平成二十年、一月六日。
僕は二十三歳になった。
数人の友人たちや職場の同僚がお祝いの品をくれ、何人かとはパーティもどきのような席も設けた。
おおいに楽しく、シアワセな時間だったが、そこに僕の親友の姿は無かった。
あるはずも無いのだが、探してしまうのはいつものことなのでしかたが無いとしか言いようがない。
そしてその姿が無いことにひどく傷つく自分に嫌悪感を覚える。
傷つける立場なのか、おまえは。
そう自分に問い、責める。
本当に傷ついていたのは誰だ。無論僕ではない。
むしろ傷つけたのが僕だ。傷ついていいのは僕なんかではない。
被害者ぶるな。僕こそが、最大の罪人ではないか。
そんなことを考えていると、ヤナギが僕の肩を叩いた。
「主役が一番テンション低くてどうすんだ」
軽口のなかに込められた彼の気遣いに気がつかないほどの馬鹿ではない。
ヤナギの存在と言葉は、いつも僕の支えになる。
僕もあの時、今のヤナギのようにしていたら。
そんな自己嫌悪が再び浮かび上がる。
ネガティブもいい加減にしなくてはいけない。
「俺らトモダチなんだからさあ、なんかあんならエンリョなくいえよ?」
相変わらず表情の冴えない僕に、ヤナギは言った。
ヤナギは決して、「親友」とは言わない。
長い付き合いで、家族ほど仲良くしていても、「親友」ではなく「トモダチ」だと言う。
それは、僕の親友がひとりしかいないと知っているからだ。
ヤナギは、かの親友と僕にあったできごとは何も知らない。
だが、あの「サヨナラ」の日から幾日か過ぎたとき、彼は、かの親友の行方を聞いて、僕に言った。
『おまえの親友は、ずっとキョウスケだけだから、俺はおまえの「親友」にはなれないけど。一番のダチでいさしてくれな』
その言葉にどれほど救われたことか知れない。
そして、何も知らないとはいえ、僕をあいつの親友と認めてくれたことに、僕はひどく救われた。
同時に浮かぶ罪悪感は決して、生涯消えることは無いだろうけれど、それは僕が彼を忘れていない何よりの証拠でもあるのだろう。
だから、どんなに自分の罪深さに辟易しても、僕は後悔をやめない。
後悔することが、親友へのせめてもの罪滅ぼしだと思うから。
「ホラ、から揚げ無くなるぞ」
ヤナギが僕の手を取り、皆のいるほうへ連れ出してくれる。
心の中で親友に詫びながら、僕はその手を取った。
きみのできなかったことをして、ごめんね。
きみをすくえなくてごめんね。
おとなになって、ごめんね。
でも、
『これからも生きてていいですか?』
親友の残した言葉を、心の中で呟いた。
返事はかえってこなかった。