もう三〇数年以上も前の、私が小学生だった頃のこと。
祖父の家に遊びに行った時の出来事だった。
寒くて凍てつきそうなこの季節になると、昨日の事の様に記憶が鮮明に蘇る。
学校が夏休みや冬休みになると、私は父親の実家でもある、祖父の家に毎年の様に長期で預けられた。
ひと夏、ひと冬を祖父と必ず過ごしていた。
あの年の冬もそんな祖父は、相変わらず太陽の様な、愛情に満ち溢れた優しい笑顔で私を迎えてくれた。
「よう来たな健太、少し大きくなったか?」
私はたまらず祖父に抱き着き、いつもの様に風呂も寝る時も一緒に過ごした。
祖母は随分前に他界しており、祖父は一人、小さな家で暮らしている。
祖父もきっと、私が訪れるのを毎回とても楽しみにしていたに違いない。
祖父の家は、東北地方の山間に位置する集落にある。
私は毎年祖父の家を訪れる度に、冒険するようなワクワク感に駆られていた。
当時、私は都心の方に住んでいたので、祖父の住む土地の全てが新鮮だった。
清らかに流れる川や、雄大な山々、清々しい木々など、神々しく感じる程の素晴らしい大自然が、私は大好きだった。
特に冬になると、雪が降り、辺りは一面キラキラ光る銀世界で、都心では滅多に見れない光景だ。
そんな中でも、なにより私は祖父が大好きだった。
いつも穏やかで優しく、決して怒るということはしない。
その穏やかな性格と屈託のない笑顔で、祖父はたくさんの人たちから愛されており、花がパッと咲いた様に、祖父の周りはいつも笑顔が絶えなかった。
また、祖父は農業の他に、マタギ(猟師)の仕事をしており、山の全てに精通していた。
大自然と共に生き、また、生き物の命を奪う、マタギという仕事をしているが故に、誰よりも命の尊さや、自然の大切さと調和を何よりも重んじている人だった。
祖父の家に滞在して、はや一週間経ったそんなある日の朝、私は集落の友人彰と隆志二人と、秘密基地を作りに出かけた。
「いってきまーす!おじい、おにぎりありがとう!」
「おお、気をつけるんだぞ。川に落ちないようにな。
あまり遠くに行くんでねぇぞ。あ、ちょっと待て!健太」
「なに?」
「ええか、健太。何度も言うが《中つ森》にだけは絶対に行ったらいかんぞ。
あそこはおじい達も近づけん場所だからな。わかってるか?」
「うん、わかってるよ」
「それと……なんだか今朝から山の様子がおかしくてな。鳥がギャーギャーうるせぇし、それでいて山の方は妙に静かなんだが、変に落ちつかねぇ。
おめぇにあんまり小うるせぇ事は言いたくねぇけど、こんな日はなるたけ山の奥には行くんでねぇぞ」
「はーい」
その日は、この時期には珍しく雪が降っておらず、よく晴れた日だった。
それ以外は何も変わらない、いつもの朝だ。
だが、この時私はまだ、祖父の言っていた言葉の意味がよくわからなかった。
ところで《中つ森》というのは、この山の中のある一部の森で、そこには絶対に行ってはいけないと、祖父から常々言われている場所だった。
近づいてはいけない理由は、なんでも中つ森はこの山の神様である、山神様を奉ってある神聖な森であるから、決して立ち入ってはならないのだとか。
もし山神様に会ってしまうと、命を吸われたりだとか、はたまた生命力を与え、一生健康に暮らせるだとか、色々な話があるようだ。
命を奪いもすれば与えもする、この山そのものの神様、と、祖父は言っていた。
もっとも、私はもともとここの人間ではないし、中つ森の場所がどういう場所でどこに存在するのかも、いまいちよくわからなかったので、つゆしらずだった。
そして私は友人たちと合流し、山に到着したあと、秘密基地を作る場所を探した。
「さてどこで作るか?」
「俺達の秘密の隠れ家なんだし、もう少し奥にいこうよ」
「大人に見つかったら隠れ家の意味ないもんね」
私達は更に山奥に進んだ。
三十分ほど歩くと雑木林の中に丁度良い、開けた場所があり、そこに秘密基地(秘密基地と言ってもかまくらだが)を作ることにした。
そして昼も過ぎ、昼食をとりながら基地作りに没頭していた。
日が暮れかけている夕方になった頃、彰は落ち着かない様子で林の奥の方を見つめていた。
「どうしたの?」
「……なんか、山が変な感じだ。いつもと違う」
私には彰の言ってる意味がよくわからなかった。
私の目に映るのは、別にいつもと変わらない、ありふれた山の光景だ。
ただ、確かなことは、彰の言っていることは祖父の言っていたことと重なっていた。
「どういうこと?」
「俺もようわからんけど、なんかこう……山がゆらゆら揺らめいてる感じだ。吹いてくる風もなんか変なんだ。
寒くもないし暖かくもないし……ほら、見れ!」
彰が指さした森林の奥を、鹿が五、六頭群れをなして走り去った。
そして続くように、鳥の群れも、何かから追われるように騒ぎ立てながら私達の上を飛び去っていった。
隆志「今の時期、鹿はもっと上の奥の方にいるはずなのにどうしてだ?
