「高橋永熾は軍事的侵攻のさいに、以前の領土で信仰していた八幡神社をこの地にも勧請してきます。
これは他の戦国武将にも往々にしてあったことです。
そうして勧請された若宮を祀る社、『若宮神社』と名づけられたそれはこの地の人々を氏子として取り込み、高橋永熾の野望が破れた後も残り続け、現在まで脈々と信仰が受け継がれています。
今日境内も拝見してきましたが、大変に立派なものだと思います。
しかし、庇護者であった高橋家の援助が断たれたにも関わらず、これだけの社格の神社を維持できたのも氏子衆の寄進、そして力添えがあってこそです。
今でこそ、この松ノ木郷は西川町の外れにあり、寂れた印象を持ってしまうような景観です。
しかし当時はかなりの人口を抱えていたであろうことが、この神社の大きさからも推測できるのです。
だからこそ、高橋永熾は巨額を投じてこの地に溜め池を建設しようともしたのです。
すると、ここに奇妙なことが現れてきます。それだけの数の氏子衆は、若宮神社がやってくるまではいったい何を信仰していたのでしょう」
はっ、としたような空気が広間に満ちた。
これから事件の本題に入ることが分かったからだ。
「その情報は、これまでまったく耳にしませんでした。明治初期の神社整理政策の渦中で、祭神も分からないような無社格の小さな社は次々と若宮神社に統合されていきました。
その名前のないカミたちは、今では若宮神社の境内にある末社で眠っています。しかし、のちにその若宮神社を支えた氏子衆はそんな取るに足りないカミたちをこぞって信仰していたのでしょうか。
いいえ。違います。違うのです。溜め池がどうして造られたのか、もう一度その意味を考えてください。
高橋永熾の領土的野心? 百年の大計? そうした側面の前に、もっとも即物的な理由があります。
水です。水がなかったのです。日本中の村々で幾度となく起こってきた飢饉。その原因は水不足です。雨が降らなければ田は、畑は干上がり、作物は枯れていきます。水を引いていた水路も、川などのその源泉が干上がれば用を成しません。
今でこそ近代技術であるボーリングで温泉が湧くような土地柄ですが、この松ノ木郷を懐に抱く山々は低く、おそらく降り注いだ雨をゆっくりと安定的に地表に流していく地質ではないのです。
土地を流れる枝川の水量は安定せず、干天が続くと水はなくなり、度々飢饉が発生したことでしょう。
だからこそ溜め池が造られたのです。
それほど水に困っていた人々が、神に祈らなかったはずはありません。
そうした切実な祈りを受け止める神が、この地にいなかったはずはないのです」
りん……
また聞こえた。なんだこの音は。
師匠はその音にまったく反応もせず、漢字が書かれた半紙をもう一度高く掲げながら声を張った。
「雨の下に口を三つと龍を書くこの字は、『オカミ』と読みます。古いやまと言葉です。過去を紐解くと万葉集にこんな歌があります」
わが岡のオカミに言ひて落(ふ)らしめし
雪の摧(くだ)けし其処に散りけむ
「このオカミとは水の神です。罔象女神(ミヅハノメ)などと並び、各地で人々の信仰を集め、重要な役割を果たしてきた水神です。
高(たか)オカミと呼ぶ場合は山の水を司り、闇(くら)オカミと呼ぶ場合は暗渠、つまり地の底や谷を流れる水を司ります。
このオカミを祀った神社は日本中に分布しています。日照りが続くときには、この神に雨を乞うのです。
その際には雨を祈る、つまり祈雨の儀式が行われました。例えば相撲を奉じたり、神楽を舞ったりして神を喜ばせ、あるいは盛大に祭りを催して村中を練り歩いたり、山に登って大きな火を焚いたり、といった様々な行事です。
もちろん古来よりの風習である祈雨の対象はオカミだけではありません。様々な神社が雨乞いの儀式を司りました。
『丹貴』、つまり雨師と称され吉野川の上流に鎮座した丹生川上社や、賀茂川の上流に鎮座した貴船神社を代表とする、祈雨に効ありとされた神社群が朝廷の奉幣を受けてきた歴史があります。
