藤宮は今日も馴染みの喫茶店、鶴田珈琲に来ていた。
特に珈琲が旨い訳ではないが、この店に置いてあるビリヤード台を何となく見つめながら、ゆったりと時を過ごすのが好きだった。
珈琲を啜りながら藤宮は一息ついた。
すると常連客の会話が聞こえてくる。
このかしましい2人の会話も、どこか藤宮を和ませる一因なのだろう。
「よく話題の尽きないものだ」と感心すら覚える藤宮は、しばしば彼女らの話をラヂオの代わりとしている。
ラヂオを持っていない訳ではなく、友人が趣味で自作した物を譲り受けたが、真空度低下のためか聞く事ができなくなっていたので丁度よかったのだ。
会話の話題は、どうやら隣町に糸を買いに赴いた時の話のようだ。
要約するとこういった話だ。
隣町に行く時、必ず道すがら現れる男がいるそうで、名家の嫡子であるかのように名乗るのだが、どうやらどちらかの娘に好意を寄せているようなのだ…。
しかし地元の人間の話を聞くに、2人は畏怖したという。
名家であるには間違いないが、その男の洋館は明治の終わりに全焼しているのだという。
藤宮は心霊現象を信じない訳ではないが、そういった話について語るべき何物もないと思っている。
「しかし妙だ、これに類する話を私は記憶している」
気になり出した藤宮は銀時計を見た。
一つ胸につかえると、その溜飲を下すまで時間を忘れて記憶を巡らしてしまうのだ。
ちなみその銀時計は、帝國大學を卒業した際に天皇陛下に授与された物で、藤宮の誇りでもある。
藤宮は立ち上がり、何かを探すように自分の身体をベタベタ触り始めた。
会話をしていた2人は藤宮の奇妙な行動に気付き、息を飲んだ。
すると藤宮と馴染み深い店主は、釈明するように2人に言った。
「御嬢さん方、ほっといてやって下さい。
藤宮は気になることがあると、その記憶を身体から探す変人なんです。
何でも、身体に記憶を『しまう』事で、物事を完全に忘れることがないそうな。
ま、気が済むまでやらせておいてくださいな」
そんな話を聞いた所で、2人は気味悪がった。
ここが平成の世なら『ドン引き』と形容されたろうか。
一頻り身体を触った藤宮がやっと動きを止めた。
「ここにしまってあったか」
そう言ったかと思えば、突然落ち着き払ってまた珈琲をたしなみ始めた。
そして、2人に向かって、と言っても顔は真正面を向いているのだがが、呟いた。
「隣町には、もう行かない方がよいかもしれませんね。似た話を知っています」
心霊現象について語るべき何物もないと思っている藤宮だが、体験していない訳ではなかった。
2人のために語らなければならないのだろう。
藤宮の話が始まった。
「あれはまだ私が、書生として下宿していた時の話です…」
奇妙に思いながらも、2人は耳を傾けた。
訳あって人より少しばかり記憶が多い藤宮は、しまっておいた記憶を懐古し始めた。
何故しまっておいたかと言えば、それは思い出したくなかったからに他ならない。
日差しが身を焦がすような夏、葉月の頃だったろうか。
書生をしていた藤宮は、下宿先の書庫を整理整頓していた。
書生が雑用をこなすのは当たり前の事だったが、
この書庫の管理は藤宮にとって1日の中でも最も好きな時間であり、気づけば読書に没頭してしまうのもしばしばであった。
学生寄宿舎にいてはこの至福味わえまいと藤宮は満足していた。
この家の主、源一郎は紡績繊維産業において財を成すが、元々は江戸時代からの名残を受け継ぐ名家の生まれであり、この下宿先の建物は元々、書物を蓄え読むためだけに建てられたというから驚きである。
そんな家柄が、何故このような商売に鞍替えしたかなどはどうでもいい疑問であり、この日も藤宮は本の虫干しもそこそこに紙の世界に傾倒していた。
「宮さん…藤宮さん!」
ハッとして気付いた、どうやら何度も名前を呼ばれていたようだ。
「また雑用をサボっているのですか?源一郎さんの雷が落ちますよ」
都美子である。
都美子は、源一郎の家の遠縁の親戚であり、師範学校に通うため下宿している女学生である。
この季節、休みともなれば少し遠出をし海水浴に赴く活発な娘であった。
しかし何の用だか、また今日もこの書庫に現れた。
「源一郎さんは私に甘い所がある。大方、私が官僚にでもなるとお思いで、贔屓目に見ておられるのでしょう」
と藤宮が言うと、都美子はフフフと品良く笑った。
「そんな皮肉めいたことを言っては、神隠しに遭いますよ?」
神隠し?
