僕がまだ小学生の時分。
おそらく中学年だったろうと思う。
夏のある日、車での家族旅行の帰り、どうやら道に迷ってしまったようなんだ。
見当違いの見知らぬ土地で日も暮れ、どこか奥まった集落に行きついた。
なんとか一軒の民宿を見つけ、両親と僕ら兄弟は一も二もなく宿泊を決めた。
その日の夜はあまり記憶にない。
疲れていて早々に寝てしまったのだろう。
夜が明けて、両親と僕らは朝食を済ませた後、散歩に出かけてみた。
迷い込んだとはいってもせっかくの旅先だ。
旅館を出てすぐ坂道が見える。
両脇には民家の並ぶその坂の上には、神社があるようだ。
「よし、あそこに行ってみるか」
父の言葉に頷いて僕らはそこを目指した。
そして歩いて間もなく、少しばかり異様な光景が目に入ってきたんだ。
坂道の両脇には、先述の通り民家が立ち並んでる。
その民家の生垣に、無数の風車が挿してあるんだ。
何かの風習なのかもしれない。
ただ、それは余りに無造作でぶっきらぼうで無感情に思えた。
其れに目を奪われながら歩みを進めていると、一軒の家の門の先から老婆がこちらを見ていた。
微動だにせず。
ただこちらをじっと見つめている。
失礼な言い方だが、辺鄙な場所だ。
よそ者が珍しいのかもしれない。
とは言えその目つきは何かをいぶかしむでもなく、疎むでもなく、歓迎するでもなく。
有り体にいえば『無感情』に見えた。
どこかさっきの風車のように。
挨拶をする父に促されるように、僕らも老婆に挨拶をした。
しかしというか、予想通りというか、返答はなかった。
ただ、その眼はじっとこちらを見ていた。
そして、神社に着くまでに、同じように門のあたりでこちらを見つめるだけの老人に幾人も出会った。
父も母も、それについて何も言うことはなかった。
だから僕も、多少の違和感を抱えたまま何も言わなかった。
神社に着いた。
大きな神社のように記憶している。
大きなスズメバチの巣が飾ってあった。
虫好きの僕ははしゃいでいたように思う。
弟と妹も境内で楽しそうに遊んでいて、それを見る父がいつになく優しそうに見えた。
ひとしきり遊んだので、そろそろ民宿に戻ることにした。
帰り道、あの坂をまた下る。
先ほどの老人たちは、微動だにせずにそこにいたままだった。
散歩とはいっても2時間以上は経っている。
その間そこにいたままだったのか。
警戒心から、下りてくる僕らを待ち構えたのか。
それとも偶然なのか。
ともあれ、その眼はどれも無感情に僕らを見つめ続け、挨拶もやはり返ってくることはなかった。
昼食を頂いたところで、父が
「もう一泊して明日の朝出る」
と言った。
急ぐわけでなし、せっかくだと。
父は好奇心が強いし、ハプニングを楽しむ口だ。
母や僕らも反対する理由もなかった。
民家の一件も、変わってるな、ぐらいの感覚だったんだ。
そういうわけで僕らは、またのんびりと時間を潰した。
夕食には川魚の塩焼きが出て、父は大喜びだった。
夕食の後、どうもクーラーの効きが悪いと言い出した父は、非常識にもクーラーをいじり始めた。
そういう人なのだ。
いつものことなので手伝うことにしたが、開けてみて驚いた。
無数のマルカメムシが詰まっていた。
それはもう冬眠のように。
幸い僕も父も虫に強かったので、無言で処理したが、クーラーは使わないことになった。
民宿にも言わなかった。
その夜、元々暑さに強かったので、寝苦しいこともなかった。
が、昼間に見た老人たちの感情の無い視線が頭に浮かんで、ようやっと僕は少し怖くなってきた。
しかし何があるでもなく、いつのまにか寝て朝を迎えた。
支度をして部屋を出た。
両親が払いを済ませようとした時だ。
「御代を頂くわけにはまいりません」
はっきりそう言われた。
意味が分らない。
民宿に泊まって飯も食って、いや、そういう問題ではなく。
『頂くわけにはまいりません』
ってなんだ。
クーラーの件は言ってないし、言ったところで理由になってない。
さすがに両親も呆気にとられている。
数回の押し問答の末、両親は押しつけるようにお金を渡し、僕らを車に乗せてエンジンをかけた。
「お客様、困ります!」
追いかけてくる女性を振り切るようにそこを出た。
『頂くわけにはまいりません』
この理解のできない言葉を聞いて、僕はようやくここの不可解さを実感した。
無造作に突き刺した垣根の風車。
無感情に見つめる老人。
それらが昨日より格段不気味に思えてきた。
車を走らせながら、父が誰にともなしに言った。
「俺な、散歩のあと、またその辺見て回っただろ。
あの場所な、民宿の人間以外は老人しかいないな。
あと、人の会話が一切聞こえなかっただろ。
表に人は出てても、誰も何も喋ってないんだ」
僕はゾッとした。
何にかはよくわからないが。
それを知ってか、父がこちらを見て言った。
「ちょっと不気味な場所だったな?」
父は笑っていた。
あれから20年近くたって、そもそもあれは夢だったのではないか。
そう思って母に聞いてみた。
が、生憎夢ではなかったようだ。
ただ、母も場所などは忘れているし、余り思い出したくないそうだ。
「少し不気味だったわね」
と、母は同じように言い、同じように笑っていた。