邪法の記憶

邪法の記憶 俺怖 [洒落怖・怖い話 まとめ]

煙突から、煙草から、焚き火から…
もくもくと上る煙。
珈琲の湯気がゆらゆらと立ち込める。

ここは鶴田珈琲。
話しているのは馴染みの客、忍だ。

忍はそれらが怖いのだと言う。
「そんなのに怖がられちゃウチも商売できないねぇ」と、鶴田珈琲の店主が笑う。
しかし忍の顔は至って真剣だ。
この頃学校界隈で流行りの怪談なのだそうだ。目撃例もあるという。

「何気なく空を見て、ふと気づくと、怨めしそうに顔が浮かんだ煙が現れるのですよ」

それでも店主は笑う。

「そう言えばそんな妖怪いたかねぇ。確か名前は…」

ガチャ

店主が名前を言いかけた時、店の戸が開いた。
同じくこの店の馴染み、藤宮だ。
忍を見かけるなり藤宮は薬指の爪を触った。

「おや、忍さんですね。今日は啓子さんはご一緒では?」

山高帽を取って藤宮が尋ねた。

「まぁお久しぶりですおじ様。
啓子は他のお友達と一緒に春祭りに言っていますよ。おじ様も、一緒に行きますか?」

それを聞いて藤宮は、顔には出さないが少し困っているようだ。
この街の春祭りは、桜並木の下行われる小さな祭りだが、的屋も店を構えた賑やかな祭りだ。
藤宮は喧騒が苦手なのである。

「そうですね、時間があれば考えておきましょう」

そう言って藤宮は銀時計を見た。
この時計は藤宮が帝國大學を卒業した際に天皇陛下から下賜されたものである。

「あっ、そんなことより店主さん。その妖怪何て名前なんですか?」

思い出したように忍が聞く。
妖怪?年頃の娘が一体何の話をしているのだと藤宮は怪訝に思ったが、口には出さなかった。

「そうそう、煙に顔が浮かぶ妖怪…確か名前は『煙羅煙羅』」
「えんらえんら?」

どこか間の抜けた名前に、忍は苦笑している。
ここが平成の世なら『マジウケるんですけど』と形容されたろうか。
しかし藤宮はそうは思わなかったようだ。

「エンラエンラ…」

藤宮は勢いよく立ち上がった。

「私はその名を記憶しています」

そう言って藤宮は、自身の身体をベタベタと触り始めた。こうなると止まらない。

「忍ちゃんはもう知ってたっけ?」
「えぇ。おじ様は記憶を身体にしまってらっしゃるんですよね」

二人は別段驚くこともないが、
藤宮は身体の各部位に記憶をしまいこむことで、その出来事を完全に忘れる事がないそうなのだ。

一頻り身体を触り終えた藤宮は、急に納得して席に座った。
何事もないように落ち着いている。
思い出せなければ落ち着かないが、思い出せばこの通りである。

「まさか、あの煙を見たのですか?」

藤宮は忍にそう聞いた。何かを知っているようだ。

「いいえ。そんな噂があるのです」

それを聞いて藤宮は安堵した。

「おじ様何か知ってらっしゃるんですか?」

気になった忍は藤宮に聞いた。
しかし藤宮は話したくない様子だ。

「何か知ってらっしゃるのなら聞きたいです」
「しかし…」

藤宮は困っている。

「私、おじ様の話好きです!」

キラキラした忍の目に、藤宮はしぶしぶ話し始めた。

「では、下らない作り話だとでも思ってください。
あれは私が士官学校で教鞭を執っていた時のことです…」

藤宮の話が始まった。
訳あって人より少しばかり記憶の多い藤宮は、しまっておいた記憶を懐古し始めた。

桜咲き誇る春。
あれはちょうど卯月の頃だったろうか。
藤宮は陸軍士官学校にて教鞭を執っていた。
在学中は英文学科専攻で、勿論英語を教えていた藤宮であったが、この頃とある疑問を抱き始めていた。
海外に赴いたこともなく、ネイティブな発音を知らない私が、居丈高に知識をひけらかしていいものだろうか?
といった事であった。
藤宮はこの頃声の大きくなった所謂個人主義の人間で、愛国心が無いわけではないが、お国の未来がどうと気にする事もない。
しかし、自分でなくともやるべき人間は必要と考えているため、また単純に生徒個人に対してしっかりとした教育を心がけたい、と責任に感じていたのだ。
藤宮は思考から逃げない人間なのである。

