大学四回生の冬だった。
そのころの俺は、卒業に要する単位が全く足りないために早々と留年が決まっており、就職活動もひと段落してまったりしている同級生たちと同じように、悠々とした日々を送っていた。
とは言っても、それは外面上のことであり、実際はぼんやりとした将来への不安のために、真綿でじわじわ締め付けられるような日々でもあった。
親しい仲間と気の早い卒業旅行を終え、あとは卒論を頑張るだけだ、と言って分かれていく彼らを見送った後、俺の心にはぽっかりと穴のようなものが空いていた。
変化しないことへの焦燥と苛立ち。そしてその旅の途中で知ることになった、かつて好きだった人に子どもが出来ていたという事実に対する、なんだか自分でも説明し難い感情。
そのころの俺をはたから見ていれば、「無気力」という言葉がぴったりくる状態だっただろう。
しかし、この身体の中にはさまざまな葛藤や思いが渦を巻き、それが外へ噴き出すこともなく、ただひたすら体内で循環しつつ二酸化炭素濃度を増しているのだった。
『デートしよう』
というメールを見ても、その無気力状態からは脱せず、やれやれという感じで敷きっぱなしの座布団から腰を上げた、というのが実際のところだった。
指定されたカレー屋に向かうと、メールの送り主がめずらしく先に来ていて、奥まった席に一人でちょこんと座っていた。
その少女は黒で固めたゴシックな服装をしている。今日はなにやら頭に黒い飾りもつけているようだ。
店内の不特定多数の視線がそわそわと彼女に向いているのが雰囲気で分かる。格好の珍しさだけではなく、それが良く似合っていて可愛らしい風貌をしていることが原因だろう。そんな子が一人で座っているのだから、仕方のないことだった。
そういう視線が集まっているところへ、こんな冬の間ずっと着ていてヨレヨレになっているジャケットの眼鏡男が無精ヒゲを生やして、のっそりと歩いて行くのはさすがに気が引ける思いがした。
「おっす」
黒い子がこちらを見て軽く手を挙げた。相変わらず軽い感じだ。彼女の『デートしよう』、というのは『こんにちわ』と訳せるのを知っている俺は、「うす」とだけ言って向かいに腰掛けた。
一瞬背中に集まった視線が、また徐々に霧散していくのを感じながら、「今日はなんだ」と訊いた。
その子は音響というハンドルネームで、ネット上のオカルト関係のフォーラムに出入りしている変な子だった。
かく言う俺も、かつてその手の場所には良く出入りしていたが、もう興味も気力も絶えて久しく、ほとんど足を踏み入れなくなっていた。
「瑠璃ちゃんが帰ったよ」
音響がカレーの注文を終えてから口を開いた。
「帰ったって、ニューヨークへか」
「うん」
そうか。あの子はもうこの街からいなくなったのか。
俺は音響と双子の姉妹のような格好をしていた少女のことを思い出す。
あの不思議な瞳をした少女は一年半前にふいにこの街にやって来て、それを待ち構えていた恐ろしい災厄を、はからずも自ら招き寄せたのだった。それも様々なものを巻き込んで。
その時のことを思い出して、ゾッと鳥肌が立つ。この街にじっと潜んでいた、見えざる悪意のことをだ。
今でも現実感がない。
それと関わったがために去って行った人たち。そして死んでいった人たち。頭の中で指折り数えても、どこか夢の中の出来事のようだ。
確かに人となりは浮かぶ。伝え聞いたとおりに。そして会ったことがある人は、その顔も。しかし、どれもまるでぶ厚いガラスの向こう側にある景色のようだ。
怪物の生まれた夜に集った人たちはもう全員いなくなってしまった。それだけではない。ヤクザも。通り魔も。あの吸血鬼でさえ。
一人、一人と、順番に。時に、まったく無関係であるかのように、ひっそりと。だが、確実にその見えざる悪意は、敵対したすべての存在をこの街から消していった。
その誰もが俺なんかよりずっと凄い人たちだった。なのに。なのにだ。
思わず怖気(おぞけ)で身体が震える。
そんな恐ろしい相手から、最後の標的である瑠璃という名前のその少女を、俺と音響の二人だけで死守する羽目になったのだ。今にして思っても考えられない事態だ。
頼みの綱である俺の師匠さえ、その時点ですでに使い物にならない状態だったのだから。
