今からもう20年以上も前の話。
私が中学生の時分のことです。
列車旅行が好きだった私は、小遣いがたまると友人Oと連れ立っては札幌発の列車で道内のあちこちに出かけたものでした。
当時は赤字ローカル線廃止の嵐が吹き荒れていた頃で、1つ2つと地方線が姿を消つつあった時代です。
中2の夏休みのことでした。
札幌近郊のI市から旧産炭地に延びる線が廃止になるとの噂を耳した私は、すぐさまその友人Oを誘って廃鉱巡りの日帰り旅行に出かけました。
ローカル列車はI駅を出発すると、しばらく田園地帯を走った後、次第に山あいに分け入っていきました。
車窓のすぐそばまで山肌が迫ってくるような厳しい鉄路が続いた後、急に視界が開けて列車は停車しました。終点でした。
昭和30年代後半には年間乗降客が55万人を超えていたその駅ですが、そのときに降りたのは私たちの他は3人だけでした。
携帯していた地理院の地図を見ると、廃鉱と炭住集落はさらにその先です。
私たちは逸る気持ちを抑えながら目的地へと向かいました。
駅前の古い民家が散在する集落を抜けると、道は急に上り坂になり、大きく右にカーブを描くとともに深い木々に覆われ始めました。
いつ着くんだよ・・・と苛々し始めたころ、急に道が左に折れました。
次の瞬間、二人は息を飲みました。
目の前に赤錆だらけの巨大な鋼塔がそびえていたからです。
それは廃鉱の高塔でした。
「遺跡」を目の当たりにして大満足の私たちは、記念写真をとった後、再び地図を広げ現在位置を確認しました。
次に向かうは炭住群です。地図ではかなり大規模です。
どんな廃墟が現れるんだろう?
期待はあっさりと裏切られました。
行けども行けども炭住群など現れやしません。
替りに二人が目にしたのは、深い雑草に覆われた広い原っぱでした。
目的の建物はとうの昔に取り壊されていたのです。
がっかりして「もう帰ろう」と切り出すと、「あれ見える?」とOが聞いてきました。
指の先を注視すると、野原の奥に灰褐色の塊が見えます。
「炭住じゃね?」
落胆しかけていた二人は喜び勇んで走り出しました。
近づくと、そのとおり、数軒の平屋型の炭住であることが分かりました。
炭住と私たちの間には川が流れており、建物のある敷地はそこだけが周りよりも低くなっていました。
もちろん探検です。
2軒は内部がぼろぼろで見るべきものは何もありませんでしたが、残る2軒は保存状態が非常によく、家具も当時のままでした。
私とOは夢中になって「発掘」を開始しました。
当時の家計簿やら、子供の勉強道具やら、鉱夫の勤務予定表やらとにかく色んなものが出てきました。
その中から、私は小学校卒業の寄せ書きノートを発掘物としてリュックにしまいました。
おそらくはその家の子供のものだったのでしょう。
発掘にも飽きて、二人は炭住の外に出ました。
それまで気づかなかったのですが、炭住からは、さらに奥に向かう道が続いていました。
道のすぐ先には、古い大きな公民館のような建物があり、建物の脇の空き地は、赤茶けた石か砂のようなものが一面を覆っていました。
踏みつけた感じが快く、Oと2人でぎゅっぎゅっと踏みつけてまわりました。
建物の内部は、2階から1階にかけてはぼろぼろになった銀幕が垂れ下がり、その前には台座のはがれた多数の椅子が据えられていました。
そこでは往時、映画が上演されていたのだと思います。
券買所と思しき場所の奥には、ガラス製のヨーグルトの空容器がいくつも打ち捨てられていました。
100まで数えたところで残りがあまりに多いので数えるのは止めてしまいました。
ここでの発掘物はその容器でした。
数年後、私は東京で大学生活を送っていました。
冬のある日のことです。
私は夏の帰省中に実家で取りだめたビデオの整理をしていました。
一つ一つデッキに入れては中身を確認し、ラベルを貼る作業です。
作業も半ばのことでした。
そのビデオだけがスポーツのものではなく、TV局のスタジオ内らしき場所が映っていました。
どうやら妹が録画したものを間違って持ってきてしまったようです。
画面はちょうど、男性が2人の中年女性に何かを手渡したところでした。
1人の女性はそれを見るや、白目を剥いて卒倒しました。
隣の女性は「あ、やだ」と言ったきり、すすり泣き始めました。
それは1枚のスナップ写真で、私が中2の夏に訪れたあの建物が写っていました。
そこはいわゆる「炭鉱会館」でした。
炭鉱地域の集会所と娯楽施設を兼ねた建物です。
その炭鉱は昭和40年代前半に坑道で大爆発が起こり、多数の死者が出たそうです。
負傷者は炭鉱会館のすぐ横にあった赤レンガ建ての病院に運ばれ、そこで亡くなる方も大勢いたそうです。
事故の後、そこは廃鉱となり、人々はその地を離れていきました。
テレビの画面にはその建物内部の写真も映し出されました。
その2人の女性によると、たくさんの顔が写し出されているとのことでした。
胸騒ぎがしました。
そうです。あの「発掘物」です。
何も知らなかったとは言え、悲惨な事故にあってその地を離れざるを得なかった人々の家から、そして炭鉱会館から、
勝手に物を持ち出してしまったのです。
なぜあの家だけにあんなに色々なものが残っていたのか?
彼らは夜逃げ同然に去らなければならなかったのではないか?
それはなぜか?
