それから僕らは二人で温泉旅館『田中屋』を皮切りに、その近くにあった他の温泉をいくつかハシゴした。
どの温泉も入浴のみの客でもOKだった。
入浴料を払って汗を流し、新しい服に着替えてから旅館の人をつかまえてそれとなく『とかの』の噂を訊き込んだ。
最初はあたりさわりのないことを言っていた古参ぽい従業員も、しつこく話しかけているとまんざらでもないらしく、だんだんとくだけてきて、声をひそめながら、『とかの』に関するゴシップを垂れ流しはじめた。
やはり旅館同士の仲は相当に悪いようだ。その中に例の幽霊騒ぎに関するものもあった。
「呪われてるって話ですよ」
二軒目の『松ノ木温泉旅館』では、女将らしい人がそう耳打ちしてくれた。
なんでも『とかの』の初代オーナーがあの土地を買うときに、そこに古くからあった祠を壊してしまったらしい。その祟りだと言うのだ。
しかし、どうして神主が? そう思って訊き返すと、「そりゃあ……」と言いかけた後、考えてもみなかったのか「まあ、ここから出て行けってことですわね」と適当に一人で仕舞いをつけてしまった。
眉唾物の話ではあったが、確かに旅館を建てる前のことはあまり確認していなかったことに気づいた。そこになにか曰くがあるのだろうか。
師匠はそんな話を面白そうに聞いている。
温泉に浸かり過ぎて身体がふやけ始めたころ、三軒めの旅館を出てから師匠が言った。
「よし。もう戻ろう」
「いいんですか。この先にあと一軒あるみたいですけど」
「わたしはもういいよ。まだ入りたいなら、先帰っとく」
「いや、僕も帰りますよ」
どの温泉旅館も『とかの』を良く思っていないのは間違いないようだ。
幽霊騒ぎについても噂に尾ひれをつけようとしているのが垣間見えた。
しかし、残念ながらその幽霊の謎について核心に迫るような証言は得られなかった。
師匠はそれを残念がる様子もなく、ほんのり赤くなった顔で口笛を吹きながら気さくに泊り客に挨拶などしている。
僕らが旅館の前に止めてあった自転車に乗ろうとすると、ぽつりと頬に水滴が落ちた。
いつの間にか空は曇っている。「降りそうだな。急ごう」師匠が空を見上げながら手のひらを胸の前で掬うように広げてそう言う。
それから二人して来た道を全力で飛ばしたが、だんだんと雨の粒が大きくなり、『とかの』に帰り着いたときにはちょっとした小雨になっていた。
「あー、もう」
自転車を駐車場に戻し、師匠が濡れた髪の毛をかき上げながら悪態をつく。
せっかく温泉に入って温まって来たところだというのに、もう冬の氷雨の洗礼を受けてしまった。
袖口から水滴の滴る二人で並んで歩いていると、それでもなんだか楽しい。
「いま何時? 四時過ぎか。まだ少し時間があるな」
師匠はそう言いながら玄関ロビーに向かう。
「時間って、なんのです?」
「決まってるだろ。暮れ六つだよ」
お楽しみの対決の時間だ。
師匠はそう言ってほくそ笑む。
暮れ六つか。僕は今朝の明け六つのときの恐ろしい出来事が自然と脳裏に蘇り、足がすくむ思いがした。
ロビーのフロントには広子さんが立っていて、なにか帳面に書き付けているところだった。
「あ、お帰りぃ。雨降ってた?」
「このざまを見てのとおり」と師匠は笑いながら両手を広げて濡れた服を見せる。
「女将は?」
「大浴場の方だと思う。左官屋さんが来てるから」
「そうか。お、ありがとう」
広子さんが出してくれたタオルを受けとる。その広子さんは大袈裟な身振りで師匠に耳打ちする真似をした。
「ねえ。うちのお父さん、かなりカリカリしてるよ。あんたたちが他の温泉に浸かりに行ったって聞いたから。噴火寸前って感じ」
聞いた、ってそれを告げ口できたの一人しかいないじゃないですか。
「こわ。必要な情報収集活動なんだけどな」と師匠。
冗談じゃない!
