大学二回生の春だった。
近くを通ったので、オカルト道の師匠の家にふらりと立ち寄った。
アパートのドアをノックしてから開けると、部屋の中では師匠が畳の上にあぐらをかいてなにかをしきりに眺めている。
近づいていくと、後ろ向きのままの師匠と目が合った。
「よお」
卓上にしては大きく、姿身にしては小さい中途半端な大きさの鏡だった。
軽く嫌な予感がする。
「鏡ですか」と言わずもがなのことを訊くと、「うん」と頷いたきり鏡の中の視線を外して正面をまじまじと見つめている。
俺はその横に座ってそんな師匠をじっと観察する。
なにをしているのだろう。
まず普通に考えると、オカルティックないわくつきの鏡を入手したのでご満悦の図。
次点で、ただ自分の顔を見ている。
どっちかだろう。
鏡は縦に長い楕円形をしていて、陶器のように見える台座の中央から支柱が伸び、リング状の枠につながっている。
鏡は枠の左右から出た棒で支えられており、上下にくるくる回る仕組みになっているようだ。
古そうにも見えるが、そんなにおどろおどろしい印象は受けなかった。
「なにしてるんです」
鏡を見つめ続ける師匠にしびれを切らした俺が問いかけると、ようやく前のめりの重心を戻した。
「考えごとをしていた」
そう言って息を吐く。
まるで呼吸することようやくを思い出したという体で。
「鏡について?」
そう訊くと、「ふ」と笑い、ゆっくりとこちらに向き直る。
「こんな話がある」
片手で鏡をくるりと裏返しながら。
「だれもいない森の奥で、木が倒れた。さて、そのとき音はしたのか、しなかったのか」
あ。
聞いたことがある。
だれもいない森の奥で木が倒れたのなら、その音を聞いた人もいなかったということだ。
観察者である人間を介さずに、音が存在しうるかという問題。
「それ、なんかよく分かんないんですよね。音がしたに決まってるんじゃないですか。
だって本来、観察者がいないんだから木が倒れたっていう部分からして疑ってかかるべきなのに、そこを前提にされてるんなら、音だってしたでしょうよ」
「それでも月はそこにある、って言ったのはアインシュタインだったかな。
……まあいい。この命題は『音』を振動そのものとしてとらえるか、振動が生物の聴覚器官に知覚されたものととらえるかによって考え方が違ってくるけど、音はした、っていうのがほとんどの人の回答だろう」
師匠はそこまで言うとまた鏡に手を伸ばして人さし指で裏面を押し、回転させた。
「では、次の問題はどうだ」
鏡面がこちらに向いた状態でぴたりと止める。
「だれもいない森の奥で木が倒れた。その木の前には鏡が置かれていた。その鏡に、倒れる瞬間は映っているかどうか」
これは初めて聞いた。
とりあえずイメージしてみる。
森の奥。朽ちかけた木。木の前の鏡。鏡には左右逆の姿になった木が映っている。
木が倒れる。鏡の中の木も倒れる。
倒れた木。
だれもいない森の奥で。
分かった。
「どう考えても映ってます。音と同じですよ。人が見てなかろうが、映っていると考えるのが自然です」
それを聞いた師匠がニヤリと笑う。
そしてどこからかキリンの人形を出してきて、鏡の前に置いた。見たことがある。最近出回ってる食玩かなにかだ。
鏡を指さして言う。
「どうだ。なにが映ってる」
鏡の前に、キリンがこちらにお尻を向けて立っている。そして鏡の中ではキリンがこちらに顔を向けて立っている。
「キリンです」
「そうだね」
師匠はキリンをつついて転ばせた。
鏡の中のキリンも倒れる。
なにがしたいんだろう。
師匠がイタズラを隠しているような表情で俺の肩を叩き、ちょっとずれろ、というジェスチャーをするので、腰を浮かして座っている場所を変えた。
鏡の正面から五十センチくらい右に移動したことになる。
「どうだ、なにが映ってる」
鏡に向かうと、斜めから見ることになるので当然映っている景色が変わっている。
「ゾウです」
いつのまに置いたのか、左手の方にゾウの人形が立っていてそれが鏡の中に映っている。
「じゃあもっとこっち」
師匠はさらに俺の座る位置を右にスライドさせた。
「なにが映ってる」
今度はかなり鏡面の角度がきつくなり、見にくくなっているが、ワニが映っているのが分かる。
「ワニです」
そう答えた瞬間、なんだか不思議な空間に迷い込んだような錯覚があった。
あれ?
どうしてワニが映っていていいんだろう。
左手側を見ると、確かに鏡に映っているあたりにワニの人形が置かれている。
なのに、奇妙な違和感が身体の内側から湧き出してきた。
ポン、と肩に手が置かれてビクリとする。部屋の隅まで移動するようにという指示がある。
言われるまま、壁際に座った俺は胸がドキドキしている理由を考えまいとしていた。
師匠の声が昏いトーンを帯びる。
「さあ、なにが映ってる」
鏡の角度がなくなり、今自分はほとんど真横と言っていい位置にいる。
鏡面は平面というより線分に近づき、暗い金属色だけが見てとれる。ワニもゾウも、もちろんキリンも映っていない。
「さあ部屋を出ようか」
師匠は言葉だけで誘う。
目を開けたまま幽体離脱したように俺は師匠に連れられて部屋を出る。身体は部屋に残したまま。
街の中を師匠はどんどんと歩く。俺はついていく。
立ち止まるたびに師匠は俺に訊く。
「なにが映ってる」
答えられない。アパートのドアしか見えない。
「なにが映ってる」
答えられない。アパートさえもう見えない。
「なにが映ってる」
答えられなかった。
やがて二人は森の中に入り、だれもいないその奥で、朽ちた木の前に立つ。
木の前には鏡が置かれている。木の方に向けられた鏡。
師匠は訊く。その鏡の真後ろに立って。
「なにが映っている」
鏡の背は真っ黒で、なにも見えはしない。
「さあ、なにが映っているんだ」
分からない。分からない。
俺の目は鏡の背中に釘づけられている。その向こうにひっそりと立っている朽ちかけた木も視界には入っているのに、鏡の黒い背中、その裏側に映っているものをイメージできないでいる。
分からない、分からない、分からない。
頭の中が掻き混ぜられるようで、ひどく気分が悪いような、心地良いような……
ポン、と肩を叩かれた。
「もう一度訊く」
一瞬で師匠のアパートに帰ってきた。自分が壁際に座ったままだったことを再認識する。
「だれもいない森の奥で木が倒れた。その木の前に置かれていた鏡に、倒れる瞬間は映っているかどうか」
さっきとまったく同じ問いなのに、その肌触りは奇妙に捩れている。
鏡の前にはキリンがさっきと同じ恰好で倒れている。
「分かりません」
ようやくそれだけを絞り出すと、師匠は満足したようにキリンとゾウとワニを拾い集めた。