学生時代、ある夏の終わりのこと。
蝉の死体もいつのまにか少なくなってすこし風も涼しくなってきたその日の夕方、僕は親友と墓場に出かけることになった。
その日は、何も肝試しをしようというわけではなく、数年前に亡くなったという親友の従兄弟の墓参りのために墓場に行くことになっていた。
本来無関係な僕がその人のお墓に出向くというのもおかしな話だが、親友にとってもその従兄弟というのはほとんど逢ったことのない「親戚A」でしかなかったらしく、今回たまたま母方の叔父さんに掃除を頼まれたからでなければ行かなかったという。
そうつまり、僕はお墓の掃除をするのに駆り出されたアルバイトもどきだった。
はじめこそ、親友、つまりナナシと墓場なんて冗談じゃない。
今までどんな目にあってきたかと断ったが、
「そう。おまえは困ってる親友を見捨てるんだな。そういうやつだったんだ。」
と、まるで極悪人のような言い方をされては無下にすることもできず、僕はついていくことになった。
その墓場、否、霊園と呼ぶべきか、とにかくそこは以外にも綺麗にされていて、僕らが掃除する必要なんてないように見えた。
しかし、実際ナナシの従兄弟の墓自体は、結構汚れていた。
いつ供えられたのかわからないような饅頭のようなものがカピカピになっているし、花は枯れて茎のみになっていた。
「これじゃあこの人も浮かばれないね」
僕は何気なく口にした。
僕だったら、もし自分が死んだらお墓には毎日じゃなくていいから綺麗な花を飾ってほしいし、
供え物なんかなくてもいいから掃除は綺麗にしておいてほしいと思うから。
しかし、隣で黙々とゴミを集めていたナナシは、表情ひとつ変えずに
「死人に花もクソもない。花なんか、生きてる人間の自己満足でしかないだろ。
死んで花実が咲くんなら、墓場は今ごろ花だらけだ。」
と言った。
その言い方には何の感情もこもっていなかった。
ただ冷たく、僕の心の底のほうに突き刺さるだけだった。
なんで?と、僕はおもった。
ミミ子が死んだあの時は、ミミ子が寂しくないようにと花壇に埋めてくれたのに。
どうしてそんなことを言うのだろう。
それは、今にして思えばナナシが変わり始めていたからなのだろう、とわかる。
少しずつ、ナナシが今までのナナシでなくなっていくサインだったのだろう。
けれどそのとき僕はそんなことには気付かず、ただ悲しいとしか思わなかった。
「な、水汲んできて」
「あ、うん」
そんなことを考えていると、ナナシが僕に水汲みを頼んできた。
「終わったらラーメンでも食いにいこう」
といつもの笑顔を浮かべたナナシに、僕は少し安堵した。
よかった、いつものナナシだ。
さっきのことはもう忘れよう、虫の居所でも悪かったんだろう。
僕はそう思い込み、バケツ片手に水汲み場に走った。
水汲み場でバケツに水を貯めていると、あたりが少し暗くなってきたのに気付いた。
腕時計に目をやればもう六時に近づいていた。
時間を意識するとお腹も突然すいてきて、はやく終わらせてラーメンを食べたくなった。
多分このご褒美にナナシがご馳走してくれるだろうから、チャーシュー追加してやろうかな、なんて考えていた。
そのとき。
「ねえ、ねえ」
後ろで声がした。
振り返ると、小学生くらいの男の子がいた。
俯いてて顔がよく見えないが、その子は確実に僕に声をかけていた。
「ん、どうしたの?」
「僕ねえ、ひとりぼっちなの」
声を掛けると、男の子はそう言った。
迷子になったのかな、と僕は思った。
何しろそれなりに広い霊園だし、周りはあたりまえの墓だらけで見渡す限り同じ風景なのだからこんな小さい子なら迷子になっても仕方ないだろう。
「じゃあ、お兄ちゃんがいっしょに行ってあげるよ。」
「・・・本当?」
「うん。きっとママやパパもしんぱ・・・・・」
そこで、僕は息を呑んだ。
嬉しそうな声を出して、僕を見上げたその子の顔は、どうみてもおかしかった。
否、人間のものでは無かった。
顔の半分以上が、目なのだ。
そしてニタアっと大きく口をあけて笑っていた。
「い っ し ょ に い っ て く れ る ん だ よ ね ? 」
男の子はすごい力で僕を引っ張っていった。
恐怖で僕は声も出なかった。
必死に振りほどこうとしても、男の子の手はそれを許さなかった。
「や・・・・や、だ、やだああアアああ!!!!」
やっとの思いで悲鳴をあげると、 ぐ る ん と男の子の顔だけがこちらに向いた。
「「「いっしょにいぐっでいっだだだだよねえねねね」」
皺枯れた老婆のような声を発しながら、男の子は僕を見た。
怖くて怖くて、僕は泣き叫んだ。
たすけて、だれか、たすけて、ナナシ、ナナシナナシななしナナシ!!!!
何度もナナシの名前を呼んだ。
情けないくらい声が震えた。
このまま死んでしまうのかな。つれていかれるのかな。
いやだいやだいやだいやだ。
涙で前が見えなくなった、そのときだった。
「放せよ。」
後ろから声がした。
待ち望んでいた、聞きなれた声だった。
「放せ。」
ナナシはもう一度言った。
さっきとおなじ、冷たい声だった。
男の子は凄まじい目でナナシを見ていた。
そして顔半分の目から、滝のような涙を流すと、
「うそつき」
といって消えた。
僕はその場に座りこんだ。
ゆっくりとナナシが近づいてくる。
「大丈夫か?」
「うん」
ナナシが手を差し伸べてくれたが、僕はその手が取れなかった。
あの男の子の「うそつき」は、僕に向けられたものだった。
僕は言ったんだ。
「いっしょにいってあげる」って。
男の子が消えたほうを見ると、お墓があった。
そのお墓には、干からびたお菓子と、枯れた花と、すすけたおもちゃがあった。
さっきの、ナナシの従兄弟の墓のように。
「ねえナナシ」
「何」
「もしナナシが死んだら、ちゃんと花もお菓子も供えるからね。」
僕は言った。
恐怖とは違う感情で、ぼくは泣いた。
男の子がかわいそうでしかたなかった。
すると、ナナシが静かに言った。
「おまえが死んだら、俺はいっしょにいってやるよ。ちゃんと花も置いたあとでな。」
その言葉に、余計涙が出た。
僕を慰めるための嘘だったとしても、ナナシのその言葉は嬉しかった。
自己満足でもいい。花実なんか咲くはずも無い。
それでも、大切な人の眠る場所に花を置く。
それは、とても大切なことだと知った。
僕らは、男の子のお墓に摘んだ花を置いてその場を去った。
二人とも何も言わなかった。
その日食べたラーメンの味は、ひどくしょっぱかった。