平安期に編纂された『延喜式』の神名帳にも祈雨八十五座と呼ばれる神社が記載されています。
また、神道に限らず、密教を代表とする仏教儀礼においても、雨を請う、請雨法の秘術が長らく行われてきました。
密教の『四筒の大法』のうち、『請雨経法』と『孔雀明王経法』は請雨法として知られています。そして密教といえばなんといっても竜王です。
空海の招いた善女竜王などの八大竜王やその眷属たちは雷の神であり、水の神であり、そして雨の神でもあります。
竜王の名前を冠した山は日本中には数え切れないほど多くあり、竜王が守護するそうした山は庶民の間でも祈雨の儀式を行うための重要な信仰対象ともなってきました。
そうです。山です。山は降り注いだ雨をその懐深くに溜め込み、絶え間なく平地に水をもたらすための装置です。
竜王山に限らず、あらゆる山は祈雨の行事における重要拠点なのです。
もちろん、慢性的な水不足に悩む松ノ木郷に鎮座する、この旅館の裏手の山も」
りん……
その音に師匠の声が重なり、不思議な余韻となってたなびいていく。
「かつてこの裏山にはオカミを祀る神社があったのです。わたしが谷底で見つけた石は、その遺構でしょう。
炎のごとく農地を焼く太陽が、曇ることなく光を降り注ぎ続ける『炎旱』の間、人々はオカミに祈りました。一心に、雨を懇願したのです。
現代社会の、結婚と家の新築、そして葬式の際ぐらいしか関わりのないとってつけたような神式の行事とはわけが違います。
雨の降るや降らざるやに、その村で生きるすべての人間の命がかかっている、正真正銘の全身全霊をもって臨んだ『信仰』です。
そうであるがゆえに、その信仰の向かうところであった神社の権勢たるや大変なものだったと推測できます。しかし、その雨乞儀式を司ってきたオカミ神社にも、いつしか転機が訪れます。
もうお分かりでしょう。高橋永熾がもたらした二つの変革の一つ。若宮神社の勧請です」
りん……
りん……
音が大きくなっていく。静けさの中に、その音がなんとも言いようのないざわめきを運んでくるようだ。
「高橋永熾のもたらした二つの変革は、その実、二つにして一つのものです。溜め池が出来ることで日照りの恐怖は薄れ、雨乞いのための信仰は不要になりました。
そして松ノ木郷の人々の信仰心の新しい受け皿が若宮神社です。この日本でもっとも多くの人に信仰されている八幡神を祀った神社なのですから、その役に十二分にかなうものでした。
この二つの変革は混ざり合い、効率的に古いものから新しいものへとすべてが変わっていきました。その過程で忘れ去られ、消えていったものたちがあります。
かつてこの山に存在し、人々の信仰を集めたオカミ神社の記録が、そして記憶が、人々の中に残っていないのは、運命だったのでしょうか」
りん……
りん……
りん……
師匠の言葉に反応するように、音が大きくなる。
全員が息を飲んで注連縄を見つめている。
よく見ると四方を囲むその縄の四隅に、小さな鈴が取り付けられていた。
その鈴が、鳴っている。
「いえ。運命などという生易しい言葉で語ってよいものではないのかも知れません。高橋永熾はただの善意で溜め池を造ったのではありません。統治者として必要性があったから造ったのです。
そして若宮神社による住民の信仰面の統一も含め、この地における新しい支配体制の確立に力を注ぎました。
当然、古くからあるオカミ神社の存在は邪魔なだけです。
直接的な力をもって行なったのか、あるいは事故を装ったのか、真綿で首を絞めるように外堀から切り崩していったのか、それは分かりません。
しかし、そのオカミ神社が存続できない程度には具体的に排除を行なったことは想像に難くありません。
そして徹底的にかつてそんな神社が存在したことを消し去ろうとしました。
高橋家は二代目でついえていますので、その目論見は完成してはいなかったかも知れません。
しかし、現に以前ほどに雨乞いをする必要がなくなったという事実が、新旧の神社の交代を自然に推し進め、人々の記憶を薄れさせていったのです。
