あの夏を迎えてから、僕は少しずつナナシが変わっていくような気がしていた。
アパートでの豹変振りはもちろん驚いたが、窓の向こうの「もの」を見たときの、ナナシの表情や言葉が、明らかに今までのナナシとは違っていた。
でも僕は、なにがどう違うのかがはっきりと言葉にできなかった。
もともとナナシは普段は明るくてクラスの人気者だったが、どこか大人びているというか、ときに冷静で、なにか揉め事がおきてもヘラヘラと笑いながら、でもいつのまにか事態を円く収めていた。
そうだ、そんなどこか不思議なやつだったから、ああいう言動や表情も、きっと僕が今まで知らなかっただけなんだろう。
僕はそう思い込むことにした。
そんな中、僕らのクラスでは席替えをすることになった。
僕は廊下側の後ろから二番目の席になった。
偶然にもナナシは僕の後ろだったので、「また手紙回せるな」と二人でニヤニヤ笑っていた。
そして、僕の隣にアキヤマさんが座った。
僕は心臓が縮れるような感覚を覚えた。
委員長は残念ながら離れてしまったけど、またアキヤマさんも一緒に手紙を回したり、話をしたりできる。
そう思うとなんだか嬉しくて仕方なかった。
「ああ、またいっしょだね。」
アキヤマさんが言った。
僕は小さな声で「そうだね」と答えることしかできなかった。
そんな僕に、早速ナナシが手紙を回してきた。
数学のノートの切れ端でできたその手紙には、
「おまえ、アキヤマのこと好きなんだろ?」
と直球に書かれていた。
僕は顔が茹蛸のように赤くなるのが自分でもわかった。
確かに、隣の席になれたのは嬉しかった。
でも、そのとき僕はそこまで考えていなかった、否、自分の気持ちに気付いていなかった。
「何言ってんだ馬鹿」
そう書いて手紙を回した。
するとアキヤマさんが不服そうな顔をして、
「何?今日はあたしは仲間外れなんだ?」
と僕に言った。
違う、そうじゃないといいたかった。
だが、手紙の中身は見せることはできない。
見られたら最後、僕は学校を飛び出して歩道橋から身を投げるしかない。
今思えばそれこそ馬鹿みたいな話だが、本気でそう思っていた。
「そうじゃ、ないんだけど・・」
僕は言葉を濁した。
ナナシがヘラヘラといつもにように笑ってるのが見えなくてもわかって、すごく嫌だった。
「まあ、いいけどね」
アキヤマさんはそういうと僕から目線を逸らし、ノートに向かってしまった。
ひどく情けない気持ちでいっぱいだった。
そいて沸沸とナナシへの怒りがこみあげてきた。
休み時間になり、僕はナナシを陸上部の部室の部室に呼び出した。
今日の鍵当番は僕だったので、話をするにはもってこいだった。
「なんだよ」
ナナシは相変わらずヘラヘラ」して言った。
「なんだよ、じゃないだろ。おまえのせいで僕は今日死にたくなったよ!どんだけ恥ずかしかったか!」
「まあアキヤマは競争率高いからなー」
「ナナシ!」
話を聞かないナナシに僕は本気でカチンときた。
しかしナナシはそ知らぬ顔で
――否、あのニンマリとした表情で、僕を見た。
「アキヤマがいかに難しいオンナか、おまえにわからせてやるよ」
ナナシはそう言うと、僕の手を引いて歩き出した。
つれていかれるままについたのは、アキヤマさんの靴箱のまえだった。
「なんだよ!ラブレターでも書けって言うのか!」
僕はむっとして言った。
しかしナナシの表情は変わらず、
「見てみろよ」
と言うと、靴箱の扉を開けた。
「ちょ、かってにあけたら・・・・・っ」
僕は言葉を継げなかった。
アキヤマさんの靴箱から、たくさんの紙が落ちてきた。
しかしそれは、ラブレターなんてかわいいものではなかった。
「あしたあいにいきます」
「いま○○にいます」
なんていうメリーさんのようなものから、
アキヤマさん自身の無数の写真、すこし言いにくいが、その、どう見ても使用済み、のゴムなんかも靴箱には入っていた。
「これ・・・」
「恋ってのはこわいねえ。俺はゴメンだな。こんな愛情ほしくない」
ナナシは笑いながら、でも心から嫌悪したように言った。
僕もアキヤマさんも、まだ同じ中学生だというのに、こんな気持ちの悪い目にアキヤマさんが遭っているなんて、考えられなかった。否、考えたくなかった。
僕はなんとかアキヤマさんを助けてあげたいと思った。
そう思うとこの間にも、アキヤマさんはこの気持ちの悪いストーカーになにかされているかもしれない。
僕は掃除当番でまだ残っているはずのアキヤマさんが気になって、走り出そうとした。
しかし、ぐいっとなにかに手をとられた。
振り返ると、怖いくらいの無表情なナナシがいた。
「おまえ、まだわかんないの?」
ナナシは冷たい声で言った。
「後ろ見てみろ。人を好きになるのは、人間だけじゃねえぞ。」
言われて、ナナシの向こう側に目をやった。
「ひっ・・・」
僕は小さく悲鳴をあげた。
ナナシのちょうどうしろ、アキヤマさんの靴箱のまえに、人が立っていた。
否、人だったもの、というべきだ。
体は、ぼくらと同じ学生服の男の子だったが、その人は
首が折れ曲がっていた。
「あ、ああああ」
折れ曲がった首がゆっくりとこちらに向く。
その目は、燃えるように僕たちを睨みつけていた。
「ななななし、あ、あ、あれ」
「だから言ったろ。アキヤマは難しいオンナだって。」
おまえもああなりたいか?とナナシは言った。
その言葉の意味は今もよくわからないまま、多分永久にわからないだろう。
否、わかりたくもない。
振られて自殺でもしたのか、それとも・・・なんてこと。考えるのも嫌だった。
「愛情ってのは、迷惑だよな。人間をああも醜く変えちまうんだから。」
ナナシは小さく呟いた。
その言葉の本当の意味に気付くのは、もっとあとの話になる。
「さ、帰ろう」
ナナシはそう言うと僕の手を引いて、また歩きだした。
あんなものをみたあとでも、僕はアキヤマさんが心配だったが、ナナシは心配ないと笑った。
「あいつには強力なお兄様がいるからな」
ナナシがそう言ってすぐ、突然高校生らしき人が玄関から入ってきた。
僕らを一瞥するとその人は「カエデー!!かえっぞ!」と大声を出しながら階段を上がっていった。
ほらね、とナナシが笑った。
「あれには百年の恋も勝てねぇよ」
そう言うとナナシは靴箱を指差した。
あの男の子はもういなかった。
ひとをすきになるのはにんげんだけじゃない。
そんなあいじょう、おれはいらない。
ナナシはそういった。
ナナシの言葉は、今思えばとても重たい言葉だったと思う。
あのころは恐怖が先だって何も思わなかったが、今思えばあの言葉は
でもそれも、あとのまつりの話。