「人間をついばむカラスはすぐ殺せ」
「でも、そんなカラス見たことないよ。カラスは人間が近づくと逃げて行くよ?」
「見たことがないならいい。だけど、見つけたらすぐ殺せ」
「なんで?」
「・・・」
俺がまだ幼かった頃。
まだ祖父のする昔話が面白いと感じていたあの頃。
もう少しで夢の世界に入ろうかという時に、祖父はこの話をするのだ。
人間をついばむカラスはすぐに殺すんだ、と。
なんで?と理由を聞くと祖父は押し黙り、そのうち俺は眠りにつく。
翌朝になると不思議と心に残っていなく、改めて祖父に尋ねることはなかった。
バジリスクという、海外の化け物がいる。
某忍法の漫画でかなり有名になったと思うが、これとよく似た東北の化け物を知っているだろうか。
似ているというのは語弊が生じるかも知れないが、とにかく産まれ方は似ているはずだ。
それと、俺の故郷は東北のとある町だったから、関西の部落差別というのはよく分からない。
○○部落という言葉は一般的に使われていて、もちろん差別の対象になんてならなかったから、単なる地区の名称として使われていた。
前置きが長くなってしまったが、俺の住む部落にだけ伝えられる話がある。
『人間をついばむカラスはすぐ殺せ』、というものだ。
話は遡って、俺が高校生の頃の事だ。
「人間をついばむカラスが見つかった。これから殺しに行くからお前も手伝え」
「嫌だよ。部活で疲れてるんだ。それに、カラスなんて放っておけばいいじゃないか」
「ダメだ。部落の男が総出でカラスを探してるんだぞ。お前も探してくれないと困る」
大年寄りの祖父が行くのに、若い俺が行かないという選択肢は無かった。
俺は軍手を付けて、大きめの草刈り鎌を渡される。
じいちゃんからは、汗と畑仕事の後の独特な香ばしい臭いがした。
「じいちゃん、畑仕事した後はちゃんと風呂入れよ。くっさいよ?」
「今日は肥溜め使ったからな。くっさいのは仕方ない。風呂入っても肥溜めの臭いは取れないんだよ」
そんな話をしながら、祖父と俺は近くの林まで歩く。
この頃の田舎道といったら、爽やかな青草の香りと強烈な肥料の香りが混ざり合って、『くっさい』という表現がピッタリだった。
「おう、やっと来たかい。カラスはまだ見つからねぇから、お前ぇらも頑張ってくれよ」
林に着いて最初に見つけたのは、部落長の五月女(そうとめ)さん。
みんなからは親しみを込めて『とめきっつぁん』と呼ばれていた。
「とめきっつぁん、おばんです。例のカラス、この林で見つかったの?」
「んだよ。じいちゃんから聞いてねぇのか?ここで昼間に子供たちが襲われたんだよ」
どうやら、夏休みで林で鬼ごっこをしていた小学生がカラスに襲われたらしい。
この林は俺も幼い頃によく遊んだ林だった。
かつては自分の背丈ほどもあった林の草は、もう胸の高さにも届いていなかった。
祖父もとめきっつぁんに軽く頭を下げ、今の状況を聞いた。
「とめきっつぁん、部落の男は来れる奴はみんないるんだろ?獲物がいるのにカラスは襲って来ないのか?人間を襲うのは馬鹿カラスのはずだろう」
「そうなんだよな。子供が襲われてから、すぐどっかに隠れてしまって出て来ねぇんだ。まぁ、焦ることはねぇよ。本当に人間をついばむカラスなら、すぐ我慢できずに出てくんだ」
話を聞くと、件のカラスは相当な阿呆(あほう)のようだ。
人間を見つけると、狂ったように襲って来るらしい。
手で払っても逃げないから、草刈り鎌で簡単に殺せるそうだ。
「とめきっつぁん、なんでそのカラスは殺さないとダメなんだ?放っておいていいんでないの?じいちゃんに聞いても教えてくれないんだ」
「まぁ、教えてやってもいいんだけど、お前、まだ学生だべ?あんまり難しいこと気にすんな。口で伝えるのはダメなんだ。見せないと」