あるいは、もしかするとわたしが想像するよりもその交代はずっと穏やかに行なわれたのかも知れません。
しかし歴史の闇の中に消えていく側にとって、己の消滅の原因が高橋家、そして若宮神社にあったことは間違いのないことです。
その恨みが、怨念が、山肌に染み込み、高き場所から流れる川となって、あるいは暗渠に流れる闇(くら)い水となっていつかすべて流れ去っていったのでしょうか」
りん……
りん……
りん……
りん……
鈴が。注連縄が揺れている。
空気が刺すように冷たい。吐く息が白くなっていくような気がする。みんな顔を強張らせ、恐怖に満ちた目を周囲に泳がせている。
「オカミ神社が若宮神社によって奪われたものは氏子だけではありません。雨乞い儀式において重要な役割を果たしてきたあるものも奪われました。
雨乞いの際に行われる儀式や行事には様々な様態があります。例えば仏像や御神体に水をかける行為。泉や池の水をすべて取り替えるという『水かえ』。藁束などを山頂で燃やす『雲あぶり』。
雨乞い面と呼ばれるような能の面を被ったり、特別な鏡を持ち出したり、大量の枡を一斉に洗う百枡洗いや、動物の死骸や糞尿などの不浄のものを神の住む場所に投げ込んでその怒りをもって雨を降らせるような儀式もありました。
その中で全国に幅広く分布するある風習がこの地でも行われていました。
『月はいずれ鐘は沈める海の底』という芭蕉の句があります。これは越前敦賀の鐘ヶ崎に沈む鐘の伝説を詠んだものです。
筑前鐘ヶ崎の鐘なども有名ですが、こうした沈鐘伝説の背景には、海の底に住む竜神が鐘を好むために鐘を積んだ船が沈み、そして引き上げることができないという説話があります。
このように竜神が好む鐘を池や浅瀬に漬けることで喜ばせ、雨を降らせてもらうという儀式が古来より日本中で行われてきました。この松ノ木郷ではその『鐘漬け』はある沼地で行われていたようです。
鐘があったのはもちろん雨乞いを担うオカミ神社です。そして鐘漬けが行われてきた沼地は鐘を漬けるための淵、つまり鐘ヶ淵(ショウガブチ)あるいは、湯桶読みをして鐘ヶ淵(カネガブチ)と呼ばれていました。
この鐘はそうやって日照りのたびに沼に漬けられたために、水に触れる下部に幾重にも重なる錆を生じました。
和雄さん、あなたの実家の若宮神社にある鐘がそうです。あの鐘は元々オカミ神社にあったものなのです。
銘を削られ、奪われた雨乞いの神事の象徴はその役割を負えました。
溜め池が完成し、鐘が漬けられることもなくなった後、カネガブチもその名前を変えました。
近い読みをする、亀ヶ淵(カメガブチ)と。これは恐らく高橋永熾による改名ではないかと思われます。今浜を長浜と変えた羽柴秀吉の例にもあるように、戦国武将は良くこうした地名改変を行っています。
亀の字をどう読もうとも、ショウとは読まないのです。違っていたのは、字の方なのですよ」
りん……
鳴り響く鈴の音を聞きながら、僕は思い出していた。師匠の言葉を。長野教授との電話の後、「女将がどうしたんですか」と問い掛けた僕に、師匠は言った。
『犯人だよ』と。
違っていたのは字の方なのだ。
「女将」ではなく、「オカミ」
神の名前。あるいは、神社の名前。師匠が告げたのはそちらの真相なのだ。
つまり……
「キャーッ」
いきなり悲鳴が上がった。楓が口元を押さえて叫んでいる。
その視線の先には、薄っすらとした人影がある。じわじわと、その希薄な身体が輪郭を持ち始める。狩衣に烏帽子、袴。神主の、姿をしている。顔はない。
ぼやけているというよりも、青白いのっぺりとした肉がそこにあるだけのようだった。それがなにもない空間から湧き出てくる。
その影は一つではなかった。二つ。三つ。四つ。まだいる。まだ。
「うわぁ」と和雄も叫ぶ。女将も、広子さんも叫んでいる。勘介さんも腰を抜かしたようにへたり込んで泡を吹きそうな顔をしている。
僕もその異常な光景にまともに息ができないでいる。心臓がバクバクと鳴っている。それがこの世のものではないという直感と、なによりその現れ出る姿に異様な恐ろしさを感じだのだ。
