山祭り

山祭り 俺怖 [洒落怖・怖い話 まとめ]

久しぶりに休みが取れた。たった2日だけど、携帯で探される事もたぶんないだろう。
ボーナスも出た事だし、母に何か旨いものでも食わせてやろう。
そう思って京都・貴船の旅館へ電話を掛けてみた。
川床のシーズン中だが、平日だったから宿が取れた。

母に連絡を取ると大喜びで、鞍馬も歩いてみたいと言う。
俺に異存はなかった。
京阪出町柳から叡山電鉄鞍馬駅まで約30分。
その間に景色は碁盤の目のような街中から里山を過ぎ、一気に山の中へと変化する。
また、鞍馬から山越えで貴船へ抜けるコースは、履き慣れた靴があればファミリーでも2時間前後で歩く事が出来るし、日帰りなら逆に、貴船から鞍馬へ抜け、鞍馬温泉を使って帰る手もある。

その日もさわやかな好天だった。
荷物を持って歩くのも面倒なので、宿に頼んで預かってもらい、それから鞍馬山へ行った。
堂々たる山門を潜った瞬間、いきなり強い風が吹き、俺を目指して枯葉がザバザバ降って来る。
落葉の季節ではないのだが、母とくれば必ずこういう目に遭う。
天狗の散華だ、と母は言う。
迷惑な事だ。途中からロープウェイもあるが、母は歩く方を好むので、ところどころ急な坂のある参道を歩いて本殿を目指す。
由岐神社を過ぎると、先々の大木の中程の高さの枝が、微妙にたわむ。
毎度の事だが。
鞍馬寺金堂でお参りした後、奥の院へ向かって木の根道を歩く。
魔王殿の前で、一人の小柄で上品な感じの老人が、良い声で謡っていた。

“…花咲かば、告げんと言ひし山里の、使ひは来たり馬に鞍。鞍馬の山のうず桜…”

言霊が周囲の木立に広がって行くようで、思わず足を止め、聞き惚れた。
最後の一声が余韻を残して空に消えた時、同じように立ち止まっていた人たちの間から、溜め息と拍手が湧き起こる。
老人はにっこり笑って、大杉権現の方へ立ち去った。

鞍馬山を下り、貴船川に沿って歩く。
真夏の昼日中だと言うのに、空気がひんやりして気持ちがいい。
流れの上には幾つもの川床。
週末は人で溢れているのだろうが、今日はそうでもない。
少し離れると、清冽な流れの中、カワガラスが小魚を追って水を潜り、アオサギがじっと獲物を待つ。
もう備えの出来たススキが揺れる上を、トンボたちが飛び回る。

貴船神社へお参りに行く人は多いが、奥宮へ参る人は少ない。
その静けさを楽しみながら、奥宮の船形石の横の小さな社に手を合わせる。
弟たちも連れて来てやれればよかったが、何分にも平日の急な事。
学生時分ならともかく、社会人がそうそう手前勝手な事をする訳にはいかない。
母とそんな話をしながら振り返ると、さっき魔王殿の前で謡っていた老人がこっちへ歩いて来るところだった。
軽く会釈すると、向こうもにこっと笑って片手を挙げる。

「先程は、良いものを聞かせて頂いて、ありがとうございました」
「いやいや、お恥ずかしい」老人は首を横に振り、俺と母を見やりながら
「親子旅ですか、よろしいなぁ。ええ日にここへ来はった。今日は“山祭り”や」
「まあ、お祭りがあるんですか」祭りと聞いて、母の気持ちが弾むのがわかる。
老人が教えてくれる。

「今晩、川床の灯りが消えた時分から、この先の方でありますねん。
“山祭り”は時が合わなんだら成りませんし、ほんまの夜祭りやから、知らん人の方が多いんや。
もし、行かはるんやったら、浴衣着て行きはった方がよろし。
その方が、踊りの中へも入りやすいよって」
母は既に行きたくてワクワクしている。
一時、『盆踊り命』だった人だから。
ま、いいか。俺は盆踊りは嫌いだが、仕方ない。付き合うか。



川筋の道沿いに、黄桃のような丸い灯りが、ぽつりぽつりと点いている。
俺たちの他に、歩いている人はほとんどない。
奥宮へ近づくにつれ、笛の音がどこからともなく風に乗って流れて来た。
山祭りはどうやら、思っていた盆踊りのようなものとは、全然違うものらしい。
奥貴船橋の袂をくっと左へ折れ、山の中へ入る細い道をたどると、笛の音はますますはっきり聞こえる。
曲目はわからないが、ゆったりとしたメロディを、複数本の笛で吹いているようだ。

