[なくしもの]
吐息白く、指先の感覚が無くなるような寒い日のこと。
僕は職場からの帰り道を急いでいた。
残業が長引き、終電はとうになくなっており、車も持たない貧乏な一人暮らしの僕にはタクシーで帰るような余裕もなく、地下鉄二駅ぶんの道をひたすら歩くしかなかった。
どうせ明日は休みだし、二駅程度ならそう遠くない。
ひったくられるようなものもないし、オヤジ狩りは有り得てもこんな貧相な男がまさか痴漢に合う心配もない。
むしろ体を鍛えるにはちょうどいいかもしれないな。
そんな軽い気持ちで、真冬の夜空の下を歩いていた。
普段賑やかな商店街も午前一時ともなれば生りを潜め静かなもので、ぽつぽつある街頭と自販機がなんだか不気味だった。
けれどもうあの若かりし頃のような意味もない恐怖感、
幽霊がでたらどうしよう
なんてものはなかった。
昔はよく見たし、あぶない恐ろしい目にもあったけれど、大人になった今そんなことはほとんどない。
むしろ、今さらそんなものを見ても仕方がない。
数年前、彼に会えたきり、僕はなにも見なくなったし見えなくなった。
彷徨う魂魄の中に、彼はいないのだと知ったからだろうか。
それともただ単に、大人になったからなのだろうか。
わからないし、わからなくていい。
それが僕が出した結論だった。
「今夜は鍋がいいな…コンビニ寄ろ」
豆腐とネギだけの貧乏鍋に思いを馳せ、
寒さに震えながらだいぶ遅い夕食の買出しのために回り道をする。
トンネルを抜けて、目当てのコンビニまで残り200メートルくらいだろうかというところで人気のない道に出る。
ぽつぽつと一軒家や小さなアパートがあるだけの、寂しい道。
高架下を通ろうとした、ときだった。
「ハル」
誰かがそう呼んだ。
否、叫んだというべきだろうか。
鋭い声が耳に入って、次の瞬間、
ぐ い っ
と、引っ張られた。
何、に?と考える間も無く、足がもつれて尻餅をつく。
電柱にしたたか頭と背中を打ち付けた。
しかし、痛いと呻く声はその数秒後にあたりに響いた轟音に掻き消された。
「んな馬鹿な…」
いつの間にそこにあったのか、僕が立っていた場所から数メートルしか離れていない場所で、電柱に激突したらしきワゴン車が横転していた。
ひしゃげた車体と、中から出て来た肩あたりを血に染めた人。
唖然として見ていると、そのひとが走ってくる。
「だ、大丈夫ですか!!!!」
怒鳴るようにそのひとは言った。
顔が真っ青で服は真っ赤。
いやあなたのほうこそ大丈夫なんですか、と聞き返した。
「俺は平気ですけど、良かった、轢いちゃうとこだった」
そのひとの話では、仕事帰りに居眠り運転をしてしまい、はっと目が覚めたら歩いていた僕を避けられない位置まで来ていたそうだ。
慌ててハンドルを切るが視界から僕が消え、電柱に激突。
轢いてしまったと思ったらしい。
「や、ちょうど転んでたから大丈夫です」
と説明すると、ようやく安堵の表情を浮かべ、そのひとは警察と救急車に電話を掛けた。
警察に簡単に事情を説明するのに立ち会いその場所を後にする頃にはもう3時前になっていた。
それにしてもとてつもなく幸運だったなあと、ふたたび道を歩いていて思った。
あそこで転んでいなかったら確実に轢かれていただろう、怪我では済まなかったに違いない。
そう思うと、少しぞくりとした。
あの声は、なんだったんだろう。
聞いたことがある気がするが、あの一瞬だけではわからないし、そもそも気のせいだったのかもしれない。
そんなことを考えていると、いつかの日にかの親友やアキヤマさんと来た竹林の前の道に差し掛かった。
あたりは林と細い道、小さな街頭がぽつりとあり僕の影を作っている。
見上げればあの頃と同じ、怖いくらい綺麗な星空。
