長い話になるんだけど聞いて欲しい事がある。
人それぞれ好きな方角ってあると思う。
自分は南が好きで、家も南向きの大きな窓のついた所を選んだし、当てもなくドライブに行く時もほとんどは南の方へ走るんだ。
南側へのこだわりは小さい頃からあって、親にも「変なところにこだわる子供」と思われていたみたい。
子供の頃は南の方をみてボーっとしていると、なぜかなつかしくて切ないようなそんな気分になることが多かった。
それが何なのかもわからず、大きくなって高校生になったあたりで気がついたんだ。
初めて恋をして、人を好きになったとき、そんな感覚だった。
方角に恋してるのかよ、バカらしい……と思って誰にも言えなかった。
専門学校に入って免許を取り車を買った。
一気に活動範囲が広くなり、色々な所へ行った。
ある日の夕暮れ時、不意に車を停めて外へ出た。
そこは田んぼの真ん中、道路が南へスーっと抜けていて周りには山、遠くには雲しか見えない。
風の匂いをかいだ瞬間、一瞬頭に映像が流れた。
どこかの町なのか住宅街なのか……
すごくなつかしい感じ。
最初はココまでしか頭に浮かばなかった。
それから似たような景色を見るたびに、ちょくちょくその映像が流れるようになってしまった。
さらにその現象は悪化して、授業中、南の窓から遠くの山や川を眺めているとき、周りの音が聞こえなくなるほど映像にのめりこんでしまう。
正直精神的なものを疑った。
親には言わずに病院へ行ったが、統合失調症や鬱のたぐいではないと言われた。
わけもわからず、ただボーっとする事も増えた。
何をしていてもその映像のことばかりを考えた。
何度目かの通院の時に、医師がこういう話があると話してくれた。
「私は畑違いだし、そういう人を診た事がないから断言はできないけれど、共感覚というものがあるそうだよ。
有名な話だと文字に色がついて見えたり、匂いを感じたりと、そういう症状なんだけどね。
ただキミの場合は当てはまらない事も多い。
普通に考えれば精神的な部分を問題視する所だけど、今までやった検査では異常と呼べるものはまったくない。
だからキミが故意に作り出した……
要するに作り話でないとすると、そちらも考えに入れたほうがいいのかもしれない」
家に帰って早速調べた。
やはり自分の症状に似たものは何一つなかった。
テストもしてみたけど、文字や数字に色や匂いを感じることはなかった。
結局まったく違うものとして、あきらめざるをえなかった。
けど生活に実害があるというわけではなかった。
気を失うわけでもないし、途中で思考を戻す事もできた。
だからあまり気にしないことにした。
昔から絵を描くのが好きで、漫画も描いている。
だから感受性とか想像力とかそういうものなのだろう。
むしろ他の人よりも少しだけ秀でているのかもしれないぞ!と楽観的に考えた。
二度目の夏休み。
色々と煮詰まった自分はドライブへ出かけることにした。
県外で遊べるだけのお金はバイトで稼いでいたし、気分転換でもしないとアイデアもでないと考えた。
朝早く、五時ごろだっただろうか、家を出発した。
親にはいつもの放浪癖だと笑われて見送られた。
三時間ほど走り、海沿いにある住宅街のような所に出た。
とても和やかで、おじいさんやおばあさん、男の子や女の子、道行く人がみんな「おはよう!」とあいさつをするようなところだった。
車を公園に停め、デジカメとスケッチブックを持って歩きまわった。
朝早くだったけど、子供達は公園でゲームをしたり、走り回ったりしている。
夏休みといえば昔は朝から遊んで家に帰って爆睡したものだ、となつかしく感じた。
次の瞬間、今までにないくらい胸が締め付けられるような感覚があった。
少女マンガの『キュン』という文字がぴったりだった。
落ち着かなくて、あたりを見回して、風が吹くたびに胸が締め付けられた。
またいつもの映像がフっと浮かんだ。
誰かと手を繋いで歩いている。
誰かが曲がり角で手を振っている。
誰かが何か声をかけている。
誰かと繋いだ手は汗をかいていた。
わからなかった。
誰なのか、何なのか、どこなのか……
さっきまでは暑さはあまり感じていなかったのに、今は喉が渇く、汗がにじみ出る。
水分を求めて自販機を探した。
すぐにお茶を買って一気に半分ほど飲んだ。
胸の締め付けは動悸に変わり、一瞬「死ぬんじゃないか?」と感じ、本気で周りに助けを求めようと思った。
どれほど苦しそうな顔をしていたのだろうか、ふと足元に人影が見え、声が聞こえた。
「大丈夫ですか?」
汗だくで顔を上げると女の子が心配そうに立っていた。
携帯電話を持って、困った顔をしている。
その瞬間、今までの動悸が嘘の様に治まった。
それよりも、その子がすごくなつかしい人のように思えて仕方がなかった。
女の子もキョトンとした顔でこっちを見ていた。
「あの、お久しぶりです?」
女の子がそう言った。