僕は首を竦めてキョロキョロとあたりを見回す。周囲には勘介さんの影は見えない。
「そうそう。その情報収集であった収穫なんだけど、この旅館が建つ前にこの土地に祠(ほこら)があったんだって?」
広子さんはそれを聞いてきょとんとしていたが、やがて「あー」と思い出したような顔で頷く。
「あのお堂のことでしょ。ぼろいやつ。駐車場の裏手にあるけど、あれが確か旅館建てるときに場所を移したってやつだったと思う」
駐車場の裏手のお堂なら昨日見回りをした時に見た気がする。中に石が祀られていたはずだ。
「もう一回見てくる」
師匠がそう言うので僕もついていく。
借りた傘をさし、小雨が降り続く旅館の外へ出て、駐車場の方へ向かう。
その敷地の隅に、朽ち果てたような木造の小さなお堂がひっそりと佇んでいた。
覗き込むと、小さな紙垂(しで)のついた格子戸の向こうに石が安置されているのが見える。
どうするのかと思っていると、師匠がいきなりその格子戸に手を伸ばして手前に開いた。そして無造作に石を掴み出す。
紙垂のついた格子戸は明らかに神域と外界とを分かつ境界だ。その意味を知りながら平然とそれを破るあたりがこの人らしい。
いつかこの人が死んで人々に害を成す悪霊にでもなったら、止める手段があるんだろうかと、僕はそんなことをぼんやりと思った。
「字が書いてあるな」
覗き込むと、石の表面に小さな文字が数行にわたって彫られている。苔むしていることと、古い字体のせいでほとんど読めなかったが、かろうじて「とかの」という平仮名が含まれているのは分かった。
ふんふん、と頷いてから師匠は石を元に戻した。読めたのだろうか。
「なんて書いてあったんです」
「神様に代わってこの地を守るってさ。御神体としては大して珍しいものじゃないよ。」
あんまり時間がなくなってきたな。
師匠はそう呟くと玄関の方へ引き返した。それからフロントのあたりで拭き掃除をしていた広子さんに「電話貸してね」と声をかける。
そしてたった二日しかいないのに、すでに勝手知ったる他人の家、とばかりにフロントの奥の事務所に入り込んでいく。
胸ポケットから手帳を取り出して、それを見ながらダイアルをする。
「あ、教授? わたしだけど、昨日頼んだの、分かった? え?」
声が遠かったのか、電話機の音量を上げながら師匠は続ける。
「うん。うん。ああ、神社明細帳とか大小神社取調べとか、そのあたりのはもういいよ。別で分かったから。
で、古いのではどう? うん。うん。…………あったの? まじで? 延喜式にあった? えっ地誌? うん。……うん。延喜式の八十五座って畿内だけだっけ。そうか。やっぱり式台社じゃないか。
でもさっすが、そんなめんどくさそうなとこに潜ってってなんとかなるなんて」
声が大きくなってきたところで、近づきすぎた僕の視線に気づき、師匠は「しっしっ」と虫を払うように手を振ると電話機を隠すように背中を向けた。
仕方なく少し遠ざかる。
師匠が小声になったので、何を喋っているのか聞き取れなくなってしまった。
しかし多分、相手の教授というのはうちの大学の長野教授のことだろうというのは推測できた。
神道や神社に関しては一家言持つその道の大家の一人だ。指導教官でもないのに、師匠はその長野教授と普段から親密なやりとりをしていて、良く言えば教えを乞い、悪く言えば便利使いしているのだった。
どうやって取り入ったのかは知らないが、ほとんどタメ口を利いている。こっちがハラハラするくらいだった。
話している内容が気になるので耳をそばだてていると、いくつかの単語が細切れに聞こえてくる。
『女将』
『神社』
……
あとはほとんど聞き取れなかった。
「どうもありがと。お礼はいずれ、精神的に返すから」
師匠は頭を軽く下げて受話器を置いた。そして「あー」と言いながら両手を挙げて伸びをした。
「順調だなあ」
