次の次の日、僕は昼前に師匠の家に行った。月曜日だった。
すでに身支度をしていた師匠はすぐに表へ出て来て、「自転車で行こう」と言う。
そして僕の自転車の前カゴに荷物を放り込むと、自分は後輪の軸の所に足をかけた。僕の肩に乗った手のひらから一瞬、体温が移る。
「まずタカヤ総合リサーチだ」と頭越しに指が突き出される。「はいはい」と二人分の体重を運動エネルギーに変えるべく全力でペダルを踏む。
しばらく黙々と自転車をこいでいると、ふいに師匠が言った。
「なんか視線を感じる」
警戒しているような声。思わず首を回して師匠の方を見たが、キョロキョロとあたりを見回しているところだった。
僕は改めて師匠の姿を確認し、「化けた」と呟いた。
「なに。なにか言った」
「別に、なにも」
いつもはジャージとかジーンズとか、気の抜け切った格好をしていることが多く、化粧も全くしないどころか寝癖すら直さないような師匠だが、今日は紺色のビジネススーツをすっきりと着こなし、化粧も自然な感じで上品にまとめている。まるで別人だ。
そんな人が自転車で二人乗りを、それも後輪に立ち乗りをしているのだ。目立つに決まっている。
そんな僕の考えに全く思い至らない様子で、師匠はしばらく周囲を警戒し続けていた。
タカヤ総合リサーチという派手な看板のあるビルの前に到着した時も、やはり通りすがりの人にジロジロと見られ、師匠は首を傾げる。
「まあいいや、借りるもん借りてさっさと行こう」
詳しくは聞いていないが、何かを借りに来たらしい。この大きな興信所は、僕らがバイトをしている小川調査事務所の所長である小川さんが昔所属していたことがあり、その縁で今でも仕事を回してもらったりしていて、色々と付き合いのある会社だ。
中に入ると、空調の効いた広いフロアにデスクが沢山並んでいる。そのほとんどが無人だった。ハッタリで、いもしない所員の分のデスクを置いてある小川調査事務所と違い、明らかに繁盛しているがゆえの日中の所員の不在だった。
それもそうだろう。興信所の職員がデスクに座ったまま出来る仕事など多くはあるまい。
「あら、また来たの」
受付の所にいた、派手な赤い服のおばさんが立ち上がってやって来る。ここの事務員の市川さんだ。
いくつかの興信所を渡り歩いたこの道三十年以上のベテランで、この業界の様々な光と影を知り尽くしたというその存在は、所員からすると頼もしいのと同時に畏怖の対象ともなっていた。
らしい。
自分にはただ世話好きなおばさんにしか見えない。それは師匠がやけにこの市川さんに気に入られて、可愛がられているせいかも知れなかった。
「すいませんけど、またあのセット貸して下さい」
「いいわよ。このあいだ返してもらった時のまま、まだ片付けてなかったから」
そう言って市川さんは小さなダンボールを持って来た。それを受け取りながら師匠は「所長は?」と訊く。
「来客中。結構長くなってるみたい」
「そうですか。相変わらず忙しいみたいスね。こないだのお礼もまだだけど、よろしくお伝え下さい」
「いいのいいの、どうせこんなの使うことめったにないし」
まるで自分の経営する事務所のように振舞っている。
市川さんに挨拶をしてからその場を辞去し、外で自転車の前カゴに段ボール箱を括りつける。
「これ、自社ビルだってよ」
僕の作業を待っている間、師匠は建物を見上げて言う。「入社して、いずれ乗っ取ってやろうかな」
冗談のつもりだろうが、やりかねないので複雑な気持ちだった。あの下請けの下請けを自称する小川調査事務所のバイトの身でありながら、その実務能力は僕が見てきた限り、堂に入ったもののような気がする。
隠されたものを解き明かすというのは「オカルト」の語源に言及せずとも、本人の性にあっているようだ。
大手の興信所であるタカヤ総合リサーチにしても、今までみすみす逃して来た対応不能の「オバケ事案」を、現実的な契約に変えることができるのだ。
