はじまりはただの占いだったという。
女の子であれば、小学生や中学生のときにハマッた経験はあるだろう。
高校になっても占いに凝っている子となれば、占いの方法もマニアックなものになり、ちょっと傍目にはキモいと言われたりする。
京介さんもそのキモい子の1人で、タロットを主に使ったシンプルな占いを休み時間のたびにしていたそうだ。
やがて校内で一過性の占いブームが起きて、あちこちで占いグループが生まれた。
子どもの頃から占い好きだった京介さんはその知識も豊富で、多くの生徒に慕われるようになった。
タロットやトランプ占いから、ホロスコープやカバラなどを使う、凝ったグループも出てきはじめた。
その中で、黒魔術系と言っていいような陰湿なことをする集団が現れる。
そのボスが間崎京子という生徒だった。
京介さんと間崎京子はお互いに認め合い、また牽制しあった。
仲が良かったとも言えるし、憎みあっていたとも言える、一言では表せない関係だったそうだ。
そんなある日、京介さんはあるクラスメートの手首に傷があるのに気がついた。
問いただすと、間崎京子に占ってもらうのに必要だったという。
間崎京子本人のところに飛んでいくと、「血で占うのよ」と涼しい顔でいうのだった。
指先や手首をカミソリなどで切って、紙の上に血をたらし、その模様の意味を読み解くのだそうだ。
そんなの占いとは認めない、と言ったが、取り巻きたちに「あなたのは古いのよ」とあしらわれた。
その後、手首や指先などに傷を残す生徒はいなくなったが、血液占いは続いているようだった。
ようするに目立つところから血を採らなくなった、というだけのことだ。
これだけ占いが流行ると他の子とは違うことをしたいという自意識が生まれ、よりディープなものを求めた結果、それに応えてくれる間崎京子という重力源に次々と吸い込まれていくかのようだった。
学校内での間崎京子の存在感は、ある種のカルト教祖的でありその言動は畏怖の対象ですらあった。
「名前を出しただけで呪われる」という噂は、単に彼女の地獄耳を怖れたものではなく、実際に彼女の周辺で不可解な事故が多発している事実からきていたそうだ。
血液占いのことを京介さんが把握してから数週間が経ったある日、休み時間中にクラスメートの一人が急に倒れた。
そばにいた京介さんが抱き起こすと、その子は「大丈夫、大丈夫。ちょっと立ちくらみ」と言って何事もなかったかのように立ち去ろうとする。
「大丈夫じゃないだろう」と言う京介さんの手を、彼女は強い力で振り払った。
「放っておいてよ」と言われても放っておけるものでもなかった。
その子は間崎京子信者だったから。
その日の放課後、京介さんは第二理科室へ向かった。
そこは間崎京子が名目上部長を務める生物クラブの部室にもなっていたのだが、生徒たちは誰もがその一角には足を踏み入れたがらなかった。
時に夜遅くまで人影が窓に映っているにも関わらず、生物クラブとしての活動など、そこでは行われてはいないことを誰しも薄々知っていたから。
第二理科室に近づくごとに、異様な威圧感が薄暗い廊下の空間を歪ませているような錯覚を感じる。
おそらくこれは教員たちにはわからない、生徒だけの感覚なのだろう。
「京子、入るぞ」
そんな部屋のドアを京介さんは無造作に開け放った。
暗幕が窓に下ろされた暗い室内で、短い髪をさらにヘアバンドで上げた女生徒が、煮沸されるフラスコを覗き込んでいた。
「あら、珍しいわね」
「一人か」
奥のテーブルへ向かう足が、一瞬止まる。
この匂いは。
「おい、何を煮てる」
「ホムンクルス」
あっさり言い放つ間崎京子に、京介さんは眉をしかめる。
「血液と精液をまぜることで、人間を発生させようなんてどこのバカが言い出したのかしら」
間崎京子は唇だけで笑って、火を止めた。
「冗談よ」
「冗談なものか、この匂いは」
京介さんはテーブルの前に立ちはだかった。
「占い好きの連中に聞いた。おまえ、集めた血をどうしてるんだ」
今日目の前で倒れた女生徒は、左手の肘の裏に注射針の跡があった。
静脈から血を抜いた痕跡だ。
それも針の跡は一箇所ではなかった。
とても占いとやらで必要な量とは思えない。
間崎京子は切れ長の目で京介さんを真正面から見つめた。
お互い何も発しなかったが、張り詰めた空気のなか時間だけが経った。
やがて間崎京子が胸元のポケットから小さなガラス瓶を取り出し、首をかしげた。
瓶は赤黒い色をしている。
「飲んでるだけよ」
思わず声を荒げかけた京介さんを制して、続けた。
「白い紙に落とすより、よほど多くのことがわかるわ。寝不足も、過食も、悩みも、恋人との仲だって」
「それが占いだって?」
肩を竦めて見せる間崎京子を睨み付けたまま、吐き捨てるように言った。
「好血症ってやつですか」
そこまで息を呑んで聞いていた俺だが、思わず口を挟んだ。
京介さんはビールを空けながら首を横に振った。
「いや、そんな上等なものじゃない。ノー・フェイトだ」
え?なんですか?と聞き返したが、今にして思うとその言葉は京介さんの口癖のようなもので、no fate 、つまり《運命ではない》という言葉を、京介さんなりの意味合いで使っていたようだ。
それは《意思》と言い換えることができると思う。
この場合で言うなら、間崎京子が血を飲むのは己の意思の体現だというのことだ。
「昔、生物の授業中に先生が『卵が先か鶏が先か』って話をしたことがある。
後ろの席だった京子がボソッと、卵が先よね、って言うんだ。
どうしてだって聞いたら、なんて言ったと思う?