「見せる?そのカラスを?」
「ちげぇよ。んーとな・・・。とにかく、口で伝えるのはダメなんだ。二十歳になって、まだこの部落に住んでたら見せてやるから」
俺は、とめきっつぁんと一緒にカラスを探しながら、林の奥にある森へと進んでいた。
祖父は俺たちとは別の方向を探している。
森の中まで入ると、もう畑の肥料の匂いはしなくて、夕暮れ時の特有の涼しい草の香りで一杯だった。
部活で疲れた身体に心地よい、爽やかな青草の香り。
涼しい風と、まだ夜にならないからか、遠慮がちに聞こえてくる虫の声。
だから、その時は危機感なんてまるでなかった。
言うなれば、部活で疲れてだるい身体の回復時間。
しかし、その気分を壊す怒号が聞こえるのだ。
「なんてことをしてくれたんだ!このクソアマが!!なんて大馬鹿なんだ!!」
聞こえてくるのは、自分たちのいる位置から東。
夕日が沈むのと大体逆の方向だった。
「じいちゃんの声だ」
「んだな。何事だ?声が聞こえるってことは、すぐ近くだ。こっちから・・・」
「おーい、じいちゃん。どうしたんだー?」
草を掻き分け、東へと進む。
祖父の姿はすぐには見つけられなかったが、誰かのことを『クソアマ』なんて言う祖父は、後にも先にもその時だけだったから、異常事態だってことは何となく分かっていた。
「うああああああああ!!!死んでる!!じいちゃん、この人死んでるよ!!」
そう叫んだのはもちろん俺。
まさか首吊りの死体を見るとは思っていなかったから。
死んでからどのくらい時間が経っているのだろうか。
頭部は禿げ散らかり、着ている服からでしか女性であることが分からない程、首吊り死体は腐敗していた。
爽やかな青草の香り?
そんなものを感じていた自分は、一体どこの馬鹿だろう。
初めて嗅ぐ、人間の腐った臭い。
くっさい、腐った臭い。
ゆらゆら揺れるその死体に、祖父は罵声を浴びせていたのだ。
この野郎!よそ者が!クソアマが!、と。
「じいちゃん、何してんだよ!?死んでんじゃんか、この人!うああああ!!」
近寄れない俺を追い越して、とめきっつぁんが一歩踏み出す。
半ばパニックになって、とめきっつぁんの存在を忘れていた。
「・・・」
とめきっつぁんは何も言わなかったが、死体に向かって持っていた草刈り鎌を投げつける。
彼もまた怒っていた。
「どうしたんだよ、二人とも!死んでるってこの人!!どうする・・・。どうすればいいんだよ!?」
「この、クソ・・・もう遅い。カラスが見つからないのは、このクソアマのせいだ。こいつのせいだ」
何が正しくて何が間違いなのかは、高校生の俺には判断できなかった。
祖父ととめきっつぁんの声を聞いて次第に部落の男たちが集まって来たが、同じように罵声を浴びせるジジイもいれば、俺と同じで首吊り死体を直視できない中年のおやっさんもいた。
「もう夜が来る。たぶん明日だ。みんな、出来れば今日中に蜘蛛を見つけるんだぞ」
よほど興奮しているのだろうか、とめきっつぁんは唾を撒き散らしながら皆にそう告げた。
俺たちはゾロゾロと森を抜け、林を抜け、家へと帰る。
玄関先では俺の父が帰りを待っていた。
父は仕事から帰って来たばかりらしく、まだネクタイをしていた。
祖父から事の顛末を聞いた父は、「明日すぐ、蜘蛛を探す」と言っただけで、俺に声をかけることはなかった。
聞きたいことは山ほどあったが、尋ねることは出来なかった。
翌朝の事だ。
いくら田舎の高校生とはいえ、朝5時に起きるほど健康的ではないのだが、父から叩き起こされた。
「これからドスコイ神社に行く」
ふざけた名前の神社だが、通称ドスコイ神社。
部落の子供が必ず一度はその敷地で相撲をとって遊ぶことから、その神社はドスコイ神社と呼ばれていた。
「昨日の事で?」