なにが順調なのか分からない僕は、どうしても気になることを尋ねる。
「女将がどうかしたんですか」
やたらと女将のことを話していたように聞こえたのだが、その理由が分からなかった。
「どうしたもなにも……」
犯人だよ。
そう囁いて、師匠は何ごともなかったかのように手を叩くと「さあ、準備準備」と僕を急き立てようとした。
訳が分からず「ちょっと待ってくださいよ」と抵抗しようとしたとき、さっき切ったばかりの電話が鳴り始めた。間髪入れずに師匠が受話器を取り上げる。
「わたしだけど、なにか言い忘れ? ……って、あちゃあ。ごめんなさぁい。間違えました。そうです。旅館とかのですぅ」
旅館にかかってきた電話らしい。師匠は慌てて取り繕っている。
『こっちこそごめんなさい。家の方にかけたんですけど、だれも出なくて。あの、楓ちゃんいますか』
若い女性の声が受話器から漏れている。
「ああ、楓さんですね。ちょっと待ってください」
喋りながら師匠がさっき上げ過ぎた電話機の音量を調節すると、相手の声は聞こえなくなった。
「広子さぁん。楓ちゃん、まだ帰ってないよね」フロントの方に向かって大声でそう確認してから、また受話器に向きあう。
「遊びに出かけていて、今いないんですよ。ごめんなさいね。うん。うん。……あ、じゃあ伝言しておくから」
師匠は卓上メモに走り書きをする。
「え? わたし? 新しい仲居ですよぅ。ゆかりって言います。よろしくお願いします」
適当なことを言っている。
「あ、最後に名前伺っておいていいですか」
師匠がそう言って、頷きながらボールペンを走らせていると、ふいにピタリとそのペン先が止まった。
「わかりました。それでは失礼します」
なにごともなかったかのように挨拶をして電話を切った師匠だったが、その顔を見た瞬間、僕はなにかぞくりとするものを感じた。俯いたまま口角を上げているその薄ら笑いのような表情に、ちりちりと周囲の空気が青く燃えるような錯覚をおぼえたのだ。
「あ~あ。でき過ぎだ。全部埋まっちゃったよ」
パズルの、最後のピースまで。
そう呟いて師匠はゆっくりと顔を上げた。
◆
霧雨のような細い雨粒が、旅館の屋根を音もなく叩いている。
外はもう暗い。まだ晩の六時になっていなかったが、雨雲が空を覆い、夕焼けの残滓ももうどこにもなかった。
日が落ちてから、ますます冷え込みが激しい。ここ一週間では一番の寒さだろう。僕は震えながら両腕を抱えると、散策していた中庭から建物の中に戻った。
旅館の中も、昨日よりもほんのりと肌寒さを感じた。客がいないので、暖房の設定温度を落としているらしい。客に相当する僕と師匠はいるのだが、勘介さんあたりが「あいつらは客じゃねえんだ」と無理やり温度を下げたのかも知れない。
一階のフロアの奥に向かうと、宴会場にも使われる大広間の前に全員が集まっていた。
女将の千代子さん、番頭の勘介さんと仲居の広子さんの親子。女将の娘の楓。そしてさっき楓をバイクで送ってきたばかりの若宮神社の次男坊、和雄。
この五人に、僕と師匠を加えた合計七人が今この旅館にいるすべての人間だった。
「なにが始まるんです」
和雄が僕に問い掛けてくる。デートはそれなりに上手くいったらしい。機嫌が良さそうだ。楓の方も、和雄の策略を知って知らずか、まずまず楽しかったようだ。表情が柔らかい。
「謎解きだと本人は言ってましたが」
そう答えて、他の人と同じように閉じられたままの襖を見つめる。中では師匠が『準備』とやらをしているらしい。
僕も最初だけ手伝ったので、中がどうなっているのか大体は分かっているのだが、なにをしようとしているのかまでは分からなかった。
「大丈夫でしょうか」
女将は戸惑った表情を浮かべて落ち着かない様子だった。
勘介さんはムッスリと押し黙って腕組みをしている。広子さんと楓は顔を寄せ合って何ごとか話をしていた。
また腕時計を見た。
