京から、美濃・尾張の方面に下ろうとする身分卑しい男があった。
まだ夜中の内から、起き出して家を後にした。
歩いて行くと、四辻の大路に、青味がかった衣を着た女房が、裾を取って、ただ一人で立っている。
男は、(一体あの女はどういう女だろう。
こんな夜中にまさか一人で立っているはずがない、男の連れがあるのだろう)と思って、そのまま通り過ぎようとすると、
「もし、そこをお通りのお方はどちらへいらっしゃるのですか」
と女が問いかける。
男が「美濃尾張の方へ下る者です」と答えると、
「それはお急ぎの事でしょう…お急ぎとは存じますが、申し上げたい事があります。
ちょっとばかり、お立ち止まり下さい」
と言うので、男が「何事でしょうか」と言って立ち止まると、女は
「この辺りにある、民部大夫某という人の家はどちらでございましょう。
そこに行こうと思っておりますが、道に迷ってしまいました。
私を、そこへ連れて行っては下さいませんか」
と言った。
男はしぶしぶ、女を連れて歩き出したが、女はというと、
「ほんとに嬉しいこと」
と言いながら随いてくる。
その様子が、どうにも薄気味悪いように思われるが、ただ、何でもないことだだろうと思って、言われた民部大夫の門まで送り届けると、女は
「急いでお出かけのところ、わざわざ引き返して、ここまで送って頂いて…
返す返す嬉しく存じます。
私は近江の某所に住む、某という者の娘でございます。
東国へおいででしたら、その街道から近くでございますから、是非お立ち寄りになって下さいまし。
色々申し上げたい事がございますので」
などと言ったかと思うと、今まで門の前に立っていたはずの女が、不意にかき消え失せてしまった。
男は、(門が開いてでもいれば、門のうちに入ったとでも思いもしようが、門は閉まったままだ。
これは一体どうしたことだ)と考えると、髪の毛が太るように恐ろしくなって、その場に突っ立ったまま足がすくんで動けなくなった。
すると、この家の内から、にわかに泣き騒ぐ声が聞こえてきた。
何事かと耳を澄まして聞き入ると、人が死んだ気配である。
(不思議な事だ)と思って、しばらくその辺をうろうろしている内に、夜も明けたので、一つ、この事のわけを尋ねてみようと思った。
夜がすっかり明けはなれてから、その家に仕えている者で、ちょっと知っている人があったので、その人を訪ね会って、今朝の様子を聞いてみた。
するとその人は、
「近江国においでになる女房が、生霊となって執り憑いたと言って、こちらの殿様がこの二、三日患っておられましたが…、
今朝の明け方に、その生霊が現れた様子がある、などと仰っているうちに、急にお亡くなりになってしまわれた。
してみると、生霊というのは、こんなにあらたかに人を取り殺すものなのでしょうか」
と語った。
それを聞くと、この男も何だか頭が痛くなってきた。
(女は礼を言ってはいたが、やはりその毒気に当てられたのだろう)と思い、その日は旅立ちを止めて家に帰った。
その後、三日ばかりして東国へ下ったが、女の教えた辺りを通りかかった時、男は、一つ、あの女が言った事を確かめてやろうと思って、尋ねて行くと、本当にそういう家があった。
立ち寄って、人を通じて、しかじかと来意を告げると、確かにそういうことがあったはずだ、と言って呼び入れられ、女は御簾越しに対面して
「この間の夜の喜びは永久に忘れる事ができません」
などと言って食事を出し、絹布などをくれるのだった。
男は恐ろしくてならなかったが、様々な品物などを貰って、やがて東国へ下った。
思うに、生霊と言うものは、ただ魂が乗り移ってすることかと思っていたが、なんと、現に、その当人も自覚している事であったのだ。
これは、かの民部大夫が妻にしていた女房で、大夫が捨ててしまったものだから、恨みの一念から生霊となって取り殺してしまったのだった。
されば、女の心は恐ろしいものだ、と語り伝えたとのことである。