「そうだ。人間をついばむカラスのことだ。ドスコイ神社にあるんだ。お前はまだ若いし怖がらせたくはなかったんだけど。まぁでも、二十歳になったらなんて目安でしかないからな。お前は妙に落ち着いてるから見せても大丈夫だろう」
「父ちゃん、今日は仕事休むの?」
「ああ。お前も今日は部活は休め」
父からボンと、濡らしたタオルを顔に向かって投げられる。
洗面所にも行かせてくれないらしい。
すぐに身支度をして、ドスコイ神社へと向かう。
朝5時に起こされたとか、大会が近い俺に部活を休めとか、普通なら俺が怒っても不思議じゃない事は沢山あったけど・・・。
みんなが過剰に反応する『人間をついばむカラス』の正体がとうとう分かるんだという期待に、些細な事は気にならなかった。
「父ちゃん、人間をついばむカラスって、妖怪か何かなの?」
「カラスはカラスだ。ただの鳥だよ。それにな、もうカラスじゃないんだ。俺たちが殺さないといけないのは」
「殺すって・・・」
「ほら、もうドスコイ神社だ。あの本殿の中にあるから。俺に聞かれても上手く説明できないし、俺だって・・・いや、なんでもない」
「???」
いつのまに預かっていたのか、父はごつい鍵を取り出して本殿の錠を開ける。
扉を開けると、ほんのりと墨の香りがした。
本殿の中には御神体なんて無かった。
いや、御神体どころか何も無い。
ただの部屋。
「何も無いけど?」
「何も無いか」
「・・・何も無いよ」
「・・・」
「いや、何も無いから・・・え?」
その時、懐中電灯の照らすその先には微かな、しかし確かな違和感。
茶色のはずの本殿の壁が、ところどころ黒いのだ。
経年による染みか?
いや、そうではなかった。
明らかに人為的な曲線。
壁一面どころか、天井にまで描かれている大きな絵。
これは絵だ。
壁をなぞるように光を這わせ、その絵が何なのかを見る。
その絵の物語は、右の壁から奥の壁へ、そして左の壁を経由して天井で終末が描かれていた。
墨で描かれた真っ黒な鳥。
その鳥が作る漆黒の巣。
その巣から産まれる真っ黒な卵。
その卵が割れると、そこから血しぶきをあげる真っ黒な・・・人間?
周りに描かれた『普通の』人間を、その黒い人間が蹂躙(じゅうりん)している。
俗な言い方をすると、ぶっ殺している。
そして最後は、その黒い人間は小さな無数の蜘蛛に囲まれ、大きく両腕を広げていた。
信じる信じないとかではなく、それ以前の問題だった。
ただ、その絵が正常な人間が描いたものではないことぐらい、美術2の俺にも分かっただけだ。
「何この絵、気持ち悪りぃ」
「神社の入り口の石碑な。あれ、流暢な文体で読めたもんじゃないが、もう高校生だからなんとなく分かるだろ。『口伝は駄目だという口伝』。そう書いてある」
「だから絵で伝えようって?」
「そう。お前はがっかりするかも知れないが、じいちゃんも、とめきっつぁんも、本当のことは知らないんだよ。だけど、昔の人は厳しかったからな。お前よりも父ちゃんが、父ちゃんよりもじいちゃんが、カラスを怖がるのはしょうがないんだ」
つまるところこの絵は、先人たちが描いた化け物への防衛策。
「父ちゃん・・・この絵。伝えたいことは大体分かるけど、でも分かんないよ」
「そうだろうな。俺もそうだった」
「教えてよ」
「お前がこの絵を見て思うことが全てなんだよ。口伝はダメなんだ。お前なりに解釈して、部落の飲み会で自分の考えを語り合って、怖がって、それを繰り返すうちに、『人間をついばむカラス』は殺さないといけないと、みんな思うようになるんだ。だけどな・・・、これだけは口で伝えることになってるんだ」
そう言って、父は人差し指を下に向ける。
つられて下に懐中電灯を向けると、大きな太い字で『人間』と書いてあった。
