以前、『標本室』という話を投稿させていただいた者です。
今回も私が所属するある地方大学の医学部にまつわる不思議な話をさせていただきます。
私どもの医学部キャンパスにはその長い歴史を物語るように、新旧様々な建物が混在しています。
敷地内にある大学病院も三度目の移転新築工事が行われており、それまでの建物はそれぞれ他の目的に使用されています。
旧病院の中で最も古い建物は、現在基礎医学研究棟として使用されているのですが、ここがこの話の舞台です。
基礎研究棟は明治期に建築された、キャンパスの中でも最も古い部類に属しています。
当時の建築様式を踏襲し、古風な噴水跡のある中庭を囲んで、上から見ると『口』の字になっている五階建ての建築物。
当時を偲ばせるなかなか風格のある建物ですが、手入れもされず雑草が伸び放題になっている中庭、ところどころ剥げているリノリウムの床、光の届きにくい廊下と、うら寂しい雰囲気も漂っています…
その建物の研究室に籍を置く講師のある先生は、その日も夜遅くまでご自身の研究に精を出しておられました。
もう夜もふけ、周りの研究室の電気も消えていましたが、先生はちょうど定期的に数字を取らなければならない実験をなさっており、その時期は休日も返上で臨んでおられました。
やっと今日の分の数字も取り終わり、やれやれ帰ろうと研究室の電気を消し、月明かりに照らされるのみの暗い廊下を、コツコツと階段に向かわれました。
その夜は実に月明かりが美しく、先生はふと、窓辺から月でも眺めてみようかと思いつかれたそうです。
廊下の中庭側の窓辺にふらりと近づき、窓を開け、上を眺める…
澄んだ月明かりは冷たく、連日の勤務に疲れていた先生も、我を忘れて射さす光に魅入られてしまったそうです。
ふと、建物の反対側の窓辺に目を移すと、そこにも自分と同じ白衣姿を認めました。
先生は、まだ残っている人が自分と同じように月明かりに誘われて…と思い、愛想に手でも振ろうかと思い、手を上げかけたとき…
先生は眼前に広がるたくさんの窓辺に、同じような白衣姿がポツリ、ポツリと見えることに気がつかれました。
こんな時間に研究員たちが大勢残っていることも不思議ですが、さらにおかしなことに、誰も月明かりなどには目もくれず、一様に『下』を眺めているのです。
つまり…『中庭』を。
先生の背中に急に冷たい汗が流れました。
『中庭』は雑草が生い茂り、見るべきものなどはなにもない…いや、彼らは見ている…いやちがう…
見たくもないのに視線が中庭に降りていく。
月光に青白く照らされる中庭。
真ん中には朽ちかけた石造りの噴水。
生い茂る雑草。
誰もいない。
何もない。
何も『見えない』。
しかし『彼ら』は見ている。
いや『看ている』?誰を?誰もいない中庭。
見えない。
いや、見える。
『中庭』にいるたくさんの人。
あの人たちは…
寝巻き姿、浴衣姿、咳き込む少年、車椅子の老女、うつむく青年、佇む看護婦…
それを見下ろす白衣姿の、あれは医師たち?
見えないのに?見える、看られている、もう二度と家には帰れないあの人たち。
それを見下ろす、白衣姿の満足げな笑み。
「あの人たちは帰れないのだ。帰りたくても、『彼ら』がそれを許さない…」
この話をなさった時の先生は、とても悲しそうなお顔をなさっていました。
医学部ではさまざまな不思議な話が語り継がれています。
機会があればまたお話させていただきたいと思います。