六時までもう少しだ。暮れ六つを過ぎると、そこからは僕らのよく知るこの世の理が少し変わってしまう。なにが起こるか分からない、人の世の境界の外なのだ。
特に、時の鐘が聞こえるこの土地では。
僕は事務所での師匠とのやりとりのことを思い浮かべた。師匠は確かに女将が犯人だと言った。あれはどういうことなのだろうか。
幽霊は本物だ。遭遇した僕には分かる。人間のイタズラなんかじゃない。なのに、女将がこの幽霊騒動の犯人だというのか。
考えてもよく分からない。あるいは、なにか幽霊の出るようになった原因があり、その鍵を女将が握っているということか。
そっと隣にいる女将の横顔を盗み見る。
娘の楓とよく似ている。綺麗な人だ。夫と死に別れているそうだが、独り身になってから言い寄る男の一人や二人はいただろう。その誘いを断り、女手一つで旅館を切り盛りしながら子どもを育ててきたのだ。
その華奢に見える身体に、どれほどの覚悟が詰まっていることか。
覚悟か。
ふいに、左官屋を呼んだという話を思い出した。僕と師匠が温泉めぐりから帰って来たとき、女将は左官屋と大浴場の方で打ち合わせをしていた。浴場の壁を直したいらしい。
壁……
壁に死体を塗り込める話があったな。
いやな想像が浮かんでくる。僕は頭を振って冷静さを取り戻そうとした。
そうしていると、僕らの目の前で、閉ざされていた大広間の襖がゆっくりと開いた。
「お待たせしました。どうぞ」
師匠が神妙な顔をして左手を広げ、みんなを奥へと誘う。全員が広間に入ったところで師匠が襖を閉めた。
ざわめきが起こる。
畳敷きの大広間の真ん中には注連縄が張られていた。およそ五メートル四方を囲む縄が、天井から糸で吊られて宙に浮いている。
ちょうど胸元くらいの高さで、さっき二人で手分けして半紙から作った紙垂も等間隔につけられている。
言うまでもなく、注連縄は結界の役割を果たすものだ。神域を表し、悪しきものの侵入を拒む境界。
それを、今ここで用意する意味とは、いったいなんだ。わざわざ若宮神社から借りてきてまで。
「なにをしようというのです」女将が師匠に歩み寄る。「神式のお祓いならば、これまでもまったく効き目がございませんでしたのに」
「黙って見ていれば、いい気になりおって」
勘介さんが顔を赤くしながら腕組みを解く。とうとう噴火が始まりそうだった。依頼をした女将の手前、抑えてきた癇癪がついに。
思わず僕はしり込みをした。
「ちょっと、お父さん」広子さんがその前に立ちふさがる。相当に危険な雰囲気だった。
「お静かに」
そんなことにはお構いなく、師匠は短くそう言い放つと、頭を下げて注連縄をくぐった。
「暮れ六つが始まるまで、時間がありません。みなさん、速やかにこの中に入ってください」
振り返りながらそう告げる。
「まあまあ。とりあえず言うとおりにしてみようよ」
楓が師匠と同じように頭を下げながら注連縄の内側に入り込む。それにつられるように他の人たちも次々と腰を屈めて中に入っていった。もちろんこの僕も。
最後に残った勘介さんが、鼻息も荒く元の場所に仁王立ちしている。
「クソガキが、なにをふざけたこと言ってやがる」
それを見た和雄が冗談めかして声をかけた。
「勘介さん。注連縄の中に入らないと、危険ですよ。たぶん」
広子さんもそれに同調して同じことを言いながら「お父さんってば」と手招きをしている。
「危険?」
師匠が薄ら笑いを浮かべながら口を開く。
「危険なのは、この内側の方ですよ」
そうして畳の上を指さした。全員が息を飲んだ気配がする。
針だ。
畳の上に針がつき立てられている。それも膨大な量だ。女将に用意してもらった針を、こんな形で使うとは。僕も今知って驚いた。
「この針で囲われた空間に入ってください。跨いでもかまいません」