熊から逃げてるのかな?それだったらまずいぞ」
彰「いや、この辺りは村のおじい達(マタギ)が仕切ってるから熊は絶対近寄らんて。
やっぱりなんか変だよ、もう今日は帰ろう」
隆志「そうだな、今日は帰った方がよさそうだ。遅いし」
まだまだ遊べたが、私達は早々に帰ることにした。
この時なんとなく嫌な感じがしたのを、まだ覚えている。
帰路について二〇分ほど歩いたが、どうも周りの様子がおかしかった。
隆志「なぁ、こんな所通ったか?来る時こんなでけぇ岩なかったろ」
彰「うん、右行ってみるか。あっちだったかもしれん」
しかし右へ行っても違っていた。私達は完全に迷っていたのだ。
私はともかく、彰と隆志にとってここは地元の山だ。
しょっちゅうこの辺りで遊んでいる。
二人にとっては庭の様な所で、決して迷う様な場所ではなかった。
もうどれほど歩いただろうか。
時間も距離も、今どこにいるかということさえも、私達にはわからなかった。
まるで同じ場所をグルグル回っているかの様に思える程に、途方に暮れてしまった。
私達はいつのまにか深い森に入ってしまっており、冬という日照時間が短い季節のせいなのか、森の木々が太陽を遮っているのかわからなかったが、辺りは段々暗くなっていた。
いつのまにか雪も降りだし、寒さも増し、子供心に不安が募る。
更にしばらく歩くと太陽は沈みかけ、村役場の一七時を知らせる鐘が鳴り響いた。
「もう一七時だよ。ここどこ?」
彰「わからん。でもおかしいべ、あんな浅い場所で迷うなんて」
隆志「こんなに遅いとオド(父親の事)に怒られるぞ。早いとこ帰ろ」
しかし私達は疲れ果て、適当な場所に腰を下ろした。
祖父の村では、子供に必ず懐中電灯を持たせる慣わしがあった為、幸いにも私達は三人とも懐中電灯を持っていた。
隆志「疲れたなぁ。さみぃし。腹も減ったな」
「ねぇ、なんかあそこにあるよ」
私が懐中電灯を照らした先に、色の剥げた大きな鳥居があった。
私達は恐る恐る近づき、鳥居をくぐると、荒れ放題の石畳を歩いた先に、小さな祠の様な物があった。
祠の前には、米や瓶に入った水(たぶんお酒)が供え物がしてある。
その両脇に、卒塔婆の様な物に漢字がたくさん記されてあった。
それをどう読むのか、私達にはわからなかい。
それを見た途端、彰と隆志はギョッとしたように顔を見合わせた。
彰「まさか……ここが中つ森っちゅう事はねぇよな?」
隆志「いや……俺も中つ森さ行った事ねぇし、場所もよう知らんからわからんけど……
この山に神社みてぇのがあるなんて聞いた事ねぇぞ」
「中つ森ってそんなにマズイ場所なの?」
隆志「そうか、おめぇはよそ者だからな。でも、こんな話はオドから聞いた事ある」
「なに?」
隆志「簡単に言うと、中つ森は山神様っちゅう、山の神様が住んでる場所で、村の人間でも絶対に入っちゃならねぇって場所なんだ」
「それは知ってるよ」
隆志「なんでもその山神様ってのが、えれぇ短気な神様で、人が中つ森にいるのがわかると山神様は怒って、手足を引きずってどこかに連れてっちまうんだ。これを大人達は、神隠しとか祟りって呼ぶ」
「……どこかって、どこに連れてかれるの?」
隆志「それはわからん。とにかく神隠しに遭うと、大人でも見つけられねぇんだ。大人にもわからないどこかに……」
ゴォーッ
ゴゴゴゴ………
隆志がそう言いかけた時、今まで聞いたことのないような、耳をつんざく轟音が鳴り響いた。
隆志「うわーっなんだ!?」
彰「山が揺れてるっ!」
山が全体が揺れはじめたのだ。
私達は堪え切れずひっくり返り、訳がわからないまま雪の上に転がったり、必死で木にしがみついたりした。
山が揺れだしてから二~三分経っただろうか。
揺れはようやく収まり、地鳴りも止み、辺りは再び静寂さに包み込まれた。
私達は呆然としたまま、その場に座り込んでいた。
彰「……今の……何だったんだ」
「わかんないよ……地震かな……」
と私が言ったその時!