授業が終わり、この日も藤宮はそんな考え事をしながら帰宅するのである。
教員用の駐輪場に向かう際、ごみ捨て場があるのだが、そこで藤宮はある男に声を掛けられた。

「すみません。そこのゴミ、売ってくれませんか?」

男の目線は生ゴミが入った袋を見ている。
一体ゴミに何のようがあるのだ?そう疑問に思った藤宮は、「何故ですか?」と率直に聞いた。

「へへ。私は残飯屋でして…」

残飯屋…
この時代、特需により好景気に湧いていたが、その反面仕事を求めて都市に赴いた人々が職に溢れて、仕方なく貧民窟(スラム)を形成していたのだ。
残飯屋とは、こういった学校などの学食の残飯を安い値で買い付け、貧民窟の住人に売り付ける商売であった。

しかしこの男、残飯屋ということは貧民窟の住人。
しかしそれにしては身なりが小綺麗だ。
いや、そんなことはどうでもいい。
この街に赴任したばかりとは言え、同じ土地に貧民窟があることを藤宮は知らず、むしろその事を恥じた。

「売るなどとはとんでもない、差し上げます」

藤宮はゴミを男の荷台に運んだ。
それにしてもすごい量である。
聞けば貧民窟は、ここから近い距離でもないらしく、特に憐れみだの蔑みだのといった他意はない藤宮であったが、荷台引きを手伝う事にした。

この男の名は坂上と言った。
児童小説家を志すも挫折、やることもなく貧民窟に住み始めたのだそうだ。

「私が児童小説を書きたかったのはねぇ、結局子供が好きだからでして…
志し半ば故郷に帰ろうとも思ったんですがね、貧民窟に身寄りのない子供達がたくさんいて、見てらんなくて。
今じゃ残飯屋なんてやりながら、大所帯ですわ」

照れくさそうにへへと笑う坂上に、藤宮は大層感心した。
聞けば坂上は、貧民窟でひもじい思いをしている親のない子供達、十名程の世話をしているというのだ。
残飯ではあるが、子供達のためとりあえず食うに困らないこの仕事を選んだのだろう。
私は彼程の愛情を生徒達に向けられているのだろうか?いや、遠く及ばない。
恥を噛みしめながらも坂上と談笑した。
話してみれば、何となく馬の合う男だ。

藤宮と坂上が、この頃台頭し始めた江戸川乱歩の話に夢中になっていると、そこでやっと貧民窟に到着した。
淀んだ空気の場所だった。
住人は皆、二畳ほどの住居で生活していた。
まさに吹きだまりといった所か。
初めての光景に多少驚いた藤宮に、坂上が指さした。

「あそこが私の家です」

指の先を見ると、そこには他の家より大きな木造建物があった。十分立派な家だ。
それもそうかもしれない。十名も子供を引きとっているのだ。

「ただいま」

そう言って坂上が戸を引くと、そこには本当にたくさんの子供達がいた。

「お帰りなさい」

子供達はどことなく元気がなかった。

「飯を持ってきたぞ」

坂上が袋を掲げると、子供達はぞろぞろと集まり始めた。
しかし部屋の隅、三人の子供達はその場に座って動こうとしなかった。輪になって座っている。
何をしているのか気になって、藤宮はそこを覗き込んだ。
三人が何かを囲んでいるようだ。
お櫃?
黒ずんだお櫃を、三本の竹の棒で支えた物を囲んでいる。
お櫃は不安定で、こくり、こくりと傾いている。
あれは確か…

「あれはこっくりさんです」

こちらに気づいた坂上がバツの悪そうに言った。

こっくりさん。
確かテーブルターニングという西洋の占術に起源を持つものだ…。

「古書など集めるのが趣味でして、そこで得た遊びの知識を子供らに教えたら、痛く気に入りましてね」

すると三人のうちの一人の子供がこちらに駆け寄ってきた。

「おじちゃん。史郎くん占いで探してたんだけどね、こっくりさん全然来ないの。全然史郎くんどこにいるか教えてくんないの」

史郎くん…この家の子なのだろうか?