影は注連縄の内側に現れていた。邪(よこしま)なものを退けるはずの境界の、その内側に。
近い。たった五メートル四方に切り取られた空間の中に、僕ら六人と不気味な人影たちがひしめき合っている。逃げ場などない。
朝、玄関で得体の知れない存在に触られたときの感覚が蘇る。すべての生気を吸い取られるような、二度と味わいたくない感触だった。
悲鳴が交錯する中で、師匠が吼えた。
「うろたえるなっ」
その気迫にかき消されるように悲鳴が止む。
「その場を動くな。その針は結界だ。それも即物的な。踏めば痛い、と知っている者ならば、越えることができない」
凛した声が広間に響き渡る。言葉づかいが変わっている。
神主姿の影は注連縄の中をさまよいながら、しかし僕らの身体には触れることはなかった。
すべて針の円の外側を音もなく揺らめくように歩いている。
「逆に言えば、注連縄は彼らにとって結界ではない。いや、自分たちが棲まうべき『内側』なんだ。彼らは俗な表現で言う、悪霊なんかじゃない。ある真実を告げるために現れた、祖霊なんだ。
かつて神職であったものたちだ。むしろその存在は神に近いと言っていい。だから直接に人間に接触できないほど希薄な霊体である彼らは、神域である注連縄の内側でこそ力を得て出現する」
これが、今夜この場に彼らが現れるとわたしが確信していた第一の要因っ!
師匠が叫ぶその前を、神主の霊が行き交う。
寒い。頬に風を感じる。冷え切った空気が、その動きにかき回されるように対流を起こしている。
「さすがにこの状況が長く続くとまずい。手短に話す。彼らはオカミ神社の代々の宮司たちだ。四百年以上の昔の。
若宮神社の当代の宮司である石坂章一氏がいくら御祓いをしてもだめだったのは、流派が違うなどという生易しい理由じゃない。
オカミ神社の宮司たちにとって、若宮神社は侵略者だ。
自分たちの存在を歴史の中に消し去った張本人たちなんだ。怒りを増しこそすれ、祓われることなどない。なにより、彼らは悪意を持って現世(うつしよ)に現れているんじゃない。
『とかの』の宿泊客や従業員には全く手を出していないことからもそれが分かる。
したかったことは唯一つ、警告だ。悪しきもの、邪(よこしま)なものが『とかの』に入り込んでいることに対する警告なんだ」
僕の目の前に顔があった。
目鼻もなにもない顔がわずか二十センチの距離で僕の顔を覗き込んでいる。ぎゅっと心臓が縮み上がる。
「この地方の古い地誌に、松ノ木郷にあるオカミを祀る神社の記述があった。名前は木編に母と書く『栂野神社』。この地のオカミ神社の正式名は栂野神社というんだ。
わかるか。トガノだ。この符合は偶然じゃない。この温泉旅館『とかの』を開いた戸叶家は、よそ者なんかじゃない。由緒ある栂野神社の宮司一族につながる、れっきとした家柄なんだ。
ただ、新興の若宮神社に氏子を奪われた宮司一族は没落してしまった。やがて他の地方へと落ち延びていった。
そしてどういう変遷を経てか、名を変え、大阪で材木問屋を営むようになり財を成した。それが女将の祖父である亀吉氏の代で、凱旋を果たしたんだ。
もちろん旅館を開く場所に選んだのは先祖伝来の土地であるこの山の麓。かつて栂野神社があった山だ。今この旅館の駐車場には、この土地を買い取り造成工事をしたときに場所を移された祠がある。
その御神体である石には、消えかけた文字でこう書いてあった。とかのの名において、神にかわり、この地を守ると。
神社が消え、宮司一族が去った後、ずっと主人の帰りを待っていた石だ。今は役割を終えて眠っている。
そしてその役割は新しい『戸叶家』に受け継がれた。祖父の亀吉氏はその消された歴史を密かに伝え聞いていた。しかし次の代には引き継がなかった。あるいは自分の息子である二代目には伝えたのかも知れない。
だが三代目である千代子さんには伝承されなかった。それはこの地で新しい暮らしを始めた新しい世代に、そのくびきを見せたくなかったのかも知れない。