いつまでたっても、ここは変わらないな、と懐かしがっていたときだった。
「ハル」
また、僕を呼ぶ声が聞こえた。
再び聞いて、今さらやっと気付いた。
なんと僕はのろまなのか、気付くのが遅すぎる。
この、掠れた声は。
「ナナシ…?」
情けないことに声が震えた。
まさか、まさかまさか、そこにいるのはきみなのだろうか。
「おせえよ。傷つくぞ?」
変わらない憎まれ口。
お前はきっと、あの頃と変わらず僕の後ろでヘラヘラ笑ってんだろ。
「ナナ、」
「振り向いちゃ駄目だよ、ハル」
その姿を見たくて振り返ろうとするが、彼はそう言った。
「そこに、お前の知ってる俺はいないよ」
冷たい、悲しい言葉だった。
「なんでだよ、ナナシはナナシだろ」
「違う」
「なにがだよ!せっかく会え」
たのに、と続けようとして、僕は言葉を切った。
僕の足元に伸びる僕の影の後ろに、見たことのない形をした影があった。
無数の引っ掻き傷がついたような、掠れたような影だった。
「あんまり、綺麗じゃないんだ、俺」
ナナシが笑った。
笑うな。笑うなよ。無理して笑うな。
なんでお前はいつもそうやって。
洪水のように涙が溢れた。
「助けて、くれたんだろ?また、むかしみたいに」
「だってハル相変わらずへろへろだから」
「さっき、引っ張ってくれただろ」
「なんのことかな。ナナシマ君わかんなーい」
「…馬鹿。しね。」
「もー死んでるもん」
「…馬鹿」
馬鹿は、僕だ。
「おい、ハル!」
ナナシの静止が聞こえたが、無視して振り返った。
そして、真後ろにいる彼を抱き締めた。
冷たくて、細くて、触れているのかいないのかわからない感覚がした。
「振り返るなっつったろ」
「大丈夫、目、閉じてるから」
そう、目は閉じていた。
あんなふうに笑って、自分を見られるのを拒否した彼。
ほんとうに、見られたくなかったんだ。
変わってしまった自分の姿を。
だから、目を閉じて、振り返った。
僕はきみに、言わなければならないことがあるんだ。
「ナナシ」
「なに」
「ごめん」
なにがだよ、とナナシは笑う。
「ごめん、ひとりにして」
「気付かないふりして」
「怖かったんだ」
きみが僕の知らない人間になるのが怖かった。
どこか手の届かないとこにいきそうで、だから気付かないふりをした。
きみは優しいから、僕が気付かないふりをしていれば、僕を置いて行かないと思った。
そして結局、きみを見捨てた。
逃げ出した。
ごめん。
「いっしょにいてやらなくて、ごめん」
いつだってお前は僕を助けてくれたのに。
「助けてやれなくてごめん」
なにもしてやれなくてごめん。
「ずっと、友だちだから」
だから、
「こわいものは、もう何もない。」
ずっと言いたかった、言わなければならなかったことを
「もう怖がらなくていい」
今さらだけど伝えよう。
「おびえなくて、いいんだよ」
きみがほんとうに欲しがっていた言葉を。
「…生まれてきてくれて、ありがとう」
「…ばーか」
ナナシがまた笑った。
でも、
「…ありがとうハル。」
その声は潤んで聞こえた。
「もう、いいよ。お前、謝ってないで」
「しあわせになれ」
「俺のことは、もういいから、な?」
僕は、頷くことができなかった。
「じゃあ、これが最後。
ばいばい、ハル。」
彼がそう言うと、腕のなかに確かにあった彼の脆いカタチが、消えた。
「っ…ナナシ…!!!!!!!」
叫んだ。名前を呼んだ。
「ナナシ!ナナシ!」
返事は、二度と聞こえなかった。
「っ…ぁああぁああああぁ…!!!!」
僕は泣き叫んだ。
恐らくもう二度と、彼に会うことはないのだと。
僕は知った。
もう、いいよ。
しあわせになれ。
その言葉が、耳から消えてくれなかった。