「ニンゲン?」
「違う。これは『ジンカン』と読む。これから殺すんだ」
正確には『人間をついばむ』ではない。
カラスは、髪の毛を狙っているのだ。
人間の髪の毛だけで黒の巣を作るために。
そう思った。
その日の夕方には、部落の家という家の玄関先に蜘蛛の巣が張られていた。
ミニトマトを育てる時なんかに立てる支柱を2本地面に刺して、その間に巣食わせていた。
「変な宗教団体みたいだ」
理由を知らなければ誰だってそう思うだろう。
しかしまぁ、よくみんな上手い具合に蜘蛛の巣を張ったものだった。
「必死になればな。こうしないと死ぬかも知れないって思ったら、意外と出来るもんだ」
「あの絵の通りなら、ジンカンを殺すのは蜘蛛ってこと?」
「・・・そうだな。みんなそう思ってる」
「あの絵を描いた人、頭悪いね。文章で残せば良かったじゃないか」
「その通りだな。だけどきっと、頭悪いから文章では残せなかったんだよ」
父と俺は一際大きな女郎蜘蛛を捕まえて、巣食わせた。
祖父はというと、他の家の蜘蛛の巣作りを手伝っていた。
「うちの蜘蛛より大きいのは、とめきっつぁんのとこぐらいだね」
父は小さく「そうだな」と言うと、さっさと風呂に入ってしまった。
いつもより無口なのは仕方ないだろう。
こんな日なんだから。
その日の夕飯は夜9時近くになってしまったが、その時間になっても祖父は帰って来なかった。
正直、俺は『ジンカン』なんて信じきれていなかったから、「じいさんまだ頑張ってるのかね」と半ば呆れていた。
「大変だ!やられた!とめきっつぁんがやられた!ジンカンだ!」
真っ青な顔をして、白いシャツに鮮血を付けた祖父が勢い良く茶の間に駆け込んで来た。
固まる母と俺を尻目に、父はゆっくりと箸を置き、頭をポリポリと掻いて、祖父にまず落ち着くように促した。
「親父、どういうことだ。とめきっつぁんはどうなってる?」
「死んだ!完全に死んだ!これを見ろ、とめきっつぁんの血だ!まずいぞ、蜘蛛じゃない!ジンカンは蜘蛛じゃ殺せないんだ!」
「落ち着けって!とめきっつぁんの家族はどうした?あそこは小さな孫もいたはずだろう」
父は努めて冷静だった。
パニックに陥っている祖父の断片的な話を紡ぎながら、事実確認を急いだ。
「家族はみんな、公民館に逃げて無事だった・・・。だから公民館で見回りから帰ってきた俺に、とめきっつぁんの様子を見てきてくれって!とめっきっつぁんはやられてた!」
「やられてたって、どんな状態だったんだ?」
「穴だらけだった!血が噴き出していた!」
祖父がその時に思い出していた光景はどんなものだったろう。
祖父はその場で吐いた。
カン、カン、カン。
消防の鐘が聞こえた。
部落の住民全員に知らせる、緊急事態の鐘の音。
「公民館に行くんだ。今日はみんなで集まるんだ。守るんだ」
そう言ったのは祖父だったか、父だったか、母だったか、それとも俺だったか。
それを覚えていないのは、その直後の衝撃が大きすぎたからだ。
「父ちゃん、なんか臭わない?」
「・・・ああ。なんか臭いな」
「これ、最近嗅いだことのある臭い・・・これって・・・」
最近どころじゃない。
昨日嗅いだ。
死んだ人間の腐った、くっさいあの臭いだ。
「じいちゃん、死んだ人の臭いがする!」
「俺じゃない・・・。この臭い、外からするぞ」
父は勢い良く立ち上がり、物置へと走った。
母は相変わらず茫然自失で、身支度をするでもなく座ったままだった。
ドン!と玄関の戸を叩く音が響く。
何事かと思い、祖父も俺も戸の方を見て固まる。
一瞬の静寂。
「・・・ジンカン?」
今まで黙っていた母がそう言った瞬間だった。
ドンドンドンドン!!
正常な人間なら、こんな戸の叩き方はしないだろう。
ドン、ドン、バリン!!