時は明治の神社整理を越え、若宮神社は安泰であり、もはや栂野神社の復興も適わないという現実がそこにはあった。
ただその山の麓で生きていくことが、先祖の霊を慰め、そしてまた先祖の霊に守られることになるのだと。それだけを思ったのかも知れない。
女将、あなたが子どものころ、大雨の夜に見た大蛇は、蛇じゃない。龍だ。
オカミ神社には守護者たる龍を象ったものが置かれることが多い。茅で作られたものなどだ。そして栂野神社には木彫りの龍があった。
そして宮司一族が放逐され、荒廃した神社の遺構が幾度かの土砂崩れで埋まり、御神体の龍があの山のどこかに眠っていた。それがあの夜の大雨でついに土砂ごと枝川まで滑落し、濁流の中を流されていったんだ。
あなたが見たのは、手足を泥水の中に秘めた巨大な龍の胴体だった」
はぁっ。
命が抜けるような深い息が吐き出された。女将だ。顔面は蒼白になり、両手はその頬に触れるか触れないかという場所でガタガタと震えている。
「ひょっとすると、あなたの祖父はそのとき栂野神社の復権を諦め、あなたの代ではこの地に溶け込んでこれからずっと暮らしていけるよう、真実をその胸に仕舞う覚悟をしたのかも知れない」
師匠のその言葉に、女将は顔を覆って嗚咽を漏らし始めた。どのような感情がそこにあるのかは分からない。しかし見ているだけの僕にも、胸を締め付けられるような感覚があった。
「そして、その地に帰ってきた子孫たちを守り続けてきた宮司の祖霊は、悪しきものの侵入に気づき、警告を発する。それが春先から始まる幽霊事件だ。
思い出して欲しい。わたしはこの場にいる全員にそれぞれの幽霊との遭遇譚を訊いた。その中で一人、たった一人だけ、他の人と異なる遭遇の仕方をしていた。誰だか分かるか」
気がつくと、ざわざわとした気配が僕の周囲からは離れていた。その神主の霊たちはある一箇所に集まり始めている。
「襲われているんだ。その人物だけが」
ハッとした。
僕……? なんだか分からないが、目の前が真っ暗になりそうだった。
師匠が僕の表情に気づいたかのように苦笑する。
「おまえのは、ただ通り道だったというだけだ。明け六つが始まるから、出て行こうとしたんだよ。その進行方向に座っていたというただの不運だ」
そうか。そう言えば、なんというか、害意のようなものは感じなかった。では、その人物とはもう一人しかいないじゃないか。
「ひぃぃ」
泣き声のような悲鳴が上がる。和雄だ。和雄が呻きながら目の前の空間を手で払う仕草をしている。
その周囲には無数の影が蠢いている。まるで群がるように。
「おまえだけだよ。追いかけられているのは」
和雄の姿を見ながら、冷たい声で師匠はそう言った。
「露天風呂で遭遇したとき、おまえは近寄ってくる幽霊からなんとか逃げ切った、と言ったな。なぜおまえだけ、そんな目に会うんだ? 答えてやろうか。ええ? 若宮神社のお坊ちゃん。
わたしも最初はただお前がこの栂野神社の末裔の地にとっては仇敵の子孫であり、招かれざる客だからだろうと思ったさ。
だが、新しい戸叶家は若宮神社の氏子になり、そんなくびきから解き放たれた生活を始めているんだ。
快くは思わないだろうが、祖霊にしてもそれをぶち壊そうとまでするだろうかと考えると、しっくり来ないものがあった。
その謎が解けたのは喫茶店だよ。今日の昼に西川町での喫茶店で会ったろ。おまえはそのとき、女連れだった。そして困った顔で妹だと紹介をした。ここで自分たちを見たことを誰にも言わないでくれ、とも言ったな。
その後で、妹との喧嘩をダシに楓をデートに誘ったことを知ったわたしたちにはちょうどいい目くらましになるところだった。
だけどあの喫茶店には、バイクは一台しか止まっていなかった。
おまえ言ったよな。バス停が遠いから、うちの家族はみんなバイクに乗ってるって。喫茶店のバイクには見覚えがあった。おまえのバイクだ。じゃあ妹はどうやって来たんだ。
二人乗り? しかしヘルメットは片方のハンドルに一つだけしか掛けられていなかった。もう一つは座席下のヘルメットホルダーか?