霊感が強い人は他にも沢山いるだろうが、その使い方をここまで理解している人は少ないだろう。
しかしこの人が、バイトならばまだしも社員として誰かの下で働くところなどあまり見たくなかった。
「よし、じゃあアーケードへ行け」
準備出来たと見るや、再び自転車の後輪の車軸の上に乗ってきた。
「はいはい」
颯爽とは言えないまでも頑張ってペダルをこぐ。段々とスピードが上がる。
やがてアーケードの駐輪場に到着した。ちょうど昼時だったので、平日とはいえデパートがあるアーケードの中心街のあたりは人でごった返していた。
師匠に指示されるままに段ボールの梱包を解き、近くの公衆トイレに入る。
段ボールの中には、いかにもスタッフジャンパーでございます、という感じの黄色い上着と、「取材中」と書かれた緑色の腕章。そして首からかけるタイプのネームプレート。そしてバインダーと筆記用具などが入っていた。
それらを装備してトイレから出てくると、待っていた師匠はネームプレートを受け取って首にかける。
ネームプレートにはごちゃごちゃとしたデザインがされていたが、よく見ると名前しか書かれていない。それも適当につけたと思われる、でたらめな名前だ。何にでも使えるようになっているらしい。
「いいか、これは雑誌のアンケートだ。私が編集でお前がアシスタント」
ようやく説明があった。
小さい人を見たという話を不特定多数の人間から蒐集するために、架空の地方雑誌を装い、街頭アンケートを実施するということのようだ。
設定は、今度創刊する『マイタウン・ニュース』という雑誌の企画で、その中の「あなたの恐怖体験」というコーナーのための取材、というもの。
そのために用意したという小道具のアンケート用紙を見たが、住んでいる地域、年齢、今まで心霊現象に遭遇したことがあるか? それはいつごろ? などの質問項目が並んでいる。
その遭遇した心霊現象を選ばせる一覧には、しっかりと小人のチェックボックスがある。
たかが街頭アンケートを装うのにこんな周到な準備をするあたりが、凝り性で無駄な労力を厭わない師匠らしい。
「いや、最初は普通の格好で、アンケートに協力お願いしまあす、ってやってたんだけど、内容が内容だから、霊感商法の掴みじゃないか、みたいに疑われてなかなか上手くいかなかったんだよ。
市川さんに泣きついてこのセットを借りたら、なんとかそれっぽく見えたみたいで、そこそこ数が集まったのが前回。さらに今回はアシ付きだから完璧だ」
さらに、こんな質問をされたらこう答える、と言った細かい打ち合わせをしたあと、僕らはデパート前の雑踏の中に進出した。
「アンケートにご協力をお願いします」
師匠がよそ行きの声を張り上げる。もちろん、テレビカメラがある訳でもなし、向こうから集まってはくれないから、師匠は道行く人にバインダーに挟んだアンケート用紙と筆記用具を大胆に突き出した。
思わず受け取ってしまった人に用意した口上を述べて、爽やかな笑顔でお願いする。
最初に掛かった獲物はズボンにシャツを入れた、冴えない学生風の男。「あ、そこはチェックだけでいいですよ~」などと師匠にせかされながら、二分もかからずに回答終了。特段幽霊の類を見たことがなかったらしく、あっさり解放された。
相手はまだ話したそうだったが、師匠は興味を失った顔で、雰囲気によるバリアを張ってそれを撃退する。
そんなことを繰り返し、六人目でようやく心霊現象に遭遇したという人を捕まえる。それもつい最近小さい人を見たという。若い男女のカップルで、女性の方だった。師匠はここぞとばかりに質問を被せ、細かい状況を聞き出す。
陸上かなにかをやっているらしく、まだ空も暗い早朝に住宅街でランニングをしていると、小さな足音が後ろを追いかけて来ているような気配がしたそうだ。
振り返ると、誰もいない。気のせいかと思い、前を向いて走り出すと、また聞こえる。今度ははっきりした音として。
