師匠シリーズ 第52話 追跡

師匠シリーズ 第52話 追跡

大学1回生の冬。
朝っぱらからサークルの部室でコタツに入ったまま動けなくなり、俺は早々に今日の講義のサボタージュを決め込んでいた。
何人かが入れ替わり立ち代りコンビニのビニール袋を手に現れてはコタツで暖まったあとに去って行った。
やがて一人だけになってしまい俺もやっぱり講義に出ようかなぁと考えては窓の外を眺め、その冬空に首をすくめてもう一度コタツに深く沈みこむのだった。

うとうとしていたことに気付き、軽くのびをしてそのまま後ろへ倒れ込む。
その姿勢のまま手を伸ばして頭の上の方にあるラックをゴソゴソと漁り、昔のサークルノートを引っ張り出しては読み耽っていた。
ふと、ラックの隅にノートではない小冊子を見つけた。ズルズルと引き抜く。
『追跡』
という題が表紙についている。
何かの花を象った切り絵のようなイラストが添えられているそれは、どうやら個人で作ったホッチキス止めの同人誌のようなものらしい。
A4の再生紙で60ページほどの厚さだ。
パラパラとめくってみると、中は活字ばかりだった。
……真夜中わたしの部屋の上を、巨人がまたいでいきます。
巨人は重さもなく、匂いもなく、音も出さず、透明でけして目に見えず、手に触れることもできません。
そして裏の森から、街の明かりがうっすらと光る方へしずしず、しずしずと歩くのです。……

短編小説のようだ。
『巨人』という題名がついている。
俺は何枚かページを飛ばした。
……公園で遊んでいた女の子を攫ったのはペットの犬を亡くしたからだった。
家の地下室で飼いはじめたものの、ちっとも懐かないので目を潰してみた。
すると少女はすっかり従順になり、ペットとして相応しい態度をみせはじめたのだった。
食事は一日2回。仕事に行く前と帰った後に与えた。
出入り口は一つだけ。私が現れそして消える、鍵の掛かったドア。
少女に名前はない。私はペットに名前をつけない。
2年が経った。
ふと思いついて地下室の壁に羽目殺しの窓を打ちつけた。
もちろんただの飾りだ。向こうには何もない。
少女にはこういった。
「窓の向こうは海だよ」……
なんだか気持ちが悪くなって冊子を伏せた。
さっきとは別の話のようだったが、このあと愉快な展開が待っているようには思えない。
またページを飛ばす。

今日も人間もどきを探して歩く。
人間もどきは人間のつもりなのだ。
人間のように食べて、人間のように働いて人間のように笑ったり泣いたりする。
ぼくは人間もどきを道端で、公園で、トンネルで、校舎で、ビルディングの中で、そして時々人の家の中で見つけてはそいつの耳元でこうささやくのだ。
「あなたは人間じゃないよ」
そうすると人間もどきはトロトロと溶けるように消えていく。
あとには何も残らない。
ぼくの町は随分閑散としてきた。
あと何匹の人間もどきがいるのだろう。
はやくぼくは一人になりたい。
そうすれば誰もぼくの耳元に秘密の言葉をささやくことはないから。
これは短かったので全部読んだ。
『人間もどき』という題がついている。
いずれも気味の悪い話ばかりだ。
こんな冊子を自分で作ろうなんて人間は、さぞかし根の暗い奴だろう。
俺は最後のページを開いて奥付を見た。
日付は2年前だ。発行者は「カヰ=ロアナーク」とある。
“ロアノーク島の怪”をもじっているらしいが、なるほど、趣味が分かりそうなものだ。

こんなものを作りそうな先輩を思い浮かべようとして天井を見る。
すると一人だけ浮かんだ。
サークルにはほとんど顔を出さない女性で、たまに来たと思っても持参したノートパソコンでひたすら文章を打っている。
何を書いているのかと思って覗こうとしても「エッチ」呼ばわりされて見せてくれない。
なるほど、あの人かと思いながらもう一度パラパラとページをめくってみる。
『追跡』
という表題作らしきものを冊子の中ほどに発見して手を止める。
サークルの部室で講義をサボってゴロゴロしていた男が、古い冊子を本棚に見つけて手に取るというシーンが冒頭だ。
手に取ったその冊子の題は『追跡』。
おお。メタ構造になってるぞ。
そう思って読んでいたが。
日付は2年前だ。
文章中のこの部分でぞわっと背筋を走るものがあった。
題名の一致は良い。
俺と状況が似た男が出てくるのもまあ、典型的ダメ学生を生産するサークルの体質からして偶然の範疇だろう。
だが、奥付の日付が”2年前”というのは、一体どういう一致だろう。
少しドキドキしながら読み進める。
小説はこのあと、失踪したサークルの先輩の足跡を、作中作の『追跡』に見出した主人公が、困惑しながらもそれを頼りに街へ捜索に出かけるという筋だ。
失踪したサークルの先輩とは誰なのか、詳しい描写はない。
作中作である『追跡』の具体的内容にも触れられていない。
ただそれが失踪したサークルの先輩の行く先を啓示していると、なぜか主人公は知っている。
総じて説明不足で、まるで読者を意識していないような文章だ。全く面白くない。
全く面白くないからこそ、不気味だった。