……デテイケ、デテイケ、デテイケ デテイケ
突然、耳元で誰かが囁いた。
男なのか女なのか、わからない声。
いや、耳元というより、直接頭の中にスッと入ってきた様な、そんな感覚だった。
ただ、いやに冷たい声だった。
この瞬間を、今でも私ははっきり覚えている。
全身に鳥肌が立ち、一瞬時が止まったかの様に思えた。
彰「……今、聞こえたか?」
聞こえていたのは私だけではなかった。
私達三人は互いの顔を見合わせ、がむしゃらに走った。
隆志「いけん!ここ、やっぱり中つ森だ!さっきの地鳴りも山神様の祟りだ!俺達が中つ森に入っちまったから、怒ってんだよ!早く逃げんと山神様に命吸われちまう!」
彰「早く!早くしないと!」
もう、本当にこの時は頭の中がグチャグチャで訳がわからなかった。
とにかく暗闇の中、私達は走り続けた。
何度も転んだり、木々の枝等が顔にたくさんぶつかっても気にしなかった。
走っている方向も、帰り道かなんてどうでもいい。
とにかくあの場から逃げ出したかった。
そして私は足を止め、ゼェゼェと息を切らせながら思いきり空気を吸い込んだ。
体力の限界だった。もう走れない。
立ち止まると、彰と隆志はいなかった。
先程の騒ぎではぐれてしまったのだ。
おまけに懐中電灯もどこかへ落としてしまい、私は不安で顔が涙でグシャグシャだった。
「ハァハァ……二人ともどこー?」
疲れ果て、いよいよ心細くなった私は、立っていることさえもままならず、木に寄り掛かるようにして座り込んでしまった。
いつの間にか降ってくる雪は激しさを増し、吹雪に変わっていた。
吹き付ける雪が私の体にまとわり付き、容赦なく体温を奪う。
手足の感覚はなく、私の小さな体は完全に力尽きてしまっていた。
急激な眠気が襲ってきた。
もうダメかもしれない。
そう思った時
ザっ……ザっ……
私の後ろの方から雪を踏みしめる足音が聞こえて来る。
ゆっくり、ゆっくりと。
吹き荒れる風の音の中、何故かハッキリと聞こえたのだ。
足音の主の姿は、この暗さで全くわからなかったが、暗闇の奥から誰かが静かに歩み寄ってくる。
さっきまで体の感覚が全て鈍っていたのだが、まるで研ぎ澄まされた様にわかる。
急に意識がハッキリとしてきた。
不思議な感覚だった。
こんな夜に、こんな場所で誰が?山神様が跡を追ってきたに違いない……
そんな事を考えると震えが止まらなかった。
逃げなきゃ、と思っても、体が金縛りにあったみたいにピクリとも動かなかった。
私の心臓は爆発しそうなくらいバクバクと高鳴っていた。
自分の心臓の音で、居場所がばれるんじゃないかと思い必死に胸と口を抑えた。
ザっ……ザっ……ザっ……
徐々に近づいてくる足音に、私は怯えながら自分の服をギュッと握りしめていた。
もう足音は、私のいる木の真後ろだった。
すると、ピタッと足音がやんだ。
私は息すらも止めていたんじゃないかと思うくらいに、背筋を伸ばし硬直していた。
それから何分、何十分経っただろうか。
私の身に何も起きない安堵感から、緊張の糸がプツッと切れたように、息を大きく吸って吐いた。
もう大丈夫かな……
私は意を決して、後ろを振り向いた。
だが何もいなかった。
相変わらず轟々と吹雪が唸りをあげてるだけだった。
なんだったんだろう。よかった……
私は安心し、首を元の位置に戻した。
だが 、私は目の前の光景に絶句した。
真っ白な着物を着た女が、私を見下ろしていたのだ。
その距離は1メートルもなかっただろう。
記憶が曖昧だが、身長は2メートル以上あったと思う。
手足が異様に長かった。
私は目の前の光景を理解できずに、ただガタガタ震えていた。
月明かりに照らされたその無機質な表情と姿は、まるで雪女を思わせる様な不気味さを醸し出していた。
女は私と目が合うと、私の顔にまで大きく身を乗り出し、顔をのぞきこんだ。
女は私の顔をのぞきこみながら、ニンマリと笑いを浮べている。
とっさに目を閉じようとしたり、顔を背けようとしても、何故か体が言う事を聞かず、女は真っ直ぐ私を見つめていた。
