私が大学へ通うため東京都下の某市で独り暮らしをしていた頃の事。
ある晩、バイトを終えた私は、TVで観たい映画があったため、駅から自分のアパートまでの道を急ぎ足で歩いていました。
自分が住んでいたのは郊外の寂しい丘陵地帯だったので、夜9時近くともなると道行く人もまばらになります。
街道から折れ、アパートへ続く数百mの細い坂道に入ると、もう途中ほとんど民家も無く、ぽつんぽつんと灯る街灯が薄暗く道を照らすばかり。
早く帰らねばという焦りで、すたすたと一心不乱にその坂道を歩いて行くと、いつしか前方をゆっくりと並んで歩く夫婦らしい老人二人に追いついたので、そのまま彼らの横を回り追い越しました。
前方を見ると、さらに10m程先に灰色のコートを着た男性が歩いていました。
そして老夫婦(?)を追い越してから5、6歩程進んだところで、突然強い風が辺りを吹き抜けました。
それまでほとんど無風だったので、私は思わず一瞬足を止めました。
それとほぼ同時に、私は目の前の余りに意外な光景に、思考すら停める羽目になってしまったのです。
その突風が吹き抜けて行った瞬間、前方を歩いていたコートの男性の姿がいきなり大きく揺らいだかと思うと、次の瞬間、灰色のペラペラな紙のように厚みを失い、そのまま風に飛ばされるかの如く目の前から消えて行ったのです。
私が一瞬遅れて風下に当たる方向に目をやると、ガードレールの向こうの谷あいに茂る木々の上を、その灰色のペラペラしたものが、ばたばたとはためきながら凄い速さで遠ざかって行くのが見えましたが、もうあれよあれよと云ううちに、その姿は木立ちの向こうへと消え去って行ってしまいました。
理解不能な異様な光景を目の当たりにして、私はしばし呆然としていましたが、ふと我に返り、今の光景を目撃したか訊ねようと、つい今しがた追い越した老夫婦の方を振り返ってみました。
しかし…?
そこには何故か誰もいなかったのです。
ほんの10秒かそこら前に、確かに私がその横を追い越したはずの二人の姿は、薄暗い細い坂道の遠く先まで見渡してもどこにも発見する事は出来ませんでした。
道の片側はガードレールの外に10m程の深さで下る急な斜面。
もう片側は崖をコンクリートで固めた壁面が続くばかりで、身を隠すものや脇道なども全く無かったというのに…。
私は急に例え様の無い恐怖を感じ、思わずその場から駆け出しました。
そしてようやく自分のアパートの明かりが見えた辺りで、さすがに息が切れたので足を緩めました。
そしてそのまま立ち止まるとつい後ろが気になって、再び恐る恐る先程の辺りを振り返って見たのですが…
何と云う事でしょう。
先程突風に吹かれた場所よりも遥かにに手前、自分の位置からほんの30m程後方を、先程の老夫婦がゆっくりとこちらに向かって歩いているのです。
自分は百数十mはある距離を全力疾走して来たところだというのに…。
その直後、私が再びダッシュしたのは言うまでもありません。
ただし、今度は決して後ろを振り返りませんでした。
そして、そのまま同じアパートに住む友人の部屋へ駆け込むと、その晩はそいつの部屋で夜を明かしました。
ま、ダッシュしたお陰で観たかったTVの映画にはばっちり間に合ったんですけどね。