心の準備が出来るまで次のページには行かないほうが良い。
そんな一文が、左ページのラストにある。
それまでの展開とは関係なしに不自然な形で織り込まれている。
思わず手が止まる。
主人公が最初に向かう先がどこなのか、次のページに行かないと分からない。
心の準備ってなんだ?
ページをめくる手が固まる。嫌な予感がする。
次の瞬間、部室のドアをノックする音が聞こえて、飛び上がるほど驚いた。
ドアを開けて滑り込むように入ってきたのは、まさしくこの冊子の作者と推測される女性だった。
どう考えても偶然ではない。
殻から半分出たカタツムリのような変な格好の俺とコタツを一瞥して彼女は、あの人を見なかったかと言う。
あの人とは、彼女の恋人であり、俺のオカルト道の師匠でもあるサークルの先輩に他ならない。
ここには来ていないと答えると、「そう」と言い置いて立ち去ろうとする。
俺は慌てて、持っている冊子を広げながらこれを書きましたかと聞いた。
一瞬目を見開いたあと、「思い出せない理由がわかった」と言ってこちらに戻ってきた。
彼女は、説明し難い不思議な力を持っている。
それは、勘が鋭いという表現では生ぬるい、まるで予知能力とでも言うべき感性だった。
それも、エドガー=ケイシーのように予知夢のようなものを見ているらしいのだが、目が覚めるとそれを忘れてしまっている。
そして日常の中のふとした拍子にそれを思い出すのだという。
このことを端的に言い表すなら、”未来を思い出す”という奇妙な表現になってしまう。

いつだったか、街なかで傘をさして歩いている彼女を見かけたことがあった。
空は晴れていたのに。
俺は急いでコンビニに走り、ビニール傘を買った。
きっとこれから突然天気が崩れるに違いないから。
ところがいつまで経っても雨は降らず、結局ビニール傘は無駄になってしまった。
次の日たまたま彼女に会い、そのことを非難めいた口調で語ると、あっさりとこう言うのである。
「あれ、日傘」
脱力した。自分のバカさ加減に笑ってしまう。
しかしその日のニュースで、前日の紫外線量が去年の最大値を記録した日よりも多かったということを知り、驚いた。
彼女は実に不思議な人だった。
「その本、どこから出てきたの」
聞かれてラックを指さす。
彼女は「そんなとこにあったんだ」と首を傾げてから「作ったことも忘れてた」と言った。
この数日、師匠と連絡がとれない、と彼女。
え? と俺は聞き返す。
彼を探しているのに見つからず、変な胸騒ぎがするのにこれから何が起ころうとしているのか全く「思い出せない」のだと言う。
そういえば俺もここ最近彼を見ていない。曰く、携帯も通じないし車はあるのに家にいないのだそうだ。
その原因がこの本だ、と言って彼女は指をさした。
思わず取り落としそうになる。

「その日に起こることなら、前の日の夜に見てる」
でも、と彼女は続けた。
曰く、経験的に危険性が高い情報ほど、手前で知るのだと。
う○こを踏みそうになるときは二日前に見てるし、カレーうどんの汁が散るときは3日前に見てる。
骨折しそうになるときは2週間前……といった具合だ。
もっとも必ずというわけでもない。
“前倒し”が起こるのは、体調が悪いときが多いのだそうだ。
あんまり早く”思い出し”てしまうと、それが起こるまでに忘れてしまう。
「役に立たないでしょう」
役に立たなかろうが、俺のような凡人には理解できない世界の話だ。
「それ、半分は備忘録なの」
と、彼女は冊子をもう一度指さす。
彼女はこう言っているのだ。
師匠の行方がわからないというこの事態を、2年前に予知してしまっているから今は勘が働かないのだ、と。
「どんな話を書いたのか、忘れちゃったけど」
はじめて彼女は少し笑った。
俺は改めて毒物でも触るような思いでその冊子を開く。
「『追跡』って話です」
俺がこれから師匠を探しに行くという筋のようです、と言うと彼女は「ついてく」と主張した。
もちろん断る理由はない。
彼女が2年前に知ってしまったというその意味をあまり深く考えないようにした。
俺は冊子を持って部室を出る。
冬の寒空も、今は苦にならない。