怖くなって振り向くと、自分の真下、足元に、のっぺらぼうのような小さい人型の肉塊がスタスタと小走りについて来ていた。彼女は悲鳴を上げて全力で逃げ出したが、しばらくその足音がぴったりとついて来ていたそうだ。
そのスタスタという一定のリズムが変わらないままで。
青ざめながらようやく語り終えた女性が、「なにか悪いものに憑かれたりしてるんでしょうか」と訊き返すと、師匠は少し考えてから答えた。
「大丈夫だと思いますよ。このアンケートやってても、身に覚えもないのにお化けを見てその後に祟られた、なんて人はいませんから」
女性は無責任なその言葉に釈然としない顔をしていたが、連れの男性にもう行こうぜと引っ張られて行った。
師匠の対応は正解だろう。まことしやかに霊とはこういうもので、などと語ったり、心配ならどこそこの霊能者を訪ねろだの、こういうお札を買えだのと言ってしまえば、まさに霊感商法の掴みだと思われて、アンケートが続け難くなる可能性があった。
しかし、僕は見ていた。その一見無責任な回答をする前に、師匠はその女性の瞳の奥を透かし見るような眼をしたのだ。
その奥に潜むなにかを見つめるように。師匠は師匠なりに真摯に答えたのだろう。
「さあ次だ」
そうして師匠は淡々とアンケート集めをこなし、要領の分かってきた僕も二手に分かれて次々とアーケードの中を行く人々に声をかけ続けた。
結局二時間半くらい経った所で「疲れたからこの辺にしよう」と師匠が言い出し、僕もお役御免となった。
回収したアンケート用紙の束を数えると九十二枚あった。集計は帰ってからするのだろうが、ざっと見た限り、小人を見たという回答が少なくとも六件はあった。それもすべて最近の話だった。
九十二分の六というのがどの程度意味を持つ数字なのか分からないが、心霊現象に遭遇したことがあるという人自体が恐らく全体の半分以下だったはずなので、その中での六件と考えると十分多い気がした。
心霊現象と聞いて思い浮かぶのは、普通は幽霊や心霊写真、ラップ音などだろう。これほど小人の目撃が最近になって増えているというのは、一体どういうことなのか。
「おい。ぼうっとすんな。終わったらさっさと引き上げだ」
師匠にせかされて、また公衆トイレに向かう。脱ぎ終わるとそれらをすべて段ボールに押し込んだ。
その蓋をしようとした時に、ふと手が止まり変に感慨深い思いに駆られる。たかが怪談話を聞くのに、ここまでしようというモチベーションが師匠にはある。そこは今の僕には確実に欠けているところだろう。
けれどその師匠の行動を思うと、不思議と胸が高鳴る自分がいる。なにをするか、見ていたい。そう思うのだ。
「お。お疲れ。弁当食うか」
僕がトイレから出てくると、師匠は自分の荷物から銀紙に包まれたものを取り出した。おにぎりだった。
アーケードから離れ、近くにあった小さな公園に腰を下ろす。
午後二時過ぎの公園には何組かのカップルと、子どもが数人、思い思いの格好でベンチや砂場に座り込んでいる。
「でも、あれですね。確かに小人を見たって人、結構いましたね」
具が入っていなかったことに顔をしかめながらそう言うと、師匠は「そうだな」と別のことを考えているかのように生返事で、海苔を巻いただけのおにぎりを黙々と食べ続ける。
「そういえば、最後の質問はなんだったんですかね」
アンケート用紙の最後に、『最近、愛用のコップに異変がありましたか?』という奇妙な設問があった。
僕が受け持った人では、誰もはいにチェックを入れていなかった。気になったので、回収した回答用紙を数えた時にざっとその部分を見ていたが、師匠の方にもはい、と答えた人はいなかったようだ。
本当は小人のことを訊きたかっただけなので、ただのスペースの穴埋めかも知れないと思ったが、それにしては内容が妙だった。
「あれは、まあ、期待してはいなかったけど、ゼロってのはな。でもこうなる気はしてたから、他のあてもあるんだ」
師匠はよく分からないことを言って一人で頷いている。
「よし、食ったら行こう。次だ」