「ねぇねぇ、史郎くんどこに行ったの?」

子供は坂上の袖を引っ張るが、坂上が顔を背けて何も話さない。

「ねぇ、史郎くんどこ行ったの?おじさん、史郎くん知らないの?あのこと気にしてるのかな…史郎くんの背中……」
「やめろ!!」

子供が何かを言いかけた時、怒号が響く。
子供の手を振り払い、坂上が叫んだのだ。

先程までの優しい表情は見えない。
一瞬垣間見えた坂上は、鬼の形相であった。
部屋の片隅でこくり、こくりと頷くように傾いたお櫃が地に落ちた。

藤宮は耳たぶを触った。
耳に残った昨日の坂上の豹変が忘れられなかったのだ。
その後取り繕うように笑顔に戻り、平然と子供達の名前を紹介する様は不自然と言う他なかった。
気になると止まらない、それが藤宮の性だ。

その日の授業を終えた藤宮は、件の貧民窟に向かうことにした。

「お邪魔します」

藤宮が戸を開くと、そこには子供達がいた。坂上の姿はない。

「坂上さんはいらっしゃいませんか?」

と尋ねたが、子供達は無言だった。
妙な違和感を感じる。

藤宮は耳たぶを触った。
確かに十名、十名の子供がいるが違和感…遠子、五平、広太、兵蔵、日佐江、玉雄、寛、泰一郎、洋太…あとは……。
やはりおかしい。多助がいない…。
奇妙に思っていると、一人の子供が話し掛けてきた。日佐江だ。

「多助はいないよ…」

いない…?
多助は昨日、坂上に怒鳴られた子だ。
言いようのない不安が過る。

「おじさん、遊ぼう」

曇った表情を見せる藤宮に、子供達がかけよってきた。

「こっくりさんしよう」

子供達は無邪気に言う。
小さな力で引きずられた藤宮は少し困っている。

「天気も悪くないのです、外で遊びませんか?」

そう藤宮が提案するも、子供達は俯いている。

「おじちゃんに、外出ちゃいけないって言われてるから…」

子供達の困った笑顔に耐えきれなくなった藤宮は、持参した本を手にとった。児童用終身書である。

「では勉強はどうでしょう?」

満足に教育を受けていない子供達に、藤宮は読み書きを教えるつもりで来たのだった。

「モモカラ タマノヨウナ ゲンキナ オトコノコガ ウマレマシタ」

聞いたこともない奇想天外な話に、子供達は目を輝かしている。
藤宮は思った。
士官学校にて知をひけらかしているのではなどと悩むのは、それ自体傲慢な事。
自分の持てる及ばない知識を、何も知らない子供達はこうも熱心に聞いてくれる。
藤宮は嬉しかった。
しかし、一人だけ輪に入らない子がいた。日佐江だ。
部屋の片隅で、石を転がして遊んでいる。

「日佐江さんも一人で遊ばず、一緒にご本を読みませんか?」

藤宮が問いかけるも、日佐江は一度こちらを見て、また石を転がし始めた。

「私、字、読めるから。
それに、一人じゃないから。
ね、恭子、正夫…」

そう言ってまた石を転がした。

それからというもの、藤宮は暇があれば家に出向いて子供達に読み書きを教えた。
いつ来ても坂上はおらず、聞けば飯を届けにくる夜まで戻らないという。
日佐江はと言うと、相変わらず勉強の輪に入らず、本当に読み書きができるのか、驚くべきことに坂上の難しい古書を読んでいる。

その日も藤宮は子供達の家へと向かった。
すると道すがら、懐かしい顔に声をかけられた。

「よう、藤宮じゃねぇかよ」

鶴田だ。
鶴田は帝國大學時代の友人だ。
変わり者で、軍へ入隊したかと思えばすぐに退役し、今では僧となって全国を行脚しているという。

「久しぶりだな、酒でもやらんか?」

生臭坊主とはこの男の事である。

「所用がある」

そう断るのだが、鶴田は強引だ。

「そういえば、ここらで春祭りがあるそうだ。どうだ?そこへ行くか?」

どうだ、とは聞くが鶴田は強引な男、藤宮は仕方なく少し付き合うことにした。
この街の春祭りは、桜並木の下行われる小さな祭りではあるが、的屋も店を構える賑やかな祭りだ。
喧騒が苦手な藤宮は、少し憂鬱だった。
桜がひらひら散る中、二人道を行く。鶴田がする下らない話はどこか藤宮を和ませる。
すると、桜の木の陰に子供が隠れていた。