心の準備が出来るまで次のページには行かないほうが良い。
という文字を3回心の中で読んでから、次のページをめくった。
「……まず、ゲームセンターのようです」
実際にある場所の名前が出てくる。
俺は彼女と二人で自転車に乗ってそこへ向かった。
街なかの大きなゲームセンターだ。
中に入り、一通り見て回るが師匠の姿はない。
『追跡』に主人公がプリクラを撮る描写があったので、一応コーナーに行ってみたが若い女性たちでごった返していて、気後れしてしまった。
それに先を読むと、結局ゲームセンターでは手掛かりはなかったということになっているので無意味だと俺は言ったが、彼女は「書いてある通りにした方がいい」と言う。
そのとき、今更ながら先に最後のオチの部分を読んだ方が早くないかと思ったのだが、彼女が「そういうことをしたと書いてるの?」と言うので首を振って諦める。
不吉な予感にドキドキしながらも、俺は俺なりにこの状況を楽しんでいたのかも知れない。
結局、連続して延々と同じメンバーでプリクラを撮っている女子高生たちにイライラしながらも順番待ちの列に並び、最後には彼女と一緒に写真におさまった。
『追跡』には主人公に女性の連れがいるとは書いてないが、まあこれくらいはいいだろう。
出てきたシールをまじまじと見ながら、俺はなんだか引っ掛かるものを感じていた。
それがなんだかわからないまま、次の場所を確認する。
「次は、雑貨屋です」
ゲームセンターから少し距離がある。
若者で溢れかえる通りだが、平日なので人手はさほどでもない。
自転車をとめて、カジュアルショップ周辺に広がるこじんまりとした地下街へと降りる。

聞いたことはあったが、来るのは初めてだった。
ファッションには疎いので今ひとつよくわからないが、とにかく流行っている雑貨屋らしい。
和洋入り混じった色とりどりのアイテムを目の端に入れながらも、師匠の姿を探す。
しかしその影はなかった。一応店員にそれとなく聞いてはみたが、首を振るだけだった。
雑貨屋でもやはり手掛かりはなかった。
溜息をついて『追跡』を閉じる。
連れが見えなくなったので探していると、カツラのコーナーにいた。
「ウィッグ」だと訂正されたが、違いはわからなかった。
彼女はその後、血糊のついたようなデザインのピコピコハンマーが気になった様子で、散々俺を待たせたあげく結局別のものを買ったようだった。
店を出るとき、ゲームセンターのときにも感じた引っ掛かりがもう一度脳裏を過ぎる。
「次は……喫茶店です」
また自転車に乗って移動する。
地球防衛軍という怪しげな店名が出てくるが、俺も彼女も知らなかったので、『追跡』の描写を頼りにそれらしき通りをウロウロした結果、ようやくビルの窓にその名前を見つけ出した。
古そうなビルの、知らない店に入るときは、階が上なほどドキドキする。
入り口のドアを開けると、やはりというか遊び心の多い内装が目に飛び込んで来た。
フィギュアやミニカー、インベーダーゲーム、そして漫画が店内狭しとならんでいる。

ともあれ店内を見回したが、常連らしき数人の客の中には師匠はいなかった。
がっかりはしない。ここではわずかな手掛かりを得られるはずだから。
腹が減っていたので、ラーメンを注文する。
『追跡』で主人公が頼むのを読んでいたので、メニューも見ずに言ったのだが本当にあったらしい。
目の前で袋入りの即席めんをマスターが開けはじめたときは、少し驚きはしたが。
待っている間、どこからか彼女が見つけてきた黒ひげ危機一髪で遊びながら、黒ひげが飛び出たら勝ちなのか負けなのか意見の食い違いで揉めていると、「出たら勝ち」と言いながらマスターがラーメンをテーブルに置いていった。
食べはじめると、足元に猫が擦り寄ってきた。
どんな店なんだ。
食べ終わって、ドンブリがどう見てもすり鉢だったことには突っ込まずにマスターを声をかける。
「ああ、そういえば3,4日前に来てた」
やはり師匠は常連だったらしい。
いい趣味をしている。
「連れがいたような気がする」
ポロリと漏らした一言に食いつく。
「いや、でもよく覚えてない」
わずかなヒントを得た。
『追跡』を確認するが、どうやらここではこれまでのようだ。諦めて店を出る。
ドアを閉めるときに、店の奥からビリヤードの玉が弾ける音が聞こえた。
「次は」
と言いながら階段を降りる足が止まる。
心の準備が出来るまで次のページには行かないほうが良い。