じっとりと手のひらが汗ばんでいる。思い出すだけでこれだ。
「卒業って、どうなったの」
音響がスプーンを置いて突然そう訊いて来た。
急に現実に引き戻される。そう。どこにでもいる、留年組の大学生の自分に。
「あと二年はかかるな」
と答えると、「ダッサ」と言われた。
お返しに、お前はどうなんだ、と訊いた。
「今年受験だろ。こんなところで油売ってる暇があるのか」
「いいの。余裕だから」
「どこ受けるんだ」
「師匠んとこの大学」
「師匠って言うな」
この小娘は、このところ嫌がらせで俺のことを師匠と呼ぶのだ。もちろん全部知った上でのことなので、始末に悪い。明らかにニュアンス的に尊敬の成分はゼロだ。俺がそう呼んでいた時以上に酷い。
「ていうか、うちの大学が余裕かよ。腐っても国立だぞ」
それにそんなに余裕ならもっと上の大学を受ければいいじゃないか。
そう言おうとしたら、先回りされた。
「お母さんが、地元にしなさいって」
あっそ。
地元民の国立大生の女は学力的にワンランク上の法則ってやつか。アホそうな見た目に忘れてしまいそうになるが、こいつは帰国子女で英語ペラペラだったな。
住んだことのある国の言語を読み書きできるという、ただそれだけで、点数配分の多い課目で大きなアドバンテージになるというのは、ずるい気がする。
「そう言えば、あの角南さんは卒業?」
「ああ」
不貞腐れて頷く。普通の大学生は四年経ったら卒業するの!
そう言って、きつめのスパイスに痛めつけられた喉に水を流し込む。
「で、用件はなんだ。このあとデートでもしようってか」
この小娘に呼び出される時は、その九割が妙なことに首を突っ込んだ挙句の尻拭いのお願いだった。
「それなんだけどね」
音響はそう言って平らげたカレーの皿をテーブルの隅に押しやる。そして黒いふわふわしたバッグから一冊の本を取り出して目の前に置いた。
やはり残りの一割ではないらしい。
しかし出されたその本を見て、おや、と思った。見覚えがあるのだ。
「『ソレマンの空間艇』じゃないか」
子どものころに読んだジュブナイルのSF小説だ。タイトルが印象的だったから覚えていたが、内容はすぐには浮かんでこなかった。
日本人の子どもが宇宙船に乗り込んで大冒険をする話だったような……
「へえ、そうなんだ」
なんとか思い出そうとしている俺を、全く興味なさげに音響は切って捨てた。
「自分で持って来たんだろ」
ムカッとしたのでそう言い返すと、音響は不思議なことを口にした。
「この本の内容のことなんだけど、この本のことじゃないの」
一瞬、うん? と目を上の方にやってしまった。なにか禅問答のような言葉だ。
「私の友だちから相談を受けたんだ。その子の弟のことで」
音響はそうしてその禅問答の説明を始めた。
そのクラスメイトの女子生徒には小学生の弟がいた。
それがなんだか最近弟の様子が変だったのだそうだ。よそよそしかったり、話しかけると怒ったり。単に反抗期だと思っていたが、ある日弟の部屋に入ろうとすると、急になにかを隠して「出てってよ」と怒った。
背中に隠したのは本のようだった。どこからかいやらしい本を手に入れて見ていたのだろう。
なるほどそういうことか、と思ってその時はそれ以上深く詮索しないであげた。ところが、その数日後、夜中にふと目が覚めてしまった彼女は自分の部屋から出てトイレに行った。
その途中、弟の部屋の前を通ったのだが、ドアが少し開いていた。いつもなら閉めてやりもせず、そのまま通り過ぎるところだが、中からなにかの気配を感じて彼女は立ち止まった。
弟が起きているのだろうか。
そう思ったが、電気は消えている。部屋は真っ暗だ。
そっとドアに近づき、隙間から中を伺おうとする。しかし、廊下側の明かりのせいで自分がドアの前に立つと、中からはきっと人が来たことが分かってしまうだろう。
そう思い、ドアのすぐ横に身体を貼り付けるようにして聞き耳を立てたのだった。
その時、彼女の耳は奇妙な音を拾い上げた。
シャリ……
シャリ……
聞き馴染みのある音。
けれど今この状況では聞えるはずのない音。
彼女は妙な悪寒に襲われた。
シャリ……
シャリ……
紙の捲れる音。
紙の表面が指と擦れ合う音。
シャリ……
シャリ……
――――本を読んでいる時の音だった。
部屋の中は真っ暗なのに?