やがて、木立の間からたくさんの白い提灯と、その灯りが見えて来た。
そこは体育館程度の広さの空き地になっていて、笛の音に合わせて数十人の人たちが踊っていた。
衣装は白地に紺色の流水模様の浴衣。
女は紅の帯、男は黒字に金の鱗模様の帯。
踊るというより、舞うと言った方がいいような優美な動きで、普通の踊りの時のような賑わしさや、テンポあるいはノリは全く感じられない。
俺たちより先に来て、これを眺めていた隣の人がいきなり駆け出し、踊りの輪の中へ入って中の人と手を取り合った。
知り合いがいたらしい。

前の方から、あの老人が笑みを浮かべながら、静かに俺たち親子に近づいて来た。
「ああ、来はりましたんやな」
「こんばんは。不思議なお祭りですね」
老人は不思議な言葉を口にした。
「あの中に、逢いたい人がいたはりますやろ」
逢いたい人?訳がわからず、ぽかんとする俺。
母が突然駆け出した。
「母さん!?」

伸ばした手の先に、よく知ってる人がいた。
実家にいる頃いつも見ていた人。
写真立ての中で笑っている、俺と面差しのよく似た
青年。俺が2歳の時亡くなった父だ。
まっしぐらに父に向かって進む母を、踊り手たちは空気のようにするりとかわし、何事もなかったかのように踊り続ける。
一足ごとに母の時間が逆戻りする。
わずか3年余りの妻としての日々と、その何倍もの母としての時間。
今、父の手を取りながら、母は堰を切ったようにしゃべり続け、父は黙って微笑みながら、時折相槌を打っている。
二人の間に涙はない。
何を話しているか、俺には聞こえないが、きっと言葉で時間を溶かしているのだろう。
時を越え、両親は恋人同士に戻っている。
初めて見る両親の姿。
ああ、父はあんな風に笑う人だったのか。
母はあんな風にはにかむ人だったのか。
これだけの歳月を隔て、まだ惹かれ合う二人に、思わず胸が熱くなる。
父に誘われ、母が踊りに加わる。なかなか上手い。
本当に楽しそうに踊っている。

俺の頭の中で太棹が鳴り、太夫の声が響く。

“…おのが妻恋、やさしやすしや。
あちへ飛びつれ、こちへ飛びつれ、あちやこち風、ひたひたひた。
羽と羽とを合わせの袖の、染めた模様を花かとて…”

両親の番舞をぼーっと眺めていたら、ふと俺の事を思い出したらしい母が、父の手を引いてこっちへやって来た。
ほぼ初対面の人に等しい父親に、どう挨拶すべきか。
戸惑って言葉の出ない俺を、おっとりとした弟と雰囲気の良く似た父は、物も言わずに抱きしめた。
俺よりずいぶんほっそりしているけれど、強く、温かい身体。
父親ってこんなにしっかりした存在感があるのか。

「大きくなった…」万感の思いのこもった父の言葉。

気持ちが胸で詰まって言葉にならない。
ようやく絞り出せた言葉は「父さん…」
「うん」
優しい返事が返って来た。もう限界だった。
俺は子供のように声を放って泣いた。

母の事を笑えない。
気が付けば、俺は夢中で父に、友人の事、仕事の事を一生懸命話していた。
今までは、そんな事は自分の事だから、他人に話してもわかるまいと思い込み、学校での出来事さえ、必要な事以外は母に話さなかったのに。
父の静かな返事や一言が嬉しかった。
子供が親に日々の出来事を全部話したがる気持ちが、初めてわかったような気がする。

俺の話が一段付いた時、父は少し寂しそうな顔をした。
「ごめん。もっと一緒にいたいけど、そろそろ時間みたいなんだ」
時は歩みを止めてくれなかった。
でも、嫌だと駄々をこねたところで詮無い事。
大事な人に心配をかけるだけ。
ああ、わかっている。笑って見送ろう。
「口惜しいよ、おまえたちの力になってやれなくて…」
「大丈夫、任せろよ。俺がいる。」
長男だもの。
俺は親指を立て、父に向かって、偉そうに大見得を切った。

安心したように頷く父に、母がとても優しい眼差しを向け、父が最上級の笑顔を返す。
「…じゃあ、そろそろ行くよ」父は、踊りの輪の方を向いた。

「父さん」呼びかけずにはいられなかった。

父が振り返る。
「俺、二人の子供で良かった」本当に、そう思った。
父は嬉しそうに笑い、そのまま煙のようにすうっと姿を消した。
母はしばらく無言で父が姿を消した辺りを見つめていたが、やがて諦めたように首を振り、「帰りましょう」と俺を促した。

翌朝、まだ眠っている母を部屋に置いて、奥貴船橋の袂まで行って見た。
昨夜の、橋の袂をくっと左へ折れ、山の中へ入る細い道は、やっぱりなかった。
あの老人が言っていた。
“山祭り”は、時が合わねば成らないのだと。

それは俺たち親子が見た幻だったかもしれない。
でも、逢いたい人に会え、伝えたい事を伝えられた。幸せな旅だった。

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