何度目かのこの文章をめくると、次のページにはかなり核心に近づく展開があった。
「次は、ボーリング場です」
また自転車にまたがる。
この時点で彼女に俺の推測を告げるか迷ったが、表情を変えずに自転車をこぐ姿を振り返って、思いとどまる。
やはり彼女は苦手だ。何を考えているかわからない。
自転車から降り、何度か来たことのあるボーリング場に入る。
「プレイは?」
「ここでは店員に話を聞くだけのようです」
少し、やりたそうだった。
それを尻目にカウンターに向かう。
「ああ、多分わかりますよ」
師匠の名前を告げると、あっさりと調べてくれた。茶髪の若い店員だった。
客のプライバシーなどどうでもいい程度の教育しか受けていないのだろう。
もっとも今はそれが有難かった。
しばらくすると、師匠の名前がプリントされたスコアが出てきた。
日付は3日前で、午後2時。やはり。
以前一緒にボーリングをやったとき、本名でエントリーしていたのを覚えていたのだ。
師匠のGの多いスコアなどどうでもいい。
俺と彼女の視線は、もう一人の名前に集中していた。
それはどうぶつの名前だった。
その通り、「ウサギ」という名前が師匠の横に並んでいた。

ゲームセンターから感じていた引っ掛かりがほどけていく。
プリクラ、流行の雑貨屋、ネタ系の喫茶店。
まるきりデートコースじゃないか。
そして動物の名前でエントリーするなんて、若い女性と相場が決まっている。
俺は恐る恐る彼女の顔を盗み見たが、その表情からは心中を推し量ることは出来なかった。
師匠よりもGの多い「ウサギ」のスコアから、いやらしさのようなものを感じて、思わず目を逸らした。
なんとなく二人とも無言でゲームセンターを後にする。
心の準備が出来るまで次のページには行かないほうが良い。
本当に心の準備が要った。
そして俺は、天を仰いだ。
行けと?
ラブホテルへ?
彼女をつれて?
迷いというより、腹立たしさだった。
そんな俺の混乱を知ってか知らずか、彼女は「次はどこ? 行きましょう」と言うのだ。
行き先を告げないまま、暗澹たる思いで自転車をこぐ。
ホテル街へ踏み入れた時点で、彼女もなにが起こっているかわかっただろう。
近くの駐輪場に自転車をとめて歩く。
彼女は黙ってついてくる。
その名前が、あまり下品ではなかったことなんて、なんの慰めにもならない。
あっさりと見つけた看板の前で立ち止まって俺は真横に指を伸ばした。

「で、入るの?」
いつもと変わらない声色にむしろ緊張してくる。
ジーンズのお尻に挟んで、かなりシワクチャになってきた『追跡』を広げ、「入ります」と言う。
「でも」と言いかけた俺を引っ張るように彼女は中に入っていった。
俺はこのシチュエーションに心臓をバクバクさせながらもついていく。
「205号室」と俺に言わせ、彼女は手しか見えない人から何かのカードを受け取る。
ズンズンと廊下を進み、部屋番号に明かりの点ったドアを開ける。
入るなり、バサッ、と彼女はベッドにうつ伏せに倒れこんだ。
足が疲れた、というようなことを言いながら溜息をついている。
俺はいたたまれなくなって、冗談のつもりで師匠の名前を呼びながらクロゼットや引き出しを開けていった。
枕元の小箱は、開ける気にならない。
風呂場の扉を開けたとき、一瞬、広い湯船の中に師匠の青白い顔が浮かんでいるような錯覚を覚えて眩暈がした。
そして湯気のなか、本当に湯が出っぱなしの状態になっていることに気づき、ゾクリとしながら蛇口を閉めた。
サーッと湯船から水があふれる音がする。少し、綺麗な音だった。
これは掃除担当者の閉め忘れなのか、こういうサービスなのか判断がつかなかったが、少なくともそのどちらかだと思うようにする。
部屋に戻ると、彼女がうつ伏せから仰向けになっていて、ドキッとした。
「手掛かりは?」
「髪の毛です」
風呂場でシャワーのノズルに絡み付いていた、かなり色を抜いてある茶髪をつまんでみせる。
長い髪だった。