「え、ちょっと待って下さい」
立ち上がった師匠に慌て、僕はおにぎりの残りを口に放り込む。
「次はどこなんです」
「医学部だ」
再び自転車に二人乗りをする。
僕と師匠が通う大学にはキャンパスが複数あり、医学部は同じ市内でも少し離れた場所にあった。僕らのキャンパスから自転車で二十分程度の距離だったが、そちらに行く用事もなくほとんど馴染みがない。
サークルもキャンパスごとに存在していたので、それぞれでほぼ完結してしまっている。
「医学部になんの用なんです」
「助教授に知り合いがいてな。訊きたいことがあるんだ」
知り合いか。師匠はやたら大学の教授や助教授に知り合いが多い。自分のゼミの教官ならば当然だが、他学科どころか他学部にまでそのネットワークを広げている。
おっさん殺しと僕は密かに陰口を叩いているが、何かを調べるにもその道の専門家に直接聞けるのだから、正確だし時間の無駄がない。
その人脈、というよりも、一介の学生の身分で他学部の分野にまでそれほど調べたいことがあるというのが、むしろ特異的なのかも知れない。
「あっちあっち」
不慣れなキャンパスの入り口を間違えかけて師匠に誘導される。
平日なので、キャンパスの中には学生の姿が多く見られた。その彼らも僕と師匠の方に無遠慮な視線を向けて来る。
「そこで止めてくれ」
指示された場所で自転車を降りる。学部棟の前だった。
「今日はたぶん大学病院の方じゃないはずだけど」
師匠は一人でさっさと歩き出した。後について行こうとしたが、玄関のところでストップがかかる。
ここで待て、と言うのである。
「一緒に行ったらまずいんですか」
「まずいな。他のことならともかく、今回はデリケートな話だから。私もどうやって口を割らせようか思案中なんだ。悪いけど一人で行った方がいい」
どんな話なのか凄く気になったが、仕方がなかった。
「その助教授はなんの専門なんです」
その問いかけに、師匠は口を大げさに動かしながら小声で言った。
「精神」
じゃあ、後で。と、師匠は学部棟の階段を上って行った。
それから三十分ほど経っただろうか。僕は学部棟の入り口周辺をうろうろしていたが、医者の卵たちが頻繁に出入りしている中、まったく見知った顔がないことに疎外感を覚え、居心地の悪い気分を味わっていた。
どいつもこいつも賢そうに見えやがる。
その学生の中から、スーツ姿の師匠の姿が見えた。
「待たせたな」
心なしか疲れたような表情をしている。
「何か収穫があったんですか」と訊くと、頷いた。「でもなかなか手強かった。あの野郎、スケベだからミニスカでも穿いてくれば良かったな」
スーツの太ももを自分の右手で叩く。
「なにかされたんですか」
「あほ」
師匠は近くにあった自動販売機に向かって歩き出す。
「何を聞いて来たんですか」
追いすがると、振り返らずに小声で答える。
「幽霊の目撃談ってのは、どうしても精神障害と密接な関係があるものだ」
淡々とした口調だった。
「精神分裂病やてんかんには幻聴、幻覚の類はつきものだし、薬物中毒による幻覚も酷いものになる。精神科医にとっては、その人が幽霊を見るかどうかってのは重要なサインなんだ。私だって、そうなのかも知れない」
その言葉に僕は立ち止まった。それが分ったのか、師匠は振り向く。
「明治期の妖怪研究の泰斗、井上円了は妖怪現象をいくつかに分類した。人間が引き起こしたものを『偽怪』、幻覚や錯覚などの心理的要因によるものを『誤怪』、自然現象によるものを『仮怪』と呼んだ。
そして妖怪現象のほとんどを占めるそれらをすべて取り除き、なお残った一握りの不可解な現象を『真怪』と名付けた。
わたしが思うに、幽霊の存在を信じない人間にとっては、この世の多くの体験談はすべからく、嘘か、そうでなければ錯覚、あるいは幻覚だ。それに対し、信じている人間にとっては二つのパターンがある。
すなわち、すべての体験談は真実であるというもの。もう一つが一部の嘘や錯覚、そして幻覚の類を除いたものの中に、幽霊という真実が潜んでいる、というもの。
