小学校5年の夏。
学校からサマーキャンプに連れて行かれた。
行き先は、島根県・三瓶山の麓、北の原キャンプ場。
三瓶山は出雲大社のおおよそ南、島根県のほぼ中央に位置し、穏やかな稜線に4つの峰を持つ1200メーター弱の独立峰で、東と北の裾野に草原が広がっている。
周囲を含めて国定公園となっていて、その北の裾野が北の原キャンプ場だ。
朝から延々、ホエザルとワライカワセミが騒ぎまくるジャングル状態のバスに揺られ、午後1時過ぎにようやく到着。
昼食だの注意事項だの、ひとしきり有った後で、それぞれのテントに落ち着く。
と言っても、なんたって10歳&11歳。
考えるより先に身体が動く年だから、達也と仁と優と俺はテントの中へ荷物を放り込み、そのまま周囲の林の中へ駆け込んで行った。
「ちょっとォ、男子ィ!」
後ろから、女子たちの声が追いかけてくるが、気にせずブッチ。
どうせ、夕飯のカレー作りを手伝えって事に決まってるから。
こう言う時の遊びの第1番は、当然、虫採り。セミ、カミキリ、カブトムシ、タマムシ、時にはナナフシなんぞにもお目にかかる。
籠を持っていないにも関わらず、見つけては採りまくる。
大きいのが見つかれば、小さい方は放してやる。
何度歓声を上げた事か。
ふと、あっちを向いた達也が、少し離れた所にいる信夫を見つけた。
「あんなとこで、あいつ一人で何やってんの?」
なんだか泣きそうな顔をした信夫が、妙な具合で、ある方向を見つめて突っ立っている。
「あぁ?また義則と剛司らにイジメられてんじゃねえの?」
俺たちが見ているところへ、義則と剛司と透が戻って来た。
ヤツらの手の中でセミが騒いでいる。
いきなり、義則がニヤニヤ笑いながらセミの翅を引きちぎった。
「うわ…」こっちで仁と優が小さく声を上げる。
信夫が何か言っている。
たぶん、もうやめてとか何とか言ってるんだろう。
「うるせえ」そう言いながら、義則は信夫のTシャツにセミをとまらせた。
剛司も同じようにセミの翅をちぎり、信夫の背中にとまらせる。
よく見ると、もう何匹かの翅のないセミが、あちこち信夫のTシャツについている。
「何やってんだよ、あいつら」
怒った達也がそっちへ歩き出し、俺も後に続いた。
「いい加減にしろよな!かわいそうだろ」
達也の声に、義則たちはこっちを向いたが、悪びれた様子は微塵もない。
信夫はもう半べそ状態だ。
「何がだよ、オレら遊んでるだけじゃん」
「どこが遊びだよ、信夫苛めてるだけだろ」
「苛めてねえよ、変な事言うなよ」
「そうだよ、信夫がヨッチャンやオイラたちと遊びたいって言うから、一緒に遊んでるだけさ、な?」
義則と剛司は顔を見合わせてうなづき合う。
「こんな遊び方があるかよ」
「遊んでんだよ、一緒に。だから、な」
義則は透の持っていたカブトムシを手にすると、いきなりその頭を捻って胴体からもぎ取ってしまった。
「ほら、信夫。持ってろ」
言われた信夫は、それに怯えながら手を差し出そうとする。
「バカか、おまえ!」
俺は腹が立った。
言う方も言う方だが、従う方も従う方だ。
「義則。おまえ、信夫や虫みたいな、自分よりちっぽけで、言葉を出す事さえ出来ねぇ弱いモンしか相手に出来ねえのかよ」
「何だと!」
怒った義則は、行きがけの駄賃に信夫を突っ転ばし、俺に掴み掛かって来た。
身体でセミを潰した信夫が悲鳴を上げる。
俺は最初から組み合うつもりがなかったから、裏拳で義則のツラを手加減せずに殴った。
義則はあっけなく転がり、一瞬ぽかんとしていたが、すぐに顔をくしゃくしゃに歪め、剛司と透と一緒にどこかへ走って行った。
俺たちはフニャフニャと情けなく泣きじゃくる信夫の、女子が見たらパニクりそうな潰れたセミだらけのTシャツを何とか脱がせ、みんなの所へ連れて帰った。
達也が担任の本田先生に、とりあえず一応の報告をする。
