早紀ちゃん(仮名)が住んでいた家の玄関はガラスの格子戸で、上がり框のすぐ後ろにも、すりガラスの引き戸がはまっていた。
早紀ちゃんのお父さんが「ただいま~」と帰ってきて靴を脱いでいると、その影がすりガラス越しに見える。
お母さんは廊下に顔を出して、その大きなシルエットに「お帰りなさ~い」と声をかけるのがいつもの光景だった。
早紀ちゃんが6年生の時に、お父さんは家で突然倒れ、そのまま運ばれた先の病院で亡くなってしまった。
なんの前触れも無く伴侶を失ったお母さんの悲しみようは深かった。
玄関のコート掛けには、倒れる前日に会社から帰ってきたお父さんがハンガーに掛けた背広が、そのままになっていた。
いや、お母さんがそのままにしていたのだ。
まるで、そうしていれば、ひょっこりお父さんが帰ってくる・・・
とでもいうように。
早紀ちゃんにもその気持ちはよくわかった。
だけど、三ヶ月ほど経ったある夕方、背広を見ているうちに、ちょっとイタズラしてやろうという気持ちが湧いてきた。
いつまでも泣いてちゃダメだよお母さん、お父さんだって浮かばれないよ、という思いもあったのだろう。
お父さんの背広をそっと羽織って、格子戸をわざと大きな音をさせて開ける。
すぐさま上がり框に腰掛けて、靴を脱ぐ仕草をする。
背広はブカブカだったけれど、夕陽に照らされてすりガラスに映った影は、
お父さんのように大きく見えているはず・・・
「は~い、どちら様で・・・」
お母さんが息を呑む気配がした。
「・・・あなた・・・なの?」
その瞬間、早紀ちゃんの胸に後悔の念が押し寄せた。
その声は『お母さん』ではなく、夫に呼びかける『妻』のものだったから。
ちょっとからかうつもりだったのに、夫が帰って来たと心の底から信じている。
ごめん!お母さん!ほんとはアタシだよ!
慌ててそう言ったつもりだった・・・
でも、口から出た言葉は違った。
その言葉は、太い男の声で「ただいま」・・・と。