不思議な話を聞いた。
だが、怖い話ではなかった。
それは今から8年ほど前のことだ。
S宮さんというディレクターが、冬山の撮影をするため山に登ることになった。
スタッフは、ディレクターのS宮さん、カメラマンのT尾さん、録音マンのS本さんの3人。
それに二人のガイドさんが同行した。
S宮さんたちが目指した山は、8合目までロープウエイで行けた。
だから重い撮影機材をともなう冬山登山といっても、それほどの困難が予想されるものではなかった。
S宮さんたちは、山中の避難小屋で一泊する事にして、明るいうちにロープウエイに乗りこんだ。
ゴンドラの中から眺める冬山の景色は、午後の日差しを受けて、穏やかで美しいものだったという。
8合目に着くと、S宮さんたちは、撮影用の機材と食糧を分担して背負い、ロープウエイの駅から避難小屋までの道をのんびりと歩いた。
避難小屋といってもそれほど山深いところにあるわけではない。
現にその小屋は、今降りたばかりのロープウエイの8合目の駅から肉眼で見える距離にあるのだ。
歩いても、そうたいした道のりではなかった。
だが、冬山の天候は変わりやすい。
今日のような晴れた日には、あんなにすぐそこに見える避難小屋なのに、あそこまで辿りつけずに、この辺りで遭難して亡くなる登山者がこれまでに何人もいるというのだ。
「ホワイトアウト」という言葉があるとおり、いったん吹雪くと、目の前が真っ白になってしまい、もうなにひとつ見えなくなってしまう。
ついに避難小屋の方角を見出せず、知らず知らず沢の道を下りてしまい、そのまま山深く分け入ってしまう登山者があれば、さんざん彷徨ったあげく力尽きて避難小屋のすぐ傍で行き倒れたりする登山者もあるのだという。
「自分もこの辺りで遭難して亡くなった人を、何人も雪の中で見つけた事があるんですよ」と、
避難小屋まで歩く道すがら、捜索隊に狩り出された時の体験談を、S宮さんたちは、ガイドさんの口から聞いたという。
だが、そんなガイドさんの話が、俄かには信じられぬほど、その小屋までの道のりは穏やかだった。
避難小屋に辿りつくと、日の暮れぬうちにS宮さんたちは、夕食の準備にとりかかった。
小屋は手狭な作りだった。
ドアをあけると土間があり、テーブルなどはない。
壁際に、登山者が、ざこ寝出来るような小上がりの板の間があり、そこからはしご段で上がるロフトのような中二階があった。
はだか電球がひとつ、天井から下がっているだけで、火の気も無く、暖房設備と呼べるようなものなど当然無かった。
S宮さんたちは、土間の横の板の間で夕食を食べることにした。
日が暮れてから、小屋の中の気温はいっきに下がってきた。
そして、氷点下にまで落ちてしまった。
暖かかったのは食事をしている時だけだった。
窓の外はすっかり暗くなってしまっている。
食事の後、S宮さんたち5人は、しばらく雑談をしていたが、寒くなってきたこともあって全員寝袋に入って眠ることにした。
時刻は、まだ、夜の8時を少し回ったばかりだった。
「今夜は我々のほかに登山者もいないので、そんなに窮屈で無く寝られますよ」
ガイドさんの一人が、そんなことを言った。
1階の板張りの小上がりには、機材の多いカメラマンのT尾さんと録音のS本さんの二人、中二階のロフトには、S宮さんと二人のガイドさん達がそれぞれ寝る事になった。
S宮さんは、ロフトへ上がるはしご段を一段一段軋ませながら登り、寝袋にくるまって眠ったのである。
不思議なことがあったのは、その夜だった。
どのくらいの時間がたっただろうか、
S宮さんは、風の音で目を覚ました。
「吹雪いてきたのかなぁ」
S宮さんは、明日の撮影のことが心配になってきた。
でも、食糧は3日分持ってきている。
しばらくこの小屋で頑張れば、そのうち晴れるチャンスもあるだろう。
S宮さんは、そう考え直すとまた眠ろうとした。
小屋の外では、相変わらず風の音が聞こえていた。
その時だった。
S宮さんは、風の音にまぎれる どんどん という音を聞いた。
誰かが小屋のドアを叩いていた。
S宮さんは、登山者が来たのだと思った。
だが、ロープウエイの営業時間はもうとうに終わっているはずだった。
だとしたら、こんな吹雪の中をわざわざ麓から歩いて登ってきたのだろうか。
そこまで考えたところで、また どん と音がした。
S宮さんは、耳を澄ませていた。
ギイイッというドアが開く音がして…、確かに誰かが入ってきた。
小屋の中は真っ暗だった。
