これは実話ではない。
かといって完全なフィクションでもない。
どこまでが事実かは、読む人の想像に任せる。
ただ場所や日時を特定することはできない。
伝え聞いた話ではあるが、これを記す本人に、真偽の程が分からないからだ。
ただ、ある女性が亡くなったことは事実らしい。
数年前、一人の女性が鉄道自殺を図った。
それは事後処理された後、自殺と断定された。
電車の運転手が目の当たりにしたことや、ホームにいた人たちの証言もあった。
しかし、彼女の家族と、婚約者である彼氏だけはなかなか認めようとしなかった。
彼女は二十代前半で健康に恵まれ、仕事や家族にも何ら問題はなく、前途ある未来が約束されていた。
彼女の死から月日が経ったが、結局、未来を失った彼は取り残された。
彼女との最後の会話に思いをめぐらせ、じりじりと自分の内に後退してしまった。
「これから死ぬって時に、あんな話はしないぞ」
彼は信念をもって事実を究明しようとした。
自分だけが知っている真実を、世間に通用させようとした。
もしそれができないのなら、自分自身を失ってしまうと感じていたのかもしれない。
彼女はその夜会社での仕事を終え、友人と連れ立ってコンサートに行った。
終演後、かなり気分が高揚したこともあって、そのまま友人と居酒屋に入った。
話が尽きぬまま、気が付くと終電に近い時刻になっていた。
急いで駅に向かい、挨拶もそこそこ友人と別れ、一人電車に乗った。
ボーナスが出た週末ということもあって、車内は酔客やカップルなどで混んでいた。
彼女の家は郊外にあり、いくつかの乗り継ぎ駅を通過した先にあった。
異様な混み具合ではあったが、しばらく我慢すれば乗客も減るだろうと思っていた。
少しアルコールも入っているし、体も汗ばんでいる。
まわりもそんな雰囲気で、朝のラッシュとは少し様子が違うなと思っていた。
さっきから、スカートの後ろに手の甲が当たるみたいだが、まさかそんなつもりではないだろう。
彼女がそう考え始めた頃、手のひらが向けられた。
彼女は酔いが覚めた。
恥ずかしいのと悔しいので、気持ちが混乱する。
電車のゆれにあわせ、体をよじったりするが、一向にやめる気配はない。
まるでこちらの気持ちをあざけるように、その手は大胆になっていく。
背後にいる男が怪しいのだが、前後密着した状態で確認できない。
そのまま最初の停車駅に着き、彼女は車両を移ろうとした。
しかし、人波に押されてホームに下りることができなかった。
それでも車内の中ほどに移動することはできた。
電車が動き出し、少し安堵していると、その手はいきなり来た。
あきらかに彼女を狙っている。
人を蔑むような感触に、彼女は体を振って抗議した。
周りにいた二三人の男たちは、彼女に背を向けたり、両手を手すりに持っていったりと、それぞれが無関係であることを示そうとした。
それほど彼女の動作は露骨だった。
遠巻きに見ていた男性と視線が合い、その冷ややかな顔つきに、彼女の方が狼狽した。
この次の駅で降りよう。
各駅停車の終電があるはずだ。
彼女は体を硬くしたまま、そう決心した。
あの手を捕まえる勇気はない。
目の前には酔って何やらブツブツつぶやいている中年男もいるし、時々顔を上げてこちらを睨みつけたりする。
周囲の雰囲気に悪意すら感じ始めた。
それでも、再びあの手が自分の方に向けられることはないと思った………。
突然彼女はその場に座り込んで悲鳴をあげた。
冷たい手が彼女の足首をつかんだのだ。
「大丈夫ですか」大学生風の男が彼女に声をかけた。
車内の好奇な視線に晒されながら、しばらくは平静を装った。
恐怖よりも羞恥心の方が勝っていた。
改札に向かう人々に取り残されるように、彼女は一人ホームに残った。
言い知れぬ不安に襲われ、彼女は携帯から自宅に電話した。
父親は寝ているらしく、迎えにはいけない。
母親はタクシーで帰ってくるようにと念を押した。
ホームにはまばらな人影があった。ある程度明るかった。
にもかかわらず、思い出して体が震え始めた。
彼女は彼に電話した。
「お尻にあった手がいきなり足首にきたんだよ。
しゃがまない限り、そんなのありえない。
でも本当なんだって」
彼女は事細かに状況を説明し、興奮気味に自分に起きたことを訴えた。
彼は安心させようと励ましながら、迎いに行くべきかもしれないと思った。
けれど無人の駅に彼女を一時間以上待たせることになる。
踏ん切りがつかないまま受話器の向こうから場内アナウンスが聞こえてきた。
「あっ,電車が来た。ごめんね夜遅くに」
彼が最後に声をかけた時、彼女は何も答えなかったと言う。
しばらく沈黙があり、その後、「ええっ?」という小さな声をあげた。
彼女が線路を背にして立っていたのは、やはり背後に不安があったからだろう。
ただある目撃者の証言によれば、背中から倒れるというより、襟首を掴まれてひっぱられたようにも見えたと言う。
結局彼は会社を辞め地元に帰った。
しばらくは神経科に通院しながら養生していたらしい。
その後噂を聞かなくなったが、彼から突然連絡があった。
ある山寺で宿坊の雑用をしながら暮らしているという。
宗教に帰依することも考えているらしい。
俺は休みを利用して、彼のもとを訪ねた。
季節は夏だったが、山間の風も涼しく、心地よい静寂があった。
由緒ある古い寺には凛とした雰囲気があり、ここでなら彼も安静に暮らしていけるかなと思った。
夜が更け、あまり話すこともなくなり、二人黙って虫の音に聞き入っていた。
「今聞こえなかったか?」
彼は唐突にそう言った。
「ええっ?」
「そんな感じだよ」
彼は悲しげに微笑むと、ひっそり部屋を出て行った。