まるで蛇に睨まれた蛙の様に、私はただ震えそうになる全身を必死で押さえつけた。
ちらりと見えてしまったその顔の恐ろしい事……
前髪と肩から垂れる長い黒髪。
そして長髪から覗かせる血走った目と、血の気のない唇がニヤッと不気味に歪む。
怒っているのか、喜んでいるのか、はたまた悲しんでいるのかという事など、その表情からは伺う事ができなかった。
そして、女は唐突に、私の右手首をぐいっと掴んだ。
あまりの恐怖に、私は小さく「ヒッ」と漏らした。
物凄い力で、ぎりりと腕が痛むほどだ。
「痛いっ、痛いっ」
私はたまらず叫び、その手を振りほどこうともがいた。
だが寒さのせいか、恐怖のせいか、身体は上手く動かず、力を入れることが出来ない。
喉に何かが張り付いているように、あげたはずの叫びも声にはならなかった。
私はそのまま引きずられ、女は無情にも、私をどこかへ連れて行こうとする。
……ズルっ……ズルっ……
引きずられながら私は女の方をちらっと見ると、月明かりと雪の反射に照らされ、恐ろしく不気味な顔だった。
相変わらずニヤニヤし、私と目が合うとまたニンマリと嬉しそうに笑う。
ズルっ……ズルっ……
山神様に連れてかれるんだ……
薄れゆいて遠のく意識の中、私はそう思った。
しかし、どこからか大好きな祖父の声が聞こえてくる気がした。
私が目を覚ましたのは、それから二日後の事だった。
気がつくと、目に入ってきたのは見慣れた天井だった。
私は祖父の家で布団の中にいた。
体にうまく力が入らない。
夢だったのかな?
そうボーッとしていると、
「目が覚めたぞ!」
「無事だぞ!」
という声が聞こえ、バタバタと廊下を走る騒がしい音した。
ちらっと横を見ると、村の大人達数人が部屋にいる。
「健太!」
私の名前を呼ばれる先に目をやると、祖父がしわくちゃな顔を、さらにくちゃくちゃにし、私に抱き着いた。
「よかった……!本当によかった……生きていてくれて本当に……よかった……!」
祖父はそう言い、目を真っ赤にしながら私の頬を撫でてくれた。
私には何が何だかわからなかったが、ただ、この時祖父のぬくもりを感じて、とても安心したのを覚えている。
ふと、私は妙な感覚に気づいた。
右手の感覚がないのだ。
恐る恐る右手を布団から出して見てみると、何と、右手首から上が無くなっていた。
包帯が巻いてあるが、私の手は姿形もない。
あの女に掴まれた部分が無くなっている。
再び、あの夜の恐怖が私の中に蘇った。
私はパニックになり泣き出し、手に負えなかった。
祖父や他の大人達が私を落ち着かせ、状況がよく理解できていない私に、祖父は順を追ってゆっくりと説明してくれた。
あの日の二日前の夕刻、祖父や村の人達は、まだ帰らない私達が山で遭難した事に気づき、大人達が慌てて捜索に行こうとした時に突如、不気味な地鳴りが響き渡り、間髪入れず地震が起きた。
村の電柱は倒れ、近くの道路では地割れも起き、村では大変な騒ぎだったという。
更に追い討ちをかけるように、地震の影響で、私達がいるはずの山から大規模な雪崩が発生し、集落の村では山の側にあった三棟の家が雪崩の落下によって半壊し、何人かの人が亡くなったり、怪我をしたりしたのだと。
しばらくし、青年隊も駆け付け、山狩り(私達の救助)を行おうとしたのだが、しかし外は猛吹雪で大荒れだった為、二次災害(二重遭難)を防ぐ為に、捜索は次の日の明朝という事になったのだった。
当然の事ながら、あの大規模な地震と雪崩で、もう私達の生存の可能性は薄いと見ており、友人彰、隆志も二人同じ場所で凍死した状態で発見された。
私は瀕死の状態だったが、中つ森の、山神様の祠に寄り掛かるようにして、意識を失っていたという。
また不思議なことに、幸いにも中つ森には雪崩の被害は及ばなかったらしい。
とにかく、あのような大惨事だったに関わらず、子供が命を取り留めたのは奇跡なのだという。
しかし、発見時には私の右手は重度の凍傷により壊死してしまっており、手首を切断せざるを得なかったのだと。
道に迷い、知らぬ間に中つ森に入っていた事、その突如地震が起きた事、不気味な声が聞こえた事、女に右手を掴まれどこかへ引きずられた事……