「あ、ひさし……ぶりです」
少しどもって答えた。
女の子はわざわざ家まで帰って母親と一緒にタオルに巻いたアイスノンを持ってきてくれた。
お母さんは看護師らしく、軽い熱中症じゃないかしら?と近くの病院へ自分の車で連れて行ってくれた。
どこの誰かもわからない若い男を、自分の車で病院まで連れて行ってくれる人が、この世の中に何人いるだろう……
ありがたい事だけど少し心配にもなった。
点滴を終えて会計をしていると肩を叩かれた。
あの女の子がニコニコしながら立っていた。
「お父さんが迎えに来てくれるそうですから、車のところまでお送りします」
歩いて車まで帰るから大丈夫、と言ったが、看護服を着たお母さんがすぐに処置室から顔を出して「歩いてなんてダメだから」と言われた。
五分ほどして一台のワンボックスカーが病院の前についた。
プップッとクラクションが聞こえ、女の子が自分の手を引いて車へ連れて行ってくれた。
お父さんに、ご迷惑をおかけしまして……と言うとニコニコしながらオーバーアクションで手を振った。
「いい、いい、気にしないで!この辺はみんなこんなもんだからさ」
と、いぶかしむ事もなく車へ乗せてくれた。
十分ほど走ると見覚えのある景色が広がった。
お父さんが「車に乗ってついておいで」と言うので素直にしたがった。
さらに五分ほど走るとキレイな白い壁の家が見えた。
「ここうちの土地だから車停めて」
言葉にしたがって隣の空き地に車を停めた。
女の子が家のカギを空けて手招きしている。
見ず知らずの人に助けてもらって、あげく家にまで招かれるという状況は今まで生きてきて一度もなかったので正直困った。
自分がどうしたものかと悩んでいると、お父さんがスイカを抱えて車から降りてきた。
「女房からそうめんを食べさせてやってくれって言われてるからきなさい。大丈夫そんなにマズくないから!」
と苦笑いしながら背中を押してくれた。
家の中はクーラーが効いていて涼しく、室内犬が歓迎してくれた。
女の子がそうめんを冷蔵庫から取り出し、お父さんはスイカを切っていた。
オレはテーブルに座っているようにうながされ、足にじゃれ付く犬と二人の様子を眺めていた。
そうめんはコシがあって冷たく、めんつゆの塩分が身体に染み渡った。
お父さんは、なぜここに来たのか、学生?どこの学校?お酒飲める?と質問を繰り返した。
自分はひとつひとつにていねいに答え、女の子はニコニコしながら話を聞いていた。
お父さんはいつの間にかビールを飲んでいて、女の子は、お母さんにまた怒られるよ!と笑っていた。
「今晩はどうするの?もう帰る?」
二本目のビールを出しながらそう聞いてきた。
「さすがに三時間運転して帰る自信がないので、さっきの公園で車を停めて寝ようと思います」と言った。
すると女の子が「夜も暑いんでまた具合が悪くなりますよ?」と言う。
お父さんもうなずいてビールを飲んでいた。
「だったら客間が開いてるから泊まりなさい。一応ご両親にもここの住所と連絡先を伝えておいてね」と言い出した。
ココまで来ると『優しさ』を通り越して怖かった。
何かあるんじゃないか?ツボでも買わされるのかな?でも家にここの連絡先を言っておけって言ってたし……と頭の中でグルグルと考えが渦になって回った。
普通に考えれば断るべきだった。
けどそんなことよりも人に優しくされたうれしさや、女の子に感じたなつかしさが袖を引いた。
携帯で親に連絡を入れると驚いていた。
お父さんに電話を代わってもらい、母親とお父さんが
「いやいや大したことでは!」
「いえいえ申し訳ありません!」
と交互に言うのを見ていた。
その日はそのまま客間に泊めてもらえる事になった。
車へ荷物を取りに行くと、すぐに玄関からお父さんが顔を出してあわてた感じで言った。
「ごめん、泊まるとなると晩飯がないから買い物を頼みたいんだけど、オレ酒飲んじゃったから娘とスーパーまで行ってきてくれない?」
女の子は「自転車で行くから」と言っていたが、結構な量を買わなくてはいけないらしい。
すぐに車のエンジンをかけ「一緒に行こう」と誘った。
女の子は笑ってお邪魔します、と助手席に座った。
車に乗せるまで、女の子とはほとんど話をしなかった。
あまりおしゃべりではなく、ニコニコと笑っている子だった。
「いきなりこんな見ず知らずの男が家に泊まっても大丈夫かな?」
と聞くと笑って首を振った。
「見ず知らずじゃないですよ」
あれ?どこかで会っていたのだろうか?そういえば最初にあったときになつかしい感じがしたし、この子も「お久しぶりです」と言っていた気がする。
でも記憶にない。
三時間も離れた距離なら会うことなんて奇跡に近い……
「あの……ごめん、どこかで会った事あったっけ?」
「いえ……わかりません」
まるでチープなナンパだと思った。
明らかに初対面で名前も知らないのに「会った事ある?」と言うのはとても恥ずかしい。