あぁ、ここらで流行りの噂話か。
藤宮は心霊現象を信じない訳ではないが、馬鹿馬鹿しくも思っていた。
そんな表情を読み取るように都美子は言った。
「少しも信じてませんね?でも、他の学生さんが言ってましたよ?『この書庫にも幽霊が出て、人を拐うんだ』って」
少しも信じていない訳ではないが、あまりに荒唐無稽。
「それは大方私を幽霊と見間違えたのでしょう」
と笑い、
「そんな噂話より、都美子さんも学生、本を読まれては?」
と、またも皮肉めいたことを言った。
藤宮にとっては何の悪気もないのだが。
「本のない人生は損をすると思いますよ」
そう言う藤宮に、都美子は笑いながら「私は人生を損得で量りたくないですね」と返した。
くしゃっとした笑顔に藤宮は思う。
都美子は自分にない発想を持っていると。
恋心を抱く訳ではないが、藤宮は純粋に都美子のそんな所が好きで、尊敬の念すら抱いていた。
書庫を去る都美子をしり目に、開いたままの本に何気なく目をやる藤宮。
すると、その本の一文が強烈に目に飛び込んできた。
『その娘から手を引かれたし』
藤宮は少し驚いた。
さっきまで読んでいた書物はこのような小説ではなかったからだ。
藤宮は先刻まで詩集を読んでいたのだ。
「おかしい、先刻まで読んでいたのはこれでは…」
そう思い床を見ると、先程まで手にあった詩集は下に落ちていた。
「無意識のうちに持ち変えたか?しかしそれほど話に夢中だった訳ではない」
ブツブツ独り言を呟き詩集を拾った。
すると本の頁の隙間からするすると何かが落ちた。
長い髪の毛だった。
パサパサと床に重なる髪は艶もなく、しかしながら不吉を孕んでいるように黒々としていた。
この時ばかりは流石の藤宮も幽霊を連想した。
その日の晩、源一郎の誘いで西洋料理店『青鳥軒』に足を運んだ。
この頃出始めたばかりのオムライスをご馳走してもらえるということであった。
洋食も珍しいものではなくなった昨今ではあるが、
藤宮にとっては日本食が最も口に合う食べ物であるため、さして嬉しい計らいではなかった。
感覚の古い人間であるためか、源一郎はまだ洋食を特別な馳走と考えている節があり、この日も機嫌が良かった。
「藤宮君もこの調子で勉学に励んで、ゆくゆくはお偉いさんになってウチに錦を飾ってくれたまえ」
豪快に笑いながら源一郎は言う。
機嫌がいいのは都合がいい。
これに乗じて常々気になっていたことを聞いてみよう。
藤宮はスプーンを進めながら思った。
「いえ、恥ずかしながら私はまだ、自分が何をしたいかも分からぬまま半端に過ごしているだけです」
このまま本を読んで過ごしていけたらいいと、それぐらいしか考えておりません」
そう会話の流れに布石を打つと、
「藤宮君はいつも書庫にいるからな。結構結構、どんどん知を育んでくれたまえ」
と、源一郎が道を整えてくれた。
「書庫で思い出したのですが…」
藤宮が顔を上げずに見上げる
「あの、神隠しは何ですか?」
ピクッと源一郎の肩がかすかに動いた。
「藤宮君。優秀な藤宮君が、女学生風情の噂話を信じているのかね?」
平静を装っているが動揺が伺える。
「いえ、神棚の事です」
「喪中に神棚を白布で隠す習わし、即ち神隠し
私がこちらに来て一年、ご親族にご不幸はないように思いますが…」
書庫の本棚の南側にひっそりと隠された神棚があることを、整理中に気付いた藤宮は常々疑問に思っていたのだ。
「あぁ、あれのことか。あれはウチの習わしのようなものだ、気にすることはない」
そう言う源一郎だが、あきらかに顔は陰りを見せている。
何かあるに違いない。
そう推理しようとしたが、これ以上詮索する事に意味はない。
探偵の真似事を止め、帰路についた。
その日の月は怪しく紅く、その不気味な様相に昼間のことを思い出した。
書庫をすぐ出た脇に藤宮の部屋はある。
だからといって、特別怖い訳ではない。
しかし気になると止まらないのが藤宮の性である。