彼女は背筋を走る痺れに身を震わせる。
弟が布団を被ってその中で懐中電灯をつけているわけでもない。光も全く漏れないように布団を被っているなら、そんな繊細な音も部屋の外へ漏れ出ては来ないだろう。
弟は、暗闇の中で本を読んでいるのだ。
心臓がドキドキしている。彼女は思い出していた。弟の通う小学校で密かに語られている噂話のことを。
『夜の書』と呼ばれる本のことだ。学校の七不思議の一つだった。
図書館に一冊の本がある。それは昼間にはただの普通の本なのだが、夜みんなが寝静まってから一人で部屋を暗くしてページを捲ると、まったく違う本になるのだ。
真っ暗で何も見えなくてもその本は読めるのである。その本の中には、とても恐ろしくて、そしてゾクゾクするほど楽しい遊びの仕方が書いてある。
最後まで読むと、信じられないようなことが起こるらしい。その先は色々な噂があってはっきりしない。
悪魔が出てくるとか、死神が出てくるとかいう話もあれば、本の言う通りのことをすると、窓の外にUFOが現れる、という話もあった。未来や過去の世界に行った子どもの噂も聞いたことがある。
いかにも子どもっぽい噂話だ。
けれど彼女自身その小学校の卒業生だった。そしてその本を読んでしまったせいで頭が変になり、二階の教室の窓から飛び出して大怪我をした同級生が実際にいたのだ。
もっともその本を読んだせいだということ自体がただの噂話と言えば噂話だ。しかし先生たちがそんな流言飛語を封じ込めようとすればするほど、みんなその噂を信じた。
結局その同級生が持っていた『夜の書』は大人に焼かれてしまった。けれど、もとからそんな本はないのだ。焼かれても別の本が暗闇の中でしか読めない『夜の書』になり、また誰かの手に取られるのを図書館の隅でじっと待っている……
彼女はドキドキしている胸を押さえ、ドアの横で必死に息を整えた。
そうして「なにしてるの」と言いながら、ドアを開けた。
店員がコップの水を入れに来たので、音響がそこで話を止めた。俺はテーブルに置かれた『ソレマンの空間艇』をまじまじと見つめる。
「で、そのお前の同級生の弟くんは、真っ暗な部屋でこれを読んでたってわけか」
「そう」
「どんな様子だったんだ」
「明かりをつけたら目が血走ってて、なんか訳の分かんないことを言ってたらしいよ。とにかく取り上げたら落ち着いたらしいけど」
「ふうん」
俺はテーブルの上の本に手を伸ばした。手に取ってパラパラと捲る。かなり古い本なのか、表紙や小口は色が褪せてしまっているが、あまり読まれてはいないようだ。中はわりに綺麗だった。
音響が少し驚いた顔で俺を見ている。
それに気づいて「なに」と訊くと、「ホントの話なんだけど」と言う。
「別に嘘だなんて言ってないぞ」
だいたい、どんな信じ難い話でもそれなりに耐性はついている。それに音響が持ってくるやっかいごとは、これまですべて実体を伴っていた。それが良いことなのかどうかは置いておくとしても。
「よくそんなあっさり触れるね」
呆れたように言われてようやく、ああ、そういうことか、と気づく。普通の人の感覚ならば、そんな話を聞かされた後では気持ちが悪くて触れないのだろう。いくら昼間は普通の本だと聞かされていてもだ。
オカルトにどっぷりと浸かっていた日々が、意識しなくともこの善良な小市民たる俺の脳みそをやはり非常識側にシフトしてしまっているということか。しかしこいつに言われると何故かショックだ。
「それで、どうしたいんだ」
本を置き、表紙をトントンと指先で叩く。「どうせ、その話聞かされて、なんとかするからって安請け合いしたんだろ」
『夜の書』というやつはある意味、夜の闇の中でしか実体がない存在だ。今のこの『ソレマンの空間艇』にしたところで仮の宿主に過ぎず、燃やすなり破り捨てるなりしたって、図書館の別の本に寄生し直すだけということだろう。
少なくとも噂の構造がそうなっている。
「その話を聞かされて、なんとかするからって言っちゃったの」
あ、そう。
「で?」
「なんとかして」
「自分ですれば」
「お願い師匠」
わざとらしいお願いポーズを無視して、もう一度俺は本のページを開く。