よく見ると、針は円を描くように並べられている。人一人が十分に座れる大きさだ。数えると、その円が注連縄の内側に全部で七つあった。人数分というわけか。
「井口さんはこのまま外にいてもいいですよ。ただし、これから先なにが起こっても、この注連縄の中には入ってこないでください」
師匠は針の上を跨いで、円の内側に入り込んだ。その緊張したような声色に引っ張られるように、他のみんなもそれぞれ畳に刺さった針の円に入る。勘介さんだけは「ふん」と鼻で笑い、その場でそっぽを向いてしまった。
六人が注連縄の中、一人が外。
大広間の中は、これからなにが起こるのか固唾を飲んで見守る雰囲気になっている。
「さあ、そろそろですね」
師匠が時計を見ながらそう言う。
それからほどなくして、遠くから鐘の音が聞こえ始めた。澄んだ冬の空気を震わせて、遠い若宮神社から聞こえてくる時の鐘が。
十秒ほどの間を空けて、鐘の音は休まず続く。二回目。三回目……
最初の三回は捨て鐘。そして次からが暮れ六つだ。
四回目。五回目。六回目……
室内にいる誰もが押し黙っている。ただ微かに聞こえる鐘の音に耳を澄まして息を飲んでいた。
七回目。八回目。九回目……
最後の鐘が鳴り止んで、その余韻が耳の奥にわずかに残り、幻のように反響している。
「さて」
師匠が口を開く。一番奥の円にいて、ただ一人こちらを向いている。他の僕たちと向かい合う格好だ。
「暮れ六つが鳴り終わりました。ここからは幽世(かくりよ)のうちにある時間帯です。そこでは人はとてもか弱い存在です。現世(うつしよ)のものならぬモノたちが、ほんのひと撫でするだけで命の灯火が消えてしまうような……
くれぐれもお気をつけください。これからなにが起こっても決して我を無くし、この針の結界から出るようなことをしてはいけません」
いいですね?
師匠は囁くような声でそう言った。
みんな静かに聞き入っていて、素直に頷いている。なんだか僕もぞくぞくしてきた。
もったいぶるのは師匠の常だったが、今日は特に念が入っている。
「わたしは、この温泉旅館に出るという神主姿の幽霊の問題を解決するために呼ばれました。依頼を受けた時点では半信半疑でしたが、実際にこちらにやってきて、幽霊を見たという人の話を直に聴き取り、現地を見て回った後の印象は違いました。
ここにはなにかがいます。確実に、この世のものではないなにかが。それがなんであるのかを確かめ、どうすれば出なくなるのか、その方法を探る。それを成し遂げるためにこの二日間がありました。
まず第一のヒントは神主姿であるということ。ここからすべてが始まります。
しかし、この地域唯一の神社である若宮神社では、そんな幽霊に全く心当たりはなかった。
それどころか、宮司が出向いてきて御祓いを行ってもその出現が止むことはなかった。お寺に頼んでもそれは同様でした。よほど強い怨念を抱いている霊だったのでしょうか。いいえ。なにか違う気がします。
その神主姿の幽霊は、これまで人に危害を加えるような実害を成していません。訴えたいことがあるのかも判然としない状態です。どちらかというと、そのへんのどこにでもいる、弱々しい浮遊霊のような現れ方です。
しかし一年近くにわたって、同じ建物で頻繁に目撃されているというところには、なにか執着心というか、執念のようなものを感じます。ちぐはぐです。実にちぐはぐなのです」
師匠は首を左右に振る。そしてその場に腰を落とし、他のみんなにも座るようにとジェスチャーをした。長くなると言いたいのだろう。
それぞれ思い思いの格好で、針の円の中に座り込む。
「わたしは神職や僧侶のように、霊を祓い、魔を打ち破るようなことはできません。しかし、あらゆる存在には因果というものがあります。その目に見えない因果の糸を解けば、自ずと解決への道が見えてくるものです。みなさん」
師匠は静かな声でこちらに呼びかけてくる。