すると、悶々とする藤宮の耳に悲鳴が届いた。
「きゃああ!」
何事かと思い戸を開けると、そこには都美子の姿があった。
床にはおにぎりと長い髪の毛が落ちている。
「ご、ごめんなさい、夜食を持ってきたのですが、床に髪が落ちていて…」
藤宮は床の髪の毛を取ってみた。
昼間のものとは少し違う…若干明るい髪の毛だ。
昼間とは別人のものだ。
躊躇なく得体の知れない髪を触る藤宮に、都美子は少し笑ってしまった。
「藤宮さん、もしかして下宿先に女性を連れ込んでらっしゃるのですか?」
都美子は悪戯っぽく言った。
女性のこととなると専門外、
そう思っている藤宮が、
「いえ、ここに来る女性は都美子さんだけです。
…いや、都美子さんの前は、源一郎さんに頼まれた工場の女性が、夜食を持って来たかもしれません。
ろくに会話もなく、顔も覚えていないので、確たる事は言えませんが…」
そう真面目に返すと、
あたふたともしない藤宮に都美子は少し俯き、にわかに笑みを浮かべポツリと言った。
「藤宮さん、私…社交界に誘われたんです…」
社交界と聞いても藤宮はそれについての知識は零に等しく、興味が無いので退屈そうなものだという認識しかなかった。
そもそも自分に全く縁のないものに思える。
「良かった、のではないのですか?」
藤宮がそう言うと、都美子は少し悲しげに「…そうです、良かったのです」とポツリと放った。
そして言い聞かせるように、
「これは好機ですからね、私を誘ってくださった方は由緒正しい名家の方なのです。
清人様は『俺を覚えていないのか?』とロマンチックに誘ってくださって。
これで都美子も華族の仲間入りですね」
と明るく振る舞った。
藤宮はそれをただただ聞いていた。
「火事で故郷の呉服屋が無くなってから、いい事なんて何もなかったから…」
励ます訳ではないが、
「都美子さんのその人柄と美しさに、その方も惹かれたのでしょう」
と言葉をかけた。
すると都美子は、
「そうですね。この美しさで私得しちゃいました」
そうふざけて返し、そそくさと母屋に帰ってしまった。
都美子から滴が落ちたような気がした。
この時期、女性の貞操観念について議論が行われているぐらいだ、都美子さんも何か思う所があるのだろう。
そう考える藤宮は鈍感という他なかった。
それにしても不自然。都美子さんが『得』と言うとは。
一陣の風が吹き抜けた。そんな一時だった。
その刹那、本当に風が吹いた。
室内でだ。
そして今度ははっきりと聞こえた。
「俺の女に、多摩子に手を出すな」
激昂。
そう言って遜色ない荒立たしい声。
驚く間もなく瞬間、部屋が明るくなった。
どこからともなく部屋の壁が発火したのだ。
火はどんどん燃え広がる。
水を汲むにも時間がかかるし、叩いて消火するのも無理そうだ。
火急の語源を体感している。などと呑気に馬鹿なことを考えている自分に鞭を打ち、必死で走った。
この火の回る速度なら炎自体に恐れはない。注意すべきは一酸化炭素中毒。
藤宮は口に袖をやり、逃げ切った。
久しく感じていなかった疲労感に、適度な運動の大切さを実感した。
さぁ、ともかく母屋の源一郎さんらに報告しなくては。
瞬く間に炎に包まれた書庫からは怨めしそうに声が聞こえる。
「多摩子はどこだぁあ」
「多摩子はどこだあぁぁ」
やれやれ、これは神隠しという次元ではないだろう。
燃え立つ狂喜を感じながら、藤宮は思った。
この火事をどう説明すればよいのだろうか。藤宮はそう考えていた。
食欲がなく毎日夜食を捨てるでもなく
隠していたら、夏場の蒸々とした気候によって発酵による酸化反応云々……
ダメだ、現実味が薄い。
何よりそれでは私の不手際だ。
何も悪い事をしていないのだ。
信じてもらえるかは別にして、正直に話すのみ。
そう思い母屋へ向かおうと振り向くと、そこには呆然として立ち尽くす源一郎の姿があった。
「何で…?清人叔父さん…」
清人叔父さん?