「真っ暗なのに読めるって、どういう現象なんだ」
音響に向かって、「お前、読んだか」と訊く。
すると両手の指を胸の前で組んだまま、首を左右に振った。
「だって怖いの」
「嘘つけ」
「だって受験生だから」
「受験生だから?」
俺がそう問い返すと、音響は口の端だけで笑った。
「……面白かったら、やばいじゃん」
こいつも筋金入りだ。
あらためてそう思う。
「で、お前の同級生も怖くて読んでない、と。……弟はなんて言ってんだ」
「ええと。とにかくなんでか読めたんだって」
実に有益な情報だ。すばらし過ぎる。
「弟はどうしてこの本がそうだと気づいたんだ」
「別に『夜の書』だと思って借りたんじゃないんだって。たまたま借りた本がそうだっただけってさ」
「それは、ちょっとおかしいぞ」
「なんで」
俺は少し頭の中を整理する。
「だったら、どうして部屋を真っ暗にして読んだんだ」
「え」
「部屋を暗くして読まないと、そもそもそういう本だと気づかないだろ」
そう言われて、音響はふうん、と唸った。
「さあ。たまたまなんじゃない?」
これ以上情報は出てきそうになかった。
「『夜の書』は一冊なのか」
「そう聞いてる」
つまりひとつの寄生体のような存在が、見つかって宿主の本を破棄されるたびに別の本へと移動しているということか。その間に子どもたちを魅了し、危険な状態に追い込みながら。
それにしても。
と、俺はふと思った。「『夜の書』ってのは、小学生らしくないネーミングだな」と呟く。
噂の出所は案外教師なのかも知れない。
考え込んでいる俺を音響がじっと見ていた。
「なんだ」
「なんとかしてくれそう」
そう言ってまた両手の指を組んだ。
俺はそれを見ながら言った。
「ゴスロリって、そんな感情表現豊かでいいのか」
その夜のことだ。
俺は自分の部屋で一人、パソコン上でダービースタリオンというゲームをしていた。いい競走馬が出来たので、それを育てるのに熱中していて、気がつくと夜の一時を回っていた。
時計を見た時、なにかすることがあった気がして軽く不安になる。
ああ、音響から預かった本のことだ。
それを思い出してホッとする。
心置きなくゲームに戻ろうとしたが、なんだかそういうわけにもいかない気がしてきて、しぶしぶセーブをしてからパソコンの電源を落とした。
どこに置いたかいな。と、部屋の中を見回す。するとベッドの上に放り出してあった。
『ソレマンの空間艇』石川英輔 作
とある。
そう言えばどういう話だったか思い出そうしていたのが途中だった。俺はこたつに移動し、本を広げた。
その本は、文夫という少年が学者先生と浅間山に登山に出かけた時に、ソレマン人と名乗る宇宙人のUFOに捕らえられ、冒険をすることになる話だった。
実は現生人類以前に存在した地球上の知的生命体であったソレマン人たちが、旅立った先の遠い宇宙で滅亡の危機に瀕していて、それを救うため、かつて彼らの先祖が地球に残したというある遺産を一緒に探す、という筋だ。
子どものころに読んだ時は、SFというちょっと大人のお話という感覚でいたのだが、今読むとやはりジュブナイルであり、文体には違和感があった。こんなだったかなあ、と。
しかしそれでも読み始めると意外に面白くて、俺はそのまま読み進めた。すると物語が佳境に差し掛かったあたりで、ふいに妙な文章が出てきた。
《そんなことより、遊ぼうよ》
ん? とそこで止まった。
地の文からいきなり読者へ語り掛けてきたのだ。不自然なメタレベルの文章だ。
次の一文を見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。
《うしろをむいてごらん》
地の文は続けて今この本を読んでいる俺に呼び掛けている。うしろをむいてごらん、と誘っているのだ。
これは……
気がつくとなんとも言えない嫌な耳鳴りがしている。空気がヒリつく。
呼び掛けの内容のことだけじゃない。俺は全く気づかなかったのだ。今の今まで、同じ本を同じように読んでいるつもりだった。しかし、いつの間にか部屋の電気は消えていた。
部屋の中は真っ暗で、俺は一人闇の中に座り、本のページを開いていた。
あたりは、しん、としている。