そのあと、彼女の言葉はなかったのでそれはゴミ箱に捨てた。
「もう出ましょう。……割り勘で」
そう言いながら彼女は身を起こした。
俺が払いますと口にしたくなったが、どう考えても割り勘がここからのベストの脱出方法だった。
先払いしていた彼女に2分の1を端数まできっちり手渡し、苛立ちと気恥ずかしさで、俺は(ハイハイ、早くて悪かったね)と頭の中で繰り返しながら彼女より前を歩いてホテルを出た。
自分でもよくわからないが、どこかにあるだろう監視カメラにぶつけていたのかも知れない。
ホテル街を抜けてから、『追跡』を開いた。
「次は、レストランに向かったようです」
順番逆だろ、と思いながら言葉を吐き出した。
昼間のうちにホテルなんて、まるで金の無い学生みたいじゃないか。
いや、まさにその金の無い学生なのだった。あの人は。
レストランまであと50メートルという歩道で、血痕を見つける。
ページの中ほどにその文章を見つけたとき、一瞬足が止まった。
そして急いで自転車に乗り、レストランへの途上で血痕を探した。
あった。
街路樹の間。車道が近い。
探さなければきっと見落としていただろうそれは、とっくに乾いている。
誰の血だ?
周囲を見るが、夕暮れが近づき色褪せたような雑踏にはなんの答えもない。

ただ、わずか数メートル先から右へ折れる裏道がやけに気になった。
車が通れる幅に加え、すぐにまた直角に折れていて見通しが悪い。
人ひとりいなくなるのに、うってつけの経路じゃないか。
そんな妄想ともつかない言葉が頭の中に浮かぶ。
念のためにレストランまで行き、師匠の人相風体を告げるが店員に覚えているものはいなかった。
デートはここまでだったらしい。
確かに何かが起きている。
「続きは?」
彼女に促されて、ページをめくる。
「タクシーに乗ります」
そして俺は、運転手に「人面疽」を知っているかと聞く。
人面疽?
どうしてそんな単語がここで出てくるのか。
困惑しながらも読み進めるが、どうやらこのページはタクシーによる移動の部分しか書かれていないようだ。
風景などの無駄な描写が多い。俺たちはタクシーを止め、乗り込む。
そして運転手に人面疽を知っているかと聞いてみた。
40代がらみのその男は、「いやだなぁお客さん、怪談話は苦手なんですよ」と言って白い手袋をした左手を顔の前で振った後、「ジンメンソはよく知りませんけど、こないだお客さんから聞いた話で……」と、妙に嬉しそうにタクシーにまつわる怪談話を滔々としはじめた。
怪談好きの客と見てとってのサービスなのか、それとも元々そういう話が大好きなのかわからなかなったが、ともかく彼は延々と喋り続け、俺はなにかそこにヒントが隠れているのかと真剣に聞いていたが、やがて紋切り型のありがちなオチばかり続くのに閉口して深く腰を掛け直した。

タクシーは郊外の道を走る。
降りるべき場所だけはわかっていたので、俺たちは座っているだけで良かった。
「人面疽」とは、体の一部に人間の顔のような出来物が浮かび上がる現象だ。
いや、病気と言っていいのだろうか。オカルト好きなら知っているだろうが、一般人にはあまり馴染みのない名前だろう。
そういえば、師匠が人面疽について語っていたことがあった気がする。結構最近のことだったかも知れない。
なにを話していたのだったか。
ぎゅっと目を瞑るが、どうしても思い出せない。
隣には膝の上に小さなバッグを乗せた彼女が、どこか暗い表情で窓の外を見ていた。
やがてタクシーは目的地に到着する。周囲はすっかり暗くなっていた。
運賃を二人で払い、車から降りようとすると運転手が急に声を顰めて、「でもお客さん。どうして気づいたんですか」と言いながら左手の手袋のソロソロとずらす素振りをみせた。
一瞬俺が息をのむと、すぐに彼は冗談ですよと快活に笑って『空車』の表示を出しながら車を発進させ、去っていった。
どうやら元々が怪談好きだったらしい。
俺はもう二度と拾わないようにそのタクシーのナンバーを覚えた。
「で、ここからは」
彼女があたりを見る。
公園の入り口付近で、街灯が一つ今にも消えそうに瞬いている。
フェンスを風が揺らす音がかすかに聞こえる。
俺はペンライトをお尻のポケットから出して『追跡』を開く。
いつなんどきあの人が気まぐれを起こすかわからないので、最低限の明かりはできるだけ持ち歩くことにしていた。