「おじさん…」

日佐江だ。
貧民窟はここからそう遠くはないが、どうしてこんな所に?駆け寄る藤宮を見て鶴田は笑った。

「お前の子か?子供嫌いだったお前がねぇ」

訂正する意味のない時間は無駄だ。

「一人でいるのですか?」

そう藤宮が尋ねると、日佐江はこくりと頷いた。
そして、手に持った小石をじゃらじゃらと鳴らし、「お祭りに連れていって…」と言うのだった。
どこか大人びて難しげな本も読むが、やはり無邪気な子供。
そう思うと、嬉しくなった藤宮は日佐江を祭りに連れて行くことにした。

賑やかに店が立ち並ぶ春祭り。
しかし日佐江は関心なくすたすた進む。
一つ一ついちいち反応する鶴田と、一体どちらが子供か知れないと藤宮は苦笑する。

「あれ…あれ見たい」

日佐江が指差した。
見世物小屋だ。
おどろおどろしい垂れ幕に、こんなものを子供に見せていいものかと思った藤宮だったが、初めて日佐江が意思を示したようで、どうしたものかと迷ってしまった。
などと考える間に、

「いいねお嬢ちゃん、行こう行こう」

と鶴田が手を引いて行ってしまった。

「お代は後で結構。
さぁベナだよベナ」

テントの中で、男がひっくり返った鍋を指している。
周りの客は文句を垂れているが、鶴田は笑っている。

「さぁ世にも恐ろしい大鼬だよ」

男は血のついた大きな板を指している。
藤宮は意味は理解できるが、面白さは理解できなかった。
日佐江もあまり楽しそうではない。

「さぁさぁそれでは皆さんお待ちかね。
今からお目にかかるは本物の怪異。
我々が捕獲した妖怪、猩々のお出ましだよ」

猩々とは確か中国の猿の妖怪。
どうやらこの見世物小屋の目玉なのだろう。
さして期待する訳でもないが、藤宮は見入った。
すると手を縛られた小さな男がとことこ舞台を歩いてきた。
顔には出さないが藤宮は驚いた。
顔中から背中にかけて、手足に至るまで、人とは思えないほどの赤茶けた獣のような毛が生えている。
あまりの様相に観客は息を飲む。
すると、先程まで笑っていた鶴田の顔が強ばった。

「何てことしやがる…
ありゃ邪法じゃねぇか…」

ギリッと歯を噛むように鶴田は言った。

「邪法?」

藤宮が鶴田を見て聞いた。

「あぁ、俺は今そんな商売してるから知ってんだ。
あれはただの子供だ。
間違った呪いをして、動物の霊に憑かれたんだろう。
あぁなっちゃもう長くねぇぞ…見世物にするなんざ胸くそ悪ぃ」

そう言って鶴田はテントを出ていく。
呪いについての知識がない藤宮でも分かる、何か狂気めいたものがそこにあった。
これ以上見せまいと、日佐江を引っ張る。

「行きましょう、日佐江さん」

しかし日佐江はそこを動こうとしない。
舞台を食い入るように見ている。
そしてポツリと呟くのだった。

「ここにいたんだね、史郎…」

日佐江は振り返ってゆっくりとテントを出た。
一人残された藤宮に悪寒が走った。

藤宮は子供達の家に走った。
着ていた服はボロボロだ。
見世物小屋の主人に、史郎に会わせてくれとしつこく付きまとって殴られたのだった。
殴られたなど、そんなことはどうでもいい。

邪法…鶴田はそう言っていた。

きっとそれは、子供達がしていたこっくりさんの事だ。
こっくりさん自体、西洋のテーブルターニングを日本流に間違って行う呪いだ。
それが災いしているとしたら…いや、それが仕組まれたことだとしたら…。
ともかく藤宮は子供達の顔を見て安心したかった。