けれどそんな気がしていた。
どこかで会っていた様な気がしていた。
「そういえば、名前お互いに知りませんでしたね。僕はアキって言います。キミは?」
「エリです、嶋田エリと言います。お父さんはトモカズでお母さんはモモエですよ」
全員の名前を聞いてもお互いにまったく覚えがない。
だけど不思議な事に、なんだか昔から知っているような気がしていた。
買い物を終えて彼女の自宅へ戻った。
すでに客間の準備がされていて、荷物を運び込ませてもらった。
十八時ごろお母さんが帰ってきた。
お父さんがすでに事情を話していたようで、仕事で疲れているだろうにテキパキとご飯の準備を始めた。
彼女も慣れた手つきで手伝いをしている。
その間、自分はお父さんと色々と話をしていた。
お酒が好きだとは聞いていたけど、深酒もせず、お母さんが帰ってからはいっさい飲んでいなかった。
これが正しいお酒の飲み方なんだろうな、と感心した。
夕食を終え、お風呂をいただき、客間へ入らせてもらったのが二十二時ごろだった。
明日は朝すぐに片付けをして出ようと思っていたのでそろそろ布団に入ろうかな、思っていた。
すると不意にドアをノックする音が聞こえた。
「私です」と彼女の声がしたので「あ、はい!」とすっとんきょうな声を上げた。
それから他愛のない話をした。彼女はまだ高校三年生であること、趣味、欲しい本やCDの事、色々と話した。
音楽の趣味は恐ろしいほどあっていた。
本の趣味はお互いに知らないことも多かった。
学校では友達はみんな体育系なので、なかなか本や音楽の話で盛り上がれないのだという。
結局一時ごろまでおしゃべりに夢中になってしまい、彼女がうとうとし始めたのでお開きになった。
翌朝、見事に寝坊してしまい、お母さんのご飯できたよ!という声で起こされた。
彼女はもう着替えてテーブルに座っていた。
お父さんはまだ寝ているようだった。。
朝食を終える頃にお父さんが起きてきた。
お母さんが仕事に行くから、と言うとお父さんはアクビをしながら手を振っていた。
お父さんが食べ終わった食器を片付けさせてもらうと
「お、すまんね」なんて言っていた。
それからすぐに「今日はもう帰るの?今晩一緒にお酒飲まないか?」と言われた。
「さすがに二日もお世話になるのは……」
「いいからさ、一緒に飲もうよ!」
「いえ、さすがに……娘さんもお母さんもやはり女性ですから……」
「大丈夫大丈夫!明日は女房も休みだからみんなで今晩バーベキューでもしよう!」
そんな押し問答を彼女はニコニコしながら見ていた。
結局その日、昼に帰ってきていたお母さんとお父さんの説得に負け、もう一泊させてもらう事になった。
バーベーキューは素晴らしくおいしかった。
お母さんもお酒が好きで、よく同僚を呼んでバーベキューをするらしい。
彼女も慣れたもので、庭の隅にある倉庫からバーベキュー台を引っ張り出していた。
自分はそれほどアルコールに強くないので、全部が終わってお父さんとお母さんが部屋で飲みなおしているときに、車のそばで座って夜空を眺めていた。
しばらくすると玄関が開き、彼女が顔を出した。
隣に座るとまた他愛のない会話をした。
酔いもあってか、自分ははじめて会ったときのことを話した。
昔から南が好きだった事、大人になって急に映像が見えるようになった事、病院でも異常がなく内心不安だった事、そして誰かの手を握っていた事。
彼女はうなずいていた。
蒸し暑い夜で、汗が首を伝った。
自分はいつの間にか涙を流していた。
彼女はびっくりして手を握ってくれた。
自分自身、なぜ涙が出ているのかもわからなかった。
何の脈絡もなく、悲しい事など何もないのに……
しばらく沈黙が続いた。
そろそろ家に入らなきゃと、彼女の手を握ったまま立たせたとき、映像が見えた。
どこかの街、住宅街、田んぼや古い和風の家、そして手を握っている自分と、相手の顔……
次の日、何度も頭を下げてお礼を言った。
またちゃんとした御礼を持ってうかがいます、と言うとお父さんが
「お酒がいいな!キミの好きな奴飲もう」と言ってくれた。
お母さんは苦笑いしながら
「気にしなくていいから、またおいでなさい。身体には気をつけて」と心配までしてくれた。
彼女はニコニコしながら手紙を渡してくれた。
「連絡先を書いておきました、また色々お話聞かせてください」と手を握ってくれた。
自分は何度も車から手を出して振った。
彼女もずっと手を振ってくれていた。
それ以来パタリと映像は見なくなった。
胸が締め付けられる事も極端な方角好きもなくなり、今では南向きの窓があればそれだけでいいと思えるようになった。
結局、頭に流れる映像や切なさ、なつかしさ、南という方角に対する異常な執着は彼女と出会うためにあったのかもしれないと今では思っている。
長くなってしまったけど、これが子供の頃から悩んでいた不可思議な現象の終わりだった。