保瀬の大崩壊は凄まじい怨念を抱えたまま自殺した母と子の呪いによるものだ、と伝える碑と供養碑がある。
江戸時代、お杉という女性が、お玉という3歳になる娘を連れて保瀬部落に嫁いできた。
部落の権力者である矢八が人妻であるお杉に惚れたが、お杉が嫌がった事に恨みを持った矢八が陰湿な虐めを始め、それによって母子は、村八分にされてしまう。
娘のお玉を連れて河原に降り立ったお杉は、
『我死後50年にして、必ず保瀬を壊滅させる』
と呪いの言葉を木に刻む。
50年という期間を挟んだのは、夫に災いが及ぶのを避るためである。
お杉は一時間近くも祈り続け、持って来ていた鍬を振り上げ、お玉の頭にめがけて勢い良く振り下ろした。
お杉はお玉の頭から吹き出した血を吸い、口いっぱいに含んで天に向かって吐き出しながら保瀬潰滅の為、
『保瀬は野となれ、山となれ。我死後50年にして保瀬を潰滅させる。そして100年は人が住めぬ様にしてやる。』
こう唱え続け、最後にお杉はお玉の遺体を抱いて、念仏を唱えながら川に身を投げる。
お杉の予告通り50年後に保瀬部落は地滑りにより潰滅した。
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【保瀬大崩壊】
1892年(明治25年)7月25日 午後2時00分
対岸保瀬山の中腹が、巾300メートル長さ800メートルにわたり一大響音とともに崩壊し始め、惣ち海部川を70間の高さに寒止めた。
北岸山麓にあった井上幸太郎、井上喜太郎、桜井矢平の家族11名、長雨を避け食を求めて投宿していた山稼人(出稼ぎの林業従事者)36名は、家屋とともに生埋となり田畑4町歩(約400アール)も埋没した。
戸外にあった幸太郎ら7名は難をのがれた。
降り続く豪雨に上流は、杉宇の下まで5キロメートルに及ぶ一大湖となった。
この為8戸が流失し隣村樫谷の田の中の杉の大木が僅かにその先をのぞかせ、轟神社旧道の鳥居の扁額が半ば水没したという。
崩壊の報に海部川筋は恐れおののいていたが、26日午後7時頃、弱所を破った水は奔馬の如く海部谷を流れ下った。
既に23日の豪雨で決壊していた堤防田畑の被害は増大し、未曾有の大災害となった。
ここに川上村保瀬(現・海部郡海南町平井字保勢)の部落は一瞬にして消え去り徳島県史上、類を見ない程の大災害となった。
事は明治天皇の御耳に達し、東国基愛侍従の差遣があり、住民一同を慰められ復興を激励された。
崩壊から100年、山は緑と化し海部川の清流は日本一を誇るが、自然は時に人為を絶した猛威を振う。
ここに被災の霊を慰めるとともに、山河を愛護し、また自然を侮らず調和のとれた生活を願って新に碑を建立する。
四国災害アーカイブス