だが、おまえのバイクはヘルメットが二つ同時に収納できるタイプだ。
なぜバイクを降りた後、二人がヘルメットを脱いだのに、片方だけをわざわざ座席下に仕舞うようなことをするんだ。どちらかはノーヘルか? いや、顔見知りの多い田舎の街なかを走るのに、そんな無駄な危険を冒すもんか。
ヘルメットなんて始めから一つしかなかったんだよ。ただおまえはあそこで待ち合わせていただけなんだ。西川町に住む女と。あの女は妹の翠じゃない。
顔を知らないわたしたちなら咄嗟に騙せると思ったのか。随分と楽天的だな。
さっき、旅館に電話があったよ。楓ちゃんいますかってさ。名前を聞いたら翠と名乗ったぜ。
おかしいな。デートの約束の時間から二時間くらいしか経ってない。喫茶店でアニキと口裏合わせをしてたのが本当に翠なら、楓がいないだろうってことくらい知っているはずじゃないのか。
ありがちな話だ。シンプルに考えればいい。やましい関係にある女と密会しているときに、知り合いに見られた場合の言い訳、その一。
『妹なんだ』 ……な? バッカみたいだろ。
おまえ、楓にゾッコンな振りをして、なにを企んでんだ」
師匠の言葉にみんな耳を疑うように唖然としている。
ただ当の和雄だけは自分の回りを取り囲む幽霊の群れに怯えてそれどころではないようだった。
「お取り込み中みたいだから、かわりに言ってやろうか。おまえが次男だからだよ。
伝統ある若宮神社は皇學館の院生である長男の修が継ぐことが事実上決まっている。
おまえがいずれ家から追い出されることは自分で言っていたことだ。それまでに手に職をつけなければならない。
そんな中、幼馴染だった楓が高校を卒業して短大に入り、随分と垢抜けて可愛くなった。
おいおい。いいんじゃないか。実家は旅館を経営している。なのに、跡継ぎはいない。婿に入れば、旅館はいずれ自分の手に入ったも同然だ。将来は安泰、嫁は可愛い。
母親の女将とも今まで上手く折り合いがついている。最高じゃないか。
本命は別の女だとしても、ばれなきゃいい。外に女の一人や二人持つのも男の甲斐性だぜ。なあ、そうだろう」
楓は目を剥いて師匠と和雄を交互に見ている。
「おまえがこの家に頻繁に出入りするようになったのは、楓が短大生になってからだと聞いている。
さっきわたしが覚えておいて欲しいといった期間は九ヵ月から十ヶ月だ。
なんの数字だった? 幽霊騒動が始まってから今までの期間だよ。それはおまえが邪(よこしま)な野望を抱いてこの『とかの』にやってくるようになった期間とぴったり重なるんだ。
もう分かっただろう。オカミ神社、つまり栂野神社の宮司の霊が旅館に現れるようになったのは、邪心を隠して持って侵入してきた石坂和雄という異物のことを警告するためだ。
これが今夜この場に彼らが現れるとわたしが確信していた第二の要因。その張本人がいわば釣り餌としてここにいたことだ」
と、いうわけで。
そう言いながら師匠は大袈裟な動作で和雄を指さした。
「複雑怪奇なこの事件、神職ならぬこのわたしに、祓えというなら祓ってやるさ。追い払うっていう手段で」
で・て・け
ゆっくりと一音節ずつ区切って師匠はそう宣告した。
その短い言葉には一種抗えないような響きを伴っているような気がした。
和雄は自分に触れようとする霊体たちの手を、狭い円の中で必死で避けながら「助けてくれ、助けてくれ」と繰り返していたかと思うと、「わかった。わかったから。出て行くから」と叫んだ。
「たがえるなよ」
師匠はそう口にしたかと思うと、針の結界を踏み越え、黒い影たちの手を掻い潜り、懐からハサミを取り出して瞬時に注連縄の一部を切った。
その切られた部分の端が垂れて地面についた瞬間、神主姿の霊たちの姿が掻き消えた。あれほど濃密だった気配も消滅した。
そのとき、わっ、という耳鳴りが駆け抜けたような気がした。
「円が途切れれば、閉じられた世界は終わる。神域を失い、一度散り散りになった霊体が別のアルゴリズムで再び凝集し、現れるまでは時間がかかるだろう。出て行くなら今のうちだ」