貧民窟の家に赴き戸を開く。
すると中には日佐江だけが独り座っていた。

「日佐江さん、みんなは?」

藤宮が駆け寄るが、日佐江は表情一つ変えない。

「もう…行っちゃった。
みんな背中から毛が生え始めたから、売られちゃった」

日佐江は小石を転がしている。

「売られた…?」

藤宮は目眩がした。

「まさか、坂上に…君達は坂上に邪法を…やらされていたのか?
君は、君は何ともないのか?」

恐ろしくなった藤宮は恐る恐る聞いた。

「私は何ともない、こっくりさんしてないから…」

表情に出さないが日佐江はどこか悲しげだ。

「私は坂上の慰み物だから、売られない」

藤宮は戦慄を覚えた。
まだ年端も行かぬ子らを食い物にし私服を肥やす、これが人の所業と言えるだろうか。
坂上に感心していた自分にすら嫌悪した。

「ここを出ましょう」

藤宮は日佐江を優しく抱きしめた。

「うん、私出ていく。
でも、やらないといけないことがあるの」

そう言うと日佐江はまた石をコロコロ転がした。

「恭子、正夫、史郎…本当にいいんだね?」

何かをぶつぶつ呟く日佐江に、何も言えず藤宮は立ち尽くした。
引き摺ってでも日佐江を連れていこうとしたが、頑として動かない。
狂気の内に育てられたこの子に、自分は何もしてやれない。
忘れよう。
そう思い藤宮は思考から逃げた。
瞼にこの記憶を奥深くしまい込んだのだ。
目を閉じたくなる現実を。
瞼を閉ざす。

藤宮は知らぬことだが、貧民窟にあった子供達の小屋は人知れず取り壊されていた。

藤宮が記憶をしまい、忌まわしい出来事を忘れてから二月が過ぎた。
藤宮は論文に必要な文献を探すため、行きつけの古書店に訪れていた。
商店街にある古書店なのだが、喧騒が嫌いな藤宮もこの商店街は何故だか好きだった。
きっと故郷に似ているからなのだろう。
そう思いながら歩いていると、射的屋から出てきた女連れの男とすれ違った。
射的屋とあるが、隠れて商売する売春屋だ。
しかし妙なのは、男の顔に見覚えがあることだ。
気になると藤宮は止まらない。
その場に立ち止まり、身体から記憶を探り始めた。
頭から順々に触り瞼に触れて、やっと思い出した。

坂上だ。

思い出した瞬間、憤怒が沸き上がる。
何かを考える間もなく後ろから坂上を殴りつけた。
突然の事に倒れた坂上に女は慌てている。
坂上がこちらに気づいた。

「何だ?いつぞやの先生か。
いきなり殴るなんてご挨拶だね。
話があるならあちらにいこうや」

坂上が親指で路地裏を指す。
普段落ち着いた藤宮も、この時は我を忘れていた。
もともと喧嘩もロクにしたことがない藤宮だ、案の定ボロボロになるまで殴られた。

「あんたに何か言われる覚えはねぇよ。
何を知ったか知らねぇが、人がどんな商売しようと勝手だ」

藤宮は悔しかった。
喧嘩など野蛮な人種がすること、そう思っていたが、やらなければいけない時が確かにあったのだ。
地に伏せて何もできない自分を嘆いた。
その時である。
坂上が何かに驚いている。

「日佐江じゃねぇか…」

ボロボロの藤宮の後ろに日佐江がいた。
日佐江も同じくらいボロボロの服を着ている。

「なんだ、勝手に出てったと思えば今さら何だ?」

無表情の日佐江から怒りが感じられる。

「何だ?お前もこいつみたいに俺に用か?
お前だけは良くしてやったじゃねぇか。
それともあれか?俺が忘れられねぇか?」

汚く喋る坂上に、日佐江はじりじりと詰め寄る。

「みんな…友達だったから…」

そう言うと、日佐江は持っていた巾着袋からじゃらじゃらと石を撒いた。

「いいよ、みんな」

日佐江はやっと悲しそうな表情を浮かべる。
すると無数の小石から、もうもうと煙が立ち上った。

「な、何だこの煙は!?」

不思議な事に、煙は天に帰らず、藤宮を通り越して坂上の近くにまとわりついた。

「な、何だ…?
あっ!
熱っ、熱い!?
熱い、焼けるっ…!!」

煙の中の坂上がプスプスと音を上げ苦しみ始めた。
不思議なことに、火もなく蛋白質が焼ける独特の臭いがする。

「熱い、助けてくれ。
日佐江…
日佐…」

段々と炭化し黒くなっていく坂上。
その恐ろしい様を藤宮は言葉なく傍観していた。
そして見つけたのだ。
耳たぶを触る藤宮。
あぁ、確かにそこにいる。
遠子、五平、広太、兵蔵、、玉雄、寛、泰一郎、洋太、多助…。
あの時の子供達の顔が、煙に浮かんでいるのだ。

