先日、逆松竹梅のことを書かせていただきましたが、今回はそのときに起こったちょっと奇妙な話です。
先の話の中で父親が末期の胃ガンと診断され、郷里の病院でその年を越すことなく他界したと書きましたが、その臨終の席での話です。
父は痛み止めのモルヒネを打たれていたようですが、意識はまだはっきりとしており、心配そうに見守る私たちに対して「なにを大げさな」という感じで応じておりましたが、ふと、病室の片隅に目をやると
「あそこにいる人は誰だい?見たことがないのだが・・・」
と私に尋ねました。
父の指さすのは病室の入口とは反対側、窓に面した側の片隅でした。
窓から少し離れていたので多少影になっていますが、充分に識別できるだけの明るさはありました。
しかし、父の指すその片隅には誰の姿も見えません。
病室に入る前に先生から宣告され、覚悟を決めてはいたのですが、その父の言葉で「ああ、いよいよか・・・」と改めて父の最後を確信しました。
以前読んだ心霊関係の本や、あるいは人づてに、臨終の席にはいわゆる「お迎え」が来ると聞いていたからです。
「ああ、あの人なら心配いらないよ」
私は父にそう告げると、部屋の片隅に向かって頭を下げました。
見えていたからではありません。
気配を感じたわけでもありませんが、父がこれから旅立つ、その導きをしてくださる存在なのだと信じて、「父をよろしくお願
いします」というつもりで頭を下げたのです。
父は私の答に納得したのかどうか、以後、その片隅の人の話題は出ませんでした。
やがて、父は大きないびきをかきはじめ、のどに痰が絡んだかのように息を詰まらせると、そのまま動かなくなりました。
片隅の人が、死に神と呼ばれる存在なのか、それともお迎えと呼ばれる存在なのか、それともその二つは同じ存在を指す言葉なのか、私には今でもわかりません。
ただ、私が臨終を迎えるとき、たぶんその片隅の人は姿を現すのではないかと、そうして、私はそのとき「よろしくお願いします」と頭を下げるのではないかと想像してみたりしています。