「ここから東へ歩きます」
と言ったものの、二人とも土地勘がなく困ってしまった。
近くで周辺の地図を描いた看板を見つけて、その現在位置からかろうじて方角を割り出す。
ページ内を読み進めると、どうやら廃工場にたどり着くらしい。
顔を上げるが、まだそのシルエットは見えない。
川が近いらしく、かすかに湿った風が頬を撫でていく。寒さに上着の襟を直した。
うしろすがたに会った。
急にこんな一文が出てくる。
前後を読んでも、よくわからない。
誰かの後ろ姿を見たということだろうか。
住宅街なのだろうが、寂れていて俺たちの他に人影もない。
右手には背の低い雑草が生い茂る空き地があり、左手には高い塀が続いている。
明かりといえば、思い出したように数十メートル間隔で街灯が立っているだけだ。
その道の向こう側から、誰かの足音が聞こえ始めた。
そしてほどなくして、暗闇の中から中肉中背の男性の背中が現れた。
確かにこちらに向かって歩いて来ているのに、それはどう見ても後ろ姿なのだった。
服だけを逆に着ているわけではない。
夜にこんなひとけのない場所で、後ろ向きに歩いている人なんてどう考えてもまともな人間じゃない。
俺は見てみぬ振りをしながら、それをやり過ごそうと道の端に寄って早足で通り過ぎた。
そして、どんなツラしてるんだとこっそり振り返ってみると、ゾクリと首筋に冷たいものが走った。
後ろ姿だった。

後ろ姿がさっきと同じ歩調で歩き去っていく。
横を通り過ぎた一瞬に、向き直ったのだろうか。
いや、そんな気配はなかった。
足を止める俺に、彼女がどうしたのと訊く。
あれを、と震える指先で示すと、彼女は首を捻って、なに? と言う。
彼女には見えないらしい。
そして俺の視界からも後ろ姿はゆっくりと消えていった。闇の中へと。
『追跡』から読みとる限り、師匠の行く先とは関係がないようだ。
あんなサラッと読み飛ばせそうな部分だったのに、俺の肝っ玉はすっかり縮み上がってしまった。
廃工場の黒々としたシルエットが目の前に現れた頃にはすっかり足が竦んで、ホントにこんなとこに師匠がいるのかと気弱になってしまっていた。
「で? 工場についたけど」
崩れかけたブロック塀の内側に入り、彼女が振り向く。
続きを読めと言っているのだ。
俺は震える手でペンライトをかざし、ページをめくる。
呼びかけに答える声を頼りに、奥へと進む。
そのまま読み進め、心の準備云々の一文が無かったので続けてページをめくる。
本当にこれで師匠を見つけられるのだろうか。
俺は恐る恐る工場の敷地に入って行き、師匠の名前を叫んだ。
トタンの波板が風にたわむ音に紛れて、微かな応えが聞こえた気がする。
空っぽの倉庫をいくつか通り過ぎ、敷地の隅にあったプレハブの前に立つ。
ペンライトのわずかな明かりに照らされて、スプレーやペンキの落書きだらけの外装が浮かび上がる。
その全面に蔦がからみついて、廃棄された物悲しい風情を醸し出している。

小声で、もう一度呼んでみる。
その瞬間、中からガタンという何か金属製のものが倒れる音がして、「ここだ」という弱々しい声が続く。
蹴られた跡なのか、誰かの足跡だらけの入り口のドアは、すぐ見つかったが、ドアノブを捻ってみてもやはり鍵が掛かっている。
「無駄だ。あいつら何故か合鍵持ってるんだ」という中からの声に、「裏の窓から入ればいいんでしょう」と答えると、師匠は少し押し黙ったあと彼女がいるのかと訊いた。
その通りだと答えたあとで、俺はプレハブの裏に回る。
かなり高い位置に窓はあったが、壁に立てかけられた廃材をなんとか利用してよじ登る。
割るまでもなく、すでにガラスなど残ってはいない窓から体を滑り込ませる。
中は暗い。何も見えない。口にくわえたペンライトを下に向けると、なんとか足場はありそうだ。
錆付いたなにかの骨組みを伝って、下に降りる。
ここだという声に、踏み場もないほどプラスティックやら鋼材やらで散らかった足元に気をつけながら進み、ようやく師匠らしき人影を発見した。
鉄製の柱を抱くように座り込んでいる。
よく見ると、その手には手錠が掛けられている。
自分の手と手錠とで柱を巻くような輪っかを作ることで、自由を奪われているのだ。
顔をライトで照らすと、「眩しい」と言ってすぐに逸らしたが、かなり憔悴していることは分かった。
そして殴られたような顔の腫れにも気付いた。
「ツルハシみたいのがあるはずです」と言うと、師匠は少し考えるように頭を振ったあと、「あの辺にあったかな」と部屋の隅を顎で指した。
暗くてよく見えないので、半ば手探りで探す。
錆びてささくれ立った金属片が指に傷をつける。
俺はかまわずに進み、ようやく目的のものを発見した。