戸が壊れた。
俺たちが今いる茶の間は、玄関から廊下と襖を挟んですぐだったから、それが目の前に現れるのもすぐだった。
ジンカンは存在した。
「うわあああああああ!!化け物だ!ジンカンだ!」
人間の形をした、人外の化け物。
その身体は絵の通りに真っ黒だった。
その腐って爛(ただ)れた身体には、人間でいう左腕が無かったが、その代わりに右腕の動きが異常だった。
その動きをどう言い表せばいいのか分からない。
多分、どんな単語を組み合わせても表現できない。
こんな化け物を蜘蛛で殺せると本当に思っていたのか。
ジンカンを見て本当のパニックに陥ったのは母だった。
「はわあああああ」と叫びながら両手を胸の前で震わせ、もはや立つことすら出来なかった。
ジンカンはその顔を人間では考えられない角度にぐるりと回転させ、明らかに祖父に狙いを定めた。
祖父は動けないでいた。
「どけ!離れろ!」
その時だ。
父がバケツ一杯にガソリンを汲んできて、ジンカンに浴びせたのだ。
ジンカンは微動だにせずその触手を祖父に伸ばしたが、父が火を点けると、まるで人間のように悶えながら廊下に転がった。
「これが幽霊とかじゃないならこれで死なないとおかしい、殺せるなら、死なないとおかしい」
息を切らしながら、父は呪文のように呟いていた。
転がるジンカンは叫ぶこともなく、空気の抜けていく風船のように萎(しぼ)んでいき、炎と共に消えた。
「何だったんだ・・・」
祖父はやっぱり年寄りだからか、腰が抜けて動けなかった。
俺は公民館に行くよう、事の顛末のメッセンジャーの役目を頼まれた。
父と祖父は多少なり残った火の完全消火をし、その時の母はというと、まるで使い物にならなかった。
初めは信じられないでいた部落の住民も、俺の家の有り様と、とめきっつぁんの遺体を見たら何も言えなくなった。
翌朝の事だ。
繰り返しになるが、いくら田舎の高校生とはいえ、朝5時に起きるほど健康的ではないのだが、父から叩き起こされた。
「疲れているだろうが、悪いな。これからドスコイ神社に行く」
「昨日の事で?」
昨日の朝と全く同じやり取り。
しかし、神社への道すがら、父は教えてくれた。
「あの絵な・・・俺は前から思っていたんだ。『蜘蛛がジンカンを殺す』んじゃなくて、『蜘蛛を目印にジンカンが襲う』んだと。
もちろん他の人にも言ったさ。じいちゃんにも、とめきっつぁにもな。でも誰も同意してくれない。なんで俺以外そう思わないのか不思議だった。あの絵の描かれ方だと、まるで蜘蛛はジンカンの手下って感じだろう」
「そう言われるとそうとしか見えないかも知れないけどさ」
そうして父と俺は、改めて神社に描かれた絵を見る。
「父ちゃん、俺、今思ったんだけどさ・・・」
「何だ?」
「この話、天井から始まるんでないの?」
この絵は右の壁から読むと、カラスが産んだ卵から血しぶきをあげるジンカンが孵(かえ)り、人間を殺しまくって最後には蜘蛛にやっつけられる話になる。
だが、天井から読むとどうだ。
蜘蛛を従えるジンカンは人間を殺して、最後にはカラスの産む黒い卵で血しぶきをあげて死ぬ。
そんな話になる。
「本当は逆だったんだ・・・」
父はポツリと言った。
「『人間をついばむカラス』がジンカンを産むんじゃない。そのカラスの卵がジンカンを殺す卵だったんだ」
本当にそうなのか。
本当は違うのか。
それは今でも分からない。
あれ以来、ジンカンどころか、人間をついばむカラスも見つかっていないから。
だけど、たぶん本当だ。
なぜなら、あの時のジンカンはもう現れないから。
死んだのだから。
実は、この話はこれで終わっていなくて後日談もある。
最後に、部落の子供に『人間をついばむカラスはすぐ殺せ』と教えることはなくなった。
むしろ、カラスは放っておくように教える大人が増えている。
部落で毎年行われていた、『カラス追い祭り』なる祭りもなくなった。