うずくまって荒い息を吐いていた和雄が、師匠のその言葉を聞いて跳ね起きた。
そして言葉にならない喚き声を上げながら、広間から飛び出していった。
僕らはみんなそれを見ていることしかできなかった。ただ呆然と。悪夢から目覚めたばかりのように。
その中で師匠だけが涼しい顔をして、「一件落着だな」と笑っている。
天井から糸で吊られ、そして一部が切られた注連縄と、針だらけの畳。その針が作り出す円に閉じ込められた人間たち。そんな異様な大広間の光景が目の前にはある。
しかし、さっきまでそこに存在した異界は、同じ形をした少し奇妙なただの日常へと変貌していた。
そのすべてを操った張本人は、腹が空いたのか右手で胃のあたりを押さえながら、後ろ手をついて腰を抜かしたままの勘介さんを見つめている。
なにか訴えたげな眼差しで。
◆
「あ、雪だ」
僕は窓の外を見ながらそう呟いた。
夕方から降り続く小雨はいつの間にか、雪に変わっていた。すでに時刻は夜の十二時近くになっている。
僕は改めて師匠にあてがわれた一階の一番高そうな部屋にお邪魔していた。
そしてそれから二人でとりとめもない話をしながら酒を酌み交わしている。
とんでもない幕切れとなったこの事件も、一応の解決をみたことになった。この部屋はその褒美というわけだ。
女将は何度も師匠に頭を下げた。本当にありがとうございます、と。
和雄のことだけではない、様々な憑き物がとれたような表情だった。
代を重ねてもこの地域のよそ者として扱われ、そのことに慣れてしまっていた自分に、今日決別したという顔だった。
最後に「これからも誇りを持ってここで暮らしていきます」とだけ言って、女将は部屋を出て行った。
勘介さんもやってきた。
遅い夕食はあまり準備ができていなかったので、初日の昨日ほど豪勢とはいかなかったが、その後で酒を飲み始めた僕らに、何度も手の込んだ酒の肴を作ってきては黙って置いていった。
不器用な彼なりの感謝と、あるいはお詫びの気持ちなのだろう。
楓は姿を見せなかった。俯いたまま大広間から逃げるように出て行ったきりだ。彼女が負った心の傷は想像するに難くない。
それもいつかは時間が癒してくれるのだろうか。ただ、あの無垢な少女が幸せになって欲しいと、それだけを僕は願った。
一番最後に広子さんが僕らの部屋にやって来た。
バツの悪そうな顔をしてモジモジしている。
「和雄の女癖、知ってたんだろ」
師匠にそう言われて、救われたような顔をした。
「あんな街なかの喫茶店で、やましい関係の女と会ってるなんて、脇が甘すぎだっての。お坊ちゃんだね。どうせ知ってる人にはバレバレだったんだろ」
どうやら和雄の女癖の悪さは密かに有名だったらしい。少なくとも広子さんのような情報通の女性たちには。
広子さんも楓にそのことを伝えようか迷っていたようだ。
だけど、和雄もいつかは楓の良さに気づいて、心を入れ替えて真剣に付き合うようになるかも知れない。
そう思うと、若いその芽を摘んでしまうのに気が引けてしまっていたのだそうだ。
「でもまさか、それがこんな騒動になるなんてね」
広子さんは、心なしかしゅんとショゲながらも、最後は顔のパーツを中央に寄せてニッコリ笑って見せた。
「絶対また来てね」
そうして手を振って部屋を出て行った。
こんな田舎、絶対出て行ってやる、と言っていたその口でそう言うのだ。案外ここの暮らしが好きなのかも知れない。
そして今回も、僕はほとんどなんの役にも立たなかった。助手とは、もっと事件に飛び込んでいって綻びが見えてくるまでかき回す役目ではないのか。なにからなにまで師匠がやってしまっている。
興信所のなけなしのバイト代では泊まれないような宿に二晩も宿泊して、なかば観光ばかりしていた気がする。申し訳ない気持ちだ。ましてこんなクリスマスなんかに、師匠と二人でなんて。
ハッとした。そうだ。今日は二十五日だった。忘れかけていた。