柱の所に戻り、出来るだけ手を引っ込めておくように指示してから手錠の鎖の部分に狙いをつける。
暗いので、何度も軌道を確認しながら5分の力でツルハシの先端を打ちつけた。
ゴキンという音とともにパッと火花が散り、師匠から「もう一発」という声がかかる。
手錠とは言っても所詮安っぽい作りのおもちゃだ。次の一撃で、鎖は完全に千切れ飛んだ。
「肩、かして」
という師匠を支えながら、出入り口のドアに向かう。
鍵が掛かっていたが、中からは手動で解除できた。
ようやくプレハブの外に出た時には、入ってから20分あまりも経過していたと思う。
外には彼女が待っていて、師匠は片手を挙げて「いつも、すまん」と言った。
暗くて、彼女の表情までは伺えなかった。
師匠はナンパした女とホテルに行ったまでは良かったが、出てから一緒にレストランに向かう途中、偶然その女のオトコに見つかり、逆上したそいつに後ろから鈍器のようなもので殴られて車で連れ去られたのだと言う。
それからこの廃工場を溜まり場にしていたオトコとその仲間たちから殴る蹴るの暴行を受けた上、手錠をはめられ監禁されてしまったということだった。
俺たちが見つけなければどうなっていたかと思うと、ゾッとしてくる。
「力が入らない」という師匠を背負うような格好で、半分引きずりながら俺はとにかくこの場を離れようと歩き出した。
熱い。
風邪を引きでもしているのか、師匠の体はかなり熱かった。
無理もない。服は奪われでもしたのか、この寒空の下、ジーンズに長袖のTシャツ1枚という格好だった。

彼女が上着を脱いで師匠の背中にかぶせる。
俺たちは無言で歩き続けた。どこかタクシーを拾える所まで行かなくてはならない。
やがて師匠が熱に浮かされたのか、半分眠りながらうわ言めいたことをぼそぼそと繰り返し始めた。
俺は、ともかくこれですべて解決したと安堵しつつも、『追跡』の続きが気になっていた。
廃工場についてからの見開き4ページ分で師匠の救出に成功しているにもかかわらず、その最後にはこうあったのだ。
心の準備が出来るまで次のページには行かないほうが良い。
このあと、いったい何があるというのだろう。
俺は師匠がずり落ちないように苦心しながら片手で『追跡』を取り出して、口にくわえたペンライトをかざす。
心の準備……
なんのためのだろう。
またドキドキしはじめた心臓を鎮めながら、俺はゆっくりとページをめくた。
彼がうわ言で女の名前を口にした途端、その背中に鋭利な刃物が突き立った。
ゾクッとした。
一瞬歩調が乱れる。
鋭利な刃物。
そんなものがどこから来るのか。

決まっている。
ここには俺と師匠の他には、あの人しかいない。
コツコツと足音が背後からついてくる。
背中の師匠が邪魔で後ろが見えない。
だが、そこにはあの人しかいないじゃないか。
すべてが繋がって来る。
『追跡』の中の主人公は、一人で行動しているように見える。
だからこそ現実で同行すると言い出した彼女の役割はただの観察者に過ぎなかったはずだ。
しかし、妙な引っ掛かりを感じていたのも事実だ。
冒頭のゲームセンターのプリクラ。
これはまだ良い。一人で撮る変わった奴もいるだろう。
雑貨屋やら喫茶店、ボーリング場も一人で入ったって良い。
けれど、ラブホテルだけはどうだ。
『追跡』の主人公は果たして一人で部屋に入ったというのだろうか。
『追跡』は極端に省略された文章を使っているが、もしかすると意図的にもう一人の同行者の存在を隠していたのかも知れない。
つまり、彼女の役割はイレギュラーな観察者などではなくれっきとした登場人物なのかも知れないじゃないか。
俺は神経が針金のように研ぎ澄まされていく感覚を覚えた。
場所は図らずも、さっき”うしろすがた”に会った空き地の前だ。
師匠はむにゃむにゃとうわ言を繰り返している。
その言葉は不明瞭でほとんど聞き取れない。
後ろ頭にかかる師匠の息が熱い。
『追跡』は師匠が刺される場面で唐突に終わっている。
バッドエンドだ。救いなど無い。