そして今の部落の長は、ジンカンに殺されたとめきっつぁんの息子。
彼もまた、みんなから親しみを込めて『とめきっつぁん』と呼ばれている。
後日談
「とめきっつぁんの葬式は?」
「今日明日は無理だろうな」
ドスコイ神社からの帰り、父と俺はとめきっつぁんの葬儀の心配をしていた。
俺は見ることは叶わなかったが、昨日の夜のうちに父はその凄惨な遺体を見てきたらしい。
「葬式には、とめきっつぁんの親戚も来る。お前はもう分かってると思うが、絶対に言うなよ。この部落に住んでいない人間に教える必要はないし、口で伝えるのはダメなんだ」
「・・・何で?」
「言わせるな。言わなくても分かるだろう」
また『口伝は駄目だという口伝』か。
くだらない。
それでとめきっつぁんは死んだというのに。
なんで口伝はダメなんだよ。
「きっと理由があるんだ」
俺の心の中を見透かしたかのように、父は優しい口調で言った。
「家を直さないとな。ガソリンじゃなくて灯油にすればよかった」
「最初、父ちゃんだけ逃げたのかと思ったよ。何も言わないで物置に行くんだもの」
「馬鹿言うな。お前だけならともかく、母ちゃんもじいちゃんも居たんだぞ。俺だけ逃げられるか」
もちろん冗談。
もしあの場に父と俺だけしか居なかったとしても、父は逃げたりしなかったろう。
家に帰ると、駐在さんが玄関口で待っていた。
余程イラついているのか、足元には煙草の吸殻が散乱していた。
父は駐在さんのことを『赤坊主』と呼んでいた。
いつも赤のインナーシャツを着て坊主だからではなく、いや、実際そうだったのだが。
何と言うか、控えめに言って、父と駐在さんの仲は最悪だった。
「おいこら赤坊主。そこは家の敷地だ。煙草を拾え」
父と駐在さんは同級生だと聞いていたが、その日は父の方が優勢だった。
前の日の夜、恐怖に駆られ一番早く公民館に逃げ込んでいたのが、あろうことか駐在さんだったからだ。
「朝っぱらから何の用だ。仕事しろ」
「うるさいよ。俺だってお前の所なんか来たくなかった」
駐在さんは煙草を取り出して火を点けると、大きく一回吸って俺に向かって煙を吐いた。
俺も駐在さんが嫌いになった。
「赤坊主、今すぐ帰るなら許すから、すぐ駐在所に戻れ。昨日、俺の家の中は見せただろう。今さら警察じみた真似するつもりか」
「お前はいつだって俺を馬鹿扱いするんだな。俺だってこの部落の人間だ。俺だってとめきっつぁんの死に様は見た。何がとめきっつぁんを殺したかくらい分かってる。お前の親父さんにどうしても聞きたいことがあってな。でも部屋から出てきてくれないからお前を待っていた。それにしてもお前の嫁さんは何なんだ?昨日の事、さっぱり憶えていないじゃないか」
「帰れ」
駐在さんを言い負かす父は爽快だったが、次第に二人は俺に聞こえないようにコソコソ話をし始めた。
父の表情が変わり、俺をちらちらと見て、駐在さんは相変わらず煙を吐いていた。
「赤坊主、とりあえず帰れ。俺は見てないから意見は控える。親父には俺から確認する」
「そうしてくれ」
駐在さんはいかにも不機嫌そうな顔をしていたが、今日の父には勝てないらしく、足元の煙草を足で適当にまとめると、手の平に包んで帰って行った。
昼食時になっても、祖父は部屋から出てこなかった。
母はというと、情けない話だが本当に昨日の晩の事を憶えていなかった。
そうでなければ、母も部屋に篭っていただろう。
「本当なのよね?そうでなきゃ、家が焼けているのはおかしいものね」
昼食の後、父と俺は林に向かっていた。
「林のとこ行くぞ!」と言われたから、てっきり大工の林さんの所へ行くものかと思っていたのだが・・・。
「父ちゃん、『林』って林さんの事じゃなかったの?紛らわしい言い方しないでよ」
「カラスが出た林の方だ」
「探すの?」
「確かめるんだ」
林の前で、はたと足が止まってしまった。
色んな事が重なりすぎて思い出すまで忘れていたが、林の先の森の中には首吊り死体がある。
