高校2年の夏、姉が死んだ。21歳だった。
一人暮らしをしていたマンションの屋上からの飛び降り自殺。
動機は不明。
家族の中で姉と最も親しかった私にも、自殺の原因は全く見当がつかなかった。
葬儀の翌日、姉の住んでいた部屋を引き払うため、朝から母と私で荷物の整理をしていた。
二人して黙々と働いたので、夕方にはほとんど段ボールに詰め終わり、それを玄関先に積み上げてから自宅に戻った。
夕食後、姉の部屋に携帯を忘れたことに気付いた私は一人家を出た。
9時頃だった。
マンションは自宅から自転車で10分くらいのところにある。
部屋に上がり明かりを点けると、携帯はすぐに見つかった。
床の真ん中に落ちている。
腰をかがめて拾い上げると、電話のベルが鳴った。
私の携帯の着信音ではない。
振り返ると、台の上に置いてある電話が光っていた。
一瞬迷ったが、受話器を取る。
「もしもし…」
最初は何も聞こえなかった。
ノイズが酷い。
電波状態の悪い携帯から掛けているみたいに。
なぜか、誰かが息を殺しているイメージが頭に浮かんだ。
果たして、しばらくそのままでいると雑音の向こうから微かな息づかいが聞こえてきた。
「誰?」
返事はない。
ただ、息づかいが少し荒くなったような気がした。
その背景、少し離れたところで何かの声。
雑音にまぎれて、『…クス‥クスクス…』小さく笑い合う声が、受話器越しに聞こえた。
急に寒気を感じた。
背中がゾクゾクする。
なま暖かい空気がうなじのあたりを撫でた。
窓は閉まっているはずなのに…
「もしもし?」
足もとが急激に冷えてきた。
足首から下が冷水に浸かっているような感覚。
明かりは灯っているし、外の通りを通る車の音も聞こえるのに、怖い─
ふと、壁の差し込み口に目がいった。
ジャックには何も繋がっていない。
電話線は台の上から床に向かってダラリと垂れ下がっていた。
電話を切ろうとしたその時、受話器の向こうから声がした。
『うしろ』
ハッキリとした女の声だった。
それが姉の声だったのかは分からない。
しかし、その声を聞いた瞬間、私は反射的に後ろを振り向こうとした─
ザワ…
全身の皮膚が粟だった。
背後に何ものかの気配。
受話器を握る手に力が入る。
全身が硬直して、息ができない。
いま振り向いてはいけない。
本能がそう告げているような気がした。
…クスクス…クス…
どこからか、小さな笑い声が聞こえてくる。
それが電話からなのか、それとも部屋のなかから聞こえるのか、もう判別がつかない。
足元の冷気が水面のように波打ちはじめたような気がした…
「お姉…ちゃん?」
ようやく、その言葉だけを絞り出した。
途端に笑い声が止んだ。
一瞬の空白の後、
『アハハハハハハハハハハハハ…』
けたたましい笑い声。
足元の冷気が、ぬるり、といった感じでうごめき、最後に、粘り気のあるゼリーのような感触を残して足首から離れた。
背後の気配がスーっと薄れていく…
『ハハハハハハハハハ─・・・・
不意に声が途切れた。
後は発信音もなく、無音。
その一瞬前、笑い声の彼方に、女の声がかすかに聞こえた。
消え入りそうに小さな声で、
『…バカ…』
徐々に全身の力が抜け、私は床にへたり込んだ。
しばらくは、そのままの姿勢で何も考えられなかった。
やがて、安堵感がゆっくりと体を満たしはじめた頃、また電話が鳴った。
一瞬、鼓動が跳ね上がったが、自分の携帯の着信音だと気付いた。
手を伸ばし、通話ボタンを押す。
母親からだった。
『すぐに戻ってきてッ』
電話口からも分かるくらい、母はうろたえていた。
姉の遺影が真っ黒になったのだ、と言う。
『声が聞こえたような気がして部屋に行ったら…
さっきまで何ともなかったのに…』
私は電話を切ると立ち上がり、部屋のドアを開けた。
「ばーか」
今度はハッキリと男の声が聞こえた。