『清人』…先刻、都美子が言っていた名だ。
源一郎は屍の如く虚ろになりながらも、ブツブツと呟く。
「二人も…女をあてがったじゃないか…もう多摩子はいないんだよ?俺も殺す気なのか?俺はあの時、まだ子供だったんだぞ」
訳の解らない事を喚いている。
そうこうしている内に、もう一つの光源が生まれた。
母屋が燃えている…。
「源一郎さん、母屋も火が上がっています。中に誰もいませんか?」
そう藤宮が問いかけても、源一郎はそこを動こうとしない。
乱心なされたか。
仕方ない
自分が消火するしかない。
藤宮は早速発症した筋肉痛の足を引き摺り母屋へと走った。
しかし火の手は絶望的だった。
母屋は書庫のある離れより高い火柱が上がっていた。それは猛り狂う大蛇の如く。
ただ見ているしかない藤宮の前に、木の陰からひょこっと都美子が現れた。
「都美子さん、ご無事だったのですね」
藤宮は安堵からか、思わずいつもより大きい声で言った。
「藤宮さん…」
都美子の目は、源一郎のそれと同じくどこか虚ろだった。
すたすたと歩いてこちらへ来たかと思えば、藤宮を通り越して母屋の玄関の前に立っている。
「都美子さん?危ないですよ、その近さなら十分火傷の恐れがあります」
藤宮の声にも耳を貸さない。
「何を言ってらっしゃるのですか?藤宮さん。社交界へ行く私をひき止めて下さるのですか?」
社交界?都美子さんは何を言っているのだ?
「本当に危ないですよ」
ひき止めようと動く藤宮の足に感覚が無くなる。
筋肉痛?いや違う。
「邪魔をするな」
炎の中から男の声が頭に響く。
金縛り?遂には全身の言うことが効かず藤宮は地に伏せた。
「清人さんは、私の事を大切に思ってくださる…一緒に死ぬことも憚らない」
都美子さんも乱心しているようだった。
藤宮はその清人という男に怒りを覚えた。
「行ってはダメです」
だがもう、そんな言葉は都美子に届かなかった。
今度は本当に都美子の顔から滴が落ちるのを確認した。
「清人さんに嫁げば、もう家の心配はいらない、後悔はない…でも一つだけ、後悔するなら。
私は藤宮さんに出会って、損してしまいました」
そう言って都美子は燃え盛る炎の中を、ゆっくりと消えていった。
火の中に黒い影が見える。
「ハはハハハハハハハハハははははハハハはハハハははハハハハハハは」
陽炎が揺れるように、歪な高笑いが聞こえた。
これが、清人なのだろうか。
下宿を失った私は、学生寄宿舎に移った。
久しぶりに書庫の無い生活を送るうちに、自分がどれだけ本の虫だったかが判った。
活字を見ない時間は、それだけで耳が良くなる。
声が小さかっただけで、予てよりの噂だったそうな。
私は寄宿舎で、元々の源一郎の家、『相馬家』についての噂を耳にした。
江戸時代からの由緒正しき名家、相馬家。
相馬家当主、相馬清治は三人の子宝に恵まれた。
長男・相馬清源
次男・相馬清人
長女・相馬多摩子
である。
清源の息子が源一郎であり、
ここからは大方予想がつくと思うのだが、次男清人と実の妹である多摩子が禁断の恋に堕ちてしまったのである。
当然それを良しとしない相馬家は、二人を無理矢理引きはなそうとする。
酷たらしい悲恋に終わるならと、二人は屋敷に火を放ち、心中を図ったそうだ。
炎に崩れ逝く屋敷は、二人だけの社交界だったのだろう。
しかし、幸か不幸か、長女・多摩子だけが救助されてしまったのだ。
そんな珍事を起こした相馬家は面子を潰され、逃げるように土地を離れた。
清人の亡骸を残して。
それから、大きな書庫があるこちらの別荘に越して来たようだ。
しかし程無くして多摩子がカミソリで手首を切り自殺。
それからというもの、相馬の土地や建物は、遠縁であろうと続々と謎の不審火に見舞われることになる。
清人は今も二人を引きはなす相馬家に復讐をしているのだろう。
多摩子を探しながら…。
あの時の源一郎の言葉を思い出す。
『女をあてがう』
恐ろしい想像をしてしまったが、外れてはいないのだろう。
きっと私に夜食を持って来ていた人間は皆、清人への目配せだったのだろう。
そう思うと、都美子が不憫でならない。
あの時私は、本当に金縛りだったのだろうか。
行く手を塞ぐ炎に足がすくんだだけだったのではないか?