明かりがないのに、本の内容が読める。
ゾクリとした。
これか。
俺は胸の中でそっと呟いた。
この感覚は確かに説明し難い。完全に視覚的なものではない。普段この目で見ているように見えているわけではなかった。
だが、まるで視覚情報から抜き出されたような言語的な情報が直接頭の中に入り込んで来ている。そしてそれが本来そこにあるべき視覚的情報を補い、あたかも幻覚のように文字を浮かび上がらせている。
頭で、目の前に文字があるように想像した状態がそれに近いだろうか。闇の中で文字を想像した時、黒一色の世界に、同じ黒で文字が書ける。不思議な現象だった。
これだ。このことだ。
緊張しながら、今の状況を再確認する。なぜ部屋の電気が消えているのか。冷静に記憶をたどる。すると、直前に立ち上がり、電燈の紐を引っ張った自分を思い出す。
記憶が消えかけていたことにゾッとする。思考でたどっても多分だめだった。直前の、立ち上がった身体の感覚がうっすらと、そしてそれでもまだ俺の脳に正しい情報を送ってくれたのだ。
なるほど。部屋の明かりは無意識に自分で消してしまうのか。消したという記憶とともに。
俺は異常な状況に背中をゾクゾクさせながら、《うしろをむいてごらん》という文字情報をもう一度確認する。何度確認してもそこに目を向けた途端、強制的に脳が文字のイメージを浮かび上がらせる。
振り向くか。
いや。
だめだ。
振り向いてはいけない。
そこには部屋の壁があるだけのはずだ。
だが、だめだ。
振り向きたいという欲求が、頭の中を嵐のようにぐるぐると回る。それでもその欲求が自分の中から出てきたものではないということが分かる。
耐え難い衝動に俺は耐えた。
そのページにはその文章だけが書いてある。
俺は次のページを捲らず、じっと考える。この異常な現象の根源のことを。それは物質としてのこの本ではない。なぜなら燃やしても破り捨てても、『夜の書』は次の本へ移るからだ。
だったら根源とはなんだ。
このループはどうやって打ち破る?
思考が音もなく走る。
夜の書。
夜にしか読めない本。
夜にしか……
いつからかははっきりしないが、この怪現象が七不思議に数えられ、過去から現在までまだ続いているということは、現象を破るには誰もやっていないことをしなければならない。
考える。
考える。
なんだ。
それは、なんだ。
しばらく考えた後、俺は思考の流れを変えた。
逆はどうだ。誰もやっていないことをする、の逆。それは。
誰もがやったことをしない……
ハッとした。
誰もがやったこと。
誰もが。燃やした人も、ズタズタに破り捨てた人も。
誰もがやっていること。それをしなければいい。
俺はふいに、冷めていく自分に気づいた。
そうか。こんなことか。
肩の力がふっと抜けて、俺は闇の中で本を掴んだ。そのまま手探りでベランダのある窓の近くに持って行く。
そうして、本のページを開いたまま窓際に置いた。
欠伸をして、こたつに入る。最近は不精が過ぎてベッドにも入らず、こたつに首まで潜り込んで寝るのだった。
歯を磨いてないな、と思ったが、まあいいやと眠りに落ちた。
次の日、目が覚めるとカーテン越しに朝の光が眩しいほど射し込んでいた。天気予報通りの快晴だ。
こたつからムクリと這い出て、俺は窓際の本を確認する。昨日置いたままの格好で、本は朝の陽光を浴びていた。
開いているページには、昨日のソレマン人の遺産に関する物語の続きが載っていて、奇妙な文章など一つも見当たらなかった。もちろんどのページにもだ。
怪異の源はいまひとつはっきりしなかったけれど、たいていの夜の怪現象はこいつには適わない。
朝の光には。
これまでに恐らく誰もがやってしまったこと。
それは本を閉じてしまったことだ。つまり、夜中に開いた『夜の書』としてのページを閉じてしまい、結果として怪異の根源が朝の光を浴びることがなかった。
そんなことで良かったのに。
まあ、こんなもんかね。
俺は一晩中こたつに包まっていてこり固まった筋肉をほぐすべく、大きな伸びをした。
次の日の夜、俺はまた自分の部屋で『ソレマンの空間艇』を通して読んでみた。最後まで読んだが、特に異変は起こらなかった。