正直、あの臭いはもう体験したくなかった。
「珍しく赤坊主が仕事したらしくてな。一昨日のうちに首吊り死体は片付けたそうだ」
本当にあの駐在さんが腐乱死体を片付けられたのかは不安だったが、父を信じて林を越えて森に入った。
「いいか、真上を探そうとするな。斜め先を見上げるんだ」
「分かってるよ。俺だって鳥の巣を見つけるのは得意だったから」
強がりを言ったものの、大きくはない森とはいえ、鳥の巣ひとつ見つけるのがどれだけ大変か想像してほしい。
その上、昨日の今日でこの森の中だ。
物凄く怖いのだ。
「カラス、飛んでないね」
「あんまり背の高い木はないな。カラスは高い木に巣を作るんだ」
「それ、見つけるのって無理じゃないの?」
「探して見つけられなかったら仕方ない。探すだけ探してみよう」
父に言われた通り、斜め上を注意して探しながら、とうとう黒い巣を見つけた。
驚くことに、俺でも背を伸ばせば手の届く高さの枝に、髪の毛の塊があったのだ。
「もしかして・・・これ?」
もしかしなくてもそれだった。
本当に髪の毛だけで作られたその巣の中には、まるで人間が作ったような艶のある漆黒の卵があった。
しかも、鶏の卵ぐらいに大きいのだ。
「よく見つけられたね」
「必死になればな。こうしないと死ぬかも知れないと思えば、意外と出来るもんだ」
いつぞや聞いたそのセリフは、その時は何のことか分からなかった。
卵は持ち帰った。
さすがに家に帰った頃には祖父が部屋から出てきていたが、黒い卵を見るなり「ギャー!!」と叫び声をあげて、また部屋に篭ってしまった。
「割るぞ」
「割るの?!」
「割る。神社の絵に従うなら、この卵を割ってジンカンの最期だ。ガソリンかけて焼け死んだのなら、それに越したことはないが」
「・・・。さすがに割るのは怖いね。ジンカンが出てくるかも」
父はくすりと笑った。
俺が冗談で「ジンカンが出てくるかも」と言ったのが分かっていたから。
「この卵が割れていないのが何よりの証拠だな。ジンカンはカラスの卵からは産まれない」
「でも中身は気になるね。何が入っているんだろう」
父は、まさかのグーパンチで真上から卵を叩き割った。
勢い良く割ったのは、きっと父も多少なり怖かったからだろう。
「・・・何も入ってないな」
「何か入っていても、グーパンで叩き割ったら潰れるでしょ」
「いやいや、本当に何も入ってない。ほら、拳もキレイなままだ」
その時だ。
「ちょっとあなた、廊下に何塗ったの?」
母がつま先立ちで茶の間に入ってきた。
「廊下にペンキでもこぼしたの?真っ黒なんだけど」
父と俺は顔を見合わせて、そういうことかと頷き、母を安心させるためにこう言った。
「うん。ペンキをこぼしてしまったんだ」
何も臭いはしなかったから。
くっさい臭いはしなかったから。
その日の晩だ。
父はこっそりと教えてくれた。
「朝な、赤坊主の野郎が来てただろ。あいつ、『首吊り死体には最初から左腕は無かったのか?』って。もう終わったことだから、じいちゃんには言うなよ」
俺は強く頷いた。
その夜は、よく眠れた。
とめきっつぁんの葬儀は、部落をあげて行われた。
とめきっつぁんの親戚も来ていたが、遺体を見せることは決してなかった。
彼は『不運な事故』で死んでしまい、今もそういうことになっている。
その後、紆余曲折あって、ドスコイ神社のあの絵は描き換えられた。
描いたのは、大工の林さんと駐在さん。
彼はがさつに見えて、繊細な絵を描くのだと父と感心した。
ただ、大きく変わったことがひとつだけ。
絵以外は何もなかったドスコイ神社の本殿には、立派な御神体が置かれた。
まるで人間が作ったかように美しい、漆黒の卵だ。
父と俺が見つけた卵は二つあったから。
『口伝は駄目だという口伝』
もうジンカンが現れないなら、ドスコイ神社はただの神社になるのだろう。
誰も伝えないのだから、きっとそうなる。