今から60年前のことである。ある地方都市に不幸な女がいた。
彼女の名をA子としよう。彼女は動物園の飼育係である。
その頃、動物たちは食料や薬の不足で次々に死んでいた。
動物達の最後を看取るのは、A子にとってとても辛く悲しいことだった。
A子の夫は出征中であり、姑との二人暮しだった。
姑は、結婚してからも仕事を辞めようとしないA子のことを、余り良く思ってはいなかった。
その頃、戦局は日々悪化の一途を辿っていた。
大都市は連日のように空襲に見舞われ、A子の住む地方都市にも空襲があるかもしれないと言われ始めていた。
そのような中で、動物園には軍からの過酷な命令が届いた。
空襲時に逃亡の危険があるため、猛獣たちを抹殺せよ、と言うのだった。
小さな動物達は死に絶え、残っていたのは猛獣や大きな動物達だけだった。
軍の命令に逆らうことは出来ない。
動物達の抹殺は、餌に毒を混入するという形で行われた。
毒の入った餌を持っていくのは、A子の役目だった。
毒の入った餌を食べても、動物達はすぐに死ぬことは無かった。
暫くの間悶絶し、やがてぐったりと息絶えるのだった。
残っていた動物達は全ていなくなり、園は閉鎖された。
A子は、動物達の悲惨な最期を写した悪夢に苦しめられるようになった。
園が閉鎖されてからA子の気分が晴れることは無かった。
そんな彼女に更に追い討ちをかけることが起きた。
彼女の夫が戦死したと言う知らせが届いたのだった。
彼女の元に骨壷とは名ばかりの粗末な箱が送られてきた。
中に入っている骨の欠片が、果たして夫のものかどうかも分からなかった。
その頃からA子の精神は変調を来たし始めた。
A子の奇行が目立ち始めたのは、夫の葬式が終わった頃からだった。
何もいない空間に向かって動物がいると言い、餌をやろうとする。
帰ってくるはずの無い夫が帰ってくると言い張り、食事や服の準備をする。
しかし、これらはまだましな方であった。
同居している姑を最も悩ませたのは、A子が時として、動物達を殺害する指示を出した軍への悪罵を怒鳴り散らすことであった。
姑はこのことにおののいた。
もし、軍への罵声を警察や憲兵に聞かれたら・・・。
姑は近所の人たちの手を借りて、A子を病院へ連れて行った。
医者はすぐにA子を精神異常と認め、市内にある大きな精神病院へ入院させた。
入院してからもA子の病状は良くならなかった。
この頃の病院は、人手と物資の不足から、満足な治療が出来る状態ではなかった。
薄暗い病棟の中で、A子は相変わらずいもしない動物がいると言ったり、餌をやろうとしたりしていた。
ある日、憲兵が院長との面会のためにやってきた。
憲兵が院長室に向かって廊下を進んでいると、その姿を見たA子は突然騒ぎ出した。
「こいつらだ、こいつらが皆を殺したんだ」
そう叫ぶと、A子は憲兵に飛び掛ろうとした。
A子はすぐに近くにいた医師たちに取り押さえられた。
側にいた院長は、青ざめた表情でA子の独房入りを命じた。
A子は医師たちに引き立てられていった。
院長は恐る恐る憲兵の顔色を伺った。
だが、意外にも憲兵は気分を害した様子も無く、涼しい顔をしていた。
院長はほっと胸を撫で下ろした。
A子はしばらくの間、独房へ閉じ込められた。
憲兵が来た日から病院の様子が変わり始めた。患者が増え始めたのである。
その多くは、県内や近県の小さな病院からの転院者だった。
症状の軽い患者の一人は、医師に何故最近患者が増え始めたのか質問した。
医師は、空襲に備えて、各地の小さな精神病院が普通病院に改修され始めたためだと応えた。
この頃、空襲は一段と激しさを増していた。
家々には灯火管制が敷かれ、夜の街は真っ暗だった。街のあちこちに防空壕が掘られていた。
病院の変化はそれだけではなかった。
患者が増える度に、医師たちは治療をする気を喪失していくようだった。
少し経つと、病院は患者で満杯になった。
ある夜、A子は空襲警報のけたたましいサイレンの音で目を覚ました。
A子はぼんやりとした表情で天井を眺めた。
異常をきたしているA子にも、病室の中が妙に明るいことが分かった。
灯火管制のための黒い布が取り払われていた。
A子は鉄格子のはまった窓から外を眺めた。
小高い丘に立っている病院の窓からは、街の多くを眺めることが出来た。
外は闇だった。
灯火管制が行われていないのはこの病院だけだった。
A子はふらりと廊下へ出た。
病院の中は異様な静けさだった。患者たちは皆、鎮静剤で眠らされていたのである。
医師や看護婦たちは誰一人として残っていなかった。
医師の部屋に放置されたラジオは、敵機の編隊がこの街に迫っていることを伝えていた。
なぜ、この病院の患者が急に増えたのか。
なぜ、医師たちは最早患者を治療する気をなくしてしまったのか。
そしてなぜ、今この病院だけ灯火管制が行われていないのか。
錯乱状態のA子にそのようなことが分かるはずは無かった。
敵機の爆音は、もうすぐそこまで迫っていた。