その後、電気を消してみたが、開いたページのあたりにはやはり何もなかった。暗闇があるだけだ。
念のためにもう一日様子を見てから、俺は音響を前回のカレー屋に呼び出した。
概要を説明し、本をテーブルに置いてからそっちへ押しやる。
「朝の光で、ねえ」
ふうん、という表情で音響は小さく頷いている。
「死んだの?」
本を指さしてそう訊くので、「たぶん」と答える。
「燃やした時と同じで、結局別の本に逃げてるとか」
「それはないな」
たぶん、と付け加える。
図書館の膨大に存在する本のどれかに逃げたかも知れない、なんて言われてもすぐには確認のしようがないが、そのことにはついては自信があった。何故かと言われても上手く答えられないのだが、俺のこれまでの経験に裏打ちされたカンだ。
なにより、ループを破る方法を思いついた瞬間に冷めてしまった自分自身と、こたつに入って眠ったその俺になにも出来なかったという、怪現象としての、こう言ってはなんだが、しょぼさ、がそれを補強している。
音響も似たような感想を持ったのか、あっさりと納得したようだ。
「ありがとう。さすが」
さすが、の後、師匠のしの字が続く前に俺は被せて言った。
「お前、いつまでこんなことに首突っ込んで行くつもりだ」
するとキョトンとして、「だって」と言うのだ。
「だって、これからじゃない。大学に入ったら、もっと色々楽しいことできそうだし」
その言葉を聞いた瞬間、自分が老人になってしまったように感じてしまった。
そうか、こいつはこれからなのか。
俺がオカルト道にどっぷりと浸かって無茶ばかりやっていたあの無軌道な日々が、こいつにはこれからやってくるのか。
自分にはもう戻って来ない時間が全方位に向かって開かれている少女に、目を開けられないような眩しさを感じて俺は目を逸らした。
「そういえば」
と、音響はカレーを掬おうとしていたスプーンを止める。
「昨日瑠璃ちゃんに会ったよ」
一瞬意味が分からず、「アメリカへ帰ったんじゃないのか」と言いそうになってから、「ああ、そういうことか」と一人ごちた。
「わたし、地元の大学に行くのはさ、瑠璃ちゃんと遊びたいってのもあるんだよね」
「あいつ、この街にしかいられないのか」
「うん」
そうか――
The king stays here,The king leaves here.
ふいに、頭の中に瑠璃の好きだった言葉が蘇った。
王は留まり、王は離れる。
自分の名前を紹介する時に、いつも好んでこの言葉を使っていた。もちろん本名ではない。自分でつけた名前だ。
それは本来彼女の顔のある部位を端的に表す言葉だったが、ここに奇妙な符合が生まれていた。
I stay here, I leave here.
キングを自分に変えることで、生まれついて彼女に起こっているその不思議な現象を表す言葉になるのだ。それも、ニューヨークへ帰った彼女を表す時にはその言葉が逆転する。
面白いな。
俺は人間を取り巻く、目に見えない偶然というものや、運命というものを改めて感じた。
「今度会ったら、目を傷めないように気をつけろって言っておいてくれ」
「なにそれ。カラコンのこと? 瑠璃ちゃん、もうしてないよ」
音響が不思議そうにそう言う。
「いや、いい」
俺は、見えざる悪意の主要な標的となった四人の、ある共通点のことを考えていた。四人のうちの三人。それが偶然なのか、そうでないのか、すべてが終わった今でも分からないのだった。
カレーを食べ終わったころ、腰を浮かしかけた俺に音響が言う。
「じゃあ、春からよろしくね、師匠」
相変わらず上から下まで黒尽くめの格好でそんなことを言うのだ。腹の内を読み取れない表情で。
俺は一瞬、自分が別の人間になったような錯覚に陥り、うろたえた。
うろたえながらも、なんとか言い返したのだった。
「受かってから言え」
師匠だと? この俺が。
これまでただイタズラのようにそう呼ばれていたのとは違う、ぞわぞわする感覚があった。
これについては断じて運命ではない。と、思う。
しいて言えば……
しいて言えば、そう。
やっぱり、no fate ということになるんだろう。
(完)