いつもは義則たちの側でおどおどしていた信夫だが、今日はあれから俺たちの側にいて、何となくしょんぼりしている。
それが、具合が悪いせいだと気づいたのは、キャンプファイヤーの時だった。
「…寒い」
長袖のジャージを着ながら、うつむいた信夫が消え入りそうな声で言った。
はあ?隣にいた優が驚いて、信夫の額に手を当てた。
「熱ッ!」
仁が本田先生の所へ走り、先生が慌ててこっちへ走って来た。
信夫は先生たちのテントへ移り、解熱剤をのんで寝ていたが、一向に熱が引かず、ついに救急車を呼ぶ事になった。
先生たちは寝ていなさいと言うが、こんな時、寝てられたもんじゃない。
俺たちはそれぞれのテントから顔を出し、少しでも様子を見ようと一生懸命になっていた。
その時、あるテントから人影がひとつ、ふらふらした足取りで出て来た。
「義則じゃん」「どうしたんだろ?」
口々に声がする。
「中山、テントに入りなさい」
本田先生が注意する。が、義則はボーっと突っ立っている。
「中山、テントに帰れ」
もう一度、本田先生が注意した。けれど、義則は動かない。
「中山!」
本田先生が強い調子で言った時だ。
ぎぃやぁああああああああ…!!!
義則は腹の底から絞り出すような大声で叫ぶと、いきなりそこらじゅうを転げ回り出した。
「中山?!」
本田先生や他の先生が駆け寄り、それを止めようとするが、あっけなく撥ね退けられてしまう。
「痛い痛い痛い痛い痛い…!!」
そう叫ぶ義則の身体は、今、縄跳びの紐を地面に叩き付けるように、転がりながら上下に激しく跳ねている。
顔も腕も足も、露出している部分は全て、擦り傷に血が滲んで真っ赤に見える。
「…はは、はははははは」
救急車に乗せられたはずの信夫が、いつの間にか先生たちの側に立っていて、義則の様子を見ながらあざとく笑っていた。
「覚えたか、子供」
何時もの信夫とは違う、ふてぶてしい物言い。
(何か、憑いてる?)
そう思った時、ふと思い出した言葉があった。
『むしにくる』確か、昔、祖父ちゃんがそんな話をしてくれた。
余りに手酷く虫や鳥や蟇を扱うと、精霊(しょうりょう)様が代(しろ)に憑いて、それが仕返しにやって来る。
その事を『むしにくる』と言うのだと。
仕返しは些細な事では済まず、時として命を取られる事がある。
代になったものは、精霊様が外へ出ない限り、死ぬまで山野を彷徨うと言う。
止める手立てはひとつだけ。
代から精霊様を落とす事。
それは、右の拳を左の手で覆い、代の胸の真ん中を強く突き、口から精霊様を吐き出させる。
そうすれば、代は戻るし、虫に来られた方も鎮まるのだと。
「けどな、これは滅相な事でやるんじゃねぇぞ。
精霊様は黒血になって飛び出るから、それを浴びたら、自分が今度は代になるぞ。
代が何度も重なったら、今度はこの手が利かんようになって、最後は焼き殺すしか手がなくなるんじゃ」
たぶん、今の信夫はそれだろう。
祖父ちゃんは滅相な事でやるなと言ったが、このまま捨て置く訳にも行かないし、先生に言った所で、理解してくれるのに暇がいるだろう。
「…い、た…い…」
義則のどこかの骨が軋むのが聞こえた。
あいつがどうなろうと、知ったこっちゃないが、見続けたい光景でなし、放っておけば、信夫が代のまま彷徨う事になる。
靴を履き、信夫めがけて突進した。
「せいっ!!」
思いっきり、信夫の胸の真ん中を突き、反動を利用して後ろへ飛んでしりもちをつく。
信夫の身体も後ろへ吹っ飛び、その口からゴボッと吹き出た血が、俺たちの真ん中へ落ちた。
義則の動きが止まり、とたんに今まで静かだった周囲が、いっぺんに騒がしくなる。
俺たちは、三人まとめて病院へ送られた。
そして9月。
後1年半くらいは静かに過ごしたいもんだが、そうも行かないらしい。
ウザい奴はどこにでもいる。
しょうがねえなあ、と思いながら小石を蹴った。
──俺は新しい学校に通う事になった。