「みなさんの中に、この『とかの』で神主の霊を見た、あるいはどんな形でも遭遇した、という方がいたら手を挙げてください」
自分も手を挙げながら周囲を見ると、みんな手を挙げていた。師匠を除いて。
おかしかったのは、注連縄の外の勘介さんまで畳の上に胡坐をかいたまま仏頂面で右手をぴょこんと挙げていたことだ。見ているだけで思わず笑ってしまいそうになる。
「いいでしょう。広子さんと勘介さんはどんな風に遭遇したのか詳しくお聞きしていませんでしたね。ここでお話しいただけませんか」
そう言えば昨日みんなの話を聞いて回った時に、広子さんは「見てない」と言っていたことを思い出した。なぜか嘘をついていて、本当は見たことがあったのだろうか。
「いやあ。私のはたぶん見間違えって言うか。まあ、その、炊事場で一人で洗い物している時にスーッて後ろを誰かが通った気がしたんですよね。あれっ、と思ってそっち見たら、出入り口のトコに一瞬だけ後ろ姿が見えたんですよ」
それが神主が着るような服装だった気がする、というのだ。
後で旅館のみんなに聞いても、誰も炊事場には近づかなかったという。それで気味が悪くなって、しばらくはおっかなびっくり仕事をしていた。怖いものだから、自分でもなにか見間違いだと思い込むようにしていたそうだ。
勘介さんの方は不機嫌さを隠そうともしないボソボソとした声だったが、どうやら数回見ているらしいということが分かった。
一人でいる時に、目の前を半透明の人間が通ったというケースが多かったが、他の仲居と一緒に片付け物をしている時に、二人で同時に目撃したという話もあった。
すぐ目の前で、誰もいないはずの柱の影から音もなく人影が現れて、廊下の奥へ消えていったというのだ。
二人以上の人間に目撃される例は又聞きの噂としてはあったが、実際に体験した本人が喋るとそれとは違った臨場感があった。
女将も何度か見たとは言っていたが、すべての体験談を聞いたわけではなかったので、続けて話してもらう。
「私が最初に見ましたのは、春先だったと思いますが、夜中に事務所で一人書き物をしておりましたところ、なにかの気配を感じましてふと顔を上げますと、目の前の壁の中に、その、人の姿を見たのです。ええ。壁の中でした」
その人影は神主のような格好をしていたという。悲鳴を上げ、椅子から転げ落ちそうになって慌てて机の縁につかまると、いつの間にかその壁の中の霊は見えなくなっていたのだそうだ。
その後も女将は何度か神主姿の霊を目撃していた。現れ方は様々で一様ではなかったが、共通しているのは、なにか訴えかけられるようなものを全く感じなかったということだけだった。
楓と和雄の体験談は昨日聞いたとおりだ。
楓は客室の膳を下げている時に廊下の外に神主の霊が佇んでいるのを見ている。和雄の方は露天風呂に入っている時に遭遇していた。
そしてこの僕も、今朝恐ろしい目にあったばかりだった。その時のことを思い出してしまい、身震いする。
「なるほど。みなさん、それぞれになんらかの体験をしている。しかし女将と勘介さんは複数回見ていますが、他の方はみんな一度だけの遭遇です。少なくとも知覚しているものは。
一年ほど前から現れるようになった幽霊が、ここでずっと働いている広子さんに対して一度だけしか姿を見せていない。これはかなり低い頻度です。
出るようになったのは一年ほど前から、と聞きましたが、正確にはいつごろか分かりますか。これは推測ですが、女将が最初に見たという、春先ごろが最初ではないですか」
話を振られた女将は怪訝な顔で首を傾げる。
「あー、でもそのころかも。噂が出始めたの」と広子さんが言った。
「ということは、いちにいさん…… 九ヵ月か十ヵ月というところですか。まあ一年弱という表現でもいいでしょう。この期間、覚えておいてください。さて、その個人単位で考えると遭遇頻度の低い幽霊ですが、今日、これから、この場に現れます」
ええ?