冬休みになるとすぐに帰省しました。
あれを探し出して、元の場所に戻すためです。
帰った次の日にあの地に向かいました。
終点でバス降りると、急ぎ足で目的地に向かいました。
牡丹雪が激しく舞っていました。
あの上り坂の下まで来て愕然としました。
私はすっかり冷静さを失っていました。
季節は冬です。
もう誰も住まないあの地が除雪されることはないのです。
春になるのを待たなければなりません。
そして、それは帰ってきたその日から始まりました。
家に着いたときはもう夜の10時を回っていました。
落胆しながら帰る道すがら、私は件の「発掘物」の保管場所のことを考えていました。
今回のことがあるまでは中学時代の教科書などをまとめた段ボール箱に入れていたのですがもうその気にはなれません。
色々と考えた結果、母屋とは離れた外の物置にしまうことにしました。
目的を果たせなかったこともあって心中穏やかではありませんでしたが、疲れていたこともあって布団に横になると、すぐ眠りに落ちてゆきました。
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そこは木造の小学校で、私は教室の後ろで級友とふざけて遊んでいました。
そのときです。非常に強い視線を感じました。
休み時間で、教室では何人かの子供がグループになっていましたが、一人だけ、どのグループにも加わらない子がいました。
見た感じ、何か妙な印象を与える子でした。
首が非常に短いのです。
その子が私をじーっと見つめていました。
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布団から跳ね起きると、私は肩で息をしていました。
急いで部屋の明かりをつけました。
部屋には何の代わりもありませんでした。
気持ちを落ち着けるために下の階へ行くと、母親と妹がまだテレビを見ていました。
いつもと何も変わらない情景です。
3人でテレビを見ていると気持ちが落ち着いたので2階へ行き、また布団に潜り込みました。
しかしながら、なかなか寝付けません。
そのうち背中に違和感を感じ始めました。
どうやら敷布団の下に何かがあるのです。
脱いだ服か何かの上に布団を敷いてしまったのでしょうか?
確かめようとめくると、そこには物置にしまったはずのあの発掘物の寄せ書きノートがありました。
朝になるまで、両親がいる1階の今でテレビを見て過ごすことにしました。
私には小さい頃から物を布団の下に隠すくせがあり、疲れたことこともあって無意識にそうしてしまったのだろうと思うことにしました。
物置に隠したのも夢の中で見た光景と考えることしました。
テレビではくだらない深夜番組が続きました。
「おい、起きろ」
父親の声がしました。
いつの間にか居間で眠り込んでいたようです。
しばらくそこでぼうっと過ごしながら、母親が朝食の準備をするのを待っていました。
「あんた、相変わらず物好きねー 何これ?」
台所から母親の声がしました。
台所のテーブルの上には、もうひとつの発掘物であるヨーグルトの入れ物が置かれていました。
「お母さん、どうしたの? これ」
「どうしたのって、あんたが食器戸棚に置いたんでしょ?」
「え?・・・そうそう、懐かしい形だから、それで何か食べようと思ってさ・・・」
父もやってきました。
「おお、懐かしいな、子供の頃よく食べたよ。」
「元に戻すまでは、もう逃げられない。」
そう観念し、発掘物は紙袋に入れてリュックにしまうことにしました。
昔から諦めは早いほうでしたから。
しかし、やはり何かと心細いので居間のある1階にいることにしました。
そのうちまた睡魔が襲ってきました。
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「くーびなしっ!」
「くーびなしっ!」
「くーびなしっ!」
首の短いあの子に向かってクラスのみんながはやし立てていました。
私もつい調子に乗って
「くーびな・・・」
その子が私のほうへ振り向きました。
四白眼でした。
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もう東京に一人で戻る気力は残っていませんでした。
両親には、その年度の後期と次年度の前期を休学扱いにしたいと懇願しました。
単位をとるためには東京でテストを受けなければならないからです。
どんな嘘をついたかもう覚えてはいませんが、何とか両親を説得することは出来ました。
時が経つにつれ、その子は目覚めているときの私の視界にも姿を現し始めました。
いつもというわけではありません。
時折、視界の一番片隅にいてあの目で私を見つめているのです。
でも、そこに目を向けるともういません。
それでいて、いつの間にかまた視界に入ってくるという具合です。
とにかく春が待ち遠しくてたまりませんでした。
日々降り積もる雪をこんなに恨めしく思ったことはありません。
夢ではあの木造校舎の中で、現では視界の片隅で、という形であの子が私を解放してくれることはありませんでした。
私は日々衰弱して行きました。
幸いなことにその年は道内各地で例年よりも雪解けが早く進みました。
おかげで4月の下旬には私はあの地へ向かうことができました。
でも、もう遅すぎたのです。
あの炭住も炭鉱会館もすっかり取り壊され、その跡は更地になっていました。
地元のお寺で供養してもらおうとも考えましたが、集落の菩提寺はとうの昔に廃寺となっていました。
私は発掘物を元に戻すすべを完全に失っていました。
札幌の向かう列車の中で、私はこれまでのことをぼんやりと思い起こしていました。
不思議なことに、あの子の姿が私の視界に現れることはもうなくなっていました。
そのうち、例の寄せ書きノートをまだしっかり読んだことがないのに思い至りました。
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酷い寄せ書きでした。
クラス全員がその子を「首なし」と呼びつけ、そして「中学では一緒のクラスになりたくない」だの
あるいは「中学には来るな」だの
そんなことばかりが書いてあるのです。
読み進むうちに、あることに気づきました。
寄せ書きを記した子供の名前に赤鉛筆で二重線が引いてあり、その脇には1985.1.12のような年月日が付されているのです。
子供によって年月日はばらばらですが、ごく最近のものもあります。
「何だろう、これは?」
そう考えていくうちに強い不安がよぎりました。
「まさか俺の名前はないよな?! おいおい!!」
残るは最後の1ページです。
思い切ってめくりました。
そこには、二重線が引かれた私の父親の名があり、脇には、その日の年月日が記されていました。
以上で終わりです。