そう思って見ると、窓の外に降る雪にも、ジングルベルの響きが聞こえてくるような風情があるではないか。
「ホワイトクリスマスですね」
ぼそっとそう言ったが、師匠はお猪口を片手にほんのり赤い顔をしてカーテンを開け放した窓の外を見ながら、ふん、と鼻で笑った。
「クリスマスってのは、二十四日の日没から始まって二十五日の日没で終わるんだ。言わなかったか?」
そうだっただろうか。じゃあ今はもうクリスマスという特別な時間ではないということか。
なんだか妙な符合を感じた。今夜の暮れ六つで、現世(うつしよ)と幽世(かくりよ)の境界を越えたように、ちょうどその同じころ、クリスマスとそうでない時間との狭間を越えていたのか。
不思議な気持ちだった。
「そういえばあの時、カナヘビだって言ってましたよね」
女将の子どものころの体験談を聞いた後のことだ。あれは足があるかないかの違いだけで、蛇は別の生き物になるということを言いたかったのだろう。
「言ったっけなあ」
師匠はとろんとした目で窓の外に目をやっている。酔いも回り、気分が良さそうだった。
「言いましたよ」
僕も自分の言葉などに大した執着もなく、ただぼんやりとそう返して窓の外を見つめていた。
静かだった。田舎の夜だ。都会ではこうはいかないだろう。
ただ音もなく窓一面の深い闇の中に淡い雪だけが舞っている。
しんしんと。
しんしんと。
遠く、近く。ただ窓を向いた顔だけが冷たい。
僕らは窓辺のテーブルに座り、その名前のない夜の風景をいつまでも眺め続けていた。
◇◇◇
匂いの記憶というものは不思議なものだ。
すっかり忘れていた過去が、ふとした時に嗅いだ懐かしい匂いにいざなわれて、鮮やかに蘇ることがある。
僕はその人のいなくなった部屋で一人台所に立ち、爽やかな匂いを放つ石鹸をただ握っている。
すべてが輝いていたあのころの記憶が滔々と流れ、そして消えていった。
手の届かない過去のどこかの引き出しの中に仕舞われていったのだろう。
蛇口からは水が流れ続けている。それが手の甲を滑るように流れ落ちていく。
追憶の残滓が僕の目頭をくすぐる。しかしそこから水は流れなかった。
『おまえ、強くなったな』
いつか、その人はそう言った。
病室のシーツがやけに白かった。
『もう目が見えないんだ。時計を、見てくれないか』
記憶の再生を、止めた。
強くなんかなっていないですよ。
そう答えたのだったか。
もう忘れてしまった。
蛇口を閉じる。水が出るまでは時間がかかるのに、止まるのは一瞬だ。
しばらく佇んだ後、僕はもう一度石鹸を握った。蛇口を捻り、石鹸を両手で挟み直す。水が流れ出てくるまでの間、僕は両手を擦り合わせる。その人がそうしていたように。
そのわずかな時間。
そっと横目でその光景を見つめていた僕には、祈りのように見えた。
この日本に限らず、世界中のあらゆる民族に雨乞いの風習があった。その作法は様々だ。しかしたった一つ共通していることがある。それは祈りだ。祈りがいつか大地に雨を降らせる。
その間、人は神と、あるいは自然そのものと一体となり、通うはずのない想いを通わせる。
雨乞いの風習があれば、そこには雨乞いを生業とする人々もいる。オカミを祀る神社の守り手たちのように。
そうした雨乞い師のことを英語ではレインメーカーと言うそうだ。そしてその言葉には同時に、弁舌以外なにも持たずに大金を稼ぐ弁護士を指し示す、裏の意味もある。
僕は石鹸を擦る。
様々なペテンと、ほんの少しの隠されたな真実を操って短い生涯を駆けてきたその人のことを思いながら。
『雨乞いなんて、降りそうなときにするもんだ』
帰りの電車の中で窓に頬づえをつきながら、少し笑ってそう言った。その人らしい、と思った。
ささやかな壁に区切られた部屋の外を、車が通る音がする。カラカラと、穴のあいたようなマフラーの音を響かせて。
目を落とし、僕は石鹸を擦る。
祈るように。
爽やかな匂いが鼻腔に広がる。
やがて蛇口からは……
『レインメーカー』完