ずいぶん前の初秋のこと。
Fさんの住む町の外れに、廃ビルがあったそうだ。
その屋上に、女の幽霊が出るという噂があった。
飛び降り自殺した人で、オーナーの愛人だったとか、妊娠していたいたとか、いや違う、中に入ってたテナントの店長だとか、お客だとか・・・・・・真相はわからない。
しかし、実際に見たという人はいたようで、地元の人たちは恐れて決して足を踏み入れない場所だった。
ある夜、Fさんたちは友人の家で呑んでいて、「肝だめしに行こうぜ」という話になった。
「あの廃ビルへ行ってみよう」とだれかがいいだし、酔いもあってか、行こうということになった。
男三人女二人。お酒の呑めないYさんの車に乗り込んだ。
ビルには鍵すらかかっておらず、侵入することは容易にできた。
八階建てのビルの屋上にみな座り込んで、また飲み会となった。
女の子もいて、お酒も入っていたからだろうか。
「こんな場所、別に怖くないし、幽霊なんて全然平気だし」
だれかが大声でいった。
すると風向きが変わった。
いや、屋上全体の空気が急に張りつめたのだ。
Fさんは、急に厭な動悸がして、背筋に悪寒が走った。
そんな感覚は初めてだった。
全員なぜか同時に押し黙り、ある一点にみなの視線が集まった。
立っている。
屋上の隅のほうに、血まみれの女が。
真っ赤に染まったボロボロの服に、腰までの長い髪の毛。
顔も血を浴びているのか、どす黒い。
全体が薄汚れているなかで、白目の白だけがくっきりと印象に残る。
「わっ、出た」
だれかのひと言で、みんな、金縛りのような状態から解け、わっと我先にと、塔屋へと走った。
すると、女は長い髪をなびかせながら、すうっと移動してきて、あっという間に塔屋のドア前に立ちはだかると、両手を広げてニタリと笑った。
「わたし、突き落とされたの」
女は確かにそういった。
絶叫が屋上に響いた。
みんな、その女から少しでも離れようと、屋上を逃げ回った。
だが、女はその行く先、行く先に、両手を広げて立ちはだかり、ニタリと笑っては「わたし、突き落とされたの」をくりかえす。
とうとうみんな、その女の前に膝をついて謝りだした。
「ごめんなさい。でも、俺たちじゃないです」
「私も違います。許してください」
Fさんも、助かりたい一心で、土下座をした覚えがあるという。
すると、女は満足そうな表情を浮かべると、ふっと掻き消えたのである。
「わっ!」
みんな塔屋へと逃げ込み、腰が抜けたような状態で階段を駆け下りた。
どう帰ったのか、その後の記憶はほとんどない。
女の子二人は、それから発熱して四、五日寝込み、運転していたYさんも数日後、運転中に事故を起こし、重傷を負ったという。
あれから十年程して、この廃ビルは取り壊された。
そのことはFさんも知っていた。
会社の同僚でお寺の息子がいて、この廃ビルの除霊式の依頼を受けたのは、そのお父さん、つまりその寺のご住職だったという。
ビルの解体工事はトラブルだらけで、スムーズに行かなかったらしい。
電気系統のものは動かなくなるし、怪我人もどんどん出る。
夜中に警備員が何度も出動させられる。
なにかがビルを徘徊しているらしいが、行ってもだれもいない。
そのうち、幽霊を見た、といって怖がって現場を辞める人も多数出てきた。
そこで業者が除霊式を企画し、その寺の住職が呼ばれたのである。
ただし住職によればそれは、正式には除霊ではなく、浄霊というらしい。
ずらりと並んだ工事現場の作業員の前で、一人読経する住職の前に、その女は現れた。
血だらけの女は、お経など効かない、ということを誇示するかのように立つと「わたし、突き落とされたの」とニヤリと笑ったそうだ。
すると住職は、「嘘つけ!」と一喝した。
途端に、女は不気味な表情が一転し、悲しそうな顔になると、すうっとフェードアウトしていくように、徐々に消えていったという。
「さすが、ご住職」「やっぱり修行なさった方は違う」と、作業員たちから賞賛の声が上がった。
すると「わたしは幽霊を見たのは始めてや」とご住職は落ち着いている。
しかし、幽霊をひと目見て、「嘘つけ」といったということは、幽霊についていろいろ知っているということではないのか。
「幽霊を見るのは初めてやったが、死体なら山ほど見ている。その損傷具合でいろいろわかるものなんです。
さっきの幽霊は血だらけでいかにもという体やったけど、八階から突き落とされたさなら、あの程度の傷ではすまない」
そして、八階付近から落ちる死体の損壊度、突き落とされた死体と、自ら飛び降りた死体の違いなど、いろいろ説明した。
ほほぅ、と作業員から声が漏れた。
「だから一瞬で、あの女が嘘ついてるとわかったんで、『嘘つけ』と一喝したんです。
死んでまで嘘つかんならんこの業は、なんやろな」
そういって、今度は死者を弔うためのお経を読んだ。
翌日から怪しげなことは起こらなくなり、無事、解体作業は終わったという。