俺は害虫駆除という仕事をしている。
そのため深夜のビルや民家の屋根裏、果てはマンホールの奥深くなど・・・普通に生活している分にはまず立ち入らない様な場所に度々出入りする。
あれは新宿の小さなビルに作業に入った時の事だ。
予め借りておいた鍵を使用して無人の事務所を開けて、効くんだか効かないんだかよく解らない薬剤を散布するという不毛な作業に勤しんでいた。
仕事だが・・・全くやる気は起こらない。
自らの怠惰と戦いながら、作業を順調にこなす。
深夜の2時を回った頃だったろうか?
尿意を覚えた俺は、事務所内に設置された誰も居ないトイレに律儀に失礼しますと声を掛けて入った。
このビルは見てくれは古いが中の電気系統は改装でもしたのか新しくなっている。
事務所や廊下はモチロンの事、トイレの中にまでセンサーがあり、人が入ると勝手に電気が付くようになっているのだ。
こういうのを見ると現代人のものぐさ根性ここに極まれりと感じる。
俺:「こんなどうでもいい所より外見を直した方が良いんじゃいのか?」
そうブツブツ言いながら入室する。
そして小便をしようとチャックをおろした時、ふとトイレ内の異様な気配に気付いた。
別段物音がした、という訳ではない。
例えるなら、髪を洗っている時に背後が無性に気になるような感覚だ。
何となく落ち着かなくなり、小便をしながら首だけでトイレを見渡す。
すると、4つある個室に目が留まった。
開放された3つのドアと、そして奥から2番目に一つだけ閉じたドア。
ドキリと心臓がひときわ大きく脈動する。
何故ドアが閉まっているんだ?
このビルには俺一人しかいないはずなのに・・・。
入る時に電灯が自動点灯したころからも、このトイレには人が居なかった事は確かだ。
目を離す事が出来ず、首を巡らせたままの姿勢で小便を絞り出してチャックを閉める。
そろそろと件のドアに近付く。
ドアの解錠を示す青いマークを確認してからゆっくりと右手で押し開けた。
キィーーーーと蝶番が音を立てて開いていく。
そこには何の変哲もない、ただの和式便座があった。
何のことは無い・・・。
洋式の便所は人が居なければ開放されるようになっており、反対に和式の便所は居なければ閉まるようになっているのだ。
まったく、自分のバカさ加減に嫌気がさす。
俺:「アホくさ。」
一人呟いて仕事を再開しようとした時、一つ気付いた。
閉まっていたのは奥から2番目のドアで、一番奥は開いていた。
通常、個室が複数設置されているトイレには和式便器は一つか、多くても二つだ。
そして一つの場合はほぼ確実に一番奥の個室に割り当てられる。
これは多くのビルに作業で入った経験から間違いない。
二つある場合は和式便器は奥に二つ並んであるのが普通だ。
とすると奥の部屋は何で開いてるんだ?
今までの自分の常識を覆して奥は洋式なのか?
文章にすると長いが、時間にして恐らく1秒くらいの思考だと思われる。
そして疑問の解決のため、ヒョイと奥の個室を覗いた。
今にしたら、そのまま作業に戻れば良かったと、後悔している。
はたして個室は和式便器だった。
やっぱりな、と思うと同時に何でドアが開きっぱなしなんだろうかと疑問が湧いてくる。
何か物が干渉してるのかと思い、手持ちのLEDライトで照らして確認する。
特に何もない、と思った矢先の事だった。
視界の隅に何かを捉えた。
開いたドアの下の隙間。
そこから白い手が出し抜けに生えている・・・。
掌を上にして、血色の悪い爪の付いた指でドアをしっかりと掴んで。
開いたドアは壁と殆ど接していて、トイレの中に人が隠れるスペースは無い。
どう見ても無い。
あり得ない。
趣味の悪過ぎるドアストッパーかとも一瞬考えたが、違う。
何故ならば今まさにドアの隙間から、さらにもう一本、白い手が生えて来たからだ。
やばい。
これはやばい。
やばいやつだ・・・。
一目散にトイレから脱出!
恐怖から逃れるように必要最低限にしかつけていなかった照明を全て点灯させた。
あまりの恐怖に、見たくも無いのにトイレのドアを見張り続けた。
目を離した隙に、さっきの奴が背後から迫ってくるような気がしたんだ。
しかし、何も起きない。
事務所にかかった安っぽい時計の分針が、バネのように振れて何度目かの時間の経過を教える。
10分以上は経ったか。
もう大丈夫か?
もうタイムオーバーじゃね?と良くわからない結論に達し、さっさと残りの作業を終わらせるべくトイレを後にしようと思って気付いた。
また余計な事に気付いた。
トイレの電気がついたままだ。
自動点灯なのに。
人が居なければ数分で消える筈なのに。
まだ中に居るのか・・・?
そう思うと仕事など出来ない。
俺は作業は終わった、という事にしてビルから逃げるように立ち去った。
上司には信じてもらえないと思ったが一応報告しておいた。
上司:「この仕事やってれば色々あるよ・・・」
いつもは嫌いな上司だけど、ちょっとだけ人間味を感じた瞬間だった。