S宮さんは、階下の物音に耳を澄ませていた。
侵入者は、しばらく1階の土間を歩いているようだった。
やがて、小上がりに上がったのだろうか、床の軋む音が聞こえてきた。
だが、妙な事にその侵入者は、いっこうに寝じたくをする気配が無かった。
それどころか、いつまでも下で寝ているはずの二人の周りを歩いているのだ。
ミシッ ミシッ という床が軋む音を S宮さんは、じっと聞いていた。
しだいに胸騒ぎがしてきた。
誰だろう…。
これは、登山者ではない…。
そこまで考えて、S宮さんは、ぞっとするのである。
ギッ ギッ ギッ
ロフトへ上がるはしご段を登って来る音がするのだ。
誰かが上がって来る。
S宮さんは、全身に水をあびたような気がした。
はしご段に背を向け、ロフトの壁を見つめて横たわっていたS宮さんの両手に力が入った。
はしご段を登って来た者は、やがてS宮さんの背後までやってきた。
そうして、S宮さんの周りを歩き始めた。
だが、ロフトには3人の男が寝ている。
足の踏み場もないはずなのだ。
なのに、誰かが歩いている。
そんなことは考えられない。
だが、あきらかに人の気配がするのだ。
その証拠に踏みしめられた床が沈むのがわかるのだ。
S宮さんは、全身の毛穴が収縮して行くのが分かった。
そしてそのまま、S宮さんは一睡もできず、いつしか朝を迎えてしまったという。
翌朝も雪が降っていた。
ラジオの天気予報は、低気圧が近づいていることを告げていた。
S宮さんは、ガイドの二人とも話し合って下山することを決めた。
吹雪になる前に、全員、ロープウエイで下山したのだ。
昨夜の事はなんだったのだろう。
下界に降りていくロープウエイのゴンドラの中で、S宮さんは、ぼんやりと考えていた。
その日の夜、S宮さん達は麓の温泉宿に泊まった。
夕食の後、なんとなく会話が途切れたので、S宮さんは、昨日の夜のことをスタッフに打ち明けてみることにした。
「なんか変なこと言うようだけどさ…。きのうの夜中…、誰か 小屋に入ってこなかった…?」
S宮さんは、そう言ったあと、なんとなく気恥ずかしい思いがした。
だが、録音のS本さんが、やっぱりという感じで、S宮さんをみつめながらこう答えた。
「あぁ、そう言えば誰か来ましたよね。」
S宮さんは、意外な思いでその言葉を聞いた。
気付いたのは自分一人ではなかったのだ。
「うん。確かに誰か来たよね…。」
カメラマンのT尾さんもそう答えた。
聞いてみれば、結局あの場にいた者の誰もが、夜中に誰かがやってきたという認識を持っていた。
S宮さんは、驚いた。
そんな経験は初めてだったからだ。
「山の避難小屋って、いろんなことがあるっていいますからね。」
ガイドさんのひとりが、ぽつりと言った。
そして、みんな、そのことについて、それ以上は話さなかった。
結局、あの日の夜、あの山小屋で何が起こったのかは分からないままだった。
先日、この話しをS宮さんから聞いた後、当時、録音で同行していたS本さんにこの時の話しを聞く機会があった。
「S本さんさぁ、8年くらい前に山小屋で変な体験したでしょう…?」
S本さんは、そういうぼくの問いかけになつかしそうに微笑んだ。
「あぁ、変な体験ね…。しましたよ。」
「どんなだったんですか?」
「うん。なんて言ったらいいのかなぁ…。」
S本さんは、しばらく考えたふうだったけれど、こう言ったのである。
「ぼくね…、見たんですよ。」
S本さんは、あの夜、小屋に入ってきた 恐らく人ではない何者かを見ていたというのである。
「今でもはっきり覚えてますよ。その人のこと。
でもね、ぼく、絶対、目は明けてないんですよ。
いやぁ、どう言ったらいいのかなぁ。でもね、ぼく、見たんですよ。その人のこと。
その人ね、冬山の装備をしてたんです。そしてね、背負ってた荷物をおろしたの。
とても疲れた感じだった。ほんとに今でも鮮明に覚えてる。
あれから8年もたつけど、ぼく、このこと、あんまり人に言った事ないんですよ。
なんかね、気が咎めるんですよ。あの人の事を、話のねたにしてしまうようでね…。
あの人、とっても疲れてた…。
それでね…、やっと小屋にたどり着けて、本当にほっとしてた…。
そのことがね、すっごくよく分かって…。
ぼくね…、忘れられないんですよ、あの人の事…。今でも…。」
その山小屋は、その後とり壊されて今はもうない。
けれど、S本さんの中には、その人の記憶が色あせず、今も鮮明にあるという。