『卵こそ変化そのものだから』」
京介さんは次のビールに手を伸ばした。
俺はソファに正座という変な格好でそれを聞いている。
「あいつは『変化』ってものに対して異常な憧憬を持っている。
それは自分を変えたい、なんていう思春期の女子にありがちな思いとは次元が違う。
例えば悪魔が目の前に現れて、お前を魔物にしてやろう、って言ったらあいつは何の迷いもなく断るだろう。
そしてたぶんこう言うんだ『なりかただけを教えて』」
間崎京子は異臭のする涙滴型のフラスコの中身を、排水溝に撒きながら口を開いた。
「ドラキュラって、ドラゴンの息子って意味なんですって。
知ってる?ワラキアの公王ヴラド2世って人は竜公とあだ名された神聖ローマ帝国の騎士だったけど、その息子のヴラド3世は串刺し公って異名の歴史的虐殺者よ。
Draculの子だからDracula。でも彼は竜にはならなかった」
恍惚の表情を浮かべて、そう言うのだ。
「きっと変身願望が強かったのよ。英雄の子供だって、好きなものになりたいわ」
「だからお前も、吸血鬼ドラキュラの真似事で変身できるつもりか」
京介さんはそう言うと、いきなり間崎京子の手からガラス瓶を奪い取った。
そして蓋を取ると、ためらいもなく中身を口に流し込んだ。
あっけにとられる間崎京子に、むせながら瓶を投げ返す。
「たかが血だ。水分と鉄分とヘモグロビンだ。こんなことで何か特別な人間になったつもりか。
ならこれで私も同じだ。お前だけじゃない。
占いなんていう名目で脅すように同級生から集めなくったって、すっぽんでも買って来てその血を飲んでればいいんだ」
まくしたてる京介さんに、間崎京子は面食らうどころかやがて目を輝かせて、この上ない笑顔を浮かべる。
「やっぱり、あなた、素晴らしい」
そして両手を京介さんの頬の高さに上げて近寄って来ようとした時、「ギャー」という、つんざくような悲鳴があがった。
振り返ると閉めたはずの入り口のドアが開き、数人の女生徒が恐怖に引き攣った顔でこっちを見ている。
口元の血をぬぐう京介さんと目が合った中の一人が、崩れ落ちるように倒れた。
そしてギャーギャーとわめきながら、その子を数人で抱えて転がるように逃げていった。
第二理科室に残された二人は、顔を見合わせた。
やがて間崎京子が、あーあ、となげやりな溜息をつくとテーブルの上に腰をかける。
「この遊びもこれでおしまい。あなたのせいとは言わないわ。同罪だしね」
悪びれもせず、屈託のない笑顔でそう言う。
京介さんはこれから起こるだろう煩わしい事にうんざりした調子で、隣りに並ぶように腰掛ける。
「おまえと一緒にいるとロクなことになったためしがない」
「ええ、あなたは完全に冤罪だしね」
「私も血を飲んだんだ。おまえと同じだ」
あら、と言うと嬉しそうな顔をして、間崎京子は肩を落とす京介さんの耳元に唇を寄せて囁いた。
あの血はわたしの血よ。
それを聞いた瞬間、京介さんは吐いた。
俺は微動だにせず、正座のままでその話を聞いていた。
「それで停学ですか」
京介さんは頷いて、空になったビール缶をテーブルに置く。
誰もが近づくなと言ったわけがわかる気がする。
間崎京子という女はやばすぎる。
「高校卒業してからは付き合いがないけど、あいつは今頃何に変身してるかな」
やばい。ヤバイ。
俺の小動物的直感がそう告げる。
京介さんが思い出話の中で、「間崎京子」の名前を出すたびに俺はビクビクしていた。
ずっと見られていた感覚を思い出してゾッとする。
近づき過ぎた。
そう思う。
おびえる俺に京介さんは「ここはたぶん大丈夫」と言って、部屋の隅を指す。
見ると、鉄製の奇妙な形の物体が四方に置かれている。
「わりと強い結界。のつもり。出典は小アルベルツスのグリモア」
なんだかよくわからない黒魔術用語らしきものが出てきた。
「それに」
と言って、京介さんは胸元からペンダントのようなものを取り出した。
