これは、夜の帰宅電車でのこと。
俺はドアのそばに立っていて、目の前には一人の“若い女性”が立っていた。
女性はドアを背に寄りかかって文庫本を読んでいる。
長い黒髪の地味そうな子だった。
俺はちょっと距離を置いて立っていたが、次第に増えてくる乗客に押されて近づいてしまう。
真正面から女性と向き合うのも気まずと思い、少し体をずらした。
ふとドアのガラスを見ると、外が暗いので自分の顔が映って見える。
すぐ隣には女性の後ろ姿が。
だが、なんとなく違和感を感じて、ガラスの鏡越しによく見てみた。
光の反射の関係か、女性の髪がやけに白く見える。
目の前にいる実物の女性はちゃんと黒髪なのに。
さらに車内が混んできて、女性とかなり密着してしまう状況になった。
あまりに近いので、女性も本を読んでいられなくなった様子。
こちらに背を向け、窓の外を見ている。
やっぱり女性の後頭部も髪は黒かった。
その時、すぐ隣でイヤホンを付けた若い男性が、混んでいる車内でやけにソワソワし始めた。
顔を伏せて、ちらちらと目線を上げたり下げたりしている。
それに妙に体を突っ張って、ドアから離れようとしている感じだった。
その原因は俺にもすぐ分かった。
ドアガラスの鏡越しに見える女性が、白髪の老婆の顔だったからだ。
女性はしっかり立っていて動かない。
だけど鏡越しのその老婆は、首を傾げながらこちらを交互に見上げている。
その男性とこちらを見ているようだった。
道で幽霊に出くわしたとしたら、一目散に逃げるだろう。
だけど混んでいる車内で、得体の知れないものに密着させられている。
必死で女性から離れようと動いて、周りから肘打ちをされたりした。
隣の男性は必死な形相で、イヤホンをちぎるように耳から外していた。
ようやく駅に着き、二人同時に「降ります!」と叫んで人混みをかき分け、反対のドアから飛び出した。
そして振り返ると、まだ車内にはたくさんの人がいるのにもかかわらず、ドアに映る老婆が人の隙間からはっきりと見えた。
電車が発車して動き出すまでの数秒間、ずっと老婆はこちらを見ていた。
電車が走り去った後、一緒に呆けている男性と目が合った。
言わなくても分かるが、一応聞いてみた。
「君も見ましたよね?」
同時に彼も口を開いた。
「聞こえましたか?」
彼のイヤホンからは、音楽の代わりに老婆が何か呟く声が流れてきたそうだ。
その声が耳に残って離れないと言う。
あれが何だったのか一切分からない。
ただ、あの時にイヤホンを使っていなくて良かったと思った。