それは8年前の夏だった。転勤で家族と共に上京してから5年が過ぎていた。
いつもと変わらない夕方を妻子と過ごしていた時、電話が鳴った。田舎に残してきた祖母からの電話だった。
祖父が倒れたらしく、すぐ帰ってきてくれとのこと。数年前から病気がちだった祖父のこと…覚悟はしていたことだ。
私は荷物をまとめ、家に妻と2人の子を残し中国地方のある村へ車を飛ばした。久々に走る夜中の高速道路。
オレンジの明かりが近づいては過ぎていく。高速を下りる頃、時計は午前二時を示していた。
車はさらに山道を走る。霧の中を懐かしい景色が流れていく。
走ること1時間、祖父の家に着いたのは夜が明けようとする午前三時すぎだった。
車を停めてから家までは少し歩かなければならなかった。
深い霧の中、ところどころに街灯のちらつく山道を歩いていく。
すでに都会に住みなれた私には山の空気は新鮮で、懐かしさを覚えた。
数分後、祖父の家に着いた。
家は木造平屋建てで、私の生まれる前からあり、一層古びている。
祖母は病院に行っているのか、明かりはついてなかった。
玄関の明かりくらい付けておけばいいのに、と思いながら戸を開けた。
鍵のかかっていないことを不思議に思った。
玄関にはカビ臭い匂いが漂う。いやに湿っている。
明かりをつけようと靴を脱ぎ家に上がると足の裏に違和感を覚えた。
どうやら床が腐りかけて軟らかくなっているようだ。
明かりをつけると私は家の様子に唖然とした。
天井にはくもの巣が張り、ところどころ腐って穴が開いている。
部屋へ続く廊下にはほこりが厚く積もっている。
祖母はこの家で暮らしていたのだろうか…
人のいる気配は全くうかがえなかったものの、何か、気味の悪いものを感じ、全身に寒気が走った。
ほぼ一晩眠っていなかった私は、少し横になろうと思い、かつての私の部屋へ向かった。
廊下を歩いて初めにある部屋が私の部屋、次にあるのが祖父の部屋、一番奥が祖母の部屋だ。
私は自分の部屋に入り、電気をつける。五年前にこの家を出た時と全く変わっていない。
私は荷物を置き畳の上に横になった。時折ホウホウという鳥の鳴き声が聞こえる。
長時間の運転で疲れきっていた私はすぐに眠りに落ちた。
ふと目が覚めた。時計を見るとまだ4時だ。
もう一度眠ろうと目を閉じようとしたとき、どこかから冷気が流れ込んでいるのに気づいた。
部屋の戸が少し開いている。確かに閉めたはずだが…。不思議に思い、廊下に出てみる。
祖父の部屋の前に来たとき、あの時の不気味な寒気が私を襲った。
戸を開けた瞬間、空気はかび臭い匂いから、この世のものとは思えない異臭に変わり、私は鼻を覆った。
明かりをつけると、布団の上に横たわる祖父の変わり果てた姿があった。
布団の周りには古くなった血が広がり、黒色に凝固している。体全体は白い幼虫に覆われ、それらがうごめいている。
この村に来て初めて、生命感を感じた。不気味な生命感には変わりないのだが。
私は強烈な匂いとその姿に反吐をこらえるので精一杯だった。
急いで部屋へ戻ろうと廊下に出たとき、祖母の部屋の戸がゆっくりと開いた。
ぎぃ…ぎぎぎぎぃ。
私はあまりの恐怖に足がすくんで動けなくなった。
戸の向こうから姿を現したのは包丁を手にし、やつれ果てた祖母だった。
薄明かりの中でその目だけがぎらぎらと光っている。
祖母はあまりにも不自然な笑みを浮かべ近づいてくる。
近づくにつれてさらなる恐怖が私を襲った。
祖母の足がないのだ。あたかも足があるかのように、彼女独特の歩き方で上下に揺れながら、彼女の上半身だけが近づいてくる。
包丁からは鮮血が滴り、顔や胸は返り血を浴び、真っ赤に染まっている。
包丁を逆手に持ち、こうつぶやきながら。
「お前もじゃ、お前もじゃ…」
私は、殺されることを覚悟し、目をつぶった瞬間、私は目を開けた。
夢だったようだ。
外はすっかり明るくなり、あまりのまぶしさに目を細めた。
しかし、次の瞬間、眠気は消え失せた。
私は気づいた、戸が開いていることに。
さらに、ゆっくり音を立てて開いていく。
ぎぃ…ぎぎぎぎ…ぎぎぃ
戸が開ききった時、再びあの不気味な感覚に襲われた。
即座に荷物を持って窓から飛び出し、私は車へと急いだ。