首から掛けているそれは、プレート型のシルバーアクセに見えた。
「お守りですか」
と聞くと、ちょっと違うかなぁと言う。
「日本のお守りはどっちかというとアミュレット。これはタリスマンっていうんだ」
説明を聞くに、アミュレットはまさにお守りのように受動的な装具で、タリスマンはより能動的な、「持ち主に力を与える」ための呪物らしい。
「これはゲーティアのダビデの星。最もメジャーでそして最も強力な魔除け。年代物だ。
お前はしかし、私たちのサークルに顔出してるわりには全然知識がないな。何が目的で来てるんだ。
おっと、私以外の人間が触ると力を失うように聖別してあるから、触るな」
見ると手入れはしているようだが、プレートの表面に描かれた細かい図案には随所に錆が浮き、かなりの古いものであることがわかる。
「ください。なんか、そういうのください」
そうでもしないと、とても無事に家まで帰れる自信がない。
「素人には通販ので十分だろう。と言いたいところだが、相手が悪いからな」
京介さんは押入れに頭を突っ込んで、しばしゴソゴソと探っていたが「あった」と言って、微妙に歪んだプレートを出してきた。
「トルエルのグリモアのタリスマン。まあこれも魔除けだ。貸してやる。あげるんじゃないぞ。かなり貴重なものだからな」
なんでもいい。
ないよりましだ。
俺はありがたく頂戴してさっそく首から掛けた。
「黒魔術好きな人って、みんなこういうの持ってるんですか」
「必要なら持ってるだろう。必要もないのに持ってる素人も多いがな」
京子さんは、と言いかけて、言い直す形でさらに聞いてみた。
「あの人も、持ってるんですかね」
「持ってたよ。今でも持ってるかは知らないけど」
あいつのは別格だ。
京介さんは自然と唾を飲んで、言った。
「はじめて見せてもらった時は、足が竦んだ。今でも寒気がする」
そんなことを聞かされると怖くなってくる。
「あいつの父親がそういう呪物のコレクターで、よりによってあんなものを娘に持たせたらしい。人格が歪んで当然だ」
煽るだけ煽って、京介さんは詳しいことは教えてくれなかった。
ただなんとか聞き出せた部分だけ書くと、「この世にあってはならない形」をしていること、そして「五色地図のタリスマン」という表現。
どんな目的のためのものなのか、そこからは窺い知れない。
「靴を引っ張られる感覚があったんだってな。感染呪術まがいのイタズラをされたみたいだけど、まあこれ以上変に探りまわらなければ大丈夫だろう」
京介さんはそう安請け合いしたが、俺は黒魔術という「遊びの手段」としか思っていなかったものが、現実になんらかの危害を及ぼそうとしていることに対して、信じられない思いと、そして得体の知れない恐怖を感じていた。
体が無性に震えてくる。
「一番いいのは信じないことだ。そんなことあるわけありません、気のせいですって思いながら生きてたら、それでいい」
京介さんはビールの缶をベコッとへこますと、ゴミ箱に投げ込んだ。
そう簡単にはいかない。
なぜなら、間崎京子のタリスマンのことを話しはじめた時から、俺の感覚器はある異変に反応していたから。
京介さんが、第二理科室に乗り込んだ時の不快感が、今はわかる気がする。
体が震えて、涙が出てきた。
俺は借りたばかりのタリスマンを握り締めて、勇気を出して口にした。
「血の、匂いが、しません、か」
部屋中にうっすらと、懐かしいような禍々しいような異臭が漂っている気がするのだ。
京子さんは今日、一度も見せなかったような冷徹な表情で、「そんなことはない」と言った。
いや、やっぱり血の匂いだ。
気の迷いじゃない。
「でも・・・・・・」
言いかけた俺の頭を京介さんはグーで殴った。
「気にするな」
わけがわからなくなって錯乱しそうな俺を、無表情を崩さない京介さんがじっと見ている。
「生理中なんだ」
笑いもせず、淡々とそう言った顔をまじまじと見たが、その真贋は読み取れなかった。