プスプスプス

煙が風で飛んでいった。
子供達の顔と一緒に…。
するとそこには、真っ黒な焼死体が一つあった。
おぞましいそれを尻目に、藤宮は日佐江を見た。

「日佐江さん、これは…一体?」

日佐江は小さな声で言った。

「私は字が読めるから。
本で読んだから。
あいつにも呪いをかけた」

日佐江はパサッと本を落とした。
去ろうとする日佐江に藤宮は言う。

「すみません…日佐江さん。
私はあの時、逃げた。
現実から逃げて、忘れようとした。
すみません」

意味のない事かもしれない。
しかし藤宮は謝らずにはいられなかった。
すると日佐江は振り返ってにっこり笑った。

「逃げても、いいと思う…
逃げても、逃げた道を忘れなければ。
私は、これから、忘れずに…そうやって生きていく…」

藤宮が次に気づいた時、日佐江の姿はなかった。
忘れまい。
藤宮は再度この記憶を瞼にしまった。

「おじ様、それが煙羅煙羅なのですか?」

忍が興奮気味に聞いた。
舞台は再び鶴田珈琲に戻る。

「煙羅煙羅…煙という字は正確ではありません。
日佐江さんが落としていった古書を見て、私も後から知ったのですが…
正しくは『閻羅閻羅の呪法』」

藤宮は紙に字を書いて伝えた。

「閻羅とは地獄の主の別称です。
巾着に入っていた石は、死んだ子供が行き着く賽の河原の石を模した物でしょう。
それを依代に、地獄の業火の煙となって舞い戻ってきたのです。
あの世の安寧を犠牲に…
恐らく日佐江さんは、獣憑きとなり死んだ子供達と一緒に、復讐を果たしたのでしょう」

忍は悲しそうな反応を見せている。
だから藤宮は話たくなかったのだ。

「逃げた道を忘れなければ…日佐江さんが別れ際言っていた言葉。
人を呪わば…などと言うくらいです。
坂上は自らが行った、おぞましい邪法とも言える行為のしっぺ返しを食らったのでしょう。
そしてその後の日佐江さんも…」

藤宮は思い耽るように煙草に火をつけた。
寂しそうな顔をする藤宮に気を遣うように忍は言う。

「ごめんなさい、無理に話させてしまって」
「いえ、私も思い出さなければならない話だったのです」

藤宮は煙を静かに吐いた。

「じゃあ行きましょう、春祭り」
「私おじ様に元気になってもらいたいです」

藤宮は喧騒が嫌いなので、元気になることはないのだが、その心遣いが嬉しかった。

「ありがとうございます、ではご一緒しましょう」

藤宮は吸ったばかりの煙草を消した。

「早くおじ様」

袖を引っ張られて、世話しなく鶴田珈琲を後にした。

「啓子!」

賑やかな祭りの中、忍が啓子を見つけて手をふる。

「ズルい。おじ様と一緒にいたのね」

やはりどこかかしましい二人に、藤宮は和む。
啓子と忍が友達と喋っている。
その内、機を見て藤宮は一人帰ることにした。

春祭り、あの見世物小屋、史郎くんを思い出す。
すると奥まった場所に、見世物小屋があることに気づいた。

「あれは…」

史郎くんがいるのでは?
そんな期待はなかったが、何故かいてもたってもいられなくなった藤宮は、その見世物小屋へと入った。

「さぁ大鼬だよ」

男が血のついた大きな板を指す。
何年たっても変わらないようだ。客の反応すらも。
藤宮が立ち去ろうとした時だった。

「さぁさぁ皆様お待ちかね、蛇女だよ」

男が指差す先には一人の女性がいた。
手に蛇のような鱗がある女性だ。
藤宮は目を白黒させた。
見覚えのある顔…。

日佐江だ。

「さぁさぁ今からこの蛇女、こちらの蛇を…」

日佐江も藤宮に気づいたようで驚いている。

「日佐江ちゃん、何やってんの?お客さん退屈しちゃうよ」

男が慌てて耳打ちした。
日佐江はこちらを見て、にっこり笑った。

「日佐江さん…」

日佐江さん、あなたは、忘れていないのですね。
逃げた道を忘れずに生きていく…いつでもあの子らを忘れない見世物小屋というこの場で。
なるほど。
巡業でこの街に来た日佐江さんに皆もついてきたのだろう。
藤宮はテントを出た。
先程吸いきる事のできなかった煙草に火をつけた。
煙草の煙が目にしみたのだろう。
日佐江の記憶がしまってある瞼に涙が滲んだ。

さてさて邪法の記憶はここまで。
それでは皆様、また藤宮が何かを思い出す時お会い致しましょう。

★この話の怖さはどうでした?
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  • まぁまぁ怖い
  • 怖い
  • 超絶怖い!
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