未だに臭い立つ、焼けた木の臭い。
私はその臭いと共に、この記憶を鼻にしまっておいた。
「御嬢さん、その男は何と名乗ったのですか?」
舞台はまたもや鶴田珈琲に戻る。
「相馬…清人…」
常連の二人は声を震わせながら言った。
「清人はまだ多摩子を探しているのですね」
特に旨くもない珈琲を啜りながら藤宮は言う。
「その後相馬源一郎は首を吊って自殺。ついには相馬家は、誰一人いなくなったそうなのですが…」
あまりの話に二人は息を飲んだ。
ここが平成の世であれば、『ドン引き』と形容されたろうか。
「でもおじ様は、どうしてそんな話を忘れていたの?」
いつの間にか話に食い入り、藤宮のテーブルに乗り出した常連は聞いた。
藤宮は何も言いたくないのか口を紡いだ。すると喫茶店の店主が、
「この男にも、色々訳有りで、その色んな記憶はしまっておくしかないんですよ」
と言ったが、しかしそれはまた別の話だ。
「じゃあ、何で私達の話で、清人だと判ったの?」
藤宮はやっと口を開く。
「糸を買うと仰っていたからです。
源一郎が自殺する前に引き渡された繊維工場は、そのまま益々発展し、あの町の一大産業となっているので、もしやと思ったのです。
できることなら、あの町にはもう近付かない方が身のためです」
二人は真剣にその話を聞いた。
「清人はもとより、源一郎のしでかしたことはとても恐ろしい事です。
結局の所、神棚を隠す白布の意味は分からず仕舞いでしたが…
それは清人の死を忘れていないという、清人に対する必死の訴えだったのか。
それとも、目配せに出した女子に対する贖罪なのか。
何にしても、布を被せるほどの神に見せられぬ悪行、それが神隠しだと思うのです。
あなた達も犠牲になってはいけません」
話を聞き終えた二人は、口をあんぐりと大きくあけていた。
「すみません。つまらない話を長々と、お時間を無駄にしてしまいました」
藤宮は軽くお辞儀をした。
すると常連の一人はこう言った。
「ううん、おじ様のお話すごかった。何だか今日は得しちゃった」
常連の女子の顔を見るに、藤宮はハッとした。
「また会ったら、別のお話聞かせてね。私は啓子」
「私は忍」
二人はそう自己紹介して、喫茶店を後にした。
「啓子さんに忍さん、覚えておきましょう」
そう言って藤宮は右薬指の爪を触った。
そして懐かしい気持ちになっていることに気づいた。
「なるほど。啓子さん、あなたはどことなく都美子さんに似ていらっしゃる」
都美子の記憶がしまわれた鼻に珈琲の香りが漂う。
旨くもない珈琲だが、香りは一級品だ。
やはり人生は損得があった方が、少し面白い。そう言ってまた、藤宮は珈琲を啜るのであった。
さてさて、神隠しの記憶はここまで。
それでは藤宮が何かを思い出す時、またお会いしましょう。