1991年(平成3年)1月2日午後5時、佐賀県佐賀市の旅館で同窓会が開かれていた。
同窓生40数人、恩師5人が参加。
地元中学の卒業生が12年ぶりに再会した。
同窓生は昔話に花を咲かせ、酒も進み、盛り上がった。
しかし、ひとつだけ気になる点があった。
不思議なことにその宴会場には、自ら幹事を申し出た赤沢俊一(仮名/当時27歳)の姿がなかった。
この欠席については「会社の用事で急に来られなくなった」と聞き、「来られなくて残念だったね」とみんなで言っていたくらいで、誰も不審に思う者はいなかった。
翌3日、同窓会の出席者は新聞の社会面を大きく飾った見出しに愕然とする。
『同窓会大量殺人計画!?ヒ素入りビールと爆弾』
この事件の犯人こそ、同窓会を企画した赤沢だった。
事件が発覚したのは、赤沢の母親からの通報からだった。
同窓会が開かれる2日前の12月31日、帰郷した息子の言動に不審なものを感じた母親が、息子のバッグを調べて『決行の時が来た』と題する『殺人計画書』を発見し、1月1日午前1時、警察に届け出たのだった。
通報を受けた警察は、同窓会の会場となる旅館を捜索。
そこで赤沢が持ち込んだヒ素入りビールを押収した。
2日の朝から赤沢本人の身柄を拘束し、取り調べを行ったが、その結果、自宅のワゴン車にある木箱に時限爆弾があることが判明し、捜査員が押収に向かったところ、木箱が大音響とともに爆発。
3人が重軽傷を負った。
爆発があった時刻はちょうど同窓会が盛り上がっている時で、そういう意味で正確に作動していた。
その後、赤沢は一時精神障害の疑いがあるとみて措置入院させられるが、責任能力ありと判断されて、1月22日、殺人予備罪および爆発物取締罰則違反の容疑で逮捕された。
『殺人計画書』の『序』には、「私は私に屈服を強い、私を虐待し、虫けらの様に扱った愚者共が許せないのだ。
私は奴等をこの世から消滅させ、そして私自身も消滅する」とあった。
赤沢の犯行の動機は中学時代に受けた「いじめ」への復讐だった。
中学時代の同級生は次のように証言した。
「確かに彼はよくからかわれていました。ヘッドロックをかけられたり、頭にパンチを入れられたり。プロレスごっこをやって頭を椅子に叩きつけられ、何針か縫ったことがあった」
「掃除用具のロッカーに閉じ込められたり、女の子の前でズボンを脱がされて裸にされたこともありました。でも、彼はそれを人には言わないんですよね」
赤沢は佐賀県立神崎農業高校食品化学科を経て、熊本工業大学応用微生物工学科に進学した。
卒業後、上京し3つの会社を転々とするが、そのいずれもすべて復讐のために、化学試薬を扱っている企業を選んだ。
また、化学薬品を入手しやすくするため、化学科甲種取扱免許も取得した。
1990年(平成2年)8月、赤沢は「いつどこで会を催したら同窓生が集まりやすいか」という内容のアンケート調査のハガキを同窓生に郵送した。
その結果、翌年の正月に決定した。
招待状を準備し、同窓生と恩師全員に発送した。
連絡が遅くなった人には速達で発送し、返事の来ない人には「返事が来てないようだけど」と、わざわざ電話をかけるほどの念の入れようだった。
赤沢は『大量殺人兵器』として、ヒ素入りのビールを21本作った。
ビールは気づかれないように珍しい東欧製のビールにした。
ガソリン入りの爆弾3個も作り終えると、11月に東京都府中市の化学会社を退職し、12月28日にワゴン車にそれらを詰め込み、佐賀の実家に戻った。
12月31日の夕方、赤沢はヒ素入りビールを会場となる旅館に運び込んだ。
あとは同窓会の当日の2日、爆弾を会場のどこかに仕掛ける予定であった。
1992年(平成4年)1月23日、佐賀地裁は赤沢に対し、懲役6年を言い渡した。