることなく揺れつづけ、僕らのあとを追ってきていた。
規則的に、ギシギシと音を出しながら、揺れる影は僕らから離れなかった。
助けて助けて助けて。
そう叫びながらもつれる足を走らせていると、途端に前が明るくなった。
ナナシが出口のドアを開けたらしかった。
転がるように僕らはマンションを出た。
そのまま大通りまで走り、家路を急ぐ人々が見えてきた頃には、もう影はいなくなっていた。
となりで少し苦しそうに息を整えてるナナシに、僕は聞いた。
「あれは、な、に?なんだったんだよ?」
「さあな。今回ばかりは焦ったけど、俺にもわかんないよ。ま、死人は執念深いってことだな」
ナナシはいつもと変わらない口調で言った。
とても怖かったけれど、ナナシのその普段どおりの口調に僕はとても安心した。
しかしそのすぐあと、ナナシは言った。
「俺は、気をつけなきゃ。失敗、しないように」
その言葉の意味を知ることになるのは、もうすこし先の話だけど
そのとき、その言葉の意味がわからなくて、でも、なぜだかひどくぞっとしたのを覚えてる。
なにを、気をつけるの?
なにを、失敗しちゃいけないの?
ねえナナシ、きみは
な に を し よ う と し て い る の
あのとき、聞けていたなら。