そんな声が上がった。僕も少し驚いた。そんなことをあっさり断言するなんて。
しかし師匠は平然と続ける。
「様々な要因が重なり、その確率は極めて高いと言えます。そうでなくてはこうしてみなさんに集まっていただいた意味もありません。その出現要因はいくつもありますが、例えばまず暮れ六つを過ぎた時間帯であるということ。
これは大きな問題です。それよりも早く現れたケースはこれまでありません。そしてそれは暮れ六つの意味を理解した存在であるということを同時に指し示しています。
次に、噂をすれば影、という言葉があるように、わたしの経験上、霊体は己に興味を示し、その存在を肯定する者の前に現れやすいという傾向があります。
その噂の内容は怯えであったり、からかいであったりと様々ですが、今わたしたちがこうして話をしていることがその出現を誘発しうるというということです。
そしてなにより、この場にわたしがいるということ。また、この場でわたしの次に霊感の強い助手のこいつがいるということも要因の一つです」
師匠の広げた手で紹介される形になり、思わず「どうも」と照れ隠しにみんなに頭を下げた。なにか変な気持ちだ。
しかし師匠は暗に自分の霊感の強力さを自負するような言い回しをしているのに気づいた。
これだけ言ってなにも出なければ大恥を晒すことになるが、それを承知で自分を追い込んでいるのだろうか。
「それら多くの要因の中で、非常に重要度の高いものが二つあります。それは今この場に揃っている、ある特別な条件です。そのために、これから間違いなく神主姿の霊は出ます。
約束してください。もし出現しても、けっして動かないで下さい。その針の結界の外には出ないように」
僕は改めて針を見た。どれもかなり長い。良く見ると、畳に刺さっているのは穴のある側だ。尖った方が上を向いている。もしバランスを崩して針の列の上に転んだら、と思うとゾッとする。
「では、これを見てください」
師匠はズボンのポケットから折り畳んだ半紙を取り出した。広げると、そこには漢字が一文字だけ大きく書かれている。
雨冠。その下に口が三つ横に並び、さらにその下に「龍」の文字。
「これは昨日、裏山の谷底で見つけた石に彫られていた文字です。裏山には若宮神社の分社などなんらかの社の類はない、とみなさん口を揃えておっしゃいましたが、これはいったいなんだと思いますか」
「あ」という声が上がった。和雄だ。なにか気づいたようだ。
「祭祀的な役割のものではなくても、山道の路傍にこうした文字を彫った石を置くことはあります。一里塚のような道標がそうですね。しかし、この見慣れない文字はどうでしょう。一体なにを表しているものなのか……」
師匠は針の円の中に胡坐をかいたまま半紙をひらひらと揺らす。
そのとき、一瞬なにか聞こえた気がした。なんだろう。気のせいだろうか。
「その謎を解くには、まず亀ヶ淵という溜め池の話をしなくてはなりません。みなさんご存知のように、戦国武将である高橋永熾がこの地に侵攻してきたときに領土としての価値を高めるため、水瓶として造ったものです。
元々その場所には沼地があり、その地名が溜め池の名前になったものです。ところがここには実はもう一つの名前があります。
ショウガブチという名前をお聞きになったことがありますか。今や地元の人間ですら知らない、文献にだけ現れる古い古い読み方です。しかしいつからそう呼ばれなくなったのか、推測することができます。
もちろん、溜め池の完成というエポックメーキングのときからですよ。新しい用水路。新しい農法。この周辺で暮らす人々の生活を変えてしまったとき、古いものがひっそりと消えていったのです。
そしてそれは、高橋永熾がもたらしたもう一つのものにも当てはまります」
りん……
ふいに耳にそんな音が入った。なんだ。いまの音は。
僕にだけ聞えたのだろうか。思わず周囲を見たが、特に異変めいたものは見当たらない。
しかし、ざわざわと胸のあたりにざわめくものがあった。
師匠は平然として説明を続け、みんなその一言ひとことに自然と耳がそらせなくなっていった。