大学1年の春。
なじみのバイクショップのツーリングに参加した時の事。
今日の行先は奈良・大台ヶ原のちょっと手前にある小処温泉。
トップはベテランの滝さん。
2番手をバイク歴2年目の健太が行く。
本人は一番手に行きたかったらしいが、団体の時は、ペースメーカーになれる人間が先頭を走らないと、どえらい事になるから、却下されたらしい。
今日のメンバーは割に老頭児が多いので、行かせてやってもいいんじゃないかと一応言ってみたが、『健太は熱くなるからダメ』と先輩諸氏に否決された。
俺は久々にトリ(最後尾)を行かせてもらう。
目的の山鳩の湯までは何度も行った事がある。
当然、途中で休憩する所も全部わかっているから、多少ライン(車列)が切れたところで何にも心配ナシ。
のんびりゆったり。
一方、健太は、市街地はおとなしく走っていたが、山間に入り、他の車輌が少なくなって来たらもうどうにもガマンがならず、トップを抜いてさっさと行ってしまったらしい。
俺が最後に喫茶店へ入った時、奴さんはみんなから意見されている真っ最中だった。
「おまえな、団体の時は団体らしくしなきゃダメ」
「あー、だってかったるくて…」
「ばか。みんなで行ってる時にテメェ勝手に事故ったりしたら、周りに迷惑かかるって事ぐらいわかんねェのか。」
「まったく、ヘビでも踏んだらどうすんだ」
「え、ヘビ?なんで?踏んじゃったよ?」
健太のあっけらかんとした一言に、ベテラン・中堅連中が固まる。
他所ではどうだか知らないが、ウチでは伝統的に、春の山でヘビを踏んだ奴は絶対に、どうって事のない場所で転倒し、そのままバイクごと崖から転落する。
単独、団体にかかわらず、例外は無い。
そう聞かされても、健太は怖がることなく、反対にケラケラ笑っている。
「ウソだよ、そんなの。メェーシンだ」
コーヒータイムも終り、再び俺たちは走り出した。
左手はダム湖へ続く川、右手は崖。この辺は道幅も広いし、タイヤをとられるような路面の荒れもない。
健太もおとなしく走っている。
緩やかな右カーブを抜けると、100メートル程の直線、そして大きな左カーブ。
先頭の滝さんが直線の中程まで来た時だ。
突然、ラインから横倒しになったバイクと人間が左へひゅっと飛出し、ガードレールの隙間からそのまますっと向うへ落ちた。
全車停止。
一目散に駆けよる。
健太とバイクが並んで横たわっている。
健太!と呼んでも動かない。
春の山道は崖から落ちた石が結構ある。
東さんが手頃なのを一つ拾って健太にぶつけた。
生き・死にを確認する為だ。
右太股に確認石をぶつけられた健太が動く。
生きている。
“韋駄天”元木さんが、ダム湖そばの公衆電話へ向ってかっ飛んでいき、ショップのマルちゃんは写真を何枚か撮った後、店へバイク回収用の車を取りに戻った。
用意周到なベテランたちの持ってきたロープでバイクは引上げられたが、健太は腰が痛いというのでそのまま。
ヤツは、だいぶ大きなヘビを踏んだらしく、バイクは自爆事故とは思えないくらいメチャクチャに壊れていた。
結局、健太は尾てい骨と右大腿骨他幾つかの骨折で入院、バイクは廃車。
「ばかやろう、ヘビを踏んだらとんでもねぇ目にあうぞ」
本人は今、若葉たちに一生懸命そう教えている。
大学1年の夏。
8月に弟と山形への旅を決めたので、メンテナンスをしてもらおうと行きつけのバイクショップへ顔を出した。
「こんちわーっス」決まりの挨拶をすると、店のマルちゃんとしゃべっていた人物がくるりと振り返った。
「あー、ナイトぉさん。おひさデスッ!」
満面の笑顔で健太が迎えてくれた。
「俺は内藤さんじゃねぇってばよ」
どうしてか、コイツが“Nightさん”と呼んでくれると、誰がどう聞いても“内藤さん”に聞こえる。
「もう、身体いいのか?」
この春、ショップから出掛けたツーリングで、健太はベテラン勢の言う事を聞かず、一番の禁忌とされる蛇を踏んでのけ、挙句に崖下へ愛車共々転落して重症を負ったのだ。
「はい、先週退院して、一昨日ボルトも抜けました」
「夜風さん、参っちゃいますよー。健太、もう走ってんですよォ」
「ダイジョブですって。へたに歩ってるより、バイク乗ってる方が楽なんス」
困ったような顔のマルちゃんの横で、健太はけらけら笑っている。
「でね。うちの親が、あん時お世話になった皆さん、良かったらウチへ来てもらえって言うんスよ。
ちょうど、家改装してキレイになったんで、その祝いもするからって。
ウチ、香落渓の方なんスけど、どうスか?」
「そりゃ、嬉しいけど、大勢で押しかけちゃ迷惑だろうに」
「ウチ、田舎ですもん、10人や20人くらい平気です」