彼女は本当にこれに書いた内容を覚えていないのだろうか。
この最後のページを見せないために、順番どおりに読んで行くべきだと言ったんじゃないのか。
でも彼女はいま刃物なんて持ってるのか。いや、小さなバッグがある。
そして彼女が雑貨屋で買ったものはなんだ?
血染めのピコピコハンマーをやめて、最後に選んだものはなんだった?
思考と疑惑が頭の中でぐるぐると回る。
足は、なぜか止められない。
彼女は今、後ろでなにをしている?
そして決定的な時がやって来た。
師匠のうわ言が一際大きくなり、俺にもはっきり聞こえる声が、こう言った。
「……綾……」
その瞬間、時間が止まったような錯覚を覚え、俺は自分の心臓の音だけを聞いていた。
彼女が、足音を響かせて近づいてくる。
そして、優しい声で言うのだ。
「なあに」
師匠は眠ってしまったようだ。寝息が聞こえてくる。
俺はまだドキドキしている胸を撫で下ろして、師匠がこの状況下で彼女の名前を呟いたことに不思議な感動を覚えていた。
後日、怪我の治ったという師匠のアパートへ行った。
「迷惑をかけたな。済まなかった」
頭を下げる師匠に、やだなあそんなキャラじゃないでしょと軽口を叩いて部屋に上がる。
そしてこのあいだの事の顛末を詳しく聞いた。

どうやら師匠は「人面疽がある女」という噂をどこかから聞きつけて、なんとしても見たくなったらしく、探し出してナンパしたのだそうだ。
一日でよくもまあホテルまで漕ぎつけたものだ。
「で、あったんですか。人面疽」
「いや、あれはただの火傷の跡だろう」
そしてもう用済みだから、女が行きたがっていたので予約しておいたレストランをなんとかキャンセルしてすぐにでも別れられないかと姦計を巡らせていた所、女の彼氏に出くわしてこんな目にあったということらしい。
「最悪だった」
最悪なのはあんたもだ、と言いたかった。
あの事件はある意味当然の天罰だろう。
俺はふと思い出して、昨日気づいたばかりの発見を師匠に披露した。
「『追跡』の作者のペンネーム、カヰ=ロアナークでしたよね」
チラシの裏に、ボールペンで書き付ける。
KAYI ROANAKU
「たぶん、こう書くんですよ。ロアノーク島の怪をもじるにしても、少し重い感じがしたのは、使える文字が決まってたからなんです」
というのは、と続けながら俺はその下に並べて別の名前を書く。
倉野木綾 KURANOKI AYA
「綾さんの名前です。で、これを両方ともアルファベット順に並び替えると……」
AAAIKKNORUY
AAAIKKNORUY
「ね、アナグラムでしょう。これって」
師匠は頷く。
「さらに、綾さんの今のペンネームも同様に」
茅野歩く KAYANO ARIKU

AAAIKKNORUY

「どうです」
自慢げな俺に、師匠はあまり感心した様子も無く、「カヰ=ロアノークをやめたいから別のを考えてって言われて、こねくり回して今の名前を作ったの、僕だしね」と言う。
予想されたことだった。
しかし、この自分的に凄い発見に水を差された気がしてテンションが下がった。
そのせいだろうか、少し意地悪なことを言いたくなった。
「でも、よくあの場面で綾さんの名前を呟きましたね。といっても覚えてないでしょうけど」
「違う女の名前を口にしてたら刺されてたって? そんなことで刺されるなら、とっくに死んでるって」
ああ、やっぱりこの人はダメだ。
「でも綾さんの予知能力で書かれた、いうならば予言の書にあったんですよ。その運命を変える奇跡的な一言だったわけじゃないですか」
「まあしょせん、小説だからなあ」
その小説のおかげで助けられたのは誰だと言いそうになった。
「それにそれを読んでたの、一人だけじゃないわけだし」
何気ない一言に、煙に巻かれたような気分になる。
「どういうことですか」
詰め寄る俺を制しながら、師匠は飄々と言った。

「あの最後のページを読んでた時、僕も後ろで見てたんだよね。
背中で。
で、こりゃやっべーと思って、やっぱ丸く収まる名前をね」
狸寝入りかこの野郎。

俺はなんだか痛快な気持ちになって、腹の底から笑った。

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