ただ井上円了の場合は『真怪』をその名の通りのものとは考えていなかったけどな。彼はそれを現在の物理科学、認知科学では未だ判明されざる現象、としたまでのことだ。未科学的、というやつだな。
自分の見た不可解なものがいったい何なのか、それを考える人間それぞれにそれぞれの答えがあるだろう。
だけどな。たとえわたしが見ているものが個人的な幻覚だとしても、それが他者と共有できるある種の形質的同一性や、再現性、あるいは不可能性を備えているならば、それはそのこと自体に意味がある。
幻覚だって? 別に幻覚でも錯覚でも何でもいいよ。とりあえず、私が死者しか知り得なかった情報をどうして知っているのか、その理由を教えてくれ」
「一度見ただけ?」
「そうだ。私が蒐集した小人目撃談には、同じ人が二度以上見たという証言が一つもなかった」
それを聞いた瞬間、ハッとした。
そうだ。その後も続けて見たというケースはなかった。
「個人につく体験ではなく、場所につく現象なんだよ。ほとんどが。私が小人について、妖怪的と言ったのにはそういう意味もあった。たった一度不思議なものをみただけで精神科へ行かないといけないなら、この街の住民の何割かは通院歴があるってことになるな」
なるほど、そういうことか。確かに一度見ただけで、そこまですることはまずないだろう。精神障害とはそうした出来事の積み重ねなのだろうから。
「それに、小人を見たという人には、ある程度の地域性はあるものの、この市内でも北の外れや西の端、中には隣町に住んでいるという人もいた」
「それが地域性じゃないんですか。十分狭い範囲だと思いますけど。関東とか、他の地方では見られない現象なんでしょう」
師匠は目を閉じて首を振る。
「もっと厳密な地域性があるんだ。精神外来で似たような症状を訴えた人たちは、市内のある地域に居住している人ばかりだ。小人目撃談と関連があるのなら、むしろこちらが原因なんだ。
ある特定の地域に起こる現象だからこそ、そこに住む住民か、もしくはその周辺の住民がそこを訪れた時にのみ目撃されるんだよ」
だから小人を見たという人の住んでいる地域には多少のブレがあるんだ、と師匠は確認するように言った。
胸のあたりが不安定にざわめく。
ただ小人を見た、という話を師匠は別の視点で見ている。それがなんなのか考えようとするが、僕の思考はそこで止まる。なにか恐ろしいものがその奥に潜んでいる気がして。
「いったい、どんな症状なんです。その精神外来で増えたというのは」
我知らず、声がかすれた。
明らかに小人目撃談と関連がある。なのに、小人を見る、という症状ではない。
師匠はもったいぶった表情で「すぐに分かる」とだけ言うと、缶ジュースを持ったまま自転車を止めてある方へ歩き出した。
「次は大学病院だ」
そんな気はしていたが、本当に行くつもりなのか。そんなデリケートな患者に会うなんてことが出来るのだろうか。
「そんな顔するな。実は精神外来だけじゃなく、入院患者にも同じ症状を訴える人が少ないながらもいるらしいんだ。このあたりもその限られた地域に入っているからなんだが。
さすがに精神の入院病床は敷居が高いが、それ以外の病床の患者の中にもそういう訴えをする人がいてな。さっきのセンセイが診察をしてるんだ。どの病室の誰かってのを喋らせるのに骨が折れた」
そんなことを一般人に漏らして良いものだろうか。どう考えても患者のプライバシーを侵害している。
「まあ、あのセンセイも直感でなにか良くないことが起こりつつあるってのを感じてるんじゃないか。そして自分の立場では対症療法に徹するしかないということも。それでは、何か取り返しのつかないことが起こるかも知れないという、漠然とした不安があるんだよ」
師匠は僕が跨った自転車の後輪の車軸に片足をかけながら、言葉を切った。
この謎を解けるのはわたしだけだ。
沈黙の中にそう言った気がした。