結局、連絡の着いたメンバーの中から、滝さんと東さんと元木さんと俺が、健太の実家へお邪魔する事になった。
奈良・香落渓は三重県との県境にある曽爾村にある。
この辺りは室生火山郡の中にあって、ハイキング好きにとっては嬉しいコースが幾つもあり、殊に、健太の家のある奥香落渓の方は、奇岩絶壁の名所がたくさんある。
俺たちが到着すると、早速ご両親が丁寧に深々と頭を下げ、お礼を申し述べて下さった。
滝さんが年の功で丁重に返答し、常識の少ない俺たちは、後ろで同じように頭を下げる。
それを健太が遮って、俺たちを家の中へ案内してくれた。
既に膳が用意され、料理や飲み物がぎっしりと、いったいこれだけの量を誰が食べるんだ?と言う程並べられている。
そうそう酒の飲めない俺は、食う方に回るが、それでも腹には限りがある。
ましてや初対面の他人様の家で、あんまりな醜態を晒す訳には行かない。
途中でトイレに立った健太が、なにやら包みをひとつ持って戻って来た。
「ウチ、何にもねえと思ってたんスけど、これから蔵バラすのに開けてみたら、やっぱそれなりに茶碗とか出て来て、一応全部母屋の方へ出してあるんスけどね…で、これ1個、訳わかんないんスよ」
布包みの中には、白い紙にくるまれた、茶碗が入っていそうない大きさの箱が一つ入っていた。
「この下が変わってるんス」
と言いながら、健太が紙をやや乱暴な手つきでめくった。
その中には、真っ黒な紙でしっかりくるまれた上、赤い細い紐で十文字にきっちりと結わえられた箱が入っていた。
「これ、俺がもらったんスけど、中身は親に聞いても、何だかわかんねえし知らないって言うから」
健太の親父さんは黙ったまま、うんうんとうなづいている。
「滝さんとか、こういうの詳しいって、前に誰か言ってたから、今日見てもらえりゃと思って…」
「まあ、見るくらいならいいよ。わかるかどうかは別だけど」
「お願いしまっス」
健太が箱を滝さんに渡し、滝さんが赤い紐を解こうとした時だった。
いきなり、俺の携帯が最大音量で響き渡った。
「およっ!!」
その場の全員の手が止まった。
一番驚いたのは俺だった。
マナーモードに設定してあったはずなのに、なんで?
すいませんすいませんと謝りつつ、開始ボタンを押した。
とたんに、母の大声が飛び出して来た。
『ダメよッ!!その箱開けちゃダメッ!!』
その場の全員に聞こえる程の絶叫だった。
耳が痛てェ。
みんなはさっきのポーズのまま固まっている。
もしもし、母さん。どう言う事?そう聞きたかったが、母の第2声の方が早かった。
『外法箱なの!触らないで包みなおして!!』
滝さんが思わず箱を畳の上に置いた。
『わかった?!ねえ、聞こえてるの?』
きぃいいい………んと耳鳴りがするのをこらえ、少しトーンの下がった母に声を返す。
「ああ、聞こえたよ。で、どうすりゃいい?ただ包んどきゃいいの?」
『白い紙で包んであったでしょう。それで元通りに包んで。
それから盃か何か小さい入れ物に塩を盛ってその上に置いてみて。
最初は塩が溶けて流れるけど、そうね、7回目くらいで溶けなくなるはずよ。
そしたら最初の袋に入れて、お蔵に納めて。
後は私が何とかするから』
俺は母の最後の言葉を端折り、その指示をみんなに伝えた。
滝さんが引き攣りながら、箱を白い紙でくるみなおし、健太が台所から塩壷と盃を取って来る。
みんなが見守る中、塩は盛ったしりから飴のように溶けてしまった。
健太が慌てて替えの盃を取りに走る。
そして2回目。
先程よりはゆっくりだったが、やっぱり塩は飴のように溶けた。
3回目…4回目…変化が現れたのは5回目だった。
塩は半分溶けたが、半分は粒が残っている。
6回目は、湿ッ気ているが、ようやく溶けなくなった。
そして7回目。
母の言った通り、塩は湿ッ気もせず、溶けなかった。
箱の入った包みを手にした健太が、泣きそうな顔で俺に言う。
「すんません、ナイトぉさん。一緒来てもらえないっスか?」
「いいよ」
でも、内藤さんじゃねぇってば。
夜が更けて、強い雨が降り出した。
雷も近い。
朝までに晴れて欲しいな。
そんな話を寝床の中でしていると、突然、何処からともなく、かすかなピシピシピシと言う音が聞こえ、続いてドーン!!ともバーン!!とも取れる音が地響きと共にあった。
落雷か?きっとそうだ。
飛び起きて窓から外を見たが何も見えない。
相変わらず、雨脚が強い。
諦めて眠りに就いた。
朝になって、俺たちは雷が蔵に落ちていた事を知った。
蔵は外側だけを残し、中はすっかりきれいに焼けて、屋根すらなくなっていた。
偶然、ねえ…きっとそうだよな、うん。
みんなで無理やり納得し、香落渓を後にした。
強い雨に洗われて、道路も山も輝いて見えた朝だった。