私は祖父に、自分の身に起きた全てのことを記憶の限り、つっかえながら話した。
すると、祖父はぽつりぽつりと語った。
「……ほうか……山神様はお前を守って下すったんだな。
山神様ちゅうのは、この山の生と死を司る神様だ。山神様には気まぐれな所があってな、わしらが生きる為の命を与えて下さるが、時に激しく牙を剥く時もある。
山神様はお前の命を助けようと、雪崩の来ない中つ森に運んで下すったんだよ。
本当は死んじまう所を、手一本で済ましてくれたんだ。
……彰と隆志は……気の毒だが」
「なんで僕だけ助けたの?彰と隆志はどうして助からなかったの?」
「それはおじいにもわからん。山神様は気まぐれだからな。
おじいも、彰と隆志の事は本当に辛いと思っとる。
だがな、健太 、山神様は決して彰と隆志を助けなかった等と思っとらん。
ただ、時として人間も自然界の力には敵わん時もあるっちゅう事だ。
わかるか?人間だって、自然界の一部の生き物だ。
鹿や熊、虫と変わらん同じ命を持ってる。
山神様は人間だからっちゅう理由で特別扱いはせん。
……だが、未来のある子供が亡くなったっちゅう事は……本当に悲しいがな」
そう言って祖父は悲しげに、私の右手を優しくさすった。
この時、私には祖父の言っている意味がよく理解できなかった。
そして月日が経ち、あの時の事故があってから、両親と祖父の間で色々あった様で、祖父とは何となく疎遠になってしまった。
私が大学に入学した年の初冬に、祖父は亡くなった。
享年九十六歳。
村に初雪が降った日の朝、隣の住人が様子を伺いに行くと、静かに息を引き取っていたという。
苦しんだ様子もなく、眠っているような、穏やかな死に方だったらしい。
葬式に参列した時、祖父の変わり果てた姿に私は言葉が出なかった。
祖父が亡くなってからしばらくして、十数年振りに祖父の所を訪れた。
だが、村は市と合併してしまい、アスファルトに舗装されコンビニ等もできており、私の記憶にある祖父の村とはかなり違っていた。
山も開発で穴だらけになり、あの綺麗な小川や、沢山の森や木々は姿を消してしまっている。
私はなんだかやるせない気持ちに襲われた。
歳をとった現在、当時の事を時々振り返る事がある。
あの時は幼くて理解できなかった事々が、今ではなんとなくわかってきた様な気がするのだ。
私が遭難したあの日、祖父は山で何かが起こると予感していたのではないのか。
長年、あの山でマタギを生業としている祖父の研ぎ澄まされた五感が、何らかの異変を感じとっていたに違いない。
そして、中つ森の山神様。
今思うとあの時聞こえた、デテイケという言葉は、『雪崩が起きるから早く逃げろ』という警告ではなかったのだろうか。
また後からわかった事だが、山神様というのは山の化身であり、精霊であり、山の命そのものなのだという。
滅多に人前に姿を現さないが、伝聞によると、女性や白蛇、時には白狐の姿で現れると言われているのだとか。
山神様を信じ、敬意を払っていた人間は死ぬと自然に還って山神様の一部となり、そして山の命は育まれ大自然の中を巡り巡って、また生まれ変われるのだと。
祖父の地域では古来より崇められており、今でも毎年時期になれば山神様を讃える祭りが行われている。
昔の人々は、大自然と共に生きるが故に、時折起こる天災や不幸な事故に畏怖し、山神様を奉る様になった。
また、川や山で採れる命の恵みに感謝し、山神様(大自然)に敬意を抱いていたのだろう。
私はあの時、偶然にも山神様に救われた事を、夢や勘違いだとは決して思わない。
今だって、あの山の命としてどこかで何かを見つめているに違いない。
春の陽気の様に優しい時もあれば、冬の極寒の様に厳しい時もある様に。
祖父もあの山のどこかにいるのかと思うと、何だか不思議な気持ちになる。
中つ森は開発されてしまい、山神様の祠はどこかの神社へ移送されてしまったと聞いた。
山神様は、あの変わり果てた山々を見て、何を想っているのだろうか。
ツルツルの右手を眺めながら、私はそう思った。