このたび配属された医大はロビー脇に警備室があり、受付の窓口はそこに面している。
本館を東西に貫く廊下に面してドアがあり、そこから俺達は出入りしていた。
受付の窓とドアの間の角が壁になっており、そこが死角となる。
そこに配置された増設を重ね接続が複雑になったインターホンの操作や、並び順がめちゃくちゃなキーボックスの法則をどうにか掴み、受付などのさまざまな業務に慣れてきた頃、ソレは起こった。
日付が変わった頃、俺は単独で受付に座っていた。
夜遅くでも研究員の出入りがあるため、常に誰かがここに就いていなくてはならない。
とはいえそんなに頻繁にあるわけではなく、当然ながら退屈であり眠くなってくる。
そして、うつらうつらとしていたが突如漂ってきた異臭によって覚醒した。
ベチャリ
ただならぬ気配に目を見開くと、泥の塊を引きずったような線が廊下に伸びていた。
ベチャリ
鼻腔をくすぐる、ドブと大便の臭いが混じったような異臭。
ベチャリ
視界の片隅に見えた、ぼろ雑巾のような大きな塊。
ベチャリ
それは死角となる領域、キーボックスや各種インターホンが据えつけられた壁の向こう側へと入る。
ベチャリ
本能的な恐怖。
風を通すために開けっ放しにしたドアが目に入る。
ベチャリ
タックルするようにドアに飛びつき、その勢いで締める。
ベチャリ
腰が抜けてしまい立てない。
ドアにもたれかかり、ドアノブに手を伸ばすも、指先が震えていてサムターンがうまく回せない。
ベチャリ
接近しつつあった濡れ雑巾を床に落としたような音が、ついに俺の真後ろからドア越しに聞こえてきた。
ベチャリ
どうにか震える指がつまみを捕らえ、カチリと鍵がかかった音がした。
まさに、その瞬間。
ドアノブが左右にガタガタと回りだし、慌てて手を引っ込める。
誰だ!
みっともないくらいに震えているが、どうにか声をふりしぼる。
すると、ドアの向こうからはゴボゴボとうがいの様な音が聞こえてくる。
何か喋ってるようにそれは変化するが、言葉として聞き取ることはできなかった。
そして俺は、何を血迷ったのかノックの回数でドアの向こうにいる何かとの意思の疎通を試みてしまった。
昔、怪談で聞いた話だ、何か質問をし、はいなら一回、いいえなら二回といった具合にノックさせるという。
その怪談の状況や結末は覚えていない、ただ、そのコミュニケーション方法だけが印象に残っていた。
何か用ですか
コン(……って、用があるから来たんだろうかボケ)
私にできることですか
……コン(少し迷った。悪かったな新米で)
近くに住む人ですか
コンコン
あなたは生きていますか
コンコン
といった具合に質問を重ねる。
ノックの音には、何か柔らかいものがドアにあたって潰れる音が混じっていた。
そして、
あなたは男の人ですか
そう訊いてからは何の返答もなかった。
いつまでたってもノックの音も、足音もしない。
まだ、何かはそこにいるということか。
身動きが取れないまま、一瞬とも、何時間とも思える時間が過ぎる。
そのとき電話が鳴り飛び上がる。
徹底的に先輩にしごかれていたため、恐怖感を無視して反射的に電話に飛びついた。
ヘマしたときの叱責は、ある意味先ほどの未知なる存在との接触以上に怖かったのだ。
電話は職員からで、至急で法医解剖を行うことになったので、搬入ゲートの開放とストレッチャーの用意をしておいて欲しいとのこと。
マニュアルと格闘して通達すべき職員とそれぞれへの連絡事項を纏め上げ(通達は出勤してくる時間から行うことになっている)、仮眠を終えて起きてきた同僚に引継ぎを行い、届いた朝刊をそれぞれの研究室や部署に配布し、朝早くから襲来する掃除のおばちゃんに担当場所の鍵を渡し……と、てんてこ舞いでありすっかり先ほどのドアの向こうの存在を忘れていた。
アレを思い出したのは、最後の新聞を渡し終えて警備室に戻ったときだった。
掃除のおばちゃんが、ドアノブを拭いていた。
普段は、そこまでしていなかったのに。
理由、訊くに訊けなかった。
ふたたび窓口に着くと外線が鳴った。
至急で法医解剖を行うことになったので、搬入ゲートの開放とストレッチャーの用意をしておいて欲しいとのこと。
内容はあの時かかってきたものとまるっきり同じ。一体、これはどういうことなのか。
そして、もう一つのことを思い出した。
電話の呼び出し音、普通ではあった。
ただ……内線とも、外線とも異なる呼び出し音だった。
退勤時刻まであと30分……というところでついに仏さんが来る。
搬入ゲートに入ってきたバンのハッチが開くと、消毒薬でも隠しきれないドブと大便の臭いが混じったような仏さんの匂いが漂う。
ストレッチャーを回し、積み込みを手伝う、シート越しに、仏さんのでっぷりと太った体型が伺える。
そのとき、振動によるものか仏さんの片腕がだらりとシートからはみ出した。
拳だけ、皮膚が裂け骨が出ていた。素人目にも、他の部分とは損傷の仕方が不釣合に見えた。
数日後、解剖担当の教授がお菓子を差し入れに持ってきた。そのときの雑談でこの前の仏さんの話を聞く。
でっぷりと太っているように見えたのは水死体……いわゆるドザえモンだったかららしい。
なんでも、性別もわからず手術跡もないため身元の特定は難しいという。
損傷はそんなに激しくはなかったと思ったが、そういう意味ではなかった。
世の中には、半陰陽といって男でも女でもない状態で生まれて来る人がいるという。
あの仏さんがそうであり、水死体であり水流にもまれて身に着けていたものをすっかり洗い流されてしまっているため、生前はどう過ごしていたかも特定は難しいという。
体のことを知られるのを恐れ、医者にかかってない可能性もあるからカルテなどないかもしれない。
残った要素から特定せにゃならんから警察の人は大変だと教授はこぼしていた。
仏さんが来る前夜の怪現象を思い出す。
ドア越しにノックでコミュニケーションを試みたアレがあの仏さんだったのだろうか。
だから、男の人かと聞いても答えられなかったのか。
仏さんが生前、どう生きていたのか、どう生きたかったのかはわからない。
それでも、あるがまま、本人の望む形で生きられたと願わずにはいられなかった。
以上