大学生の頃、とある複合施設で警備員のバイトをやった。
守秘義務があるので名称は書けないが、そこで夜間働く者はほぼ全員「出る」ことを知っていた。
「出る」場所は警備員の仮眠室。
当時のシフトでは深夜三人勤務で10時から1時、1時から4時、4時から7時までの仮眠時間があったが、1時から4時の時間帯に「出る」と言われていた。
夜間のバイトを始めてすぐ、福隊長で元警官のNさんにそのことを説明された。
「自分には見えないが、人によっては見えるらしい。
一度御祓いをやったそうだが、人に害を与えるものじゃないそうだ。
施設内はたまに不審者が入ってくるが、幽霊みたいなものよりそっちの方が怖いぞ」
とのことだった。
1時から4時に「出る」と教えてくれたのは、ビル管理会社の社員だった。
「仮眠室が嫌だったら地下の機械室で休めばいい。霊感が強い人はみんなそうしてたよ。
前の警備会社がそのことで揉めて、夜間は機械室を使うようになったから。
まあ音が煩いのと、空気が悪いのを我慢すれば、夏以外は過ごせるかな」
と、もう諦めろという感じの口調だった。
自分は霊感が全くないので「多分平気です」と答えたが、初日から仮眠室の様子は変だった。
まず物音が多すぎる。
誰かが自分の存在をアピールしているような感じ。
それを無視してテレビを見ていると、勝手にチャンネルが変ったりする。
部屋の明かりをつけっぱなしで横になると、畳の上を誰かが歩くような音が聞こえる。
福隊長に言わせると「慣れればどうってことない」とのことだったが、バイトして二ヶ月、一度も仮眠はできなかった。
シフトで一緒になるバイトの噂によると、仮眠室に出るのは「女か子供の霊」らしかった。
うとうとしかけて金縛りに遭い、その時に姿が見えたり声が聞こえると皆口にしたが、こちらは一度も金縛りの経験がなく、それがどんな状態なのか想像もできなかった。
親しくなった社員のOさんによれば「体は眠っているのに、脳だけが起きてしまう睡眠障害の一つ」らしかったが、それでパニックを起こすと幻覚や幻聴を体験するとのことだった。
それでも「金縛りに遭った人が全員女と子供の姿を見た」ことの説明にはならないと反論する人もいて、そういう連中はほぼ「機械室休憩派」だった。
仮眠室を使うのは副隊長と自分、副隊長補佐のOさんのみ。
夏休みで半月間連続勤務することになったある日、Oさんから自分も金縛りに遭い「子供」の霊を見た。
その子供が耳元で「何か」呟くが、その声を聞いてはいけないと言われた。
いったい何を呟いたのか訊ねると、
「それが幻聴なんだよ。
なぜ子供が幽霊になったか、自分が無意識に作り上げたストーリーを聞いているようなもんだ。
そういうのを信じると、幻聴だけでは済まなくなるぞ」
と言われた。
そして本部(本社)からも、連続勤務して大丈夫か?これまで誰も経験したことないが、という問い合わせが福隊長にあったそうだ。
「仮眠室では寝ないし、枕が変ると眠れないっす。
ずっとテレビ見てれば、変な物音も気にならないっす」
と返答した。
そしてお盆休みに入る前日、二週間が何事もなく過ぎていた。
ただ、夏休みに帰省した友人と連日昼間遊び、その日はあきらかに睡眠不足だった。
勤務中に睡魔に襲われ、何度も顔を洗ったりしたが、いよいよ1時の休憩時間になった。
機械室で仮眠を取ろうと思ったが、その夜はボイラーの修理作業で使えなかった。
「一度くらい金縛りも経験しとくか」
仮眠室の畳の上に大の字になった時、幽霊の怖さよりも、睡眠の欲求が勝っていたと思う。
子供の声で目覚めた時、指先すら動かせなかった。
仰向けになったまま、姿に見えない子供の声が耳元で大きくなっていく。
「助けて、助けて」
最初はそう囁いていたが、相手の方へ顔を向けようとして、徐々にその声が泣き声から叫び声に変っていった。
「怖いよおおおおおー、助けてええええええー」
鼓膜が破れんばかりの絶叫で気を失いそうになりながらも、必死に体を動かそうともがいていると、すっとその声が消えた。
首が動いたと思った瞬間、寝ている自分の横でドサッと音がして、薄目を開けた女性の顔が目に入った。
驚きのあまり悲鳴を漏らすと、ふいに体の自由が戻った。
部屋の電気は煌々とついていたし、週刊誌やテレビのリモコンも目に入った。
壁の時計を見ると二時四十分。
自分でもよく分からないが、すぐにテレビをつけようと思った。
枕もとのリモコンに手を伸ばしたが、黒いプラスチックの感触がなかった。
おかしい、おかしい、おかしい、おかしい、再び鼓動が速まり、突然目の前が真っ暗になった。
そこで初めて金縛りが解けていないことに気づくと、今度は足元から荒い呼吸音のようなものが聞こえてきた。
来るな、来るな、来るな、そう必死に念じながら、この場所で女と子供が殺されたんだと閃いた。
じゃあ、誰が殺したんだ?そう思った瞬間、男の激しい吐息が聞こえてきた。
それもまた近づいてくる。
逃れようとして必死に体を動かそうとすると、まるで押さえ込まれるかのように、胸が激しく圧迫され、呼吸ができなくなった。
おそらくそれで気を失ったのだろう。
その後、Oさんの声で目が覚めた。
体を起こそうとして、胸の辺りに鈍い痛みが走った。
思わず顔をしかめると、Oさんは何かを知っているような口ぶりで話しかけた。
「肋骨の圧迫骨折か。ちょっとヒビが入った程度だけど、ここではもう働けないな。
まあご苦労様だったね。シップすれば一月で痛みはなくなるよ」
結局なぜその仮眠室に幽霊が出るかは分からなかった。
ただ、その施設が建てられる前、そこに住宅があったということは確からしい。